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from: 21世紀さん
2010年10月03日 23時05分31秒
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これでも池田大作を信ずるか下山正行氏
--創価学会の友に訴える--序章はじめに昭和三十九年六月のある日、東京池袋にある常在寺で御授戒をうけ、私は、日蓮正宗の信徒となった。私を折伏してくれた
-- 創価学会の友に訴える --
序章 はじめに
昭和三十九年六月のある日、東京池袋にある常在寺で御授戒をうけ、私は、日蓮正宗の信徒となった。私を折伏してくれたのが創価学会の人だったので、同時に創価学会会員にもなったわけである。いまにも雨の降りだしそうな、昼間から暗い日であったと記憶している。(略)
その大恩ある創価学会の在り方が、おかしくなってきたのはいつごろからであろうか。(略)昭和四十五年、あの言論弾圧・出版妨害事件のころか? いやあのときは、一種の法難意識の方が強く、世間の集注攻撃から学会組織を守らなければ、という気持ちでいっばいだった。(略)
いつごろからかはわからないが、このように抱いてきた潜在的な疑問が、私自身のなかで顕在化したのはつい最近のことである。(略)
私は知り得た事実のなかから、そのような事実の数例を挙げて、組織末端の創価学会同志と考えてみたかった。訴えたかった。そして大恩ある創価学会に、日蓮正宗信徒の集団としての本来の姿に戻ってもらうよう、ともに努力したいのである。単行本というような、組織外部の人にまで創価学会の内緒事が知られてしまう手段に訴えなくとも、という声も出るだろう。
しかし、組織内部の直接的な接触のある人々にだけ訴えるということがどのような結果しか得られないかは、創価学会員ならば、過去の経験から察しがつくだろう。
私のこのような行為は、大恩ある創価学会への背信とみられるかもしれない。だが大恩あるゆえに、苦言を敢えてすることも必要なのではないだろうか。創価学会が、その巨大さゆえに、即日蓮正宗と世間に見られがちな現在であるからこそ、とくにこのような苦言も必要なのではないだろうか。(略)
御金言に微衷をなぞらうこと、まことに畏れ多いが、一般創価学会員である同志諸君、創価学会を私達自身の創価学会たらしむるために、私の告発する創価学会のこの現実を直視して欲しい。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
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下山正行氏はここで、「創価学会の在り方が、おかしくなってきたのはいつごろからであろうか」と、自問自答しています。
創価学会の唯一の大目的がいつのまにか消えてなくなっても、ほとんどの創価学会員諸氏たちはそうと自覚することもなく、唯々諾々と池田会長の指導に就き従ったのでした。
しかし創価学会員の中にも、こうして下山氏のようにその変化に気付き、重大な決意と道念を発して一書をしたため問うた人がいたということは、創価学会の名誉のため記憶に留めておきましょう。
その後・創価学会員の中から、さまざまな立場での批判や内部告発の書が登場することになるのでしたが、下山氏のこの「創価学会の友に訴える」とした問題提起は、最も初期のものでありました。
( 平成十四年五月七日、櫻川 記 )
from: 21世紀さん
2010年10月31日 11時52分32秒
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「Re:これでも池田大作を信ずるか下山正行氏」
どれが本当の指導なんだ
( 低次元の詭弁 )
きりがないから、一、二例だけ挙げよう。
15) 「よく戸田先生は『天皇が信心したいといってきたときに、他の邪宗では、御本尊様をおあげすることができるか』と。また『天皇が信仰するまで、戸田は待つ。戸田は日本第一の忠義な者である』という意殊のことを申されておられた。先生の申されたことが、ただひとつとして成就されえなかったことはない。
……また、国立競技場、国立美術館、国立公園等も、すべて国民の要望であり、国民のものである。宗教にあっても、最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは、必然でなくてはならぬ」(池田会長、「会長講演集」 四)
16) 「(本門戒壇は)ただ全民衆のためであり、全民衆の意思の結果によるべきものであることは明白であります。このように大聖人ご自身が、戒壇は、民衆立であることを示されているわけであります。その証拠に、大聖人の御書全集のなかに『事の戒壇』『本門の戒壇』とは、おおせになっておりますが、『国立戒壇』という語句は、一ヶ所もないのであります」(「大白蓮華」、昭和42年6月号)
「国立戒壇」という語句が御書の中にないというが、それでは「民衆立」という語句はあるというのか。
逆に、「勅宣並に御教書を申し下して……戒壇を建立す可き者か」(三大秘法抄)、「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(身延相承書)というような、明らかに「国立戒壇」と拝すベき御金言は、御書のなかにみられるのである。
“国立戒壇という語句が御書にない”などというのが、いかに低次元の詭弁であるか。こういう貧しい発想の持主が私達創価学会の会長であったとは!
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
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下山氏は、池田会長による“国立戒壇という語句が御書にない”の言説を「低次元の詭弁」と、一創価学会員としての自己批判の意も込めて一蹴するのでした。
たしかに、あとからにわかに採って付けた<理屈>であれば、「低次元の詭弁」に他ならないのでしたが、それはある意味では幸いであり・またある意味では二重の不幸でもありました。
ある意味で幸いとは、池田会長とそのブレーン達が御遺命歪曲のため必死に知恵を絞っても、「低次元の詭弁」にして「貧しい発想」しか展開し得なかったことでした。
そしてまた二重の不幸とは、御遺命の正義を元より百も承知の池田会長等が、御遺命歪曲のため「低次元の詭弁・貧しい発想」しか為し得なかったにもかかわらず、創価学会員も宗門僧侶等もことごとく「人間(ホモ・サピエンス)の特性である“考えること”を放棄」し、唯々諾々とその程度の「低次元の詭弁・貧しい発想」に従ってしまったことでありました。
正系門家にあって、貫首をはじめとしてことごとく「飮他毒藥」にして「毒氣深入・失本心故」の事態にあって、ひとり妙信講だけが護法の一念強き故に、「或不失者」(妙法蓮華経、如来寿量品)であったことでした。
( 平成十四年五月二十三日、櫻川 記 )
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