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  • from: 22世紀さん

    2010年12月18日 15時21分59秒

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    池田大作「権力者」の構造

     宗門をめぐる二つの出来事と戸田の死

     戸田は昭和32(1957)年11月以来、肝臓と糖尿を患っていたが、33年2月、いったん回復した。2月11日、彼は満58歳の誕生祝いを行い、招いた在京大幹部を前に陣頭指揮への決意を語った。
    「会長就任以来7年になるが、私は7年目ごとに難に逢っている。今度の病魔も打ち破ったのだから、もう7年また会長としてがんばるから一つよろしく頼む。・・・・・『源深ければ流れ遠し』の通りで、要するに学会の振興は会長自身がしっかりしなければならん。・・・・・明日から以前と同じように本部へ行って指揮をとる」(『聖教新聞』昭和33年2月14日)
     3月1日、法華本門大講堂が大石寺に落成し、大法要が行われた。同講堂は5階建のビルで、工期1年3ヵ月を要し、その工費4億円は創価学会信者による寄付でまかなわれていた。
     大法要には当時の首相・岸信介、文相・松永東が祝辞をよせ、また東京都知事・安井誠一郎等が出席した。創価学会会員はその日から3月いっぱい、20万人が慶祝登山し、その間、戸田は本山に滞在して指導にあたっていた。
     同月16日に、戸田は自民党の南条徳男、堀内一雄を通して岸を大石寺に招待した。岸はそれを受けたが、池田正之輔に反対されて急に出席をとりやめ、代理として夫人、娘婿・安倍晋太郎、南条徳男を出席させた。
     岸を迎えるため大石寺には青年部6,000名が整列していた。戸田は男子部幹部25人のになう、池田の考案になったという車駕にのって、自身、「広宣流布の儀式の模擬試験」と意義つ゛けた歓迎大会にのぞみ、次のように述べた。
    「日本の政権を保って、社会党と共産党をおさえて行ける人は岸先生しかいないということを、あの人が幹事長の時に心から深く思って、尊敬していたんです。
     今度も一日の落慶法要には来れないって云うから、そのあとはどうだと云ったら、16日なら行くちゅうので、今日は楽しみにしておったが・・・・・。
     ・・・・・しかし、お嬢さんと坊ちゃんと奥様と、その他自分がこの人と頼む人々ですね。さしむけて本山へよこされたその誠意というものは、私は心から嬉しく思う。
     ・・・・・岸先生がこれからどんな立場になってもわしは悪い人だとは思いません。それが友人のまごころじゃないでしょうか(拍手)。君らも、そういう心で、岸先生とつき合って下さい。
     ・・・・・私は宗教団体の王様なんだから(拍手)岸先生は政治団体の王様なんだ」(『聖教新聞』昭和33年3月21日)
    岸の欠席は戸田をいたく落胆させたが、それにしても法華本門大講堂の完成は、彼の最期を飾る華やかな幕切れであった。新興宗教の教祖は多く、画期となる建物をつくると安堵から死ぬというが、どうやら戸田もその例外ではなかった。この日から彼の衰弱は加わり、本山の理境坊で手当を受けつつ、静養しなければならなくなった。
     が、戸田の最期を飾るものは大講堂の完成ばかりではなかった。僧侶・的場正順(のちに鳥取市日香寺住職)へのリンチ事件が、衰弱を深める戸田にたむけられたのである。
     事件は、戸田と創価学会の威に服さない気骨ある僧侶への私刑であり、創価学会に抵抗するとどうなるか、的場ばかりか他の僧にも示すみせしめであった。
     的場がのちに一僧侶に宛てた手記によれば、事件の概要はこうである。
     大講堂落慶法要の際、創価学会の青年部員3、40名が大石寺の大坊に泊まり込んでいた。彼らは僧の卵ともいうべき所化を、タバコを買いにやらせるなどの私用に使い、チップがわりに菓子を与え、ソバ代を出すなどしていた。彼らには所化とはいえ、僧侶一般に対する畏敬の念はなかった。所化を指導する立場にあった的場はこれらのことを見聞きし、青年部責任者・土屋某に再三にわたって注意を促した。
     3月22日の夜、的場は青年部員間で、「正宗の坊主も邪宗の坊主となんら変わりない。ものさえ与えれば、いうことを聞く」と話されているのを聞き、翌23日朝、大石寺内の一僧坊である六壺に所化と青年部員を集めて厳重な注意を与えた。
    「大坊は一人前でない僧が法主の指南で修行する場所であって、本来が青年部員の起居するところではない。教育にさわるような真似はやめてほしい」
     的場は語をつぎ、前夜の青年部員の話を論難した。
    「邪宗の坊主と同じだというのは物を知らなすぎる。ではいうが、戸田は16日、岸を迎えようとした際、宗教団体の王様は私だといったが、これはどういうことか」
     宗門の立場からいえば、宗団の王者は、日蓮であり、また日蓮を体現する本尊、あるいは法主となろう。的場は創価学会の宗門支配を苦々しく思い、いわば法主にかわって、戸田の車駕による境内練り歩きなどを批判した。山門には下馬下乗とあって、法主でさえ山門を出るまでは乗り物を利用できない。
     が、この3時間後、的場は池田に呼び出されて裸にされ、近くの御塔川原に放りこまれる。青年部員がかわるがわる的場に馬乗りになって的場の顔を水の中につけ、池田はポケットに手を入れて見下ろしながら、指揮したという。
     的場は事件後、被害者にもかかわらず逆に約2週間の謹慎を命じられたうえ、北海道の新寺院に4年、その後、鳥取へと、地方回りの生活を余儀なくされた(『週刊文春』昭和52年9月1日号)。宗門は創価学会の組織と財力に制圧されつくして、的場の正義をバックアップすることも、その権利を回復することも長くできない状態にあった。
     4月1日早朝、戸田は医師の診断で本山の理境坊から東京に運ばれ、そのまま神田の日大病院(現・駿河台日大病院)に入院し、翌2日、急性心衰弱で58歳の生涯を閉じた。
     8日、戸田家の告別式が雑司ケ谷の常在寺で行われ、信者12万人が焼香した。
     19日、日蓮正宗法主・堀米日淳は故戸田に法華講総講頭の称号を贈り、またその前に大宣院法護日城大居士の法号を授与した。
     20日、創価学会葬が挙行され、25万人の創価学会員が参加し、これには岸も文相・松永も会葬した。新聞は、「首相〝200万信者〟に焼香」と報じた。
     

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