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from: 改革フォーラムさん
2011年01月13日 14時20分59秒
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池田礼賛
トインビー博士を最大利用する一方で「過去の人・観念の学者」とくさす池田氏---------------------------------------
トインビー博士を最大利用する一方で「過去の人・観念の学者」とくさす池田氏
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(乙骨正生=ジャーナリスト『フォーラム21』H17.1.1抜粋編修)
【トインビー・池田対談の光と影】
◆トインビー博士と山本伸一(『人間革命』『新・人間革命』中の池田大作名)の、歴史的な対談が始まった(『新・人間革命』/『聖教新聞』040902)
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『新・人間革命』には、イギリスの歴史家アーノルド・トインビー博士と池田氏との対談(昭和47年5月)が歴史的で極めて崇高かつ深淵なものであったかのように書いている。
◆北海道札幌市で今月、『「21世紀への対話」トインビー・池田大作展』が開催される。同展は、20世紀最大の歴史家アーノルド・トインビー博士と、池田SGI会長の対談集『21世紀への対話』を軸に、博士の生涯と業績、語らいのエピソード、SGI会長の対話の足跡などを、直筆書簡はじめ貴重な資料を通して紹介するものである。本紙連載の小説『新・人間革命』では、現在、対談の模様が綴られ、注目を集めている(『聖教新聞』040907)
◆東洋と西洋を代表する2人の人間主義者によって指し示された、人類の未来へのメッセージが、本展(※大阪で開幕した「トインビー・池田大作展」)を通じて、広く世界に伝えられていくことを期待します(渡辺武達同志社大学教授『聖教新聞』041016)
要するにトインビー博士を利用して池田氏の宣揚を行っているのだ。
【孫娘の池田評】
トインビー・池田対談集『21世紀への対話』ならびにトインビー博士と池田氏との関係について、トインビー博士の孫娘でイギリスの高級紙『ガーディアン』のコラムニストでBBC放送の社員でもあるポーリー・トインビーさんがかつて酷評した事実がある。
昭和59年、ポーリー・トインビーさんは創価学会の招待で来日し、池田氏と面談。未発表の対談部分の出版を依頼されたのだが、その際の感想を帰国後、手記として『ガーディアン』紙(84年5月19日付)に発表した。
<対談集についての記述>
●日本に着くまでの長い時間、私は祖父の死後に出版された本『生命の選択」(※邦題『21世紀への対話』)を読みました。この本は祖父と池田大作という日本の仏教指導者との対談を収録したものです。 この対談がなされた時期は、歴史家だった祖父アーノルド・トインビーが85歳の時で、脳出血で倒れる少し前でした。この本は、祖父の著作の中でも最も忘れ去られたような本で、性教育から始まって、汚染、戦争などに至るまで、とりとめもなく長々とした、2人のおしゃべりを収録したものです(ポーリー・トインビー=トインビー博士の孫娘『ガーディアン』840519)
<学会本部での池田氏との面談の様子>
●池田氏の話し方は、傲慢かつ他に恐怖心を与えるもので、彼が話を進め、他の人がそれにうなづき従う、といったものでした。 時として、彼が予期しない、一般的でない意見が述べられると、途端に彼の目には厳しい反応が現われ、警告にも似た冷たさが浮かぶのです。 私達は、形だけの会話をしながら、この男を観察いたしました。彼は、頭の先からハンドメイドの靴のつま先まで、俗人そのものであり、崇高さのひとカケラも見えませんでした。「彼の職業が何か。当ててみろ」と言われても、"宗教家"と答えられる人は、ほとんどいないでしょう。 私は、多くの有力者と会ったことがあります。それは、首相をはじめ、さまざまな分野の指導者達ですが、しかし、池田氏のように、絶対的権力者の雰囲気をにじみ出させた人物と会ったことはありませんでした。 彼は、おそらく長年にわたり、あらゆる自分の気まぐれを押し通し、すべての命令に従わせ、そして、それに対する反論や軋櫟に触れないよう、守られてきた人間なのでありましよう。 私はめったに恐怖を感じることはないのですが、彼の中にある何かに、私は体の芯までゾッとさせられました。 夕食は苦しい体験でした。私達は、伝統的な日本間に通されました。畳に座布団を敷き、池田氏を中心にテーブルを囲みました。テーブルの中央には料理人が入り、熱い油の鍋から天ぷらを揚げてくれるのです。 「あまり堅苦しい話は、今夜はやめにして、ともかく楽しみましょう」と、池田氏は命令口調で言いました。 私達は、耐えがたい、くだらない会話を、まだ続けなければならないのかと、沈痛な気分になりました(ポーリー・トインビー=トインビー博士の孫娘『ガーディアン』840519)
<創価学会のトインビー利用について>
●この旅行は、いったい何のためのものだったのか、それは、帰途につくまでに、すべて判明しました。 私達は来日中、新聞やテレビのインタビューを受け、夫のピーターは国際情勢について、私は祖父について質問をされました。インタビューを受けるたびに、大衆の目には、池田氏とアーノルド・トインビーの仲が、より親密なものとして映ったと思います。池田氏は、自らをトインビーの、公けの代表的な親友であり、スポークスマンであるかのように見せるため、記事やフィルムを造らせたのです。 私は祖父が、日本でどれだけ有名で重んぜられているのかを、まったく知りませんでした。『オーダー・オブ・ライジング・サン』で受賞してから、祖父の著書は全ての大学で必読書となっていました。 また、東洋の興隆と西洋の衰退を予言したとして、長い間、彼は日本で崇拝されてきていました。有名な学者によって運営されるトインビー協会もあり、その何人かの人を祖父は昔から知っており、協会では年4回、雑誌も出しております。 私の祖父は、日本を訪問した際、まったく池田氏には会っていません。祖父の昔からの日本の友人達も、祖父の最晩年の、どちらかというと漠然としたインタビューをもとに、池田氏が大袈裟に祖父の思い出を書きたて、自分のために利用していることに対し、明らかに苦々しく思っていました(ポーリー・トインビー=トインビー博士の孫娘『ガーディアン』840519)
<池田氏との関係について>
●もし、祖父があれほど年老いていなかったら、また、もし祖父が池田氏のあの異様な取り巻きと雰囲気の中で会っていたならば、けっして池田氏に力を貸すようなことにはならなかったと思います。祖父は当時、とても弱っていましたし、人を信じて疑わない、生来からお人好しの性格だったのです。 もし、私達の招待旅行が、祖父トインビーと池田氏を、よりしっかりと結び付けようとして企てられたものでしたら、それは、まったくの逆効果に終わったといえるでしょう(ポーリー・トインビー=トインビー博士の孫娘『ガーディアン』840519)
トインビー博士の遺族が嫌悪するトインビー博士と池田氏との関係を、池田氏は『新・人間革命』や「トインビー・池田大作展」で悪用し、自己の売名、宣揚に活用しているのである。
【トインビー博士をくさす二枚舌】
そうした池田氏のトインビー博士についての本音と、トインビー博士を利用する池田氏のさもしい心根をまざまざと示す池田氏自身の発言があるので最後に紹介しよう。その発言は、昭和50年2月21日に東京信濃町の創価文化会館で行われたモスクワ大学のククーシキン歴史学部長との面談に記録されている。
〈池田〉私の数ある中でも、このトインビー博士との対話が、私にとって最大のものです。先生も歴史学者として世界にとっても、私にとっても一番大切な方です。
〈ククーシキン〉ありがとうございます。歴史というのは人民の記録です。
〈池田〉と共に、人民が過去、現在、未来と誤りのないよう平和の大道を教えてくれる灯台である。(中略)私の恩師は遺言として、歴史史観、これだけは勉強せよといった。その理由からも、私はトインビーと会った。 端的にいって立派な学者ですが、しかし、過去の人です。と共に学究だが、革命も社会活動もしていない、いわゆる観念の学者です。〈きびしいね、と秋山に〉その意味においては、その1点が、唯一の私にとっての不服でありました。〈文藝春秋社〉から出します。とうとうやったね。4年がかりか。この絵も東山がいいといって、日本で最高の人。しかしね、私からみればみんな遊びみたいなものだ
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もはや何をかいわんや。「無惨なり池田大作。恥を知れ」と叫びたいのはおそらく筆者1人ではあるまい。
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王様、
from: 改革フォーラムさん
2011年01月31日 13時01分24秒
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「Re:池田礼賛」
剥(は)がれた! 池田の"反戦・平和"の仮面
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―学会員よ、これでも目が醒めないのか!?
―自衛隊増強・イラク侵攻に同意した池田―
―この歴史的事実はもはや覆(くつがえ)せない―
(『慧妙』H21.12.1)
創価学会はその会則に、「仏法の慈悲の哲理を根本に、世界の平和と人類の幸福の実現を目指す」と明記している。
しかし実際の行動は、この会則とは裏腹。何故ならイラクヘの武力行使を是認した公明党を、必死になって支援してきたのだから。
この点を創価学会員に質(ただ)すと、彼らは必ず口ごもる。そして"池田先生は「反戦・平和」を貫いてきた"と、言い訳にもならない言い訳を口にするのだが―。
【「池田先生は反戦主義者」!?】
―実際には軍事力行使を肯定―
『週刊金曜日』(11月6日号)に、「創価学会の失われた10年」と題する記事が掲載された。8月の衆院選での公明党大惨敗を受けて、その敗因を検証した古川琢也氏(ルポライター)の記事だ。
その中で、古川氏から「私には、創価学会信者の皆さんが言う、池田大作氏が平和主義者であるという話を100%信じることができません。(中略)池田さんの意向を無視して、公明党の議員たちが勝手に動くこと(※自衛隊のイラク派遣を推進したことを指す)があるとは、にわかには信じられないんです」と問われた学会壮年部は、次のように答えている。
「外部の方にわかりにくいのは理解できます。でもね、本当にそれは実態とは違うんですよ。米国による『イラクの自由作戦』が開始された03年3月19日の後、池田先生の『戦争には断固、反対である』というコメントが、『聖教新聞』(H15.4.9)に掲載されました。
それに、忙しい池田先生にしてこれだけは欠席しない、『本部幹部会』という会合があるんですが、イラク派兵が決まった直後に限っては国内におられたのに欠席されてしまったんです。これは、学会ではまさしく前代未聞のことでした。
あくまで憶測(おくそく)ですが、学会が戦争に加担することになった心労ゆえではないか、と思う人もいました。」
なるほど、平成15年4月9日付の『聖教新聞』に掲載された、創価学園入学式での池田大作のスピーチの中には、そうした言葉がある。
だが、この壮年部幹部が指摘した池田のコメントは、見開き2面の大半を使うほど膨大(ぼうだい)なスピーチの中において、自分の一家の戦争体験を引き合いに出して語った、わずか17行ほどの中の一節。
しかも、スピーチの後半で「イラク戦争」という言葉を口にしていながら、それに対しての池田自身のコメントは何もなし。
つまり池田は、一般論としての「反戦」を口にした、というだけであって、米英軍などによるイラク侵攻の是非を語ったわけでも、ましてや、戦闘終息に向けた積極的な提言をしたわけでもなかったのである。
そもそも、開戦の直前、"軍事力の全否定は、政治の場でのオプションとしては非現実的"と唱えた池田が、実際に武力行使が行なわれた後に、一言、「戦争には断固、反対」と言ってみたところで、それは免罪符(めんざいふ)にもならない。
【物議醸(かも)した池田の武力行使容認】
―池田見解が公明党を後押しした―
ここで当時の状況を振り返ってみよう。
米英軍によるイラク侵攻の前年の11月、国連安全保障理事会で「国連安保理決議1441」が議決された。
これに対しイラクは、そこに定められた国連監視検証査察委員会の査察を受け入れはしたものの、その対応ぶりは、アメリカ・イギリスなどを満足させるものではなかった。
翌平成15年1月9日、国連監視検証査察委員会が中間報告を提出。アメリカやイギリスは、その内容などから、イラクが「国連安保理決議1441」に違反したものとして、攻撃準備を開始した―。
このように、国際的緊張が沸騰直前に達していた1月26日、池田大作は「SGIの日」記念提言なるものを発表した。
そしてその中で、
◆軍事力を全否定するということは、一個の人間の「心情倫理」としてならまだしも、政治の場でのオプション=「責任倫理」としては、必ずしも現実的とはいえないでしょう(池田大作「SGIの日」提言 H15.1.26)
と、武力行使を容認するメッセージを発したのである。
もちろん、このメッセージが大きな物議を醸(かも)したことは言うまでもない。
そして、このメッセージを後ろ盾としたのであろう、開戦後、当時の公明党代表・神崎武法、同書記長・冬柴鉄三は、
「イラクが国際社会の要求に誠実に対応していれば、今回の事態は避(さ)けられた、という意味で、『非』はイラクにある」(神崎武法)
「ただ、口で反戦・平和と叫んでも、本当の平和は構築できない!」(冬柴鉄三)
などと、米英のイラク侵攻を明確に支持したのである。
もし、池田大作が本気で「反戦・平和」を考えていたのなら、あの提言は絶対にあり得ないものであったはずである。
【武力容認は公明党設立当初から】
―池田の指示で自衛隊増強にも協力―
池田大作の本性は、また、次のような歴史的事実からも類推できる。
公明党は昭和42年の衆院選進出に先だって、憲法擁護(ようご)、大衆福祉、安保の段階的解消を盛り込んだビジョンを発表した。
ところが、佐藤栄作元首相が書き残した、同年7月20日の日記には
●国会も明一日を残すのみとなったので、最後の勉強を党側に指示する。何よりも防衛二法を通過さす事、その為に大津君(※秘書官)を創価学会池田会長に連絡をとらす。会長が幸に引きうけてくれたので一寸安心。又その約束通り議事がとり運ばれた(『佐藤日記』S42.7.20)
と記されていたのである。
防衛二法とは、防衛庁設置法(当時)と自衛隊法のこと。自衛隊の強化を目指した佐藤元首相からの働きかけに池田が乗り、その池田の指示に公明党が従った、というのだ。
憲法擁護・安保反対を口にして、衆議院に進出してからわずか半年。その舌の根も乾かぬうちに、池田の命令によって、主張とは正反対の対応をした公明党―。この事実から、池田の唱える「反戦・平和」は、当初から、ただの表看板にすぎなかったということと、池田にとっての公明党は、政治的な取り引きの道具だった、ということが覗(うかが)える。
さらに言えば、中国で天安門事件が起きた時も、また、湾岸戦争が勃発(ぼっぱつ)した時も、池田は何ら"反戦""非暴力"のための積極的な働きかけを行なっていない。
ことに、創価学会によれば池田大作は、日中国交正常化の立役者のはずであり、歴代の中国首脳と、太い友誼(ゆうぎ)の絆(きずな)で結ばれてきたはずだ。
にも拘(かか)わらず、おびただしい血が流れた天安門事件に対し、何一つ発言せずに済ませてしまった事実は、池田には平和実現への実行力など全くなく、また、そもそもその気すらなかったことを、重ねて証明するものだろう。
学会員諸氏よ、8月の総選挙で大敗した今こそ、冷静になって、創価学会・公明党がたどってきた足跡をよくよく分析してみるべきだ。
そこから浮かび上がる池田大作の実像を直視し、自らの身の振り方を熟考(じゅっこう)することこそ重要である。
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