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  • from: 22世紀さん

    2011年01月22日 15時36分52秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田の勝利と石田の壊滅的敗北

     5月3日、第22回本部総会で池田の会長就任が挙行された。池田は就任の挨拶で
    「創価学会は全大衆の最大の味方であります。敵は邪宗教であります。邪宗教は
    人々を地獄に落とす。正法は仏にする」と語りおこし、戸田の7回忌(昭和39年)までに、
    300万世帯の達成、世界の名材を使用した大客殿の建立、邪宗教の徹底的粉砕
    という三大目標を明らかにした。
     300万世帯は、その時の公称世帯数140万と、それまでの成長率からいえば、
    決して難しい数字ではなかった。また「邪宗」攻撃は、300万という目的に関連する、
    もっとも効果的な折伏法であった。日本人のシンクレティズムは、つねに他教団の
    信者を、自宗の布教の良田にする。それは戸田時代からの引き継ぎであったが、
    同時に、敵を外に求めさせ、まだ脆弱な池田体制から眼をそらさせる統治法でもあった。
    さらに古来、建造物は目標たり得るものであり、建物と信者増加運動とのイタチごっこ
    が教団をふとらせることは、法則的な事実でさえある。
     池田の三大目標という指針はきわめて当を得たものであった。  
    これを受けて北条浩は次のように会員をアジった。
    「4年後に300万世帯を達成すれば、あとは広宣流布の道は開けるのだと、(池田は)
    私たちに指示を与えて下さったのであります。こんどは私たち弟子は、池田先生の
    第一声を、その宣言を、絶対、無にはしない、絶対、池田先生をウソつきにはしないと
    誓って立ち上がるものは、誠の弟子であると私は思うものであります。・・・・・。
     ここで私たちは、池田新会長先生に対して〝先生、どうか私たち弟子がおります。
    安心して指揮をとってください〟と心よりお誓いいたそうではありませんか。(拍手)」
    (『聖教新聞』昭和35年5月6日)
     北条は一日にして、自らを弟子と呼び変え、池田を会長先生と崇める。他の幹部に
    おいても同様だが、ここには一片の人間味もない。運命共同体としての新会長のリアルな
    把握がある。彼らが率先して池田を敬えば、池田は安泰なのであり、彼ら自身の権益も
    安泰である。利害が彼らを密着させ、表裏のある関係を結ばせ、やがて池田は、幹部の
    崇敬の演技を心底からのものにしていく力を蓄えていく。
     この日、例によって機構改革があったが、北条は指導部副部長の任を離れて、新設の
    副理事長に就任し、池田の腹心としての地位をかためていた。また理事長・小泉隆は
    本部最高顧問タナ上げされ、理事長の職は、指導部長を解かれた原島宏治にとって
    かわられた。北条と原島は、池田の会長実現のための最大の功労者だった。
     その他、和泉覚が文化部最高参与に任じられているが、これは次の参院選出馬への
    前提と見られる。竜はこの年1月志木支部長に任じられ、ここにきてさらに文化部長
    に任命された。それまでの文化部長・鈴木一弘は同副部長に降格されたが、そのかわり
    、小平芳平、牛田寛、白木義一郎とならんで理事に任じられた。小平は池田を折伏した、
    新興宗教でのいわゆる教化親であり、その理事引き上げは池田の謝意だったろう。
    もっともこれ以後、理事はやたらに増員され、その値打ちは下落する一方であったが。
     また指導部長の原島の後任には辻武寿、同副部長の北条の後任には石田次男が
    任命された。石田は後輩の後をつがされるという屈辱を受けたが、彼はさらに聖教新聞
    とも、論説主幹を除いて完全に断ち切られた。それまで同紙の題字下の発行、編集、
    印刷人は石田次男となっていたが、この年7月8日、441号から秋谷城永に変えられている。
    これに関する辞令はないが、聖教新聞からの撤退は石田の壊滅的な敗北を物語るものであろう。
    彼の母親・石田つかも翌年5月に死亡している。
     昭和56年現在、石田は、横浜・神奈川区の、一階が六畳と四畳半に台所といった小住宅に
    万年床を敷き、胃を三分の一切除したにもかかわらず、昼間から焼酎を飲む生活を送っているという。
     石田はのちに参院選に立つことも許されず、池田のために貧窮のどん底に突き落とされることになる。
    「戸田先生のもとで、男の秘書は二人いたんです。一人は今(の)石田君。一人は私だったんです。
    (略)それで、年配も向うが上。その奥さんになった人も学校の先生で、大先輩です。(略)
    うちの奥さんていうのは、自分はバカだと・・・・・皆んな・・・・・しちゃう。これも石田さんの奥さんと
    いうのは先生だし、今、50いくつだな。(略)学会全体の焦点であり、優秀な方であった。(略)
    石田さんていうのはね、非常に見栄っ張りなんです。気取り屋なんです。人をバカにするんです。
    そうじゃない。(ハイ)
     結局だめなんだ、だから。もう戸田先生がいなくなったら、だんだんだんだんおかしくなって
    しまって、誰も相手にする者がいない。結局、ちょっとおかしいじゃないか、というように。
    20年、18年たった今では、もう、(池田との間には)天地雲泥の差があるんです。利己心、冷たい、
    人をせせら笑う。今はダメになってしまっている。自分は頭がいいと思っているから。(略)
     どうしようもない。誰からも相手にされなくなった。もう貧乏のどん底で、子供までが・・・・・
    私は一生けんめい応援しておりますけどね、分かる(ハイ)」(昭和51年12月11日、
    女子部学生局学内委員長会で、内部文書)
     石田次男は戸田の死後、池田に生殺与奪の包囲網を張られ、徐々に狭められて、ついには
    最低限の餌を投げ与えられる飼い殺し状態にされた。戸田時代、石田が戸田に重用されすぎた
    という理由だけでである。
     池田の石田に対する敵意の深さには慄然とさせられる。別の内部文書には、「石田次男は20
    年間苦しんで、地獄に落ちていくんだ」との発言もあり、創価学会員にとっての「地獄」の持つ意味の
    重大さを思い合わさずとも、その長期間、なぶり殺しにして断末魔をみるようなまなざしの冷たさには、
    異常な競争心と報復心の激しさ、底深さをみる思いがする。
     5月16日、池田、北条、森田、竜、小平、鈴木、牛田、白木の8名が新たに宗教法人の責任役員に
    就任し、ここに責任役員は新8、旧7、計15名となった。翌17日、小泉は代表役員を辞任し、池田が
    代表役員についた。これにより池田は、名実ともに創価学会の首長となったのである。

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