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from: 22世紀さん
2010年12月19日 20時48分18秒
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池田大作「権力者」の構造
三代目への抗争
戸田城聖の遺産の行方
戸田の突然の死は、会の内外を問わず、一般に創価学会の迎えた最大の危機と受け取られた。
それはまず、戸田の死自体が彼の唱えていた功徳を裏切って、会員に教義への疑惑を抱かせ、不安や動揺を与えると考えられた。また戸田は後継者を指名する余裕を持たなかったから、会幹部間に第三代会長をめぐっての内紛が生じ、それがひいては同会の空中分解や分裂をもたらすと取り沙汰された。
池田自身、当時をこう回想している。
「(池田が)参謀室長当時、戸田先生が一年間病気の時期があった。暗い時代であった。小泉(隆)さんが理事長。ギア(が)はまらなかった。どうしようもなかった。空中分解寸前だった。戸田先生がなくなられたとき、小泉理事長はいても、一寸先は闇で、わからなかったといっていた」(昭和50年9月28日、箱根研修所で、内部文書)
また空中分解には至らないまでも、それまでの爆発的な発展を負っていた戸田の卓越した指導力や組織力、人柄の魅力が失われて、以後の創価学会の停滞と困難が予想された。
折伏攻勢に悩まされていた「邪宗」はこのように考え、喜びと希望的観測とをもって、創価学会を攻撃した。
しかし、危機意識は残された創価学会幹部の共有するところでもあり、他教団の反撃は皮肉にも、彼らの結束をいっそう強固にする働きをした。
幹部たちは、前年の11月に戸田は自らの死を予言していた、その言葉は戸田家の女中が日記につけていると、功徳への批判を打ち消した。
また戸田の私生活の面、ことに遺産配分は悪くすれば、創価学会の信用問題に発展しかねないものであったが、それをも大過なく処置したようである。
由比宏道『毒鼓の縁』によれば遺産問題は次のように処理されたという。
戸田の妻・幾子は、戸田の死まもない4月23日、取引銀行である三菱銀行四谷支店長に、戸田名義の財産がどれだけ残っているか、調査を依頼した。彼女は、印税と株を動かした儲けが4億円ばかりある、と戸田から聞き、また戸田個人で費消する金は、幾子の父・松尾清一名義で三菱銀行番長支店に預けられ、その中に自宅の新築資金2,000万円も含まれている等のことを知っていた。なお当時、創価学会は出版収入などで、その月収は2億円にのぼると噂されていた。
が、調査の結果、戸田の死の翌日4月3日、戸田の妾で大蔵商事専務理事でもある森重紀美子により、名義が書き替えられていることが判明した。そのため仕方なく幾子は、戸田の生前、会長印を自由にしていた秘書部長・和泉美代(大蔵商事社長で創価学会小岩支部長・和泉覚の妻)を通じて、戸田の財産譲渡を会幹部に交渉した。この幹部に、大蔵商事の取締役だった池田も含まれていたかもしれない。
後日、幹部は戸田名義の財産は8,000万円で、うち2,000万円だけを渡すといってきた。どのような事情があったのか、これで戸田家との遺産問題は決着した。また全国の信者から集められた香奠も、幾子の催促のすえ、ようやく6月9日に、4,000万円から創価学会会葬の費用400万円を差し引いた残り3,600万円が戸田家に届けられた。
戸田には跡部雅子という妹がいたが、彼女も遺産分配を請求した。雅子は岩手県一関市に住み、当時、地元の商事会社社長の2号だったという。彼女は、戸田家からも創価学会からも遺産分配をはねつけられたため、12月2日上京し、知人を介して和泉美代に折衝し、すったもんだのあげく、彼女の所持する戸田関係書類(手紙など)と引き換えに34万円を受け取った。
なお池田は会長就任後、大蔵商事を離れ、同社社長は森重紀美子、のちその甥の森重章とかわった。が、同社は昭和40年ごろ脱税容疑で国税局の手入れを受けて経営が大きく傾き、同年12月、社名を大道商事と変更、事務所を東京・赤坂のホテル・ニュージャパン内に移した。44年5月、第一商事を併せたが、同社の放漫経営は続き47年ごろ創価学会員からの金約3億円が焦げついたほか数億の負債を負うまでになった。
池田は同社の倒産を防ぐため、中西治雄に命じて経営管理に乗り出させ、中西は会幹部の菅原亮を経理担当取締役に、会弁護士の今井浩三を法律顧問に送り込んで建て直しを図り、創価学会の会館や研修所の土地売買、正本尊などの火災保険を扱わせた。が、森重は蒸発し、菅原は中西と不仲となって50年に病死した。同社の経営は創価学会の強力なテコ入れにもかかわらず改善せず、49年12月、再度社名を株式会社日章とかえ、事務所を東京・世田谷の北沢に移して、社長も元公明党議員の金井賢一、役員を松尾俊人らに入れかえ、監査役に会弁護士の福島啓充をつけている状態という(『週刊文春』昭和55年12月11日号)。
また戸田の死後、池田の指示で戸田家から彼の遺品が運び出されたことは事実のようである。28年7月に入信、当時東京蒲田支部の男子部部隊長だった某は次のように語っている。
「戸田会長が死んで一ヵ月もたたないうち、トラック二台、運転手を入れて6人が戸田家に行った。私はその一人であり、私のほか、竜年光、大田区議をしていた園部恭平などがいた。戸田家にはすでに白木薫次と池田が詰めており、十文字に麻縄をかけられた茶箱をトラックに積み込んだ。あまり積み上げるなということで、二段に重ねただけである。
当時のトラックは小さく、荷台は二畳半から三畳のスペースしかなかった。荷物には二人がかりでやっと持ち上げられるほどに重いものや、軽いもの、あるいは外見から刀剣と分かるものなどがあった。幾子夫人は険しい顔をして応対が悪かった。
私たちはそれを本部に運んだが、乗用車で追いついた白木と池田の指示で裏口近くの物置きに収めた」
上乗りをした某は軍刀、掛軸、花ビンなどの美術品だったようだとしているが、戸田家に近い筋は、掛軸を含め家の中がカラッポになったことは事実だが、戸田に収集の趣味はなく、どの程度値打ちがあるものか分からなかった、といっている。
創価学会の幹部たちは、理事長・小泉隆を中心に、団結を合言葉とし、戸田が死の寸前に指摘したという内部崩壊を警戒しあった。
「(竜年光が)『先生、身延も既に敵でなくなった。ジャーナリストも敵ではない。一体、学会の敵は何ものでしょうか』とおうかがいしましたところ、先生は体を起されてはっきりと『それは内部だよ』とおっしゃいました」(『聖教新聞』昭和33年4月18日)
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