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from: ぽっぽさん
2022年03月17日 14時58分02秒
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東日本大震災11年!
皆さん、こんにちは o(^-^)o
BGMは午後からのお散歩時に掛けました「AMラジオ(NHK)」をソノマンマ聴いています。
今日のお天気は天気予報通りでして「午前中は晴れで午後から曇り」でございます。
お耳は昨日~今日そして今(午後2時55分)も、二人とも「割と静か」でございます\(^_^)/
(でも、「ピチッ!」はトイレに起きますと「お供」ですがァ! o(^-^)o)
お目々はまだ左目が少し「ボンヤリ」って感じでございますゥ~!
(P.S.:でも、下のトピックを作成しましたが、あまり苦になりませんでしたヨ!
やはり「名医」でございます!)
【宮城・福島で地震!】 東日本大震災の「余震」でしょうか?
昨夜の11時半頃、福島県沖が震源地の地震が発生し、3名の方が亡くなられました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。
ネットには・・・
『16日午後11時半過ぎ、福島県沖を震源とする地震が発生した。
福島県と宮城県の一部で震度6強を観測し、宮城県石巻市では30センチの津波が確認された。
死者と多数の負傷者が出ており、東北自動車道に亀裂が入ったほか、建物の損壊も相次いだ。11年前の東日本大震災を思い出した人も多かったに違いない。
宮城県内では、走行中の東北新幹線が脱線した。
乗客を乗せた新幹線の脱線は、2004年の新潟県中越地震による上越新幹線以来2度目という。
乗客にけがはなかったが、大惨事につながりかねない事態だったと言える。』
『NHKが自治体への取材をもとにまとめたところ、この地震でこれまでに宮城県で2人、福島県で1人の合わせて3人が死亡しました。
また、少なくとも合わせて225人がけがをしているということです。』
とあります。
「東日本大震災」の余震ではないでしょうねぇ!?
◆◆ 東日本大震災11年! ◆◆
「何! 今頃ォ!」っておっしゃらないでくださいね。
昨日も福島県沖が震源地の地震がありまして3名の方が無くなられました。
さて、3月11日のトピックに・・・
>(お隣からの新聞記事「東日本大震災11年」がありますが、まとまりましたら後日に別トピックにて・・・)
と書きましたので、ずいぶん遅くなってしまいましたが、直接打鍵でご紹介いたしますネ!\(^_^)/
【心の復興と共に】 佐々木 格(いたる)氏(ガーデンデザイナー)
▲ 東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県大槌待ちの「鯨山(くじらやま)」の麓にある、電話線のつながっていない「風の電話」 今も様々な喪失感を抱いて全国から訪れる ▼ <インタビュー記事>
= 大槌の風の電話」内面と向き合って治癒力を引き出す =
▲「風の電話」を庭に置いたのは震災前で、「いとこ」と「残された家族」をつなぐための電話だった?▼
・震災の2年前、私は「いとこ」が「貴方な誰とはなしますか」で始まる筆書きの詩を電話ボックスの中に掲げた。
いとこは末期がんの床にあり、私はいとこと家族がつながり続けるすべとしてこの電話を思いついた。
・何かの理由で誰かに会えなくなって、喪失感を抱えている人が思いを伝える場所になればいいと思い、「風の電話」と名付けたのは風を「見えるもの」「聞こえるもの」「つながるもの」の象徴として考えた。
▲大槌町でも多くの方がなくなったが?▼
・「風の電話」が完成した後、新聞に取り上げられたのをきっかけに、震災犠牲者の家族や友人らが次々と訪れるようになった。
「亡くなった人につながる」「天国につながる」そんなことはあり得ないと、みなは分かっていてやって来るが、<電話を>かけ終わると「気持ちが伝わったようだ」「電話の向こうで聞いていると感じ取れた」とおっしゃる。
▲風の電話には、思いを引き出す力があるか▼
・いとこの書には「風の電話は心でする」とある。
心理学者の「ユング」によると「人の心には欠けたものを補おうとする働きがある」そうだが、電話ボックスに身を置いて受話器をとることで、自分自身の心が持っている「治癒力」を呼び覚ますかもしれない。
・電話ボックスに置いてあるノートには、「あなたの分まで生きる」というような記述が目につくようになった。
自分の方へ意識を向け変えているような言葉が、年々増えているように感じる。
▲この11年間で「風の電話」の受話器を取った人はのべ4万5千人にのぼるが▼
・訪れる人は、震災の遺族だけではない。
ここでわだかまりをはき出すことで、心の重荷を下ろすような気持になるようだ。
なぜそれが可能なのかの整然とした論理はないが、ただ「自分や受話器の向こうの相手に向けた夢や希望」、「笑顔でいて欲しい」、「前を向きたい」そんな気持ちに「風の電話は寄り添う「心のインフラ」なのかもしれない。
= 人々が関わって意味持つアート まちの復興にも =
▲世界各地から、「風の電話をつりたい」という相談がきているそうですね?▼
・はい、でも電話を置くだけではだめで、周囲の環境<つまり>「場の力」が大事だと考えてている。
▲風の電話は、失った人の思いをはせながら、自分の過去や現在に向き合うすべのようにも感じますが?▼
・そうです。
喪失の痛みから心が回復していくのと同じように、私はまちの復興に置いても亡くなった人の気持ちを忘れず、被災した過去に向き合い、後世へ伝えていかなければならないと思う。
例えば大槌は旧市役所庁舎を解体してしまったが、震災遺構として保存すべきだった。
解体されてしまった今は跡地を伝承の場としてどう使っていくか考えるしかない。
町では町民が自由に参加できる場を設けて議論している。
・私は津波の高さの壁を石やコンクリートで立てて、上から水を流す「水の壁」を提案した。
犠牲者が最後に見たのは巨大な水の壁だったはずだ。
それを再現することで、犠牲者の心の寄り添う、後世に語り継ぐ記念碑にもなるし、震災遺構に抵抗感のある町民も、アートなら受け入れられるかもしれない。
▲風の電話もパブリックアート、つまり公共空間の芸日作品として近年評価されているが▼
・パブリックアートという言葉は、国際的な賞をいただいた時に初めて知った。
それは、人々が関わることによって意味をもっていくアートだと私は理解している。
風の電話も庭も震災が起きて新たな意味をもった。
家族のため、自分のために作った場所が、今や心の復興を助け、人々の集う場所になっている。
・まちの復興を描くとき、私たちは明るい未来像を求めるが、道路や施設が整備されてもそれは復興とは言えない。
「人々がいて、その場が息づいてこそ」、ではないだろうか。
市街地は今なお空き地だらけだが、そこにアートを置き、音楽や演劇をすれば、このまちも様々な人々の伊庭氏になるかもしれない、それがまちの新しい個性となって、復興への道筋になるのでは、と思っている。
(下の写真は「無料イラスト」からです)
【対話を重ねた先に】
= 生産と消費 立場を越えて = 高橋博之氏(産直サイト「ポケットマルシェ」代表)
・震災後、岩手県が地元である私も初めて実感したことがある。
ある漁師との出会い<で>仕事を手伝った時、彼が取り戻そうとしている生業の日常は、私が魚を食べるという日常につながっているのだと分かったかった。
・その経験から、生産者と消費者をつなぐ「食べる通信」と、さらに発展させた「ポケットマルシェ」を立ちあげた。
・生産地の東北と消費地の東京の関係をかき混ぜ、こうした価値観の変化のうねりを起こそうとしているが、私の活動は国全体で見れば、まだ「のれんに腕押し」程度だ。
価値観の変化のために大事なのは、当事者意識だ。
= 結論ありき 納得得られず = 松岡俊二氏(早稲田大学教授)
・原発の話になると推進派と反対派が一歩も譲らず、多くの人が「関わるのはやめよう」となりがちで、私も福島第一原発の事故前は原子力の研究を避けていた。
その結果、社会全体が事故は起こらないという「安全神話」に乗っかってしまった。
事故前も津波対策が必要だと訴えた人はいたが、ちゃんと考え対話していたら対策が出来ていたのではないかと思う。
・大切な事を一部の専門家や政府だけに任せていけない、これは福島の事故の最大の教訓だ。
それを繰り返さないため、2018年から住民や専門家、政府、自治体の関係者で福島の復興を考える「ふくしま学(楽)会」を開いている。
2019年には住民や専門家で福島第一原発の廃炉の将来像を考える「1F廃炉の先研究会」をつくった。
・1979年の米スリーマイル島原発の廃炉では、下流域のランカスター市と米原子力規制委員会(NRC)が処理水の放出をめぐって裁判で争い、蒸発処理することで和解をした。
これを踏まえ、NRCでは地域との対話のための委員会を設置、会合は市民や科学者らが参加し、13年間で78回開かれた。
市民の提案で被曝の健康影響評価が話し合われるなど活発な議論がなされた。
・日本政府は昨春、原発処理水の海洋放出を決めたが、住民の話を聞いたのは、専門家会議で放出の方向を固めた後だった。
住民の声を決定に反映できる進め方ではなく、「放出ありき」と言わざるを得ない。
今も多くの人が納得していない。
<政府のやり方は常にこのような方法で、これが「合法的だ」と思っているのではないでしょうか?>
・政府や東電は住民との対話の経緯が少なく、その重要性を十分理解していないように見える。 ← 全くその通りだと思います!
廃炉についての議論も言葉の解釈や持つ情報が人によって異なり、かみ合わないことがある。
それぞれの事情を率直に言える場をまず作り、地域をよく知る住民と専門家、政府、行政が「学び合う努力」をすれば、意味のある対話に育ってゆくのではないか。
【揺れながら迷いながら】 3日ほど前のTV番組より
当番組は3日ほど前に「録画」しまして昨日見たのですが、今年の3月の番組の再放送です。
ネットでやっと探しました番組紹介には・・・
『「揺れながら 迷いながら 〜民俗研究家・結城登美雄が見た三陸〜」
「最近、ようやく揺れが収まってきた気がする」。
船も漁具も家も、そして家族も亡くした漁師たち。どう生きていくか、絶望のふちで迷い揺れた人たちが、もう一度、三陸の浜で生きようと腹をくくるまでに、どんな葛藤があったのか。
そして今、漁師たちはどんな思いで、浜で暮らしているのか。
仙台在住の民俗研究家・結城登美雄が、震災直後から石巻市十三浜、唐桑町、南三陸町などを歩きカメラに収めてきた、漁師たちの心の記録。』
とあります。
上記では番組内容が分り難いと思いますので、覚えています事をサラリとかいて見ますが、間違っているかも・・・?
三陸の海岸をカメラ片手に小まめに回られている「結城登美雄氏(民族研究家)」を追いかけたドキュメンタリー番組でした。
結城氏はバブル期に「広告会社社長」として成功を収めた方ですが、「自分はこんな生き方で良いのか」旨のことを思い、会社を畳んで全国行脚の旅に出られました。
結城氏は東日本大震災前から三陸の海岸を頻繁に訪れていました。
番組では特に震災後の結城氏の足取りを取り上げていました。
結城氏は地元住民に寄り添い、色んな企画や提案をされる「やさしい心根」が伝わって参りまして、大変良い番組でした。
結城氏のプロフィールもネットでは。。。
『結城登美雄 : 1945年旧満州(現・中国東北部)生まれ。 フリーライター、民俗研究家。 山形大学人文学部卒業。
宮城教育大学、宮城農業実践大学校非常勤講師。
仙台で広告会社経営に携わったのち、東北各地をフィールドワーク。
食の担い手と地域のあり方について考察を深めている。
「地元学」の提唱や「食の文化祭」などさまざまな地域づくりの活動に対し、98年「NHK東北ふるさと賞」、2005年文部科学省「芸術選奨芸術振興部門」賞受賞。
現在は活動を全国に広げ、北と南、海と里の産物の物々交換や地域で農業を支える活動など、東京に頼らない地域のあり方をめざして、人と人、地域と地域を結ぼうと動き回っている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 』
とあります。。。
【つくしィ~!】
今日も昼食後の午後からまで「ショート往復+中池・用水南端」のお散歩でした。
脇道へ入りますと「梅の花」が・・・ふーたんは「今年も(梅の実が)採れるかなぁ」と。 農道へ参りますと土手には「つくし」が・・・やはり春ですねぇ~! o(^-^)o
同じ土手の下の休耕田(?)には「ムラサキケマン(?)」が・・・
(P.S.:ムラサキケマンではなくて「ホトケノザ」だそうです。。。3月29日「登山リーダー」より)
残念ながら下池でも中池でも「伊吹山」はボンヤリで、中池には鴨もいませんでした。
ふーたんは「用水北端まで」と申しますのでグルリと回って帰宅しました。
【我が家も春めいて・・・】 今日パチリしました写真でございます!
玄関の「沈丁花」は花が咲き始めまして、良い香りが広がっています。
まさに「匂ひ濃くして~」でございます o(^-^)o
猫の額では「白木蓮(はくもくれん)」ですが、蕾がだいぶ膨らんでまいりましたヨ!
ふーたんの野菜栽培のプランターの端っこには「むすかり」でしょうか?
でも、南和室の南廊下にまだ入れてあります「アロエの花」は終わりました。
(鉢を外に出しましたら「お礼肥」を・・・)
さて、明日は二人とも「医院(ふーたんは歯科、私は眼科)」でございます。
では、皆さん!
また明日でございますゥ~! (☆▽☆)-
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