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  • from: ぽっぽさん

    2021年12月15日 12時10分24秒

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    12月8日開戦の意味!

    皆さん、こんにちはァ~!
    (今日のトピック、ちょっと長くなりましたァ!)

    BGM、朝駆けていました「FM放送(クラシックカフェ)」で「アルルの女(ビゼー)」をやっていましたので、PCで再び聞きまして今は「カンツォーネ」でございます。
    お耳は、昨日の「健康体操」で「連続花火の発生」を心配していましたが、ラッキーなことに「虫の音」も割と静かですので「安定」でございます\(^_^)/

    今日は「鬼娘の誕生日」ですので朝、誕生祝のメールを送りましたヨ!
    (下の「イラストと写真」はメール添付いたしませんヨ!)

    さて、12月12日のトピックに・・・
    >今でもNHKTVでは「太平洋戦争関係」の番組が放映されていますね。
    >お隣から頂いた新聞記事の「12月8日の開戦」は読み終えていますので、まとまりましたらアップさせて頂きますネ!
    と書かせていただきました。
    今朝から頑張って(笑)やっと、新聞記事をまとめましたので、アップ致しますね。
    (例によりまして「太文字」「<~>」はぽっぽが・・・)

    【「12月8日開戦」の意味】 2021年12月8日のお隣からの新聞記事より
    ◆◆ 1941年12月8日は、日本では米国への真珠湾攻撃によって火ぶたが切られた「開戦の日」として知られる。
    何のための戦争だったのか。  そして、なぜ回避できなかったのか。
    また、そもそも真珠湾が始まったといえるのか。
    開戦から80年を迎えた日に考えたい。 ◆◆

    = 戦争の目的統一戦略なく分裂 =  吉田 裕(ゆたか)氏(歴史学者)
    ▲1941年12月8日に日本が米英との戦争を杯目多目的は何だったか?▼
    ・「第一の目的」は、1931年の満州事変と1937年に始めた日中戦争という中国への侵略戦争で獲得した自国の既得権益を守ることだった。
    日本は米国から、「中国からの撤兵」をもとめられていたがそれを拒んでの開戦だった。
    ・「第二の目的」は、東南アジアで獲得していた自国の勢力圏を米英などに容認させることだった。

    ▲公式には戦争目的をどう説明していたのか?▼
    ・12月8日に昭和天皇が発表した開戦の勅書は「自存自衛のため」を掲げていた。
    他方、当時の内閣情報局の声明は、欧米による植民地支配の打破をうたっていた。
    ・自衛戦争とする理屈もアジア解放戦争とする理屈も成り立たないと私は思うが、その上で注目すべきは、公表された戦争目的に著しい分裂と混乱が見られることだ
    一方で自衛を掲げつつ、他方でアジアの解放を掲げているからだ。
    <「分裂・混乱」につきましては、12月12日のトピックでご紹介いたしました『英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」』でも、陸軍・海軍と内閣などの「意見が真っ向から分かれていた」旨のことと、「自国の都合のよい解釈をしていたので”永井荷風”の方がよっぽど世界を見通していた」旨のことも述べられていました>

    ▲なぜ分裂<したのか>?▼
    統一された国家戦略が不在だったからだ。
    同じ軍部でも、海軍は対米戦争を重視し、「自衛のためにやむなく立ち上がっる戦争」だとの認識を強く持っていた。
    しかし陸軍にとっては対米戦は副次的なものであり、東南アジアでの占領地支配を安定させたうえでソ連と開戦することを想定していた。
    陸軍には「アジア解放」の論理に傾倒する傾向があった。
    そもそも「対中国戦」と「対米英戦」「対ソ戦」という3面作戦を遂行しようとしていたこと自体に無理があった。

    ▲自分より強い相手との戦争だったが、米国本土に攻め込む構想があったのか?▼
    ・米英への本土上陸作戦が正式の作戦計画になったことはない。
    日本の戦争計画は、米国民の戦意を低下させて講和に持ち込むというものだった。
    大きな問題は、同盟国ドイツが英国を屈服させてくれるという「希望的観測」が計画の前提に置かれていたことだ。
    フランスなどに対するドイツの戦勝に幻惑され、その戦力を過大評価してしまった結果だ。

    ▲日本が米英と戦争を始めたことは、世界史的にはどういう意味を持ったのか?▼
    ・欧州で広がっていた戦争がアジアにもかくだいし、真の意味での「世界戦争」になった意味がある。
    また「対米英開戦」は、中国との戦争の意味も、「二国間の戦争」であった日中戦争が、1941年12月以降は「連合国の一員としての中国が日本と戦う国際的な戦争」へと、実質的に変わっていった。

    ▲80年も前の開戦は現在からどう振る替えるべきか?▼
    ・日清・日露戦争、満州事変、日中戦争、そして対米英戦争。
    日本の戦争の始まり方で私が気になるのは、過去の戦争をきちんと総括していないまま次への戦争に突入してきた傾向だ。
    戦後が長く続いた今も、残念ながら総括は不十分だ。
    <全く同感でございます。 私も常々「太平洋戦争の我が国としての総括がSなされていない」とここ「たんぽぽ」でも訴えております>
    対米開戦への反対論や慎重論を持つ人は、軍内部にさえ少数ながら存在していた。
    戦後日本は、その人たちを沈黙させてしまった同調圧力の問題を検証し、異論を尊重する社会を実現できているでしょうか?
    <できていないと思います。 自民党政権は「森友・加計問題」「桜を見る会問題」もうやむやの内に「幕引き」をしてしまいましたが、本来「安部のバカカス」は犯罪者として法廷で裁かれるべきだと思います!>

    = 侵略の起点根底にアジア蔑視 =  高嶋伸欣(のぶよし)氏(地理学者・歴史研究家)
    ▲開戦80年ですが?▼
    ・日本では真珠湾攻撃でアジア太平洋戦争が始まったという認識が一般的だがそれは違う。
    海軍の真珠湾攻撃よりも1時間5分早く、陸軍がマレー半島の英領コタバルに上陸し、英軍と戦っている
    なのに、テレビや新聞は「真珠湾攻撃が始まった」と報道してきた。

    ▲なぜ誤った認識が広まったのか?▼
    ・帝国主義国同士の戦いで「どっちもどっちだった」という話に収めておきたいということだ。
    だが、日本軍はそのためにアジアの人々が生活する地域に攻め込み、住民の虐殺、食料の強奪など中国大陸と同じことを東南アジアでもやっている
    実情は今も変わらない「アジア蔑視」が根底の侵略行為だった。
    <以下、シンガポールなど具体的なる戦場の事が述べられているが省略します>

    ▲マレー半島へ100回以上現地調査をされたが現地の人の受け止めはどうだったのか?▼
    ・1983年から戦争の傷痕に学ぶスタディーツアーを始めて「タイ」や「マレーシア」を尋ねた。
    1986年からは8月15日に現地で毎年「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」を開き、現地の方々と共に黙禱<もくとう>をささげてきた。
    ・<現地では>最初は遺族や目撃者たちから罵られたり、殴られそうになったり、数時間つるし上げにあったこともあるが、必ず「こんな(追悼にくる)日本人もいるのだから」と、とりなしてくれる人が出てきて事なきを得た。
    現地の人の願いは「歴史を忘れないで欲しい」ということだと長年の活動を通じて感じる。
    <アジア人ってやさしいですねぇ!>

    ▲マレー半島への上陸については、他の問題も指摘されているが?▼
    ・日本軍はコタバルより北にあるマレー半島東岸の「タイのシンゴラ」にも上陸している。
    しかしその前年に日本はタイの中立尊重を保障した「日タイ友好和親条約」を締結している。
    それにもかかわらず、一方的に独立国の隊に奇襲上陸し、半日弱、タイと戦闘をした。
    ソ連軍の旧満州への侵略は「日ソ中立条件違反」だと言うが、日本はそれと同じ事をタイで行っている。
    <「武士道」を掲げたはずの日本の軍隊、全く恥ずかしい限りですよね!
    私は先の戦争に加担した者ども一同総くくりで「征伐」すべきだと今でも思っております。
    上手く・狡く「戦犯」を逃れたり「軽い刑」で済んだ者どもも一同じに「再総括
    されるべきだと思っております!
    私はやがて「地獄」へ参りますが、あちらへ参りましたら「それら輩のドタマ」を殴りつけてやります!>

    ▲12月8日についての見方を変えることが、いまなぜ必要か?▼
    ・12月8日は、日本が「東南アジアに侵攻する起点」の日だ。
    アジア太平洋戦争というと、「米国と戦った」という点が繰り返し教えられ、報じられてきた。
    しかし、そこには「あの戦争は何だったのか」という問いかけがない。
    アジアの犠牲者に思いを馳せながら、日本の戦争を見つめるきっかけとして欲しいと思う。
    <良い勉強になりました。 「太平洋戦争の起点」と言えば私も「12月8日の真珠湾攻撃」としか思っておりませんでした。>

    【ヴォサノヴァぁ~!】 せっかくの番組がァ!
    午前9時15分過ぎに、ふと「新聞のTV番組欄」を見ましたらァ!
    午前9時から「ヴォサノヴァ」の番組をやっていましたァ!
    さっそく録画をしまして、昼食後に見ていましたが、最初の18分間が抜けていましたのが残念!
    (再放送がありましたらリベンジでございますゥ!)

    【アレマァ! 千両がァ!】 寒い中のお散歩でございました。
    午後3時5分頃から3時40分過ぎまで、「ショートコース往復+中池」のお散歩でございました。
    今日は冷たい風がやや強いので、ダウンを着ましてお耳は「耳当て」の上から「ニット帽」と二重の養生をして出かけました。

    いつもの歩道ではァ! アレッ! 千両が切られていましたァ!
    (散歩の度に赤い実がなっているのを楽しみにしていましたのに・・・誰だ!泥棒は!)

    下池ではふーたんが「サンキラの実」をパチリ!(下の左写真) 
    中池には鴨は居ませんでしたし、西の伊吹山は黒い雲の中でした。
    (ただ寒いだけでしたァ! 下の右写真)

    中池の手前には「愛知用水」がありまして「橋」が掛かっています。
    その橋の手前から下の写真の如く、ぐるりとパチリしてみました。

    帰宅後、ふーたんは夕食用の「味ご飯の下ごしらえ」を。。。
    私は毎日の如く「風」を通すために上げてありますベッドを戻しまして、お布団をセットでございます。

    さて、ふーたんの「下ごしらえ」が終わりましたら、お布団に潜り込みまして「録画」でございます\(^_^)/
    ということで、「録画(相棒/グレートトラバース2本)」を見ていましたよ。

    【草津白根山と横手山】 グレートトラバース3より・・・
    上記の如く「録画:グレートトラバース3」を見ていました。
    田中陽希は2019年5月に長野県などの山々を登っておりまして、今回は長野市の東にあります「志賀高原国立公園」の「草津白根山」「横手山」でした。

    以前に”健康体操の姉御”が利用された「志賀高原のフリーツアー(3泊4日)」を紹介してくれましたので、私共夫婦は2012年9月にツアーを利用しました。
    「2日目:志賀山(2035m)・裏志賀山(2040m)」と「3日目:草津白根山(本白根:2171m)・横手山(2305m)」へ登り、「4日目:白樺苑路トレッキング」と楽しかったですヨ\(^_^)/

    2日目に登りました「志賀山・奥志賀山」は、3日目に登りました「草津白根山・横手山」よりやや北に位置します。

    下の左写真が「志賀山山頂」で、右写真が「奥志賀山頂」です。

    3日目は「草津白根山(本白根)」「横手山」へ登りました。

    田中陽希が登った2019年5月は「草津(本)白根山」へは登山禁止でしたが、私共が登りました時は「本白根山展望所(下の左写真)」へ行けましたし「湯釜(下の右写真)」も望むことが出来ましたヨ\(^_^)/
    (下の地図の「青線」が私共の登山ルートです)


    また、「横手山」へは「リフト」の往復でしたので「登山」とは!? フッ! o(^-^)o

    では、皆さん!
    また明日でございます! おやすみなさいネ! o(^-^)o

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