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  • from: ぽっぽさん

    2020年10月30日 11時06分25秒

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    沖縄旅行の追記1

    皆さん、こんにちは o(^-^)o
    BGMはネットラジオで「クラシックギター」です。

    お耳は下のトピックのごとくでございます。
    ふーたんは姉・従妹の3人で昼食でございますので、私は一人で「追記」を・・・ o(^-^)o
    (先ほど、沖縄の民宿のご主人に電話をしましたら「民宿はやっていますよ」と・・・)

    【沖縄の歴史】
    =沖縄旅行その1より=
    「琉球王国(高良倉吉)」によると、カーボン測定法で「山下洞人」は約3万2千年前、「港川人」は約1万8年年前である。
    「沖縄の歴史と文化(外間守善)」では「港川人」は約1万8千年前(洪積世)で、中国の「柳江人」(洪積世の人骨)や「縄文人」と密接な血縁関係にあり「縄文人の遠い祖先」と見なす事ができ、「山下洞人」(約3万2千年前)ともつながる。
    「山下洞人」「港川人」は旧石器時代のホモサピエンス(新人)である。

    =ネットより=
    沖縄の歴史をネットでは・・・
    先史沖縄
    約1万年前までは大陸と繋がっていたとされる琉球列島。
    沖縄人がどこからやってきたのかは不明だが、南アジアや東南アジアに生息する動物の化石が発見されていることから、琉球列島へも動物を追って人類が大陸からやってきたといわれる。
    昭和42年(1967)沖縄県具志頭村(現・八重瀬町)で化石人骨が発見され、その後の発掘調査により、1万8000年前の人骨であることがわかった。
    「港川人」と命名され日本の旧石器人として世界的にも紹介された。

    このほかにも沖縄各地で旧石器時代の化石人骨が発見されている。当時の生活に関する遺物は発見されていないため、当時の暮らしがどういったものかはわかっていないが、貝塚が発見されるなど、海辺で魚介類を採取して生活していたことがうかがえる。

    古琉球
    長く続いた貝塚時代のあと農耕文化へと移り、社会を形成し、各地には按司(あじ)と呼ばれる実力者が出現し、グスクが築かれることになる。
    その後、勢力争いへと発展していき沖縄本島を北山、中山、南山の3つの「三山時代」へと時代は変わっていった。
    その後1429年に尚巴志(しょうはし)が三山を統一し「琉球王国」が誕生することになる。

    三山時代
    グスクを中心とした各集落では、農耕社会が形成されるとともに、作付け、収穫などの共同作業が必要となり集落内での協力、集落外との交流が始まる。
    今につながる「ゆいまーる精神」が培われたと言える。
    浦添、読谷、中城、勝連、佐敷、今帰仁といった良港をもった按司は、その勢力をさらに拡大させて行き、やがて按司を統率する「世の主」が現れ、今帰仁を中心とした「北山」、浦添を中心とした「中山」、大里を中心とした「南山」に大きなグスクを築城して、沖縄本島を3分割する三山時代となった。

    グスクを中心とした各集落では、農耕社会が形成されるとともに、作付け、収穫などの共同作業が必要となり集落内での協力、集落外との交流が始まる。
    今につながる「ゆいまーる精神」が培われたと言える。

    浦添、読谷、中城、勝連、佐敷、今帰仁といった良港をもった按司は、その勢力をさらに拡大させて行き、やがて按司を統率する「世の主」が現れ、今帰仁を中心とした「北山」、浦添を中心とした「中山」、大里を中心とした「南山」に大きなグスクを築城して、沖縄本島を3分割する三山時代となった。

    琉球王国誕生(第一尚氏王朝)
    三山時代に終わりを告げるのは、1429年
    佐敷の按司であった尚巴志が琉球統一を図り、首里城を整備し琉球王国の中心に据えた。
    これを第一尚氏王朝と呼んでいる。

    さらに、日本や中国、東南アジアとの貿易も精力的に行われるようになり、このころに三線、泡盛、紅型といった琉球文化の基礎が流入した。
    琉球王国の政治、文化の中心であった首里城では、中国からの使者「冊封使」が訪れるようになり、もてなしの儀式や宴会などが催された。

    現在、そうした儀式の再現が、観光イベントとして行われている。
    ちなみに、尚巴志の祖父が、伊平屋島出身であることから、伊平屋島では尚巴志に関わる遺跡、行事、イベントが多く行われている。
    <以下省略>』

    【琉球王朝(王国)】 ネットでは・・・
    「琉球王国(りゅうきゅうおうこく)・琉球國(りゅうきゅうこく)」
    1429年(宣徳4年・正長2年、永享元年)から1879年(光緒4年・明治12年)の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。』

    1429年中山王尚巴志(ちゅうざんおうしょうはし)は北山、中山、南山の三つの王国を統一し、首里(現在の那覇市)に首里城を築いて琉球王国を作った。

    16世紀後半から豊臣秀吉や徳川幕府は琉球王国に対して支配下に入るよう圧力をかけていたが、明との関係を重視して歴代の王はこれに対してはっきりとした態度をとらなかった。

    しかし1609年、第7代の尚寧王(しょうねいおう)のとき幕府の許可を得た薩摩藩は3000の兵力によって琉球を制服し、首里に在番奉行所をおいて琉球の内政と外交を監視した。
    薩摩藩は明貿易の管理権をにぎり、年貢を薩摩藩に上納することを義務付けた。
    これによって琉球王国は薩摩藩主の島津氏属国として支配権をにぎられ、幕府体制に組み込まれた。

    1872年明治政府は琉球藩を設置し、19代目の尚泰王を琉球藩王に任命して琉球が日本の領土であることを内外にしめそうとした。
    しかし琉球が清との関係を続けようとしたため1879年に、明治政府は軍隊や警官を送り廃藩置県を強行して琉球藩を廃し沖縄県を設置した。』

    【首里城】 ネットでは
    首里城(しゅりじょう、沖縄方言: スイグシク)は、琉球王国中山(のち、琉球国島尻郡)首里(現・沖縄県那覇市首里金城町)にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾である。

    現在は国営沖縄記念公園の首里城地区(通称・首里城公園)として都市公園となっている。』

    『沖縄県那覇市首里にあった琉球王朝の王城で、日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。
    かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地に築城され、県内最大規模を誇った。

    城は外郭と内郭からなり、御庭(うなー)と呼ばれる広場に面して立つ正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物は内郭に集中している。
    内郭には瑞泉門(ずいせんもん)、漏刻門(ろうこくもん)など9つの門が、外郭には歓会門、久慶門など4つのアーチ門があった。

    戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残った。
    本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。

    2000年(平成12)には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない
    アレマァ! 昨年(2019年10月41日)に焼失してしまいました「首里城」は世界遺産ではないのですねぇ! (TωT)


    下の写真は恩納村で見ました「道ジュネー(パレード)」です。
    右は「弥勒(沖縄では「ミルク」と訛ります)」です。

    【琉球王家の23代当主】 三重県伊勢市にお住みなんですヨ!
    上記に「1429年に尚巴志(しょうはし)が三山を統一し「琉球王国」が誕生」と書きましたネ。

    我が家が取っています新聞の10月31日の記事に・・・
    ・尚家は1469年、国王となった「尚円」を始祖とする王家で、首里城の十種を務めた。
    ・最後の「琉球国王・尚泰(しょうたい)」の”やしゃご”で、尚本家23代当主の「尚衛(しょうえい)」は三重県伊勢市在住。
    旨の事が書いてあります\(^_^)/

    アレッ!? では「尚巴志と尚円とはどういう関係?」と疑問に思われますよね。
    ネットでは・・・
    『尚円王(しょうえんおう、永楽13年(1415年)~ 成化12年7月28日(1476年8月17日))は琉球王国の王。
    クーデターで第一尚氏王統を倒し、第二尚氏王統の初代国王(在位:1469年 - 1476年)となった。』
    とあります。
    (分かったような、分からないような・・・ o(^-^)o)

    【沖縄の印象】

    =沖縄に思う事=
    ・1993年のダイビングで「訪沖」して以来2019年で20度訪沖しました。
    当初は「ダイビングの船長」が船のエンジンをかけてから、「もやい綱」を外すのでスクリューに絡まってしまう事を何度も繰り返しますので「アホか」と思ってしまいました。
    ・また、以前の「大学生」で訪沖時には「高校教師」が我々夫婦をアチラコチラとご案内してくださいましたが、旧海軍司令部跡で「私はここまで」とさっさと帰って行ってしまわれました。  残された私共夫婦はあっけにとられてしまいました。
    ・「民謡スナック田舎乙女」では、今まで踊っていた地元女性が急にパタンと座りこんでしまったので、アレマァ!と思いました。
    ・このような光景を拝見していまして、沖縄の人って「変わっているなぁ~! やはり南国なんだなぁ~!」と o(^-^)o
    ・また、ある著書には「地元沖縄のスタッフに明日までにやっておいてと頼んでおいたが翌日は出勤してこない。 
    どうしてかなぁと思ったら、その友人は昨日は友達に誘われて飲みに行ったので頼まれた仕事がやれなかったから休んだ」との事。
    もう呆れますよね。
    ・このような「テーゲー(おおらかさ・いい加減)」は私も上記のごとく実感していますので「沖縄人が堕民・愚民」と言われる所以かなぁ?と当時は思ってしまいました。
    でも、沖縄へ何度もお邪魔している間に沖縄に対する感じ方も変わってきました。

    =石敢當= 「魔除け」のようですね。
    沖縄でよく見かけますよね。 
    私も「なんじゃらほい!?」と思いつつ、あちらこちらでパチリしましたヨo(^◇^)o

    ネットには・・・
    『「石敢當(いしがんとう、いしがんどう、せきかんとう、せっかんとう)」は、丁字路の突き当り等に設けられる「石敢當」などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標。
    石敢当、泰山石敢當、石散當等と書かれたものもある。
    中国で発祥したもので、日本では主に沖縄県や鹿児島県に多く分布する。』

    『「石敢當」は「いしがんとう」と読み、沖縄で古くから信じられている魔物=マジムンを撃退する、魔除けの役割を果たす石碑。
    マジムンとは、沖縄で言い伝えられている魔物の総称で、股をくぐられたものは死んでしまうという迷信があります。
    種類はさまざま、動物の身なりをしたものがほとんどですが、中にはしゃもじが悪霊化したものもあるそうです。
    全てのものには神が宿っている、八百万(やおよろず)の神の考え方に通ずるものでしょうか。

    マジムンは直線方向にしか道を進めず、曲がることができません。
    そのため「T字路」や「Y字路」にぶつかるとそのまま家に入ってきてしまいます。
    それを防ぐのが、石敢當。』
    と言うことです。
    (真っすぐにしか進めないのは何だか「イノシシ」みたいですねぇ~\(^_^)/)

    =石垣島へ移住=
    2011年11月14日のトピックに・・・
    >まず、観光で3カ月くらいオーストラリア・ケアンズに住んでみたい。 (ダイビングで4度参りましたが、こじんまりした町です)
    >その後は沖縄石垣島で・・・と物件もネットで探しましたヨ。
    >翌年物件を見に行ったら、関東の方が買われてしまって。
    >(その時はまだ会社現役だったので・・・残念!)
    >今は二人の孫を預かったりでダメですが、孫が小学校に入ったらさっさと南国・沖縄へ・・・まだ夢は捨ててはいませんがさて?
    と書きました。

    私共は2004年・5年と2年連続で石垣島へ参りました。
    2004年に参りました時に、可愛らしい「赤瓦・平屋の売り物件」を見つけまして、不動産屋に「仮契約をしましょうか?」と申しましたら「なかなか売れませんので大丈夫ですよ」と。

    しかし翌年に石垣島へ参りました時にその物件を見ますと・・・
    「トラック」が入っていましたので、不動産屋に尋ねましたら「売れました」と!
    テーゲ―テーゲ―でございました(T-T )
    (もし、その物件を買っていれば今頃石垣住民だったでしょうかねぇ?
    下の写真がその物件です。 敷地は70坪ほどだったと思います)

    =奄美群島=
    上記に・・・
    >しかし1609年、第7代の尚寧王(しょうねいおう)のとき幕府の許可を得た薩摩藩は3000の兵力によって琉球を制服し、首里に在番奉行所をおいて琉球の内政と外交を監視した。
    >薩摩藩は明貿易の管理権をにぎり、年貢を薩摩藩に上納することを義務付けた。
    これによって琉球王国は薩摩藩主の島津氏属国として支配権をにぎられ、幕府体制に組み込まれた。
    と紹介しました。

    「奄美群島」は琉球の領土でしたが、1609年の「薩摩(島津)の侵攻」で薩摩藩に取られてしまい、今は「鹿児島県」になっています。
    沖縄の本土復帰時に「奄美諸島を沖縄に返す!」ことは考えなかったのでしょうかねぇ?

    =沖縄戦線=
    ・一番ショックだったのは「沖縄戦線」でございます。
    ネットには・・・
    『沖縄戦(おきなわせん)、または沖縄の戦い(おきなわのたたかい)は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。
    連合軍側の作戦名は「アイスバーグ作戦(英: Operation Iceberg、氷山作戦)。
    琉球語では、Ucinaaikusa(ウチナー(沖縄)いくさ(戦、軍)の意)」ともいう。』

    『沖縄戦は1945年の3月下旬から8月までの戦いをいう。
    1944年10月10日、沖縄戦の前哨戦 として10.10空襲があった。
    この空襲で旧那覇市街の90%が焼失する。

    旧那覇市内の養蚕試験場にあった司令部も焼け 、首里城の地下に司令部壕が掘られる事になる。
    その壕を掘ったのが学徒達であった。

    米軍の上陸地点からこの首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び、司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった、首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいる。

    ひめゆりの悲劇もこの南部地域で起きた。
    ひめゆり学徒は何度も映画化され有名なためこの南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われている ことが多い。

    しかし南部戦線は米軍にとっては敗残兵狩りに等しい戦いであり、米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場である。
    米軍は上陸地点である北谷から首里城までの10キロを進むのに50日間かかっている。

    沖縄守備軍はこの間10万人の内7万4千人(主戦力のほぼ7割)の兵力を失っている。
    日本兵の死者は1日あたり千人以上にもなる、太平洋戦争もっとも激しい戦いといわれるゆえんである。』
    などとあります。

    また、沖縄戦では日本軍による「集団自決」を取り扱った「沖縄ノート(大江健三郎・著)」などがあり、当時の司令官が訴訟を起こしました。
    長くなりますので、詳しくは次回に・・・

    =沖縄の米軍基地=
    ・そして沖縄と言いますと連想しますのは、やはり「沖縄の米軍基地」です。
    我が国の米軍基地の70%以上が沖縄にあります!
    私は「安部内閣の軍事化がそのまま菅内閣にも受け継がれているのでは?」と疑っております。
    岸信介 → 佐藤栄作 → 安部晋三 → 岸信夫」と安部の家系、岸信夫を「防衛大臣」にした菅内閣を全く信用できませヌ!


    =追記:沖縄米軍の性暴力= 
    お隣から頂いた新聞記事より
    ー与那嶺一枝氏(沖縄タイムス編集局長)ー
    ここに追記する予定でしたが、長くなりましたので「沖縄旅行の追記2」に書きます。

    =読んだ本=

    ・沖縄へ行った事がない時に読んだ本に「太陽の子(灰谷健次郎)」という小説があります。
    ・何度も訪中している間に読んだ本には、「琉球王国(高良倉吉)」「琉球紀行(高野 澄)」「沖縄の歴史と文化(外間守善)」「沖縄生活史(高良 勉)」「沖縄報告(朝日新聞社編)」「沖縄からの出発(岡部伊都子)」「沖縄 時間がゆったり流れる島(宮里千里)」「誰も書かなかった沖縄(関 広延)」「沖縄ノート(大江健三郎)「沖縄戦(児島 襄)」「沖縄戦史(上地一史)」「検証 戦争責任Ⅱ(読売新聞社戦争責任検証委員会)」「沖縄 ―新風土記―(岩波写真文庫)」「沖縄ナンクル読本(下川裕治・篠原 章)」「「沖縄オバァ列伝(沖縄オバァ研究会)」があります。

    上記の「高良倉吉氏」は昨年10月31日の焼失しました、「首里城復元プロジェクト」のリーダーを務めてお見えです。

    【沖縄で撮りました花々】
    固い事ばかり書きましたので最後にパッ!と花々を・・・ o(^-^)o
    ハイビスカス

    ブーゲンビリア

    ブッソウゲ

    サンタンカ

    カズラ

    グンバイひるがお

    月桃

    シコンノボタン」と「モンパノキ

    サガリバナ」と「アメリカハマグルマ

    アダン

    まだまだパチリしました花々がありますが名前が「?」ですので・・・
    とりあえずはここまでとしますね\(^_^)/
    (書き足したいことが出来ましたら「追記の追記(笑)」を・・・)

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