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from: 22世紀さん
2010年10月21日 05時58分10秒
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池田大作「権力者」の構造
信仰の証としての労苦――池田の前時代的性格
東京建設信用組合は、池田によれば、その年6月ころ戸田のもとに持ち込まれた東京建設信用購買利用組合を種目変更したものであり、専務理事を務める戸田に一切の経営責任があった。それは、「およそ事業の基礎というものは、最後には金融資本の掌握が必要となってくることを、痛感していた」(池田『人間革命』四)という資本家・戸田の経営学の実践であった以上に、敗北につく゛敗北のなかでの、それ以外にしょうことのない戸田の窮余の一策であった。ドッジ・ラインの進行によるデフレ不況は、つくつ゛く金繰りさえつけばとの思いを戸田に強いたことだったろう。
しかし、その場合、窮すれば通ずという格言は適用せず、同信用組合は正式発足後、一年ももたずに破産した。預金額が借り入れの申し込みに反し、思うようにのびなかったのだというが、戸田や日本正学館社員のにわか転用では、およそ能力に限りがあり、いきおい無理と知りつつ、あこぎな手口もとらざるを得なかったようだ。
が、その結果は昭和24年暮れから翌々26年にかけて戸田も池田も債鬼に追われて困窮と過労の度を深めるというものであった。降って湧いた朝鮮特需による世の好況をよそに、戸田はウラボロとあだ名されたように裏地がボロボロの背広を着通さなければならなかったし、それでなくとも数少ない社員は半年以上も出ない給与に愛想をつかして、次々と去った。
池田もまた50キロ以下にやせて頬がこけ、「お前の顔で、指にささったトゲが掘れる」と揶揄されたばかりか、24年秋、病弱を表むきの理由に、一年半通った大世学院を中退するはめになった。
「体が悪かったのも中退の原因でしたが、本当のところ、戸田先生がやめろ、と言われたんです。“おれが教えてやるから十分だ”というのです」と、池田はのちに語っている(央忠邦『日本の潮流』)。
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