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from: ku-toさん
2012年06月28日 11時13分13秒
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from: starさん
2012年06月24日 11時12分31秒
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from: ku-toさん
2012年06月22日 15時52分07秒
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面白せんべい
昨日、留守の間に、宅配便が届いているようで、「お留守でした」の葉書が玄関に差し込まれていました。何やろね?と差出人を見ると、3年前まで私が勤めていた会社からのものでした。ハテハテ?と今更に思い当たらない、何やろ?思案も何も、宅配業者に電話して配達してもらえばいいじゃないの?と妻は言う、「そうやね」20分もすると業者が、弁当箱くらいの包みを届けてくれました。ナンダロウネ?
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送り状の品名を見ると「○○会社、創立65周年記念煎餅」と書かれている。そうか創立記念だったのかぁ、確か50周年記念のときは在職中だったので海外旅行に行ったっけ、退職後の今回は煎餅なのです。卵煎餅に焼印が押してあって、会社のロゴマークや、65周年の文字等の焼き印入りの煎餅が入っていました。
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手にとって、妻と思わず笑い転げました。へぇ〜、こんなの出来るんやぁ、、、先代の社長が古風な方でしたので、OBにもおすそ分け、と言うのでしょうか、ほのかな温かみを感じます。因みに、退職後も、年末になると職場へ、今は珍しい、65年も続いている「日めくり」を貰いに行ってるのであります。 -
from: ku-toさん
2012年06月18日 14時47分49秒
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from: kisyuさん
2012年06月17日 23時43分06秒
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from: ku-toさん
2012年06月11日 13時01分53秒
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安川・野山谷から百間山〜三ツ森
*写真①=登った百間山までの北尾根、780mピーク右の点線付近に下の谷(野山谷)からの旧登山道があるはずなのだが見つけられなかった。
10日、梅雨に入ったもののタイミングよくこの日は天晴、
百間山に登る正規ルートは南側、熊野(いや)地区から登るのですが、マニアックな師匠とのコンビでは、常に探検?登山で、北尾根の安川渓谷の支流、野山谷から北尾根に入りました。以前の地図には、点線で登山道が書かれていますので絶対に残っている筈、という信念のもとに現地に行ってみました。
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まずは、支流沿いに林道を歩いて登ります。30分も歩くと終点の広場に出ます。早々に、行く手を阻まれ、さて、道は何処?生い茂る雑木をかき分け、何となく道らしい跡を探し登りました。川に水の流れはなく、大きなゴロゴロ石ばかり、谷が2つに分かれていたので地図で確認、
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左の谷を入るとブッシュの下に道らしきものがあったのでズンズンと進む、川を左に渡り、植林帯の踏みあとを登る、途中の標高500m付近で、左にテープ発見、地図上での旧道は600mから点線が打たれている。まだ早すぎる。もっと上だ、と谷をつめるが、600m付近ではどうも地図と地形が会わないし、テープもない、師匠と地図を眺めるが、どうもちがう!やむなく500mのテープまで戻り、そのテープ跡を登った。
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途中には、進路不明点もあったが、かなり急な植林帯を上り詰めたら、緩やかな尾根に出た。高度計を見ると、750mくらいだったので、もう、地図上の744ピークは過ぎたかなぁ、と思いつつ緩やかな尾根を歩く、やがて急登りに変わり、かなり急である。と言う事は、780付近にでる地図上の点線の旧道がわからなかった。恐らく500からの私たちの登りが正解ではと思いつつ、酷いほどの急登りを登りつめ、やっと法師への従走路に出た、きつかったなぁと師匠と話す。
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百間頂上では、相変わらず周囲の視界が悪く、伸びきった笹薮をスキッと刈り込みたい心境である。今登ってきた野山谷の尾根が見える。獄山も、野竹、ゴンニャク、法師、入道、高尾も見える。
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ハエが寄ってくるので、素早くお弁当を食べる。師匠ガ最近買ったんだというコンロでコーヒーをいただく、暑くても旨い、
帰路はさて、どうしよう、、とあいなったが、午後1時を回っていましたので、無難な三ツ森山コースを選び、フケン谷の東尾根609から激下りで野山谷へと降りていった。車止めまで近くて、案外早い時間帯に帰路につけました。この、今日のコースも新設として、仲間の皆さんに現地披露できそうで楽しみです。
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*写真②野山谷を遡行し、黄色点線付近を登り尾根に出る
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from: ku-toさん
2012年06月05日 08時18分48秒
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藤白王子
日曜日に和歌山に用ありで妻と行ってきました。
午前中に用が済み、帰路は高速を通らずに、一般道を通り
海南の藤白神社に寄ってきました。
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藤白神社(王子)は高速道路の高架横にあり、意外と分かりにくい場所にある。神社の鳥居脇には樹齢1000年の大楠の木が3本もあり、格式の高さが分かる。
語り部の端くれとして、熊野古道を紹介するにあたり、藤白王子は欠かせない存在なのです。
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五体王子といって、藤白王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子は格式が高く、社殿や鳥居も立派とされていたのです。で、上皇、貴族が参詣すると必ず、歌会を開いたり、里神楽や奉納相撲などをして、時の権力を誇示したんやで、
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私の好きな、人情厚い、後鳥羽上皇が訪れたときも、しっかりと歌を詠んでいる。それを熊野懐紙というんです。で、それら参詣中の出来事を、だれがこの現世に、史実を広めたかと言うと、これまた、我が崇拝?する少しオトボ○の藤原定家なんですよね、百人一首を作成した人なんですよ、とお話しします。(注)決して定家をオトボ○等とは言いません
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定家は後鳥羽上皇の身の回りの世話人ですが、本当は上皇に仕える身ですので、かなり位は高いのです。しっかりと真面目にお仕えするのですよね、後鳥羽院の熊野参詣のお供を4回するが、全ての日程の取りまとめ、宿舎の確保、神社への奉納品等等、ツアーコンダクターなのであります。
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で、その行動を克明に書いたのが、定家が80年の生涯の中で56年間日記を書き続けた「明日記」があります。一度読んで頂戴、実に面白い、後鳥羽院の女遊びの甚だしさに、ほとほと参るくだりなど思わず、噴出しそう
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藤白王子での定家の日記には、寝過ごして、目が覚めると、上皇の歌会が始まっていて、取り巻きの人盛りで入れなかった。等と書いているし、その後の切目王子では、社殿の壁板に記念の落書きをしたり、芳養王子では宿舎がなく、海辺の海女屋に泊まったり、田辺御所では豪華な宿、と思ったのも束の間、戸板の破れた寒風吹きすさむ宿舎で風邪をひいたなど、と定家さん、現世で言えば、かなりのオトボ○模様ね、と言いたくなりますけど、優しい温かみがあり、没後771年経った今も輝いています(笑)