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  • from: 22世紀さん

    2010年10月15日 21時38分24秒

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    池田大作「権力者」の構造

    この回想にもうかがえるが、通信教授にかわる単行本の出版も日本正学館の経営を安定させるには至らなかった。池田はその理由を、出版社の高い利益は再版によるが、再版の間に資材、印刷費が暴騰して初版と同じ定価では採算がとれず、また値上げしてなお売れる本も少なかったからとしている。
     23年、またしても戸田は、雑誌なら定価改訂でインフレに対応できようという、変わりばえしない思惑から、雑誌の発刊を決意し、雑誌を主、単行本を従とする経営に方針転換した。まず『冒険少年』を、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊し、池田によれば数カ月後には『冒険少年』十数万部、『ルビー』数万部を数えていたようだという。
     だが、昭和24年に入ると金融事情が逼迫したうえ、戦前からの大手出版社の本格的な回復が緒につき、乱立模様の小出版社が存続する余地は狭められていた。カストリ雑誌や仙花紙の時代は、復刊された『文藝春秋』『中央公論』『婦人公論』『オール読物』、創刊された『少年』や『婦人生活』に徐々にその席を譲りはじめ、そのような時点では、池田の日本正学館入社も、決して傍目にはよい就職口とはいえなかった。同社での池田の役目が、入社後しばらくは雑誌記者ではなく、彼のいうところの『小僧』だったことは、「会社の用事で、大八車を引いて銀座を歩いたこともある」(池田『勇気と確信と希望』)との一文からも、うなずかれる。たぶんそれは試用というより、小企業のため、手すきのものには何でもやらせたのだろうし、池田の健康も微熱が続く程度で、大八車を引くほどの労働には、どうやら耐え得たのだろう。
     このころ、彼は森ヶ埼の実家を出、大森・新井宿の青葉荘(二反長、前掲書)というアパートに一室を借り、一人住まいを始めた。それは通勤の便というより、家族との関係の悪化からであった。

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