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from: 22世紀さん
2011年07月02日 19時49分34秒
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池田大作「権力者」の構造
宗教法人創価学会の目的をめぐって
7月22日、本尊奉戴の臨時総会が市ヶ谷の家政学院の講堂で開かれ、その席で財務部の強化と、日蓮の遺文集の刊行が発表された。
創価学会は会員から会費をとらず(ことあるごとに臨時徴収する)、戸田や会員による寄金で運営されていたが、それは制度的に明確でなく、会経費は不足しがちであった。そのため、全国折伏をめざす今、まず資金制度を確立する必要があった。『日蓮大聖人御書全集』(『御書』と略される)の刊行も、教学面の強化と同時に金儲けをもくろむ企画だった。
同書の編纂は、日蓮正宗の長老である堀日享に依頼され、校正は創価学会講義部の講師以上20名によって行われ、翌27年4月、B6判、1,700ページ、一巻となって完成した。当初、戸田は600万円と見積られた出版費の援助を大石寺に請うたが、拒絶されて怒り、聖教新聞に本山をたたかせたりした。が、結局、出版費は会員からの一冊・1,200円の前金でまかなわれた。
『御書』はそのころ戸田の眼についた唯一の稼ぎの種であり、また前金以外に金繰りもつかず、戸田はあせっていた。「御書は作ると決めたら作っちまうんだ。借金しても1,200円用意しろ」と当時の『聖教新聞』(昭和26年8月1日)は記している。
同書は初版6,000部が発行され、2年後に40,000部が再版された。そのとき戸田は、定価2,000円の同書を1,200円で予約買い取りしておけば、あとで本部が2,000円で買い戻す、多く買えばそれだけ儲かると、会員に大量購入をすすめたという(日隈『戸田城聖』)。
『御書』の刊行は、『大百蓮華』『聖教新聞』とならんで、「創価学会という名の出版社」への足がかりをなすものであった。戸田はその経営学を、売れる本を作るより買う層を作るという方向に切りかえ、倒産した日本正学館は創価学会に変身したわけである。池田もこれにならい、彼の代になってから同会は、教科書や参考書として会員に読まれる雑誌や単行本を前にも増して続々出版する。
9月、講義部を教学部と改称し、一級から五級までの講義内容と、その受講資格が定められた。それはさきの『御書』刊行とともに、創価学会が日蓮正宗から独立した教義解釈権をうちたてたことを意味した。日蓮正宗に対する創価学会の主導権確立は、創価学会の組織再編成とならんで、戸田の一貫した方針であった。彼の戦略は、日蓮正宗の歴史と権威を借りつつ、母屋を盗むに等しく、その機構、施設を創価学会専用に変質させることにあった。
創価学会のこうした一連の体系化は、日蓮正宗側の反撥を招かずにおかなかったが、戸田はその都度詫びたり、おどしたりして両者の関係をウヤムヤに治めた。詫びることはその権威を借りる創価学会を益しても害せず、要は権威と歴史以外の部門の自前化措置を続け、既成事実を積み重ねることであった。
戸田は10月、創価学会を日蓮正宗とは別の宗教法人として東京都に届け出、『聖教新聞』11月1日付にその設立公告を掲載した(都知事の認証は翌27年8月)。
届け出段階の「規則」によれば、創価学会の目的は、
「第三条 この法人は、日蓮大聖人の一閻浮提総与の大曼陀羅を本尊とし、かたわら日蓮正宗の教旨をひろめ、儀式行事を行い、その他正法興隆・衆生済度の聖業に精進するための業務及びその他の事業を行うことを目的とする」
とあるように、創価学会は日蓮正宗の本尊を礼拝の対象とするものの、その教旨をひろめるのは「かたわら」なのであった。「かたわら」の一句は翌27年の認証、成立時にはずされるが、おそらくそれは日蓮正宗側の意見を容れての措置だったろう。戸田は当初より日蓮正宗の本尊と教義を借用しながら、宗門からは独立した宗教法人であることを構想した。が、本尊と教義を同じくしながら別法人とする理由は薄弱であり、そのため両者を折衷して「かたわら」をはずしたとみられる。
創価学会の別法人設立を知った宗門は12月18日、戸田を本山に呼び出し、「一、折伏した人は信徒として各寺院に所属させること。二、当山の教義を守ること。三、三宝(仏・法・僧)を守ること」の三箇条を示し、戸田にその遵守を誓わせたうえで、別法人設立を認めた。創価学会はのちにこの三箇条を有名無実化するまでに在家団体としての色合いを強め、日蓮正宗側から教義違背として批判されることになる。その際、宗門側の批判の根拠として、三箇条が活用され、創価学会は宗門の教義的権威の前に屈服しなければならなくなる。
10月1日、指導部の陣容が強化され、池田は準指導員に任命された。指導部は部長・柏原ヤスの下に指導員、準指導員で構成され、指導員は各支部に配置されて支部活動の指導をなすものとされていた。牛田、森田、竜、石田は指導員であった。
11月、創価学会の歩兵操典といわれる『折伏教典』が完成した。『折伏教典』は初歩教学の教材に指定され、座談会での折伏や他宗攻撃の実践に十分威力を発揮した。価値論、折伏論、邪宗教の正体など、その内容は教学部の講師クラス以上の手によって書かれ、ことに第一章「生命論」は石田次男の執筆になった。いまだ助師にすぎなかった池田は『御書』のときと同様、その編集に携わることを許されなかった。
11月6日、竜年光は蒲田支部幹事から中野支部の支部長補佐に栄転した。支部長補佐の権限は、『聖教新聞』(昭和26年11月10日)によれば、「幹事の上に座し、支部長を補佐す。但し任期を半年とし、重任を妨げず」とある。
翌年1月、池田は『聖教新聞』に辞令の発表はないが、蒲田支部幹事となった。竜の中野支部転出のあとを襲ったものであろう。また12月ころ池田は男子部班長として仏所護念会に折伏攻勢をかけていた。
12月27日、池田は教学部の助師から講師に昇格した。現在のように試験を経たものではなく、当時は戸田の意向ひとつで決められ、このとき石田も助教授に昇任している。-
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