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from: 改革フォーラムさん
2011年11月20日 22時41分08秒
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私が工作した「創価学会の税金逃れ」
矢野絢也元公明党委員長が著書『乱脈経理』で明かす
池田大作名誉会長への課税を阻止せよ――竹下登元首相、国税庁幹部らとの生々しいやり取りを公開
天下の国税庁相手にこんなことができるのか。本来なら、課税されるべきところを見事、ゼロにしてしまった――力関係、人間関係で取るべきものを取らないのであれば、増税なんて国民は納得しないだろう。
17年ぶりの国税調査
1990年6月18日、4人の男たちが、東京・新宿区信濃町にある創価学会本部を訪ねた。彼らは東京国税局直税部資料調査6課の調査官たちである。資料調査課は「料調」と呼ばれ、大口・悪質案件を担当する。国税のなかでも税務調査の腕は一番とされ、彼らが悪質と判断した案件は、マルサ(査察部)に送られ、強制調査が行われる。
この日、男たちの訪問を受けた創価学会の八尋頼雄(やひろよりお)副会長(弁護士)は、慌てた様子で公明党の常任顧問だった矢野絢也前委員長に連絡し、こう叫んだ。
「21、22日にも、また来ると言っている。学会としてはかなり深刻に受け止めている。17年間なかった準査察と見る」
17年ぶりの国税調査に学会は蜂の巣を突(つつ)いたような大混乱に陥った。何しろ学会首脳部にも矢野氏ら公明党幹部にも、国税調査にどう対応していいのか、また国税側の意図が何なのか、まったくわからなかったからだ。
八尋氏はすがるように矢野氏に言った。
「秋谷(栄之助)会長と打ち合わせた結果、今後の対応については市川(雄一・公明党)書記長ではなく、矢野さん一本でやりたいとのことだ」
秋谷、八尋両氏はほぼ毎日、矢野氏に連絡し、信仰心を盾に、矢野氏が国税との交渉の前面に立つよう求めた。しかし、国の法律を曲げることすら信心という主張には、さすがに矢野氏も納得できず、何度も断った。それでも、彼らは「矢野君には信心がないのか」「池田(大作・名誉会長)先生を守るのが信心だ」と詰め寄る。矢野氏が「国税と信心は別だ」と言うと、彼らは「魔を打ち破るのが信心だ」と反駁した。
最後に秋谷氏らは切り札を持ち出した。
「この件は矢野にやらせろ、というのが池田先生のたってのご意向なんだ」
矢野氏は進退窮まって
「できることはやりましょう。しかし脱税などないでしょうね」と毒舌を吐いた。
これがその後、足かけ3年に及ぶ矢野氏と国税幹部たちの「暗闘」の始まりだった――。
*
元公明党委員長の矢野絢也氏が10月20日に上梓した『乱脈経理 創価学会VS国税庁の暗闘ドキュメント』(講談社)。同書には90年から92年にわたり、創価学会が国税庁の調査を受けた際、矢野氏が当時の大蔵省や国税庁幹部と「税金逃れ」のために、いかなる交渉をしたのかが克明に描かれている。冒頭の描写はその著書からの抄訳である。矢野氏は本書を著した意図について、こう語る。
「公明党の書記長、委員長として、私が学会に関与したことは、私の歴史であると同時に、学会の歴史の一部でもあります。過去の事実や記憶は、時として都合良く歪曲されたりもする。だから、私は事実を文章に残しておきたいと考えました。また現在、膨大な日本の財政赤字のなかで、増税が既成事実のように語られていることにいささか義憤を感じています。一般大衆に大きな負担を押しつける前に、税の聖域を再検証するべきではないか。その一つが宗教法人への課税問題であり、増税路線を突っ走る現政権や政党への問題提起になればと願っています」
宗教法人への税の優遇措置は非常に大きく、ジャーナリストの山田直樹氏によれば「宗教法人全体の収益事業に大企業並みの税率を適用し、非課税の固定資産税などにも課税すれば、年間約4兆円の税収増になるという推計がある」という。
では、ここからは矢野氏の目線で「創価学会と国税庁の暗闘」について綴っていこう(本文に適宜、説明や省略を加えた)。
国税庁長官との話し合い
もし国税庁の狙いが池田氏個人にあるのならば、学会の姿勢ははっきりしている。徹底抗戦しかない。厄介なことになりそうだが、やるしかないと私も覚悟を決めた。
私は大蔵省の保田(博)主計局長に力添えをお願いした。保田氏は同情しつつも、迷惑顔で「角谷(かどたに)(正彦国税庁長官)は新任だから、いますぐ影響力を使うと逆効果。今後の状況には様子をみて対応するしかない」と慎重な姿勢を崩さなかった。
1990年8月22日、私と八尋氏は角谷国税庁長官らと2時間20分にわたって話し合った。本来、税務調査を受ける側の私や八尋氏と、調査を行う側の国税庁長官らが会談することなど許されるものではない。おそらく国税庁側も相手が私でなければ絶対に応じなかったはずだ。
私は公明党書記長時代、主に国会対策と大蔵省対策に力を入れてきた。大蔵省と国税庁は表裏一体の関係にある。私は、大蔵省と国税庁所管の法案の国会審議が滞るたびに、大蔵省首脳から要請され、法案成立にできるだけ協力してきた。
たとえば、国税庁から感謝されたのが国税庁OBの税理士資格問題だった。国税庁の職員は、一定期間、国税庁に勤務経験があれば、試験や研修を受けなくても税理士になることができる。これが不公平だとして国会で追及されたことがあり、私は公明党書記長としてこの制度を擁護し、政府にも私が根回しして、「徴税というのは大事な仕事だが、国民から嫌がられる仕事でもある。そういう仕事を続けるにはインセンティブが必要だ」と強く主張。私の主張が通って制度は存続した。それ以来、国税庁は私を味方だと思ってくれていたようだ。
この日の国税庁側の出席者は角谷氏の他、山口厚生直税部長、吉川勲資料調査課長ら5人だった。彼らからはこんな発言が出た。
「本来、社長、重役の自宅、職場も伝票などの精査をやるのは当然だが、今回は抑えている。こんなことが外に漏れたら大変だ」
社長、重役とは池田名誉会長と学会の主だった幹部のことを意味する。国税がいかに学会に配慮しているかを強調したわけだが、言葉の端々に、私や学会側の横槍で調査が進まない現状に対する国税側の強い苛立ちが感じられた。
宗教法人の会計は大きく公益事業会計と収益事業会計に分けられる。前者は宗教活動そのものに関わるもので非課税。後者は学会における聖教新聞や池田氏の著作などの売り上げで、こちらも一般より低い優遇税率が適用される。
公益と収益の両会計を見ないと正しく区別されているかわからないと主張する国税側に、私は「公益事業会計の中身は学会員の寄付金。それを見せると、どの学会員がいくら寄付したかがわかり、プライバシーの侵害につながる」などと反論した。だが、彼らは「プライバシーの問題はわかったが、調査を止めることはできない」と納得しない。ただ「調査官が建物内を勝手に動き回らないように配慮する。国税側が調べたいテーマを示し資料を部屋に持ってきてもらう」と譲歩した。
会談後、八尋氏は私に「大成功だ。ありがたい。彼らに自由に動かれたら、もたない。何しろ(池田氏の)公私混同で区別がついていないから……」と感謝しきりだった。
国税の工ースは竹下側近
朝日新聞記者時代に国税庁を長年担当したジャーナリストの落合博実氏が語る。
「東京国税局が90年に初めて本格的な税務調査に踏み切っているのですが、学会と公明党に対する神経の使いようは相当なものでした。当時、私が入手した国税の内部資料によれば、学会からの反発を和らげるために他の宗教法人も同時に税務調査に入ると明記されていました。また、調査着手を告げるために信濃町の学会本部にわざわざ出向いたり、『目立つので調査官は裏口から入ってほしい』という学会の要求をのんだりしています」
国税側の「気遣い」にもかかわらず、池田氏個人のカネなどを巡って交渉は難航。矢野氏は連日のように国税幹部たちに連絡をする。その最中、八尋副会長は「学会として、これだけは絶対に譲れない」という6項目を記したメモを矢野氏に渡した。①財産目録は出さない②美術品に触れない③池田氏の個人所得にさわらない④(池田氏の秘書集団がいる)第一庶務にはさわらない⑤会員のプライバシーにふれない⑥宗教活動にふれない、この6点である。①から④までは、池田氏の個人資産に関わるものだった。
交渉は90年から年をまたいで続き、やがて、大物政治家を巻き込んでいく。
*
税務調査開始から約10ヵ月が経過し、ようやく課税対象が決まった。国税側は今回の調査を第1次調査とし、引き続き第2次調査を行うことを条件に、学会が非課税扱いを主張していた墓園事業のみを追徴課税の対象とした。学会が死守したかった例の6項目は守られ、池田氏の個人資産にはメスが入らなかった。この結果、学会は留年からの3年間で総額23億8000万円の申告漏れを指摘され、法人税6億4000万円を管轄の四谷税務署に納付。これは私や学会幹部にとっても想定内の範囲だった。
問題は続く第2次調査をどうやって切り抜けるかに移った。
第1次調査が片付いたのを受け、私は山口部長と電話で話した。山口氏は「第1次と違って第2次の税務調査は聖域なしに行う」と従来の方針を告げた。八尋氏が修正申告の際の記者会見コメントについて報告したところ、池田名誉会長は「税金が少ない。もっと大きくてもよい」と喜んでいたという。さんざん私に税金を値切らせておいて「税金が少ない」とは大言壮語の池田氏らしかった。
7月、私は霞が関の国税庁長官室に向かった。6月の人事で新しく国税庁長官に就任した尾崎護氏と、坂本導聰国税庁直税部長と話し合うためだ。坂本氏は「マムシの坂本」の異名を持ち、いったん食いついた相手はけっして逃さない、やり手国税マンとして霞が関にその名を轟かせていた。また、坂本氏は竹下登元首相の側近中の側近とも言われ、竹下氏に心酔していた。坂本氏は私に、
「最重要テーマとして引き継ぎを受けている」
と語り、第1次調査では手つかずだった、学会側が絶対に譲れないとしてきた6項目についてもすべて調査すると明言した。
坂本氏の強硬な態度に慌てた私は、旧知の竹下氏に電話をかけた。当時は海部俊樹内閣で、この政権は自民党最大派閥の竹下派丸抱えの政権だったから、竹下氏は首相の座を降りたとはいえ、政府・自民党に大きな影響力を行使できる立場にあった。
私が竹下氏に第1次調査の結果と第2次調査の事情を説明すると、竹下氏はすでに承知していたようだった。いつもの柔らかい口調で「尾崎とマムシ(坂本氏)が話し合い、私のところに報告にくるようにしておいたから」と、手を打ってあることを明かした。
その翌日、1991年8月28日は大きな転換点となった。
竹下氏から電話で、「昨日、尾崎と坂本に会った。キーは握った。風呂敷に包んで宿題解決に行ったらどうか」と連絡があったのである。「キーを握った」とはポイントを把握し、ドアを開ける方策があるということ、また「風呂敷包み」とは、出すべき資料は風呂敷に包むようにして国税に持っていき、包括的に話し合えという意味だった。その後、紆余曲折を経て結果的に竹下氏の提案どおりに事態は進む。
申告漏れが一転、課税なしに
当時、永田町では小沢一郎自民党幹事長と市川雄一公明党書記長による自公協力が水面下で話し合われていた。二人のパイプは「一一ライン」と呼ばれた。学会内部では、矢野氏の国税交渉と並行して、市川氏も小沢氏に国税対策を依頼していると言われていた。事実、市川氏が会合の席などで小沢氏の名前を出し、国税対策を頼んでいるとほのめかすこともあったが、矢野氏にはその詳細は最後まで伝えられなかった。
*
1992年4月22日、いよいよ坂本部長が「間題点」を指摘してきた。坂本氏が指摘した問題点は4つあり、いずれも池田氏がらみだった。申告漏れは締めて4002万4000円。私にとっては望外の少ない額だった。坂本氏は言った。
「今回は矢野さんや竹下さんの顔を立てて、この辺で収めた。あとは重い宿題として次に残す。改善もしてほしい。必要に応じ、有力な材料があればまた調査するが、来年すぐという訳ではない」
私はようやく自分の役目を果たせたという思いで、秋谷氏らに坂本氏が言った内容について報告した。しかし、秋谷氏らはたとえ額が少なくても、池田氏への課税はなんとしても阻止したいと言う。
私は竹下氏に事情を説明し、再度国税に工作してもらうようお願いした。竹下氏は「池田さん、ずいぶを税金が少なくなっているが……」と言ったまま、黙ってしまった。
その5日後。竹下氏からの電話は私を驚喜させた。竹下氏は、事実上、税金をゼロにするよう国税庁首脳を説き伏せていたのだ。
「国税庁には〝心にまで課税できない〟と言っておいた」
つまり、宗教の信心からやっていることだから見逃してやれということである。私は竹下氏に「ありがとうございました。ご恩は忘れません」と言い、電話機に向かって何度も頭を下げた。
*
かくして、創価学会への第2次税務調査は課税ゼロに終わった。よほど肝を冷やしたのだろう、調査が一段落した後、池田氏は矢野氏に「やはり政権に入らないと駄目だ」と語ったという。以降、公明党が自民党に擦り寄り、自公による政権が10年にわたって続くのはご承知の通りだ。
本誌は今回、矢野氏と交渉に当たった大蔵・国税庁幹部に話を聞いた。取材に応じたのは後に大蔵事務次官にも就任した尾崎護元国税庁長官だけだった。
「確かに矢野さんから複数回連絡があったことは覚えています。しかし、内容については本当に覚えていません。創価学会の案件?矢野さんがそうおっしゃっているなら、そうかもしれません。ただ、国税庁長官は個別の案件について関与しませんので、現場の各国税局の指示に従ってくださいと言ったと思います。竹下さんからこの件で電話があった記憶もありません」
なお、92年に終了した第2次税務調査から、すでに20年近い歳月が経ったが、その間、創価学会への大規模な税務調査は一度も行われていない。
『週刊現代』2011年11月6日号
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