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  • from: ぽっぽさん

    2024年10月15日 10時27分33秒

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    北前船ェ~!\(^o^)/

    皆さん、こんにちはァ~!o(^◇^)o
    BGMは朝からユーチューブで「クラシック音楽」を聴いています。
    さてさて、お耳なんですがァ~!
    昨夜は「耳鳴り+頭痛」で頭の中がパニック状態でございました。
    でも、今朝は「虫の音がやや元気!」ってとこまで治まって参りましたヨ! (☆▽☆)
    他のお三人様は静かにされてお見えでございます、ハイ!
    (ふーたんの「目の腫れ」は後述致します)

    【北前船ェ~!\(^o^)/】 TV番組「英雄たちの選択」でございますゥ~!
    昨夜「録画:英雄たちの選択 北前船に賭けた男たち 〜工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛〜」を見ていましたが、途中で眠ってしまいましたので、今朝改めまして見直しました。

    ネットでの番組紹介には・・・
    北前船<きたまえぶね>の帆を改良した工楽松右衛門と蝦夷地の漁場を開発した高田屋嘉兵衛
    江戸時代、大坂と蝦夷地を結ぶ北前船で、海運の一大変革をもたらしたふたりの船乗りを追う。

    松右衛門は、まれにみるアイデアマンだった。
    北前船の帆を改良し、強風でも破れない帆を発明し、航海日数を半分に短縮したといわれる。
    また、港湾の整備のため、独自の工作船を発明している。
    この松右衛門に注目したのが、蝦夷地開発に意欲を持っている高田屋嘉兵衛だった。
    一緒に、幕府から要請のあった蝦夷地の開発に取り組まないかと声をかけた。
    日本の海運史に、大変革をもたらした海の男たちの挑戦をたどる。』
    ・・・とあります。
    番組では司会の磯田氏が「北前船は物資ばかりではなくて、文化も運んだ」旨のことをおしゃっていました。

    その「北前船」もネットで見ますと・・・
    『「北前船(きたまえぶね)」とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称。

    買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。

    当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。
    上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。
    西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

    畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。
    この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。
    この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、畿内が経済だけでなく政治的にも日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。』・・・とあります。

    私は北前船と申しますと「越中おわら風の盆」が頭に浮かびます。
    あるサイトには・・・
    【北前船とおわら風の盆】
    黒潮と北前舟が運んだ日本民謡の源流-6「越中おわら節」
    港町ではない富山の山奥に伝承される「越中おわら節」の源流が、なぜ「カチャーシー」なのだと疑問の意見が出るだろう。
    日本海を北上する北前船は港々に碇を降ろす
    越中沖に到達する頃が、丁度、秋の入口になる。
    夏から秋にかけて日本列島は台風のシーズンである。 
    台風を最も恐れるのは船乗り達で、特に沖縄の船乗り達は台風銀座で育っている。
    台風の気配を感じたら一目山で山の中に逃げ込んでしまう。
    富山の川を遡り八尾の宿に逃げ込む。
    そこで台風が過ぎるまでおとなしく待つことになる。
    宿場町八尾の宿で、船乗り達は港港の遊郭と同じように「カチャーシー」を歌い踊るが、山の中とは言え台風のど真ん中、何時、吹き飛ばされるか知れない遊郭の部屋で、ちびちびと酒を交わしながら歌と踊りはスローに変化する。
    女達はソレを覚えて村人達に伝える。
    四方を山に取り囲まれた小さな村の中で、歌と踊りはひっそりと歴史を刻んだ。

    「越中おわら節」を歌い踊る八尾の祭り「おわら風の盆」は、昔から必ず台風が来る日と言われてきた二一〇日に「風封じの祭」として始まった。
    面白いことに「越中おわら節」の楽器編成は、現在も伝承されている琉球古典音楽と同じ三味線、太鼓、鼓弓である。 
    一九九八年の東京国際フォーラムでの「杜の賑い一五周年記念」、二〇〇七年新宿コマ劇場での「これぞ日本の祭り」で、この伝播の歴史を実際に舞台で再現した。
    「カチャーシー」が同じテンポで「ハイヤ節」に変化し、さらに鉦や太鼓が入って「阿波踊り」に入れ替わる。 <以下省略>』・・・とあります。

    また、我が蔵書「越中おわら社会学(北日本新聞社)」内、「北前船」の項に・・・
    日本海側の港町は北前船ブームに沸いた。 <中略> 
    北前船は大阪—松前間一往復で、物資の交流だけでなく、多くの歌謡の類も運んだのである。 <以下省略>』・・・とあります。

    越中オワラ節(えっちゅうおわらぶし)」もネットでは・・・
    源流は不明であるが、本州の日本海側の港町で生まれた酒盛り唄で、七七七五調のしまい五文字の前に「オワラ」ということばが挿入される唄が、神通(じんづう)川、井田川経由で江戸時代後期に八尾へ伝えられたと思われる。』・・・とあります。
    (下の写真は「越中おわら社会学(書籍)」と「明治村でのおわら(2005年)」です)

    【ふーたんの目の腫れ】
     私が通っています「眼科医院」へ参りました!
    ふーたんのお目々の腫れは昨日よりはマシにはなりましたが、ふーたんが「(眼科の)病院へ行きたい!」と申しますので、午前11時過ぎに家を出まして、私が通っています「眼科医院」へ参りました。
    (ふーたんが診察してもらっています間に、私は駐車場の車中で登山リーダーから頂いた「新聞記事」を読んでいました。
    約1時間後にふーたんが戻って参りまして、「モノモライだった。 2種類の目薬を貰った」と。。。
    一日も早い完治を!\(^_^)/)

    帰宅後、ふーたんが「(生協の)トラックが来る前に(ノウゼンカズラの枝を)切ってよね!」と。。。
    大急ぎで道路に出ています「4本の枝(下の左写真の「矢印」)」を切り取りました。
    (グッドタイミングで剪定後に生協のトラックが参りましたヨ! o(^-^)o)

    昼食後しばらくしまして「資源ゴミ(火曜日は「資源ゴミ出しの日」です)」を出しに行って参りました。
    午後3時過ぎからはベッドメーキングをしまして、二人で「録画:相棒(2本)」を見ていました。

    ということでございまして、今日も「何とか無事に」終わりそうでございますゥ~!
    実はァ~!
    毎年「渡米後」には「温泉(昨年は「9月8~9日に下呂温泉」)」へ参りますが、今年は下のトピックにありますごとく「ゴタゴタ」がありましたので、今月末か来月上旬にでも・・・と思っております。
    (ふーたんがアレコレと計画を立ててくれていますヨ! o(^-^)o)

    P.S.:夕食後,[HISTORYへの追記」を始めましたけど、「9月7日(まだ渡米中、メモ帳にて)」までがやっとでございましたァ~! ふわぁ~~~!

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