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from: ぽっぽさん
2022年05月30日 08時58分25秒
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続・沖縄返還50年 その1!
皆さん、おはようございます o(^-^)o
今日のことは別のトピックといたしまして、「沖縄返還50年」に関しますお隣からの新聞記事やTV番組から書かせて頂きますネ!
◆◆ 続・沖縄返還50年 その1! ◆◆
5月24日のトピックに・・・
>まだまだ「16日の未読の記事」や録画しました「沖縄返還50年の番組」がありますので、"これは!"という記事・番組がありましたら「続~」としてご紹介いたしますネ!
と書きました。
16日の未読記事からは目に留まりました記事がありませんでしたが、その後の新聞記事や番組がありますのでご紹介いたします。
【交差する抑圧を見つめる】 林 香里氏(東京大学大学院教授)
ー お隣からの5月下旬の新聞からです。 ー
・5月15日は沖縄「復帰」50年の日、
「『日本復帰』50年というクソのような節目に沖縄で起こっていること(目取真俊氏のブログ)」で、目取氏は、50年経った今も新たな米軍基地が作られつつあることに慣り、これを「クソのような節目」と呼んだが、この激しい怒りの言葉はどこから来るのか。
近年脚光を浴びている「インターセクショナリティ(交差性)」と言う思想に依拠する。
・「インターセクショナリティ」とは、いうなれば「差別をよく見よ」ということ。
発端は米国の黒人女性たちの怒りだった。
彼女たちの身の上には、「女性差別と黒人差別」など複数の差別が折り重なって作動する。
その抑圧は、白人女性が受ける抑圧とは本質的に異なると訴えた。
・沖縄の現状を理解するには、国内のどこにもまして、この見方が重要に思う。
内閣府の資料によると、沖縄県民1人あたりの所得は全国最下位。
母子世帯出現率、非正規の職員・従業員率、高校中退率などもいずれ全国1位。
こどもの対照的貧困率も29.99%と全国平均の13.5%の2倍以上だ。
こうした状況には米軍占領の歴史と基地問題が深くかかわる。
・「復帰」50年というこのタイミングに、沖縄が各種の抑圧の交差を背負い、多くの住民が不安定は暮らしを強いられているという現実をいま一度、<本紙の読者と>共有したい。
・沖縄が直面する抑圧を「インターセクショナティ」の思想に倣<なら>い、「よく見て」いくと、さまざまな位相が浮かび上がる。
たとえば「主権」や「自治」。
ウクライナ侵攻で見られるとおり、これらはときに武力衝突を招くほど重要な概念なのに、沖縄の文脈では軽視される。
「熊本博之氏(地域社会学者)」によると、名護市の辺野古基地建設は「国防及び外交に関する問題」であるから、生活環境の悪化が予想されても、名護市民に建設の是非を決定する権利は与えられていない。
<ひどいですねぇ! やはり「日米地位協定」なんですかねぇ?>
・今年1月の名護市長選挙における名護市民の選択肢は、辺野古基地建設阻止を諦めて交付金を受け取る政府寄りの候補化、阻止の鹿野線が低くても建設を認めず、交付金に頼らないと表明していた候補かのどちらかだった。
<名護>市民は前者を選んだが、熊本氏は協調的な市長が誕生したときだけ名護市民の理解が得られたかのようにふるまう政府および与党の続禅的姿勢を批判するとともに、この状況は国策がふりかかる土地ならば「日本のどこでも起こりうる」と危惧する。
・米軍基地と住民自治の権利に関しては、むしろ国外からの示唆が重要である。
「親川志奈子氏<琉球民族独立総合研究学会理事、沖縄大学非常勤講師>」は著書で、グアム政府の自己決定委員会委員を務めた「M・マニブサン」らを沖縄県平和祈念資料館に案内した時の経験を記す。
マニブサンは、戦後の米軍沖縄統治の展示を見ながら、沖縄もグアム同様に植民地主義から解放され、自治を議論、選択する権利を持つ「国連の非自治地域リストに登録されるべき」であり、そうなっていなかったのは「アメリカの傲慢であり怠慢だった」と指摘したという。
・「山里絹子氏(社会学者)」は、著書で1945年から27年間続いた米軍統治下に、沖縄の若者が米国に留学する「米留制度」があったことを取り上げている。
山里氏は「米留組」の留学生たちが「米軍の親衛隊」と誹(そし)りを受け、戸惑いながらも沖縄と世界の架け橋に貢献したと再評価する。
「米留組」の中には、元<沖縄>知事の「大田昌秀氏」もいて、太田氏は米国で民主主義とは何かを学んだ経験をもとに、米軍基地問題の解決を訴え続けた。
・インターセクショナリティの概念は、ひとつの差別で完結しない輻輳(ふくそう)的な抑圧の構造を丁寧に検証する。
「復帰」から50年経ても「本土並み」が実現しない沖縄のことを、私たちは知った気になっていないだろうか、「抑圧の交差」という視点が、見直しを迫る。
と、かなり難しい内容でございました。
ここからは、「沖縄返還50年」関連の「TV番組」からでございます。
【沖縄ソウルフード】 5月27日のトピックに書きましたが、ここへ移転しました。
24日の「沖縄返還50年 その5!」の末尾に・・・
>まだまだ「16日の未読の記事」や録画しました「沖縄返還50年の番組」がありますので、"これは!"という記事・番組がありましたら「続~」としてご紹介いたしますネ!
と書きました。
先ほど(午後8時10分頃)まで)、沖縄返還50年関連のTV番組で「きんくる ~沖縄金曜クルーズ~ シリーズ本土復帰50年 第4回 沖縄ソウルフード・ジャーニー」を見ていました。
番組紹介をネットでは・・・
『Aランチ、すき焼き、沖縄そば、島豆腐...本土とも外国とも違う沖縄独特の料理は、 戦後のアメリカ統治下から復帰直後の状況を反映して生まれたものが多い。
多様な料理を出す飲食店は基地内で働いていた人びとが開業したところが多く、 基地に関わるさまざまな地域出身の人びとの注文から生み出されたメニューや店のたたずまいが歴史を刻む存在になっている。
食文化を軸にたどる半世紀はまさに復帰前後~現在までの沖縄の生活史そのものなのだ。
一方で、沖縄独自の食文化の担い手が高齢化したり、コロナ禍で飲食店が逆境に追い込まれたりと復帰50年の節目は大きな転換点という面も持つ。
今こそ記録したい沖縄の食文化とその裏面史をめぐる「ソウルフード・ジャーニー」へ、ようこそ。』・・・とあります。
私は食に関しましては「 (TωT)」ですので、コメントは控えますが「沖縄の食文化」は、沖縄の歴史そのものだと思いました。
米国の統治下以前の食文化や、海外への移住などで色んな国々の料理を「祖国(沖縄)」へ持ち込んで発展していった料理などなど・・・
まさに沖縄の食文化は「チャンプルー」だと思いましたヨ o(^-^)o
「ソウルルード」をネットでは・・・
『ある程度以上の歴史をもち好意的な思い入れをもたれている、その地域特有の食べ物のこと。
もともとソウルフードとは米国南部の黒人の伝統的な料理のことだが、特に2000年以降の日本ではソウル(魂、精神)との意味から派生し、各地特有の郷土料理などを指すことがほとんどとなっている。
北海道のジンギスカン、山形の芋煮、東京・月島のもんじゃ、大阪のたこ焼き、香川県の讃岐うどん、博多の豚骨ラーメンなどの有名なものから、全国的にはほとんど知られていない地場料理や菓子類、特産物などまで幅広い食べ物に対し用いられている。』
とあります。
(下の写真は初めて沖縄へ参りました1993年の「おそば屋さん(おそらく糸満市)」です。
当時の「大学生さん」は、再会しました30年後には「高校の先生」になっておられまして、「沖縄そばを食べたい」と申しましたら下の写真のおそば屋さんをご案内して頂きました)
【よみがえれ 沖縄の魂 〜首里城復元〜】 2020年放送の「再放送」です。
『アナザーストーリーズ 運命の分岐点「よみがえれ 沖縄の魂 〜首里城復元〜」<2022年5月中旬・再放送>』を録画で見ました。
番組紹介には・・・
『「首里城は、人をつなぐんです。」
インタビュー場所に選んだレストランの女性オーナーが、私にそう教えてくれた。
でもどうやらそれは『恋の縁結び』などとはまた違うらしい。
今回のテーマは『首里城再建』。
昨年秋、城内で起きた火災により首里城主要部は全焼した。
実はこの城、過去に4度焼失しており、その度によみがえってきた。
前回は太平洋戦争の戦火によるもの。
戦後、沖縄の人々は城の再建を強く求め、沖縄返還後の80年代にようやく首里城再建プロジェクトは動き始めた。
王国時代の首里城の情報を探し求めた歴史学者の奔走や、建築材をめぐる台湾の人々との交流、そして国王の威風を取り戻すため身も心も捧げた夫婦の愛の物語などなど...まさに【首里城がつないだ人の縁によって復元された首里城のアナザーストーリーズ】をお送りする。
女性オーナーに番組趣旨を説明した後、雑談をしていると驚きの事実を知る。
彼女はなんと、現在私が住む場所に建つ大学に昔通っていたのだという。
絶句、そして「首里城のご縁ですねぇ」と二人で笑い合う。
そしてふと窓から見える首里城の手前に目をやると、何やら見覚えのある古民家の食事処が。
それは10年前に亡くした父と行った【最後の家族旅行】の【最後の夜】に訪れた場所だった。鳥肌が立った。「首里城は、人をつなぐ」。私は首里城から、特別なサプライズプレゼントをもらった気持ちになった。
首里城は今"見せる復興"と題し、復元工事を一般公開している。皆さんにもぜひ、首里城に足を運んでもらいたい。思わず、何か大切なご縁に巡り合えるかもしれないので。』・・・とあります。
「首里城の火災」をネットでは・・・
『令和元年10月31日未明に、正殿内部から発生した火災により、正殿をはじめする9施設が焼失しました。
火災は約11時間にわたり燃え続けた後に、鎮火されました。
火災後には、警察及び消防による調査が行われましたが、火災原因の特定には至りませんでした。~』・・・とあります。
「首里城焼消」につきましては、ここ「たんぽぽ」の2019年11月1日にトピックを立てていますので、一部をコピー致します。
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10月31日午前2時頃、正殿から出火のようで午後1時までの約11時間燃え続けたようです。
「沖縄フリーク」の私にとりましては大ショックでございます(/Д')
今回被害に遭いましたのは、私どもが取っています新聞によりますと、『「正殿」「南殿」「北殿」が全焼で、「黄金御殿(くがにうどぅん)」「書院・鎖之間(さすのま)」「二階御殿(にーけーうどぅん)」「奉神門(ほうしんもん)」にも燃え移った』とあります。
(勝手ながら新聞記事より「首里城火災の概要」を)
新聞記事の続きには・・・
・首里王国の中心地だった首里城は太平洋戦争ですべて焼失。
その後、主な施設が復元された。
・政府はパリ・ノートルダム寺院の火災以降、文化財の防火対策強化を呼び掛けて
いたが、首里城の復元建物は文化財に指定されておらず、支援の対象外だった。
などとあります。
ネットで首里城を見てみますと・・・
『首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里金城町にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾である。現在は国営沖縄記念公園の首里城地区(通称・首里城公園)として都市公園となっている。
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。
戦前は沖縄神社社殿としての正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態だった。
1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。
1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。
1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。
その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある。 』
とあります。
私ども夫婦はダイビング目的で1993年に初めて「沖縄」へ参りまして、今年の2月の石垣島旅行が20回目になります。
(ふーたんは、職場の同僚ともう2~3度「訪沖」しています)
再建されました首里城の各建物などは「文化財」ではないかもしれませんが、沖縄県民には「心の支え(熊本県民の熊本城のようなものでしょうか)」ですし、私共夫婦にとりましても初めての訪沖で、再建して間もない首里城には強烈なる印象がありました。
昨日のトピックに書きましたごとく、外付けハードディスクが故障(ご臨終?)ですので、2016年以前のデータを出すことができません。
しかし幸いなことに、「マイピクチャー」内に「(再)沖縄」のフォルダーに若干の写真をコピーしてあります。
その中から「在りし日の首里城」を偲びたいと思います (TωT)
<1993年6月> 初めて夫婦での「訪沖」でした。
左上が「守礼門」、右が「正殿」です。
左下は「正殿」にあります「阿吽(あうん)」の竜を合成しました。
右下は「歓会門(かんかいもん)」です。
「2019年11月1日のトピック」はまだまだ続いていますが、とりあえずここまでとします。
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【50年目の告白 "安保の裏方"が見た沖縄】 昨日「録画」で見ましたTV番組です。
番組内容をネットでは・・・
『沖縄が本土に復帰して50年。
日米両政府の方針の下、アメリカ軍基地をめぐる地元との調整を担った「防衛施設庁」の元職員を徹底取材。沖縄の復帰は何を意味したのか。
アメリカ統治下にあった沖縄の本土復帰から50年。
かつて日米両政府の方針の下、沖縄の人々との調整に当たった組織があった。
「防衛施設庁」。
日米安全保障を下支えするいわば「裏方」として、土地の契約や事件事故の対応など基地負担に関わる実務を担い、難しい判断を迫られ続けた。
今回、復帰の当初から実務を担い続けた防衛施設庁の元職員たちを徹底取材。
内部資料も独自に入手。沖縄と日米安保の狭間で何を見てきたのか。』
とあります。
私は「防衛施設庁」をこの番組で知りました。
そこに勤めておられた職員さんは大変微妙な立場だったようですね。
元職員さんの証言などで「アメリカ統治下」の沖縄の実態が明らかになり、番組を見た後、愕然と致しました。
まだまだ「私の知らない沖縄」があります。
まだ見ていません「録画番組」も残っておりますので、徐々にお伝えしたいと思っております。-
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