サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: ぽっぽさん
2019年06月27日 08時30分57秒
icon
チョッと歴史の勉強を!\(^▽^)/
皆さん、おはようございます\(^▽^)/
朝から曇り空でございまして、台風が来そうです(/Д`)
お耳は夜中の0時15分頃でしたでしょうか「ピチ・ピチ」と2連発が・・・
ウワァ「連続花火か!」と覚悟をしていましたが、そのまま収まってくれたのですが、午前3時過ぎ?にまた「ピチッ!」と。
さらに6時過ぎに目を覚ましてしまいましたので顔を洗っていましたら、またまた「ピチッ!」と。
(いつものメンバーにジンクス? ちょっと高台へ登ったから? 低気圧のせい? フッ!?)
二人とも昨日の登山(?)で疲れましたので朝の散歩は中止ですが、可燃ゴミだけは集積場へ出しに行って参りました。
昨日参りました「岐阜県可児市(我が町のお隣です)」は2月に参りました「明智城」の「明智光秀(次回のNHK大河ドラマ)」や「森 蘭丸(もりらんまる:信長に仕えた美青年」など排出しています。
今回は「金山城跡」「森蘭丸・産湯の井戸」「久々利城跡」そして「荒川豊蔵」へ参りましてちょっと「歴史の勉強」をしてみましょうネo(^∀^*)o
(実は、私は歴史が苦手なんです(/Д`) パンフレットやネットなどを参考にしました)
午前8時に拙宅へ来ました友人が「よっぽどの縁(CD:奈良・薬師寺の大谷徹奘僧侶)」を持って参りましたので大谷氏のお話を聞きながらのドライブでございました。
(運転しながらではありますが法話では3つの重要な言葉であります「身心安楽」「よっぽどの縁」「自覚悟」などなど大変有意義な内容でしたよ)
さて、まずは2つの城址の場所ですが下のごとくでございまして、2月に参りました「明智城」の東に当たります。
では「美濃金山城跡」へ参りましょうか。
まずはパンフレットからですが・・・
1537年(天文6年):「斉藤大納言(妙春)」が兼山に烏峰城を作る。
1565年(永禄8年):織田信長の家臣「森可成」が城主となって烏峰城を「金山城」に変える。
<以下、まだ続きますが長くなりますのでここらで・・・>
金山城はネットによりますと「標高277m」の高台にありますが、車で大分上まで行くことが出来ました。 駐車場近くには「紫陽花(あじさい)」が真っ盛りでした。
駐車場からの山道は険しかったですよ。
本丸跡はご覧のごとく広いですよ。
金山城跡への車道を下ります途中に「森蘭丸産湯の井戸」があります。
(下の「幟(のぼり)」の「森蘭丸(もりらんまる)」は随分美男子にえがかれていますネ o(^-^)o)
「森蘭丸(もりらんまる)の産湯(うぶゆ)」、ナンノコッチャ?ですよね。
ネットには・・・
『山頂にある「美濃金山城跡」には井戸がなかったため、ここから汲み上げて森蘭丸の産湯に使われたと伝えられています。
森蘭丸が誕生したのが永禄8年(1565年)。』
森蘭丸もネットでは・・・
『森 成利(もり なりとし)は、安土桃山時代の武将。森 蘭丸(もり らんまる)という名で知られる織田信長の近習である。本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死した。』
『森蘭丸は織田信長に小姓として仕え、寵愛を受けたことで知られる人物です。
容姿が美しかったと言われていますが、それだけでなく、蘭丸は才知に秀でており、細やかな気遣いができる性格でした。
そして信長に対する忠誠心が厚く、このために若くして秘書官として重用されるようになります。
しかし、信長が本能寺で明智光秀に襲撃された際に最期を共にしており、わずか18才で世を去ることになりました。』
とあります。
上記に「容姿が美しかった~」とありますので、上のような「幟(のぼり)」になったのでしょうネ (TωT)
次に参りましたのが「久々利(くくり)城跡」でございます。
ここでもパンフレットを貰ったのですが、中途半端な事に「誰が築城したか」が書いてありませヌ!!
ネットでは・・・
『延元・正平年間(1336年-1370年)土岐康貞が築城した。
戦国時代には康貞の末裔久々利頼興が居城し東濃に勢威を誇ったが、天正11年(1583年)に金山城主の森長可に攻められ陥落。
以後は森家家臣の戸田勘左衛門が城代となった。
慶長5年(1600年)に森家が信濃に転封となるとそれに伴い廃城。』
とあります。
では城跡へ登ってみましょう。
ここには駐車場がありませんので道路わきに停めました。
久々利城跡へもきつい上り坂でしたヨ! フッ!
本丸跡は金山城跡より随分狭いです。
久々利城跡の本丸跡もネットで調べますと「標高190m」との事です。
そして昼食とコーヒーの後で参りましたのが「人間国宝・荒川豊蔵資料館」です。
「陶芸家」で私が頭に浮かびますのは「加藤唐九郎(愛知県瀬戸市の元人間国宝)」でございます。
やはりふーたんたち女性3名は地元(?)の「荒川豊蔵」の方がなじみがあるのでしょうねぇ。。。
まずはパンフレットなどからですが・・・
1894年(明治27年):岐阜県土岐郡多治見村(現・多治見市)生まれ。
1930年(昭和 5年):岐阜県可児郡久々利村(現・可児市)の古窯跡で発見した
陶片が、名古屋市の関戸家が所蔵している「志野筍絵茶
碗」と同じであることを発見。
従来、志野は「愛知県瀬戸市」で焼かれていたという
「定説を覆す大発見!」
1955年(昭和30年):「人間国宝」に認定。
1985年(昭和60年):永眠。
年表に「志野焼(しのやき)」とありますが、資料館内での撮影は禁止ですので我が家の「志野焼」を。
(ふーたんが「嫁入り」したときに持参しました。 大変素朴な焼き物です o(^-^)o)
上記のパンフレットには「美濃焼(みのやき)」という言葉が出てきますが、これまた残念な事に資料館が呉れました「3種類のパンフレット」を何度見ましても「説明」がありませヌ!
(いつもながら「岐阜県って中途半端だなぁ!」と思います)
そこでネット検索を・・・
『美濃焼(みのやき)とは、岐阜県(南部は旧美濃国)のうち、東濃地方の一部(土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市)に跨る地域で製作される陶磁器の総称である。』
とあります。
さらに「美濃焼の種類」も検索してみますと・・・ちょっと長い引用ですが。
『美濃焼の特徴は多様な種類が存在することです。
美濃焼は1つの様式を持たず、15種類が伝統工芸品として指定されています。
代表的なものは千利休によって確立され古田織部の美学によって作られた「織部」です。
主に瀬戸黒天正年間に焼成されたため、天正黒・引き出し黒という呼称もあります。
緑釉(りょくゆう)の深い色と個性的な形、幾何学的紋様の装飾が魅力で、作風によって黒織部・青織部・総織部などの種類があります。
また「志野」は、釉薬(ゆうやく)の下に絵付けが施されたという点で、日本の陶器の歴史上で画期的な焼き物とされています。
薄紅色が美しく、長石釉(ちょうせきゆう)による気泡状の風合いがある志野の最盛期は桃山時代でした。
人間国宝の荒川豊蔵が尽力し、江戸時代にいったん姿を消した志野を再現し、現代にも息づいています。
同様に近代になって再注目された「黄瀬戸(きぜと)」は、控えめで素朴な趣きがあり、人気のある美濃焼です。』
とあります。
長くなりましたので「歴史と焼き物の勉強」はここらで・・・
今日の事は別トピックで書かせて頂きますネo(^◇^)o
(下の写真は荒川豊蔵資料館の玄関とふーたんです)
さてさて、私共が住んでいます愛知県犬山市から国道41号線を5分も走ったところに「土田(どた)城址」があります。
この城跡は我が家から近いし、「鳩吹山(313.5m)」の登山口もあるにもかかわらず一度も行ったことがありませんので次回の課題としようかなぁ?
この土田城をネットで見ますと・・・
『土田城は織田信長の生母である土田御前が生まれ育った城です(諸説あり)。
土田泰久の次男である土田甚助が生駒家広の養子となり生駒親重を名乗っていましたが、土田源太夫が明智城で討死すると土田家嫡流が断絶したため、親重が小折城とこの城の城主を兼ねました。
生駒氏はその後、織田信長に仕えると、1574年(天正2年)にはこの地を去り廃城となりました。
現在城址に遺構はほぼなく、登城口になっている大脇地区公民館前に城址碑と案内板が建てられています。』
『国境の城、尾張国から可児市を一望、生駒氏の出世城として名高い。
文明年間(1469~87)に土田氏によって築かれたとされる。
弘治2年(1556)土田源太夫が死んだ後、丹羽郡小折城の生駒親重・親正が城主となった。親正は織田信長に仕え、天正2年(1574)には土田城を去った。』
とあります。
下の写真は今年3月に「カタクリ自生地」へカタクリを見に行った時にパチリしました「土田御前の碑」です。-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 1
icon拍手者リスト
ハッピー、
-
コメント: 全0件