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  • from: 22世紀さん

    2010年11月23日 17時42分48秒

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    池田大作「権力者」の構造

     第三代会長候補ナンバー1石田次男の抜擢

     昭和28(1953)年1月2日、男子部第一部隊長・石田次男は小岩支部長に抜擢され、その妻・栄子も同支部婦人部長に任じられた。小岩はA級支部だったが、当時の折伏成績は第7位に低迷していた。
     石田の支部長起用に際し、戸田は支部員の前で次のように訓話した。
    「富田君(前小岩支部長・富田作十)は今迄実に良く働いた、全く見ていて涙ぐましいほど働き続けたが、誰もこれについて行かない、地区部長も班長も誰も一緒にやろうという者が無かった。これを見て居た私も考え抜いたが今度は腹を実行に移した、私は昔から小岩を愛して来た、今もそうです、今日から次男(石田次男)に支部旗を渡した、次男にやりたい放題の事をやらせる、誰もついて来なくてもよい、俺と次男と二人で支部旗を握って起ったんだ、小岩に誰も居なくなって、俺と次男と二人だけになってもかまうものか。文京(支部)ではこんなことはいわなかった。しかし、小岩は事情が違う。常泉寺の門前に二人が小岩の支部旗を握って立てばそれで良いのだ。小岩は今日からそのつもりで居れ。
     ・・・・・小岩は貧乏人が沢山集っている。班長、地区部長諸君はこれを機会に大いにガンバッて金をもうけなさい」(『聖教新聞』昭和28年1月10日)
     戸田は青年を大胆に登用した。その人事は完全な能力主義といったもので、年齢や入信年数はいっさい考慮されなかった。石田は池田より3歳年長ではあったが、入信は池田に遅れること3年である。戸田の人事は会員にやる気を起こさせた反面、いつ解任されるかもしれないといった緊張感を生み、全体としては創価学会幹部のいわゆる下士官タイプを形つ゛くった。が、その実力主義が創価学会の卓越した行動力を保証する第一の決め手だった。
     しかし、それにしても、石田の支部長登用は戸田にとっても、冒険といっていいほどの画期的な人事にちがいなかった。石田は青年部の時とは異なり、年長者の上に立たなければならない。そこには当然、抵抗が予想されたが、戸田は自己の責任にひきつけ、あえて石田抜擢に踏みきった。
     戸田の発言は抵抗をあらかじめ封じる意図を持つと同時に、石田への深い愛情と信頼を語るものであった。青年層のなかでも、戸田の石田に対する期待は別格であり、それは戸田の死まで変わることがなかった。彼は石田を次男とよんで、他の誰よりも重用しつつ゛けた。
     同日、池田は石田の後任に据えられ、男子部第一部隊長兼教育参謀となった。これにより、池田は竜、森田、北条に追いついたばかりか、ややリードもしたが、石田にはとうてい追いつくべくもなかった。
     4月20日、池田は文京支部長代理に、石田は同支部顧問に任じられた。このころから、戸田の若手への嘱目は、一に石田、二に池田と、ほぼ固定化されたようである。
     5月、創価学会の筆頭理事は、「願に依り」との理由で、和泉 覚から小泉 隆にかわった。小泉は蒲田支部長として、同支部の折伏成績を、常勝蒲田といわれるまでに毎月トップに保ちつつ゛けた功績者だった。

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