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from: 22世紀さん
2010年12月31日 23時46分13秒
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スクープ
週刊文春 12月30日・1月6日新年特大号より転載
イチローと弓子夫人 資産管理会社
5億2千万円をドブに捨てた〝創価学会霊園計画〟
日本百名山に数えられる妙高山は、〝須弥山〟という別名をもつ。仏教で、世界の中心に聳える果てしなく高い山という意味だ。
その麓に広がる新潟県妙高市の土地、約百二十万平米に創価学会の専用霊園を建設しようと、三年ほど前から関係業者が計画を練っていた。そこに「IYIコーポレーション」(以下、IYI社)という会社が加わった。IYI社の代表取締役は鈴木一朗氏、すなわちイチローである。弓子夫人も取締役に名を連ねている。社名のアルファベットは、イチロー夫妻と愛犬の一弓のイニシャルから取られた。なぜイチローが創価学会の霊園建設に参画しようとしているのか――。
その前に、IYI社が設立された経緯から説明しなければならないだろう。
01年に日本人野手としては初めてメジャー入りした、シアトル・マリナーズのイチローは、今季ついに「十年連続二百本安打」という前人未到の記録を達成した。トッププレーヤーとして活躍を続ける彼の年俸は右肩上がりだ。
04年、四年で四千四百万ドル(約39億円)だった年俸は、07年に五年で9千万ドル(約81億円)という破格の契約に更改された。ざっと計算してみても、イチローはメジャーで、総額一億四千八百万ドル(約133億円)の報酬を手にしている。
「五年間で約81億円もの大金を支払えないマリナーズは、うち約22億5,000万円を引退後に年5.5パーセントの利子を付けて、分割で支払う契約にしている」(メジャー関係者)
本業だけでなく、副業収入も破格で、一本につき「1億2,000万円以上」(代理店関係者)といわれるテレビCMの契約は7本。
収入が莫大であれば、当然ながら、節税対策や資産運用も必要になるのだろう。イチローも例外ではなく、米国に資産管理会社を持っている。05年3月、カリフォルニア洲マリーナデルレイ市を本店とするIYI社が設立された。
「基本的にIYI社は、日本での副業で得た収入を管理しています。節税のために、法人はネウ゛ァダ洲に登記されています。主に不動産への投資を行っていますが、弓子さんがシアトル郊外のベルビューで開業している『エンサロン』という美容サロンもIYI社が手がけています」(マリナーズ関係者)
ロサンゼルスで、イチロー夫妻の不動産投資が話題になったことがある。07年3月のことだった。
「LAのダウンタウンにあるコンドミニアムを夫妻名義で購入したんです。1925年に建てられたナビスコの工場を改装したもので、プールやスポーツジムが完備されており、ベッカムも同じ物件を購入しようかと見学に来たのは有名な話。イチローが購入したのは、最上階のペントハウスで、220万ドル(約1億9,000万円)でした。ちなみに映画俳優のウ゛ィンセント・ギャロも同じコンドミニアムに2部屋を持っています」(現地の不動産関係者)
またIYI社は、確認できただけでも、06年からカリフォルニアで6軒の建物を購入している。節税対策のためか一部の物件では借り入れをしているが、総額で1,800万ドル近く(約16億円)をつぎ込んでいる。
「大手ドラッグチエーンのCVSが入っている商業ビルを持っていますが、あとは全て、住宅物件です。メキシコ系、アジア系など様々な人種が住むモーターアベニューには、20部屋近くあるアパートを3軒も所有しています」(同前)
さて、「創価学会霊園計画」に戻ろう。
関係者の一人が語る。「07年の秋から、都内の業者らがプロジェクトに向けて動き始めました。創価学会は富山、長野、新潟の三県に霊園を持っていないので、新潟県内でも建設話がたびたび浮上しています。97年には旧小国町、04年には旧能生町で霊園計画が持ち上がりましたが、住民の猛烈な反対で中止に追い込まれました。 -
from: 22世紀さん
2010年12月31日 00時43分55秒
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池田大作「権力者」の構造
戸田城聖と石田の母
石田の家族はほぼ全員が創価学会の幹部だった。母親・つかは本部婦人部長、妻・栄子は青年部参謀、妹・明子は元女子部第三部隊長で秋谷城永の妻、弟・幸四郎は男子部第47部隊長(のちに、公明党委員長)である。だが、彼らは閥をつくるには非力で、単に有力な家系にとどまっていた。
石田自身の権力はいうまでもなく強大で、また若くして、中島治雄と田島文枝、中村慶和と森本滋子の媒酌を行うなど、信望にも欠けていなかったが、彼は無欲で生真面目に過ぎたし、彼の信仰は強固で、外に対して戦闘的だったが、内部の権謀術数には一本調子で、よく耐えるものではなかった。
このような石田の人柄のよって来る由縁は、彼の生まれと昇進のしかたに求められるかもしれない。
石田の家は秋田県鹿角郡の旧家で、高額納税者だったが、戦後、どのような理由によるものか、一家は上京し、小岩にアパートを経営した。その一室に和泉覚夫妻もいた関係で、一家で最初に入信した母親・つかは、入信前から戸田のことを聞き知っていた。
つかは戸田の一周忌法要で、入信当時の追憶談を語っている。聖教新聞にはまれな、味のある話と思われるので、やや長くなるが引用してみよう。
「はじめて私が先生(戸田)にお話したのは、25年の秋ころと思います。先生が一時、理事長を辞されておられましたが、私は先生ほどの方がなぜ事業に失敗なさったか、どうして理事長を辞退されたのか、それをお聞きしたくてしようがありませんでした。
ときどき先生がお酒を飲んでおられるのを見かけていましたので私は自分の常識で判断しまして、いくら先生でも、あんなにお酒を召し上がるから、頭の具合でも悪いんじゃないかと思ったのでございます。(笑)それで、ぜひ先生に大酒をよして頂き、もう一度理事長の席につかれ、学会の指揮をとって頂きたい、といつも思っていたのです。
ある日、先生が私のアパートにいられた和泉先生の処へみえたので、絶好のチャンスと帰られるとき玄関で呼び止めまして『お酒を召し上がっていますか』とお聞きしました。先生はあっさり『ああ飲んでおりますよ』とおっしゃったのでがっかりしたんです(笑)。
『もう酒どころじゃないよ』といって頂きたかったんです。そこで私は、お酒を飲んではいけませんよという意味のことを申し上げたんです。
ところが先生はただお笑いになって、それにはなにも答えて下さいませんで『私もネ、いままで自分のことにかまっていましたけれども、これからは本当に困っている人の味方になっていくつもりですよ』と、こうしみじみおっしゃったのです。
そうして『あなたも弱くては大変ですね』(つかは結核を病んでいた)といわれ、お数珠をもって、私の首から背中をさすって下さった。私はお話をするのもはじめてですので『もう先生結構でございます』(笑)とただ恐縮しておりました。あとで思いますと、先生は、ご祈念をして下さったのだなあと思いました。
そのときは、まだなにかいいたりなかったように思いまして、こんどはお手紙をさしあげたんです。先生はお酒のことにはなにもふれず信心の面でお答え下さいました。(手紙の内容略)
それからほど過ぎてから先生が『奥さん、あんたはまあ正直でいいよ、酒をのむななどといったのは、あなたばかりだ』とおっしゃって下さいました。『あんたもね、もういつまでも、オツにすましていないで、ぼくたちの仲間に入んなさいよ』と、こうおっしゃって下さったんです。
このことがあって、私も先生のお側近くでいろいろとご指導うけるようになりました。焼鳥の味をおぼえたのもそれからでございます。(笑)女というものは、ああいう処へ入って食べるもんだと思っておりませんでしたが、先生が目黒駅の焼鳥屋によくお寄りになって、「まあ、奥さん食べなさいよ』とおっしゃって下さる。柏原(ヤス)先生など、よく召し上がっていらっしゃったようです。(笑)それに子供たちの結婚についても、いろいろとご心配をいただきました。
大幹部の方々が、よく先生にしかられていらっしゃったのですが(笑)そこで私も、一度涙の出るほどしかられてみたいと思いました。先生は私なんか当にしていらっしゃらないんだなあと、ちょっと情なく思っていたのです。でもしかられる時期が来たのでございます。あの参院選のときでした。柏原先生を落したということで、まあ先生にしかられ通し。あのときほど会長室のドアーの重かったことはございません。(以下略)」(『聖教新聞』昭和34年4月10日)
戸田は、つかの世間慣れしていない親切に自分の住む世界とは別の、好意的な物珍しさを感じ、彼女にかわいい女を見ていたのかも知れない。写真で見るかぎり、往年の明眸皓歯といったおもかげがある。組織家として別段優れていそうもない彼女を、理事のすぐ次席の本部婦人部長につけたのも、戸田の彼女へのほのかな感情のせいだったとも考えられよう。戸田はすぐれた指導者ではあったが、その人事に、気まぐれや思いつきが混入すること皆無というわけではなかった。
また戸田は石田をも息子のような気持ちで見ていたのではなかったのか。石田は優秀な幹部に違いなかったが、そのめざましい昇進に母親の存在がまるで無関係だったとはいえまい。が、むしろ逆に、母親の存在が石田の野心を損ない、彼を自足させたというマイナス面の方が大きかったかも知れない。少なくとも石田は池田のような人間関係の飢餓状態にはなかった。
石田は少年時、池田とちがって級長、副級長をつとめ、秋田県大館中学、芝浦高専へと進んだが、学校を出ても就職しようとはせず、毎日、江戸川区平井の加藤六段道場で将棋をさしていた。母の信心には反対し、折伏にきた和泉夫妻を追い返したこともあった。
が、昭和25年11月に自らも入信し、一週間後に戸田と会った。戸田は一度会ったきりの石田に見込むところがあったのだろう、翌26年3月に突然、彼を呼び出し、聖教新聞の編集をまかせた。以後、石田の信仰と出世は聖教新聞とともに進んだ。今日400万部を発行し、三大紙に迫る同紙の基本はすべて石田によって作られた。彼は出世を渇望しなかったが、よき理解者だった戸田の引きで、幹部間随一の昇進を遂げた。
『御書』初版が発行されたとき、戸田は、
夫婦して 御書つくらんと 生れきし
700年の 今日ぞうれしき
との歌を石田夫妻に贈った。また彼を九州総支部長に登用する前、①人間が甘くて何の話でも信用する ②性の悪い人、良い人の見分けがつかぬ ③計画にとらわれて先輩に相談しない、という三点を指摘し、彼を叱ったという(『聖教新聞』昭和30年1月1日、昭和34年5月14日)。が、戸田が、こうした間の抜けたとはいえ、一面では人の良さをも物語る欠点を持つ石田を愛し、重用したことは、彼の青年部主任参謀、小岩支部長、理事、九州総支部長といった経歴がなにより雄弁に証している。
かりに戸田が今すこし永らえていたなら、はたの者がどのように非難しようと、石田を後継者に指名しただろう。そして石田が会長になっていたなら、創価学会は華々しさに欠けても、いかにも宗教らしく発展しただろうし、電話盗聴や替玉投票、出版妨害などを少なくとも引き起こすことなく、世間の風当たりも弱まっていたにちがいない。
が、戸田の死後、彼の重用がすぎたために、石田の庇護者はなく、また彼には池田の持つ粗野なまでの自己主張も野心もマキャベリズムも乏しかった。-
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21世紀、
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from: 21世紀さん
2010年12月29日 20時52分25秒
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「Re:YouTube - うそ?創価学会のご本尊ってニセモノなの?」
カルト宗教ゴロ、広宣部に反省なし。
投稿者:葬禍脱会運動(生粋嶽界二世) 投稿日:2010年12月29日(水)18時30分16秒 FL1-118-111-192-103.osk.mesh.ad.jp 通報 返信・引用
自分達が守ってきた 教義本尊義=僧宝義=三宝義
を、放り投げる ブン投げる 会員サン当人の教義観ってどんなモンなんですかね?。
☆「ここで『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた
御法主上人猊下であられる。また、御僧侶は全部猊下の弟子である。
法類である。ゆえに、いかなる理由があるにせよ、我々は御僧侶を大切にしなければ
ならない。」
昭和五十三年二月二十五日、池田発言
☆「本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人
に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、
日蓮大聖人様であらせられ、
唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。」
(昭和五十四年 五月三日)
そりゃそうだ!、当たり前。 開眼草木成仏の御法門を、700年伝持されるから
形木御本尊様を授与発行できるんだよ。
☆「御法主上人猊下に随順しない人は、どのような理由があるにしても、
もはや正宗の僧俗 ではない。これほど根本的な誤りはないからである。」
(昭和五十六年十一月二十四日)
御法主上人猊下に随順しない学会員、並びに、白馬論師は、正宗僧俗ではありません、
これほど根本的な誤りはないからであるよ。(笑)プププー(^3^)
☆「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。
その血脈相承の御法主上人に随順し
ゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。」(昭和五十七年一月二十四日)
☆「日蓮大聖人の仏法の教義は、
あくまでも御法主上人猊下の御指南こそ根本なのである。」
(昭和五十七年四月十七日)
☆「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、
代々の御法主上人が、
唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。」
(昭和五十七年七月二十四日)
下種三宝の内体の上から、唯授一人の血脈を本宗信仰の根本とし、
御法主上人様・管長猊下様の指南に信伏随従
すべきことを述べております。これらは、本宗伝統の血脈観であります。
昔の 学会員は血脈が通っていました!。
平成・新興宗派 創価宗会員は大御本尊を否定し、根本とせず、唯授一人、総別の二義を否定して
血脈など通いません
☆「正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、
歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が
僧宝なのです。」
『大白蓮華』の昭和五十四年十一月号、及び昭和五十八年十月号
☆「もとより日蓮正宗にあって、金口嫡々唯授一人の血脈相承が宗旨の根本であることは論
を待ちません。(中略)私どもは、日蓮正宗にとって根本たる法主の血脈を、
状況次第 でいとも簡単に否定し、
あまつさえ恐れ多くも猊下を裁判で訴えた
正信会の 行動は、信心の 狂いの極みであり、
悪鬼入其身の所業以外の何ものでもなく、人間としても最も糾弾され
てしかるべきであると思っております。」
『秋谷会長、平成二年十二月二十三日付書面』
つまり、猊下様を裁判沙汰に持ち込み訴訟乱発してた『信濃本部』並びに『会員』は
信心の狂いの極みであり、
『金口嫡々唯授一人の血脈相承が宗旨の根本』を 状況次第 でいとも簡単に否定し、
悪鬼入其身の所業以外の何ものでもなく、人間としても最も糾弾され
てしかるべきであると思っております。
悪鬼入其身・大謗法デブが、仏具屋に刻ませ 日達上人様が取上げた「御板の模刻本尊」もどき(笑)
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from: 21世紀さん
2010年12月28日 15時32分48秒
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メディア戦略(言論封殺)
中央公論「池田大作・茂木健一郎往復書簡」を嗤う
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―「タレント学者」が取るべき「池田大作」に対するスタンスとは―
(ジャーナリスト・古川利明<Forum21>H22.4.29)
【あの高級誌が「なんじゃい、これは」の企画】
「毎月10日」というのは、『文藝春秋』に『中央公論』と、メジャーな総合月刊誌の発売日であるため、書店で平積みにされる「それ」を楽しみにしている人も多いだろう。
ところが、である。『中央公論』4月号(3月10日発売)を手に取ると、表紙には大きな文字で、「池田大作×茂木健一郎 科学と宗教の対話」とあり、当該の箇所を覗くと、創価学会名誉会長である池田大作と、脳科学者の茂木健一郎との「往復書簡」という形で、双方が意見を述べ合うという企画が掲載されている。トータルで、じつに22頁にも達するもので、書簡は、この2年間にやりとりされたといい、最初の見開きの頁で、池田と茂木のそれぞれの顔写真が、いわば、「2ショット」で収められている。だから、この顔写真だけを見た読者の中には、この2人が、直接会って対談したものだと思いこんだ人もいるかもしれない。
しかし、この手の企画、つまり、池田大作と各界著名人とのいわゆる「対談モノ」は、これまでは、「自分のところ」、つまり、『潮』であり、『第三文明』というのが専らであった。『中央公論』といえば、確かに、経営危機によって、99年に版元が、いわば、読売新聞社に“身売り”され、同グループの傘下に組み込まれてからは、その論調の保守化が指摘されてはいるものの、その看板ブランドは、岩波書店の『世界』と並ぶものが、かつてはあり、「中公への文壇デビュー」が、「言論人としての、一人前の証」と見做される時代があったのである。特に、アカデミズムに足場を置く「学者先生」にとっては、この『中央公論』に論文が何度も載ることで、「広く世に認められた」と評価されたものだったのである。
そうした「高級総合雑誌」に、いきなり、池田大作が、何の前触れもなく、どアップの顔写真付きで登場したわけだから、「なんじゃい、これは?」と訝ったのも、恐らく、筆者だけではなかったのではないだろうか。
【疑われる編集部のセンス】
今度の「池田・茂木対話企画」には、大きく言って、2つの問題点がある。
まず、1つは、こうした企画を実行した編集部のセンスである。『中央公論』は、明治期に創刊され、特に、大正時代は、吉野作造の政治評論を精力的に掲載し、「大正デモクラシー」を下支えする役割を果たした。そうしたリベラルな歴史を持つ媒体が、「宗教者」の仮面を被りながらも、「創価学会・公明党」を完全にコントロールし、とりわけ、この「自公の10年」においては、個人情報保護法の制定に名誉毀損訴訟の賠償金高額化といった、数々の「言論封殺」を企んできた「張本人」である「池田大作」を、こうした「ヨイショ」の形で、取り上げてしまったことへの「恥ずかしさ」を、本来、心ある編集者であれば、感じなければならない。「非学会系の」、それも、由緒正しい歴史ある総合月刊誌が行ったことの意味と責任は、決して小さくはない。
ただ、推測するに、この企画は、おそらく、現場レベルから出てきたものではないと思う。「池田大作」という、政治的には超重要人物を誌面に登場させるにあたっては、相当、高度な社内における意思決定があったとみるべきである。とりわけ、『中央公論』は、新社移行にあたって、読売新聞グループの傘下に入り、その影響を大きく受ける立場にある。
そもそも同グループ本社の代表取締役会長の、「ナベツネ」こと渡辺恒雄が、一線の政治部長の頃から、学会サイドは既に目をつけ、取り込むべく、広報室の「ナベツネ担当」を自宅マンションに夜回りさせていた。その際には、果物などのプレゼントを贈る一方で、彼の言動も詳細に報告書をまとめ、ちゃんと、池田の元には提出されていた。そうした息の長い人脈形成からくる、「池田&ナベツネ」の、いわば、「ズブズブ関係」から、94年の時点で、当時の週刊読売で、「ビッグトーク 池田大作の『世界と対話』」の連載を行い、その後、読売新聞社から『私の世界交遊録』のタイトルで単行本化された過去もある。それゆえ、今度の『中央公論』の対話企画をテコに、例えばデフレ不況が続く昨今、「読売新聞本体」における、信濃町サイドからの「広告出稿を、何卒、よろしく」とのメッセージが込められていたのではないか、とみるのは、筆者の勘ぐり過ぎだろうか。
【「タレント学者」の立ち位置に節度と責任を】
もう1つの問題点は、対話相手でもあった脳科学者・茂木の「立ち位置」である。彼は、いわば、「気鋭のアカデミシャン」として、実にわかりやすい形で「脳」をテーマとした書物を多数、刊行する傍ら、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」のキャスターをはじめ、他のテレビ番組でもコメンテーターを務めるなど、「言論人」としても広くその名を世間に知られている。こういう立場にある人物とは、その発するメッセージが社会的に大きな影響を与えるため、自ずと、その立ち振る舞いにも、「節度と責任」が求められるのは、言うまでもない。
ところが、その茂木には、昨年11月、06年から3年間、著書の印税や講演料、テレビの出演料など約4億円の所得を申告していなかったことが、明るみになっている。この事実を、特ダネの形で報じた11月10日付読売朝刊で、「多忙で、申告する暇がなかった」との茂木本人の弁明に、記者が「税理士を頼もうと思わなかったのか」と畳み掛けると、こう答えていた。「知り合いの税理士がいなかったし、(税理士に頼む)暇もなかった。そろそろやらないとまずいな、と思っていたら、(地元の税務署ではなく)国税局が来た。今後は雇うつもり」。
もともと、茂木はソニーコンピュータサイエンス研究所の上席研究員として、年間約1千万円の給与所得があり、この時点で銀行には数億円の預金があったという。この記事だけで、彼のキャラクターを一方的に決め付けるわけにはいかないとは思うが、少なくとも、「カネにはルーズである」との傾向は窺える。
この報道は、茂木にとっては、大きなダメージになったようにも見えるが、それが池田大作との書簡交流を深める契機になったかどうかは知る由もない。しかし、時間軸としては、『中央公論』に、茂木が池田と2ショットで登場するのは、このちょうど4ヶ月後である。で、その往復書簡の内容自体は、はっきり言って、中身には極めて乏しい。「科学と宗教、その間の壁は破れるのか」との、勇ましいタイトルとは裏腹に、一言でいえば、茂木の「宗教の役割とは、何でしょうか?」との問いかけに、池田が、また、いつものように、法華経やトインビーを引っ張り出してきて、「それは、対話の精神であって、脳科学とも共鳴します」と、今回は導き出しているにすぎない。文面を注意深く読み込んでいくと、悩み惑っている茂木が、池田に教えを請うているようにも受け取れるのだ。
筆者は、こうした茂木のような「タレント学者」の存在を否定するものではない。むしろ、その「知名度」すら利用して、アカデミズムの最終目的である、「真実の追求」を究めてもらいたいのである。ちなみに、こうした「タレント学者」の登場は、「テレビの出現」と軌を一にしている。じつを言うと、その第1号ともいえるのは、明治大学教授の藤原弘達だった。彼は、本業である政治評論活動を行う傍らで、朝、昼のワイドショーに出演したり、クイズ番組のレギュラー解答者にもなった。しかし、藤原は、その「タレント教授」というポジションに飽き足らずに、そのマスコミ露出で勝ち取った「知名度」を武器に、「こうした勢力をのさばらせておくことは、やがて言論の自由の崩壊、ファシズムの許容を意味する」と、腹を括る形で、1969年に、日新報道から『創価学会を斬る』を刊行したのである。
その意味では、茂木も、ぜひ、藤原のような先達を見習って、ジャンルは違っても、学問の最終目標である「真実の探究」に向け、さらに骨を折って欲しいと、祈ってやまない。(文中・敬称略)
古川利明(ふるかわ・としあき)1965年生まれ。毎日新聞、東京新聞(中日新聞東京本社)記者を経て、フリージャーナリスト。著書に『システムとしての創価学会=公明党』『シンジケートとしての創価学会=公明党』『カルトとしての創価学会=池田大作』『デジタル・ヘル サイバー化監視社会の闇』『日本の裏金(上、下)』(いずれも第三書館刊)など。-
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from: 21世紀さん
2010年12月27日 13時14分53秒
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from: 21世紀さん
2010年12月27日 10時47分11秒
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from: 21世紀さん
2010年12月26日 00時34分38秒
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from: 21世紀さん
2010年12月26日 00時19分09秒
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YouTube - 全面対決! 創価学会vs総本山
アップしました!
http://www.youtube.com/watch?v=vj_daDgRSFc-
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from: 21世紀さん
2010年12月25日 22時25分53秒
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「Re:憎悪の批判者攻撃」
山崎正友氏(元創価学会顧問弁護士)死去に狂信者が跳梁(ちょうりょう)
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-遺体を10台の車で追跡、怪文書や嫌がらせ電語も―
(『慧妙』H21.1.16)
去る12月29日、本紙にも健筆を揮(ふる)ってきた元創価学会顧問弁護士・山崎正友氏が逝去(せいきょ)された(享年72歳、戒名は随法院正賢日成居士)。
山崎氏はかつて、池田大作の側近中の側近として、創価学会副理事長・総務などの要職を歴任、学会顧問弁護士として辣腕(らつわん)をふるったが、昭和52年に表面化した第1次学会問題の最中、対立する側の日蓮正宗御法主・第66世日達上人の御高徳にうたれ、池田側近でありながら学会批判に転じた。
そして、かつて山崎氏らが北条浩(第4代会長。故人)の決裁のもと、組織ぐるみで行なった共産党宮本委員長宅の盗聴事件を暴露(ばくろ)するなど、激しい内部告発を展開したのである。
学会の組織は大揺れに揺れた。それはそうだろう、学会が日蓮正宗宗門を支配しようと企んでいた仏法上の大謗法をはじめ、対立政党の委員長宅を盗聴していたことなど、次々と悪事が露呈(ろてい)して、連日のようにマスコミを賑(にぎ)わしたのだから。
これによって窮地(きゅうち)に陥(おちい)った池田大作の側は、必死の巻き返しを行ない、その狡猾(こうかつ)な策略と讒言(ざんげん)によって、あろうことか山崎氏は日蓮正宗からも離反してしまう、という不幸な事態となってしまった。
さらに、創価学会から恐喝罪で告訴され、山崎氏は一貫して無実を主張したものの、学会側で用意した多数の証言の前に、ついに2年2ヵ月の実刑判決を受ける身となってしまったのである。
平成5年に出所した山崎氏は、翌年、幾度もの再折伏を受けて自らの謗法に気付くことができ、平成6年12月、第67世日顕上人にお詫(わ)び申し上げて、理境坊信徒として復籍を許された。
以来、再び学会批判に立ち上がり、今日までの14年間、多数の書籍を物してきた。
かつて山崎氏の内部告発で深刻な影響を受けた池田大作は、この山崎氏の動向がよほど恐かったらしく、まるで世の全ての学会批判を山崎氏が起こしているかのごときヒステリックな反応を見せ、学会機関紙誌には山崎氏への悪口雑言が並ばぬ日はなく、また氏の周辺には常に大勢の謀略(ぼうりゃく)要員が見張りとして張り付くほどであった。
だが、そのような攻撃もどこ吹く風で、山崎氏は平然と学会批判を貫いたのである。
そして、ここ数年、山崎氏は「今までの人生で、これほど安らかな心で過ごせたことはありませんでした。本当に猊下のおかげです」と、幾度も口にし、また筆にもしていたが、その言葉どおり、氏の最期は本当に安らかで、満足しきったものであった。
12月29日、山崎氏の遺体を乗せた救急車や葬儀社の車を、深夜まで10台もの車で追跡したり、「地獄行き」などと書き殴った怪文書を出し、1月5・6日の葬儀当日には、嫌がらせの電話や電報を会場に入れ続けた狂信者集団の面々―。
彼らは、学会の副会長・総合婦人部長といった大幹部らの死亡がすぐには公(おおやけ)にされず、一般の学会員達の知らぬ間に火葬まで済まされている、という事実と、片や、山崎氏の葬儀には多数の人が入りきれないほど集って最期のお別れをしている、という事実を引き較べ、自らの信仰に何の疑問も抱かないのだろうか。ならば、次の御金言をよくよく拝すべきであろう。
「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちびき)の石(いわ)の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟(やわ)らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し。」(御書1290頁)
「なにとなくとも一度の死は一定(いちじょう)なり。いろばしあしくて人にわらわれさせ給ふなよ。」(御書982頁)
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夫・山崎正友のこと
(理境坊信徒・山崎桂子『慧妙』H21.1.16)
昨年12月29日、夫・山崎正友が死去しました。振り返れば故人の人生は長い創価学会との闘いでした。
平成8年11月に私と再婚してからも、その闘いは続いておりました。びっくりするのは、結婚生活12年間、休むことなく創価学会関係者らの尾行が続いていたことです。
そんな中でも夫・正友は野菜作りに喜びを感じ、スイカ・ジャガイモ・大根・夏野菜等の収穫を楽しんでおりました。園芸も大好きで、家の周りをいつも四季折々の花で埋め尽くしておりました。
2年半ほど前から私は友人と2人で、自宅の1階を事務所として、小さな会社を立ち上げました。
友人も夫・正友の優しい人柄に打ち解け、仕事の合間に畑作りを教わって、昼休みにはいつも楽しそうに畑に出かけておりました。
ところが、そんな彼女が、ある日「びっくりよ。畑の中に、目立たないように大きな穴が掘ってあって、落ちて転んでしまったわ。それに穴の中には針金のような物が刺してあって、危うくケガするところだった」と、立腹して帰ってきました。
また、別の日には、豆の葉やトマト畑一面にセメントが撤(ま)かれていたり、ペットフードが撒かれていることもありました。
バケツに「死ね」と書いてあることもあり、嫌がらせは日に日にエスカレートしていました。
友人は怒り、呆(あき)れ、嘆(なげ)きましたが、夫・正友は穏やかに、怒りに震える友人を静かに慰(なぐさ)めていました。
友人は日蓮正宗の信徒ではありませんが、夫・正友の生きる姿勢に真の信仰者としての姿を見ていたようです。友人は「人を見ればその人の信じるものの真の姿が分かります」と言いました。
そんな日々が続く中、去年は次第に体力も落ち、食事が摂(と)れなくなっていきましたが、それでも必死で生きる努力をし、闘いに力を尽くしておりました。
好きだった野菜作りもやめ、園芸も少しずつ関わる時間を短くし、体力の続くかぎり、創価学会との闘いに全力を尽くしていたのです。
亡くなって知ったのですが、『慧妙』1月1日号に掲載されておりました手記「続・あの頃のこと」に、「私自身、いつまで生きられるか分かりません」と、自分の命が長くないことを自覚した文面が書きつづられておりまし
た。
夫・正友は創価学会の教えの誤りを正す活動を死ぬまで続けておりましたが、一度も怨念(おんねん)による個人攻撃はせず、ただ信仰者としての正しい姿勢、僧俗の正しいあり方を伝えることのみに智力を尽くしたと思います。
亡くなる2日前、飼っている猫「幸四郎」の頭をなでながら、「お父さんはいろいろ大変だったけど、とても幸せだったヨ」と語っていました。そして亡くなる当日、私と共に最後の勤行・唱題を務めた後、何の苦しみもなく、本当に気持ちの良さそうな表情のまま、静かに息を引き取ったのです。
最後まで自分の意志を貫き、また頑張り続けた夫・正友の生き方に、私は称賛り言葉をかけてあげたいと思います。
◇◇◇
<編集室より>
山崎氏の告別式は亡くなって8日後の1月6日に執(と)り行なわれましたが、参列した学会脱会者の方からも「8日も経(た)っているのに、顔色も生前と変わらず、穏やかな表情で、本当に驚き感激しました」との声が寄せられています。山崎正友氏のご冥福(めいふく)を、衷心(ちゅうしん)よりお祈り申し上げます。icon
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from: 22世紀さん
2010年12月23日 19時52分16秒
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池田大作「権力者」の構造
戸田城聖の選挙観
昭和34(1959)年1月16日、石田次男は文化部員に任命されたが、それは石田の、参議院議員選挙への出馬と、前線からの離脱――無力な名誉集団への繰り入れを意味した。彼は早くもこの時点で会長候補としての資格を失ったのである。
創価学会における選挙は、国立戒壇建立のための政治進出とは別に、国費による折伏活動をも目的としていた。戸田は参院選初進出を前にした31年3月に、組織と選挙との関係を次のように定式化している。
「学会で選挙をやるなどということは、まことに、りっぱなことだと、私は思っているのです。陰でこそこそやるなどということは、絶対にする必要はありませんよ。・・・・・
私は選挙運動が毎年あったらいいと思っているのですよ。ないから残念です。そのわけは、選挙をやるという一つの目的をたてると、みな応援する気になります。そこでしっかりと信心させなければならん。学会は、金で選挙に出させるのではないから、はじめから信心によるのですから、信心の指導をしっかりやらなければならん。そうすると、幹部が夢中になって、班長君でも地区部長君でも、信心の指導を真剣にやってくれると思うのです。
そうすると、いままでかせがない人が、広宣流布のために、これは立ってやらなければならん時がきたから、まあ皆、目の色変えてかせぐ。ふだんやらんことをやるから、支部がピーンとしまってくる。選挙は、支部や学会の信心をしめるために使える。まことに、これは、けっこうなことではないですか」(戸田『講演集』下)
組織引き締めの為の選挙という戸田の着眼は、悪利用との非難はまぬがれまいが、それなりに秀抜であった。現に池田が逮捕された32年の大阪参院補選を、当選の可能性がないにもかかわらず強行したのは、弱体化した大阪各支部へのテコ入れ策だったという見方もある。
創価学会がこの昭和34年に、会員を立候補させる統一地方選挙と参院選挙を二つながら迎えたことは同会の存続にとって願ってもない幸いであった。選挙への総力結集こそ、戸田死後の組織危機を乗り切る最大の鍵であったのだ。
しかし、組織引き締めの手段である参院選に、石田が起用されるいわれはなに一つなかった。彼の器は、参議院議員という一部門の手駒ではなく、それらすべてを掌握する第三代会長にふさわしいものであったはずである。
彼が参院選への立候補を受け入れたことは、会長就任への権利放棄にほかならなかった。
石田はあまりに戸田にかわいがられ、彼の下で出世しすぎていたのかもしれない。彼が29年に原島宏治や和泉覚、森田悌二、辻武寿等の先輩を飛び越えて理事に就任したことは、決して彼らの好感するところではなかっただろう。また彼の早すぎる出世は青年部からの断絶を彼にやむなくさせてもいた。戸田の死後、彼は彼を強力に擁護する同僚も、熱心に押し立てる部門をも失っていた。