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from: 21世紀さん
2011年07月27日 12時24分48秒
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歴史改竄(かいざん)
"重要な歴史"から「邪魔者」を消去(仮題)
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―改竄(かいざん)商人と呼ばれる池田大作―
(『慧妙』H19.1.1)
池田大作による過去の改竄(かいざん)は、文章によるものだけではありません。視覚に訴える手法も大いに使われているのです。
創価学会では、"重要な歴史"の一場面を描(か)いた絵画を"重宝"にしています。
そうした絵画のいくつかを、その元となった写真と対比してみましょう。
写真と絵を、よく見比べてください。どこか違っているはずです。そう、写真には写っている人間が絵では削られ、また、写っていない人間が書き加えられたりしているのです。
【「河口湖畔での水滸会」】
まず1枚目。富士山を背景に、戸田会長と池田大作がイスに腰かけて、何かに見入っている絵。これには「河口湖畔での水滸会」との題が付けられています。
掲載されていた『聖教グラフ』には、
「昭和30年6月11、12日の両日、水滸会のメンバー83人は、山梨県の河口湖、山中湖に1泊2日の野外訓練を行った。青年をこよなく愛する戸田会長は、池田名誉会長(当時・青年室長)ととむに水滸会メンバーの熱こもる相撲を観戦」
との解説が付けられています。
この解説は、間違いではありません。が、実際には写真のように、戸田会長の周(まわ)りには多くの青年部幹部がおり、戸田会長と池田大作の間の特別な関係を象徴するような場面では、けっしてないのです。
それを、あたかも戸田会長と池田大作との"師弟相対の一場面"風に仕立ててしまうのですから、呆(あき)れたものです。
[画像]:周囲の青年部幹部を消し去り、戸田会長との"特別な関係"を演出-
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コメント: 全13件
from: 21世紀さん
2011年08月01日 07時29分13秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
55年目に検証する「小樽問答」の真実!
▲創価学会が発行した『小樽問答誌』(写真は再版本)。法論の大勝利を謳うが、よくよく検証すれば、それは学会流の権謀術数で勝ち取ったものだった
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―「宗門が逃げた」とは見当違いの悪口―
―真の法論とは呼び難い恥ずべき実態―
―「小樽問答」はまさに学会の独善的体質を証明―
(『慧妙』H22.3.1)
3月11日は、昭和30年、北海道・小樽において、創価学会と日蓮宗との間で論争が交わされた日。創価学会では、これを「小樽問答」と称し、この論争によって"学会の正義を社会に証明"した(?)、としている。
また、この論争に関して創価学会は近年、"宗門が法論から逃避したため、代わりに創価学会が受けて立った"などと喧伝(けんでん)している。
だが、当時の資料を詳細に検討すれば、これらの主張がとんでもないマヤカシであることがハッキリと浮かび上がる。
本年は、「小樽問答」が行なわれて55年という節目の年。そこで本紙は改めて、「小樽問答」とはいったい何であったのかを、当時の音声資料や学会の出版物に基づき、綿密に検証する。
【これで「学会の正義を証明」!?】
―呆れるばかりの権謀術数の数々―
昭和30年3月11日に、創価学会と身延日蓮宗との間で行なわれた「小樽問答」--。
創価学会では、この問答によって学会の正義を社会に証明した、と、盛んに喧伝するが、音声資料や出版物を調べれば調べるほど、浮かび上がってくるのは、うす汚ない権謀術数(けんぼうじゅっすう)の数々と、学会の不正直な姿ばかり。以下にそれを羅列(られつ)する。
まず初めは、入場者数。そもそもこの問答、当初の取り決めでは、入場者数は学会側・身延側とも同数とし、会場内も、演台に向かって右半分が学会側、左半分が身延側と決められていた。
ところが学会側はこれを無視。学会側の席を埋め尽くしただけでは足りずに、身延側から抗議があったにも拘(かか)わらず、身延側の後ろ半分も学会員で占拠してしまったのである。
その結果、入場者数は、学会側の約750名に対し、身延側は約300名と、著しく不均衡(ふきんこう)な数字となり、身延側に精神的な圧迫を加えることに成功した。
そして、いざ討論となると、学会側の司会役を務めた池田大作が、事前の取り決めの甘さにもつけ込み、司会の立場を越えた行為を繰り返した。これは当時の音声記録に明らかだ。
池田は、身延側の登壇者が言葉に詰まったかと見るや、間髪(かんぱつ)入れずに「講師の方はどんどんお話しになってください」「講師の方は続行してください」「あと1分30秒です」「あと1分」「あと30秒」と、登壇者をせかして揺さぶる。
さらには、身延側登壇者の発言を半ば強引に中断させる、学会側登壇者の説明不足に対する場内質問者の不満の弁を強引に押さえ込む、といったことも行なった。
また、採決についての取り決めが曖昧(あいまい)だったことにつけ込み、身延側司会者の抗議をよそに、「身延派の先生が文証を出した、と思った方は立ってください」「この問題に対して、長谷川先生(身延側講師)の質問に対して小平先生が答えていないという方はお立ちください」と、最初から数の少ない身延側を相手に多数決の形を取って、身延側の敗北を脚色し、最後には、これまた身延側司会者の抗議をよそに、学会側に身延の管長への人身攻撃を行なわせた上で、勝手な勝利宣言を行なっているのだ。
そもそも中立であるべき司会役が、これほど一方的な仕切りをして、よいはずがあるまい。
だが、池田は、学会側がしきりに飛ばすヤジで場内が騒然となっていることを背景に、身延側を押し切ってしまったのである。
音声資料の最後は「万歳」の声と学会歌の高唱で終わっているが、これが"学会の正義を社会に証明"した姿だとすれば、とんだ"正義"があったものだ。
これはむしろ、学会の独善的で横暴な体質を、歴史上に証明した姿、というべきだろう。
【"日蓮正宗あってこそ"の学会】
―論争の不備を日達上人が補足―
さてここで、「小樽問答」の発端と、その経緯を見てみる。
「小樽問答」は、創価学会員・谷紀恵子の折伏した竹森某が脱会し、日蓮宗に帰伏した問題に絡んで、谷ら学会婦人部3人と、日蓮宗・妙龍寺佳職ら2人との間で論争が起き、その際、3月に御法主上人が北海道に御親教されることを聞き及んでいた谷が、相手の誘いに乗る形で"御法主上人御一行が来道されるので、その際、日蓮宗と日蓮正宗との間で法論を行ない、雌雄(しゆう)を決すべし"と応じたことに端を発する。そしてこの事実は、創価学会本部と宗務院に伝達された。
これを受けて3月4日、創価学会会長の戸田城聖と、宗務院の細井庶務部長・早瀬教学部長との間での話し合いがもたれ、戸田はその場で、学会員がそのきっかけを作ったことでもあり、また、法義論争に対する絶対的な自信から、猊下の御親教で多忙を極める御宗門のお手を煩(わずら)わせるまでもない、と、法論は一切、創価学会で引き受けることを申し出た。
すなわち、戸田城聖が『小樽問答誌』に
「当日は日蓮正宗法主水谷日昇上人が北海道御親教の途路、小樽へ立ち寄られる日である。両尊師の御心配も当然のことである。そこで私は事重大でもあるし、かつはまた信仰も哲理もない似非(エセ)日蓮宗身延山が法論をしかけるのは片腹痛いと思った。そこで即座にこの法論は私がお引き受けいたしますから心おきなく法主上人のお供をしていただきたいと申し上げた」
と書いているように、である。
ところが創価学会では、近年これを、宗門が、御法主上人御一行の小樽入りの日程を、11日から10日に変更したことを奇貨として「法論から逃げた」「早瀬(教学部長)が戸田先生のもとを訪れ"助けてください"と泣きついた」等と喧伝している。
だが、宗門側には、身延との法論自体を逃避せねばならぬ理由など1つもない。何故ならば、身延各派との法論は過去に何度も行なわれており、彼らの邪義の悉(ことごと)くが、すでに日蓮正宗によって破折され尽くしていたからである。
それに、そもそも創価学会が「小樽問答」の中で主張した教義的内容は、全て、日蓮正宗の教義に依(よ)ったものである。与えて言っても日蓮正宗の「代弁者」に過ぎない創価学会に、恩着せがましく言われる筋合いは、毛頭ないのである。
それより何より、当日、司会として問答を仕切った池田大作自身が、再版された『小樽問答誌』の「序」において
「とくに奇しくも、日達上人(当時、庶務部長)が、この小樽問答に臨(のぞ)まれておられたのである。しかも質問者の1人として、学会と一体となり闘魂あふれるお姿で身延側講師を徹底的に追及されたのであった。私は学会側司会者として、その時、指名させていただいたのであるが、まことに勇気百倍の思いであり、永遠に忘れえぬ感激の一瞬であったことを申さずにはいられない」
と述べていることからも、日蓮正宗という後ろ盾(だて)があってこその創価学会だったことが窺(うかが)い知れるではないか。
しかして細井庶務部長(後の日達上人)は、『小樽問答誌』に掲載された「小樽問答見聞記」と題した一文の中で、「小樽問答」に立ち会うことになった経緯を、次のように語っておられる。
「私は法主日昇上人・北海道御親教の随行として札幌の日正寺にいたとき、小樽公会堂で、わが創価学会と身延日蓮宗の公開問答が行なわれることを知って、暇(ひま)を得て、八木、中村両師と数尺の積雪の中を歩いて、小樽公会堂に聴衆のひとりとして列席して、問答のありさまを親しく見聞することができた。」
すなわち細井庶務部長は、日昇上人から「暇」すなわち許可をいただいて、問答の現場に出向いたわけであり、言い換えるなら、いざという時には創価学会に助太刀できるよう、日昇上人の御意のもとに参加した形だったわけである。
そして、細井庶務部長は実際に、身延側講師に対する質問という形で創価学会に加勢したのだ。
なお、細井庶務部長は同文の中で、創価学会側講師の弁論に補足説明を加えておられる。
ことに、身延側講師が『御本尊七箇相承』の記述を引用し、"「仏滅後二千二百三十余年」と書け、とあるのに、戒壇の御本尊には「仏滅後二千二百二十余年」とあるからおかしい"と主張したことに対し、学会側講師が何ら反論しなかったことにつき、
「本尊七箇の相承は弘安5年で仏滅後二千二百三十余年(大聖人の御計算で弘安4年が仏滅後二千二百三十年にあたる)となるから、以後の本尊は三十余年と書けとあっても、戒壇大御本尊は弘安2年であるから二十余年とおしたためになってあって正しいではないか」
と、簡便かつ理路整然と破折されているのである。
つまり、学会側講師がなした弁論のみでは全く不足で、細井庶務部長、すなわち日蓮正宗から見れば、「小樽問答」を記録として残すからには、反論の余地なきよう、きちっと補足しておく必要があった、ということ。要は、その場の勢いでは勝ったものの、冷静な視点で点検すれば、創価学会の主張だけでは完全ではなかった、ということだ。
日蓮正宗の「代弁者」たる創価学会は、姑息(こそく)な策略によって作り上げた場の空気だけで「完全勝利」を主張してきたものの、心静かに調べてみれば、十分な代弁すらできていなかった--以上が「小樽問答」の実態である。
にも拘わらず、「小樽問答」で「学会の正義を社会に証明」したと言い、あろうことか日蓮正宗を「法論から逃げた」「学会に泣きついた」と謗(そし)る創価学会の不正直さには、ホトホト呆(あき)れ返るしかない。
学会員諸氏よ、あなた方はまだ、こんな創価学会を信じきっていくのか!?
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2011年08月01日 07時22分01秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
「小樽問答」
▲『宗内通俗問答大意』(創価学会発行のものと、暁鐘編集室発行の『現代語訳』)
【学会が『宗内通俗問答大意』を再刊】
―戸田会長も「きわめて有意義な書」と―
さて、「小樽問答」から2年後の昭和32年、創価学会は、すでに絶版となっていた『宗内通俗問答大意』(前出)を再版した。
しかして、創価学会2代会長・戸田城聖はその「再版の序」に
「明治30年に発刊された『宗内通俗問答大意』をここに再版し発行することになった。
日蓮宗と称する各派の多い中で、7百年にわたり真に正法正義を伝承してきている正統嫡流(ちゃくりゅう)は、独りわが日蓮正宗大石寺なることは、今さら問答・論議の余地のないところである。しかるにわが創価学会が広宣流布の途上における大闘争を展開しつつある今日、明治の初年からどのような論争が行なわれつつあったかを知るのもまた有意義であり、さらに本書は宗義の奥底を各方面にわたって問答の形で詳述している。日蓮正宗の教学の大綱を知る上にもきわめて有意義であると信ずる。
よって教学部長小平芳平君に命じて、若干の註釈を加え、漢文体のところはすべて述べ書きにして、再版することにした。教学部員を始め会員諸氏が本書を手にして、正宗教学の大綱を把握(はあく)されるよう願うものである」
と記している。
つまり戸田城聖は、「小樽問答」について、"学会の正義を社会に証明"した、などと慢心したわけではなく、むしろ、日蓮正宗が行なってきたこれまでの問答をいっそう謙虚(けんきょ)に学ぶ必要性を痛感し、同書の再版を命じ、会員に対し、同書をもって研鑽(けんさん)に励むよう督励(とくれい)しているのである。
その「師」の心を忘れたのか、日蓮正宗が「敵前逃亡した」などと嘯(うそぶ)き、あたかも学会の独自の教学力で身延を破折したかのごとく喧伝(けんでん)する池田大作は、恥知らずの大悪人である。
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from: 21世紀さん
2011年07月31日 08時16分32秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
「小樽問答」
「小樽問答」にまつわる正宗誹謗を破す
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―「宗門が学会に助け求め敵前逃亡」だって!?―
―日蓮正宗の破邪顕正の歴史は赫々!―
―戸田会長も"宗門から学ベ"と督励―
(『慧妙』H22.3.16)
創価学会が"学会の正義を社会に証明"したとする小樽問答―。
しかしその実態は、真の法論とも呼び難(がた)い、恥ずべき内容を含んでいたことを前号で検証した。
しかるに池田大作は、この小樽問答を今日の宗門誹謗(ひぼう)に利用して、
「本来なら、日蓮正宗の宗門自らが、日興上人の仇(あだ)を討つために、勇んで戦いの先陣を切るべきである。
ところが、宗門には、戦う気概(きがい)など微塵(みじん)もなかった。それどころか、戸田先生を学会本部に訪ね、平身低頭、助けを求めてきたのだ。
情けない『敵前逃亡』であった」(「随筆人間世紀の光」=『聖教新聞』平成17年3月22日付)
などと言い放ち、学会メディアもこれに追従している。
だが、池田学会にとってはまことに気の毒なことだが、日蓮宗各派の邪義はすでに、日蓮正宗によって明治期にはほぼ破折され尽くしていたのであり、日蓮正宗が創価学会に助けを求める必要など、微塵もなかったのである。それどころか、日蓮正宗によってなされた破折を、学会が後から学んで、小樽問答のバックボーンとしていたことが明らかである。
恥知らずな学会の宣伝を破す。
【他門流を悉く破した日蓮正宗】
―学会はその教義を用いただけ―
大石寺門流(日蓮正宗)と他門流との間の法論は、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。特に江戸時代末期から明治期にかけては、全国各地で頻繁に法論が行なわれたが、中でも代表的なものは、江戸時代末期の「砂村問答」、明治に入っての「両山(霑志)問答」、それに「横浜問答」であろう。
「砂村問答」とは、江戸・目黒在住の大石寺信徒、永瀬清十郎と、本迹一致派(身延派)の複数の強信者との間で、数回にわたって行なわれた問答の総称。
一連の問答では
「本迹の勝劣
御魂魄(こんぱく)の身延不在
造像の誤り
本尊問答抄の正意
大聖人正意の本尊
大聖人正意の法衣
一部読誦の当否
日興上人への相承
人法一箇の深義
身延貫首の念仏推奨
身延一山謗法の現証」
等について論議がなされたが、それらは逐一、永瀬清十郎が完膚(かんぷ)無きまでに破折した。
「両山(霑志)問答」とは、総本山第52世・日霑上人と、北山本門寺第34代住職・玉野日志との間で書面をもって交わされた問答のこと。
この問答で日霑上人は、
「本門寺寺号の所以『日興跡条々事』への疑義
本門戒壇の大御本尊への疑義
大聖人御遺骨への疑難」
などについて、日志を徹底的に論破・破折された。
「横浜問答」とは、明治15年(1882年)に、横浜の富士派(大石寺)本門講と、身延一致派の流れを汲(く)む蓮華会(会長・田中巴之助=後に「国柱会」を設立した田中智学)との間で行なわれた、書面をもっての教義論争。
当初は、
「本尊論
下種僧宝論
修行論」
についての本門講からの問いかけで始まった論争は、やがて
「本仏論
本尊論
仏宝論」
に絞られていった。
論理明快なる本門講側の答弁書に対して、蓮華会側の弁駁(べんばく)書の内容は次第に支離滅裂となり、結局、本門講の6回目の質問に対して、蓮華会はついに弁駁書を返せなかった。
そのため本門講は、約定違反を明記した処断書を蓮華会側に送り、問答の終局を宣言。
これに対し、蓮華会会長の田中はにわかに行方をくらましてしまい、問答は本門講の勝利に終わったのである。
このほか、明治8年(1875年)には、大阪蓮華寺講頭・森村平治等が要法寺末・蓮興寺と^また同年には、堺・本伝寺本立講が日蓮宗一致門流・妙見朋友講と、明治9年(1876年)には、京都住本寺信徒・加藤廉三が日蓮宗妙法寺・日庸と、明治16年(1883年)には、大阪蓮華寺信徒・荒木清勇が法華宗八品派と、(荒木は、明治18年〈1885年〉にも、一致派・畠山弥兵衛と)、明治20年(1887年)には、久留米霑妙寺・佐野広謙尼(妙寿日成尼)が身延派・頂妙寺の僧と、明治23年(1890年)には、御隠尊第53世日盛上人が身延派・清水梁山と、明治26年(1893年)には、京都住本寺信徒・加藤道栄が要法寺塔中真如院・矢田志玄と、それぞれ法義論争を行ない、相手を論破している。
さらには、こうした実際の法論だけでなく、他門流各派の主張を整理し、これに適切な破折を加えた破折書も出版されている。すなわち、明治30年に発行された『宗内通俗問答大意』である(現在、暁鐘編集室より『現代語訳・宗内通俗問答大意』として発刊)。
その著者は、富士本智境尊師(広布院日奘贈上人)。師は、
「(明治10年、20歳の時)浄土宗と戦える久代問答には30人を帰伏せしめ、翌11年には身延派妙法寺日庸と法論して、同寺檀徒総代を合む10人あまりを帰正せしむ。また念仏の本田久助と丹波篠山にて法論を戦わす」(『妙光寺史』)
等々、若年より折伏弘教に尽力された方であるが、信徒より「自利利他のために宗内(※日蓮門流内全般の意)の法義邪正易解の冊子を得て、入門得道の階梯(かいてい)となさん」との要請を受け、同書を著わしたもの。
同書は、一致派はもとより、勝劣派の各門流(日隆門流・日什門流・日陣門流・日真門流)の邪義も網羅(もうら)して、それを
「本迹一致の所立を論ず
観心一致の所立を論ず
八品派の所立を論ず
八品派三途不成の邪義を論ず
一品二半の所立を論ず
寿量一品の所立を論ず
法華経一部の読不を論ず。併せて時刻相応の宗祖正意の読誦を弁ず
正助二行の要否を論ず
造像の謗法を論ず。併せて末法適時宗祖正意の本尊を弁ず
身延山謗法を論ず。併せて日興上人身延離山の原因を弁ず
師資相承を論ず
内証仏法血脈相承を論ず
経巻相承を論ず
血脈相承の有無を論ず
日朗譲状の妄誕を論ず
本尊書写の正否を論ず
黒衣の謗法を論ず。併せて宗祖正意の法服を弁ず
録内録外の用否を論ず
菩薩号の不可を論ず」
の19章に分け、それぞれ問答形式で破折したもの。平易な文章で、初信の者にも解りやすい一書である。
また、後年になって聞かれるようになった「佐渡始顕の本尊」と本門戒壇の大御本尊との優劣論議も、「小樽問答」以前に、日淳上人が著書『日蓮大聖人の教義』の中で破折されているなど、小樽問答において、身延側が主張した邪義は、そのほとんどがすでに日蓮正宗によって破折済みで、学会もこれらを学んで身延破折にあたったことが明らかである。
したがって、日蓮正宗にとって「敵前逃亡」しなければならぬ理由など、1つとしてなかった、と言っているのである。
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
「創共協定」壊しをめぐる新手の歴史偽造
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―竹入氏に「協定壊し」の責任を押しつける―
(本誌編集部『フォーラム21』H18.6.15)
竹入バッシングを利用する形で、創価学会による新手の歴史偽造が始まった。1974年12月の「創共協定」をめぐる事実の改竄である。『創価新報』5月17日付「青年部座談会」。「竹入(義勝・元公明党委員長)は共産党恐怖症だった」「『創共協定』にも嫉妬の難癖」の見出しで、こう述べている。
「昭和49年12月のことだ。作家の松本清張氏の仲介で、池田名誉会長と共産党の宮本議長(当時)が会談した」
「池田先生は『共産党との間に無用の摩擦を生じ、選挙のたびに学会員を過度の政争の手段にしてはならない』と判断され、率直に話し合われたんだ」
「当時、心ある識者はみな、絶賛していた」
「協定には『宗教と共産主義の共存』という文明史的な意義があった」
「ところが竹入など、協定を結んだ意義も、時代の流れも、まったく理解できなかった。協定に難癖を付け『オレは今まで通り、共産党をブッ叩く』などと狂ったように言い放った」
「嫉妬だよ、嫉妬。自分には、大きく構想を描き、実行する、先見もない。度量もない。だから池田先生の偉業に嫉妬していたんだよ、あいつは」
「一方で共産党も、協定を政治的に利用して、歪めて、壊してしまった」
「要するに、竹入が共産党を煽って火を付けた張本人だった。あまりにひどかったから、支持団体の学会が、火を消そうと懸命に努力してやった」
――「協定」は高度の文明論で、学会は誠実に守ろうとしたけれど、竹入氏と彼に煽られた共産党がブチ壊したという筋書である。
正式には「日本共産党と創価学会との合意についての協定」という。略称「創共協定」。共産党側は「共創協定」と呼ぶ。74年12月28日に野崎勲・学会総務(当時)と上田耕一郎・共産党常任幹部会委員(同)が署名し、双方の正式な印鑑を押して締結し、翌年7月27日に発表された。政党が特定宗教団体と「協定」すること自体を、政教分離・信教の自由の観点から疑問視する意見もある。それはさておき、協定の内容はたしかに“立派“だ。協定は前文で双方の立場の違いを確認したうえで、「日本の将来のため、世界の平和のため」に7項目の合意事項をあげている。
「創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない。日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する」(第2項)、「双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題もふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷をおこなわない。……すべての問題は、協議によって解決する」(第3項)、「民衆の福祉の向上を実現するために、たがいに努力しあう」(第4項)、「ファシズムの攻撃にたいしては、断固反対し、相互に守りあう」(第6項)……。
【協定発表翌日の「秋谷見解」で協定を骨抜きに】
「創価新報」の言い分が正しいかどうか、「協定」の準備から発表、またたく間の崩壊までの客観的な経過をたどってみる。
・74年10月30日 松本清張氏の立ち会いで第1回目の懇談。共産党からは上田氏と山下文男文化部長、創価学会からは野崎氏と志村栄一文芸部長。以降、松本宅で7回懇談。
・74年12月28日 「協定」に署名押印。
・74年12月29日 松本宅で池田、宮本懇談。
・75年7月12日 ホテル・ニューオータニで「池田・宮本人生対談」(『毎日新聞』が連載)。
・75年7月16日 『聖教新聞』に青木亨副会長(現理事長)が「池田・宮本対談について」を発表。「組織的共闘を意味するものではない」「今後とも公明党を支援」と表明。
・75年7月27日 双方が同時に「協定」と「経過について」を発表。
・75年7月28日 協定について「秋谷見解」発表。翌日付『聖教新聞』に掲載。
秋谷栄之助副会長(現会長)はそのなかで、協定は「共闘なき共存」を定めたものだとして、協定にある「協議」や「協調」の精神を否定した。第6項の「ファシズムに反対し相互に守りあう」とは、「日本に安定した中道勢力を拡大すること」だと述べ、「公明党が共産党との間で、憲法三原理をめぐる憲法論争を続けていくこと」を、学会として「肯定している」と、同党の反共路線推進を認めた。さらに、「双方間の誹謗中傷はおこなわない」という第3項の意味は、「学会が公明党を支援するということに対して、『政教一致である』といった類の誹謗中傷は、いっさい行わないことです」とまで解説してみせた。
協定発表の翌日、早々と協定の内容を都合よくすり替え、骨抜きにしたのである。発表直前の青木見解とあわせて、協定を壊しにかかったのはほかならぬ、現在の学会会長と理事長だったのだ。『創価新報』のいうように共産党が「政治的に利用」する時間すらなかったのである。約1ヵ月後の8月20日、池田大作氏は学会壮年部代表者集会で、秋谷見解を公式に追認した。
75年12月の共産党中央委員会総会決議によると、共産党は協定調印1ヵ月後(75年1月)の中央委員会総会で協定の内容と経過を報告し、了承をとりつけた。その後、「公的組織としての社会的責任からも、合意協定を早く公表すべきことを、創価学会にたいしてくり返し強調した」けれど、学会の都合により7ヵ月も引き延ばされた。
同党は秋谷見解後も、「すべての問題は、協議によって解決する」(第3項)との協定にもとづき会見を申し入れたが、学会の拒否にあったとしている。こうして創共協定は発表したままで、急速に“死文“への道を歩んだ。それが、ことの真相である。
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池田豚作、
from: 21世紀さん
2011年07月30日 19時23分23秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
「追撃の手をゆるめるな!」の真相
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―戸田氏の遺言?/「宗門に巣くう邪悪と戦え、追撃の手をゆるめるな!」と―
―本当は/"追撃"は諸宗に対する言葉、"遺言"は池田の自作自演―
(『慧妙』H9.6.16編集)
前回までに、「御僧侶水漬け事件」を検証したが、これと関連して、まことしやかに述べられているのが、「追撃の手をゆるめるな!」との戸田氏の遺言(?)である。
(?)を付したのは、これが本当に、戸田氏が死を目前にして遺(のこ)した言葉なのかどうか、疑わしいからである。
今回は、この疑わしい「遺言」を検証したい。
次に挙げるのは、「水漬け事件」の後、池田が戸田氏に総登山の模様を報告する場面を述べた、『人間革命』の一節である。
************************************************************
「そうか…。何も問題はないか。青年達は、皆、元気か……」
戸田は、いとおしそうな目でたずねた。
「はい、皆、元気で頑張っております。問題といえば、あまりにも非道な僧侶がおりましたので、私どもで反省を促す意味から抗議をいたしました」
伸一は、あの所化頭の一件を戸田に伝えた。
戸田は軽く眼を閉じて伸一の報告を聞いていたが、聞き終わると、さも残念そうな表情で語りはじめた。
「情けないことだな……。これは、小さな事のようだが……、宗門の腐敗、堕落というじつに大きな問題をはらんでいるのだ。(中略)」
そして、戸田は、最後の力を振り絞るよろにして叫んだ。
「そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!」(『人間革命』第12巻「寂光」の章)
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前回でも紹介した「追撃の手をゆるめるな」の場面であるが、この場面、非常におかしいのである。
順を追って究明してみよう。
この"寂光"の章が『聖教新聞』紙上に掲載されたのは平成4年11月頃(つまり、学会問題が始まってから約2年が経過した頃)だが、それ以前の学会出版物では、「追撃」云々のフレーズはしばしば見られるものの、その対象は特定されていない。
【変遷する内容】
◆先生、お身体の衰弱甚(はなはだ)し。
「あと、2、3日です。何も事故は、ございません。ご安心しておってください。大幹部も、だんだん来ております」と、申し上ぐ。
先生、ご安心しきったお顔で、「そうか」と申される。
その時、「追撃の手をゆるめるな」と、毅然たる語調でお叫びになる、大将軍の指揮に頭垂れるのみ(池田大作著『若き日の日記』S33.3.29の欄)
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池田のウソ日記『若き日の日記』昭和33年3月29日の欄では「お小僧さんをいじめ創価学会を非常に馬鹿にしている存在」についての言及はない。従って「追撃」の対象は不明確である。
↓
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◆青年部に最後の指示を下さったのは、3月29日、この日、ある人物がお小僧さんをいじめ創価学会を非常に馬鹿にしている存在の人物がおりました。その人物と青年部は闘いました。その報告を会長先生に申し上げましたところ、お休みになっておられた会長先生は、毅然としたお姿で、「一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな。一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな」というご指示を受けたのでございます(池田大作『聖教新聞』S33.4.4)
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戸田氏の逝去の翌日に開催された3月度本部幹部会を報じる『聖教新聞』(昭和33年4月4日付)。ここでは「追撃」の対象は「小僧さんをいじめ創価学会を非常に馬鹿にしている存在」であり、必ずしも僧侶ではない。
↓
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◆3月29日、青年部への最後の指示は、「一歩も退ぞくな、追撃の手をゆるめるな」の指揮であらせられた(池田大作『大白蓮華』S33.5)
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戸田氏の逝去を報じた『大白蓮華』第84号の池田の追悼文。「お小僧さんをいじめ創価学会を非常に馬鹿にしている存在」についての言及はない。
その他、この池田の話を元にした学会出版物の記述でも、「追撃」云々の話はあるが、その対象を「僧侶」とした言葉は1つもないのである。
↓
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◆戸田先生が、最後の御指導をしてくださったのは、3月29日、総本山でのことでありました。
総本山に、お小僧さんをいじめ、また、学会を軽蔑し、暴言を吐く僧侶がおりました。青年部は、その僧侶を戒め、抗議し、それを私が先生に御報告いたしました。その時、先生は、「一歩も退いてはならんぞ。追撃の手をゆるめるな!」と言われました。(『人間革命』第12巻「寂光」の章)
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戸田氏の逝去の翌日に開催された3月度本部幹部会での池田発言。この"寂光"の章が『聖教新聞』紙上に掲載されたのは平成4年11月頃(つまり、学会問題が始まってから約2年が経過した頃)。「ある人物」は「僧侶」と表現され、追撃すべき対象はハッキリと「僧侶」に絞られてくるのである。
【「追撃の手をゆるめるな」は対諸宗】
◆「-…追撃の手をゆるめるな」…との文言、これに近い文字、この意の文言、はたして戸田先生のお口から出たことはなかったのでありましょうか?
いいえ、あるのです。ただし、石田その他の人が承り耳にした、この種の文言は、小樽法論当時の身延派へ対してであり、その前の立正佼成会・仏立宗等へ対して、でありました。つまり、場面も時も相手も違うのです。
ですから、素材としての句そのものは、池田氏のオツムから発生した文言ではなくて、戸田先生の御意志で先生のお口から出たものです。(石田次男著『内外一致の妙法-この在るべからざるもの』)
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なんと、「追撃の手をゆるめるな」とは、戸田会長が、日蓮正宗以外の諸宗に対して使っていた表現だったのだ。つまり、学会が叩いてきた身延日蓮宗や立正佼成会等、それらを「追撃」せよ、と厳命した表現だった、というのである。
【3月29日、池田は戸田会長に面会せず】
さて、この、当時の大幹部さえ知らなかった(池田による作り事であれぱ、誰も知らなくて当然)戸田氏の"遺言"―このような不可解なモノが、今日まで大手を振るっているのはなぜか。
それは、この戸田氏の"遺言"なるものは、池田しかいない所で述べられた、とされていたためであろう。
◆事件は午前8時に始まり、御塔河原で午後5時に終わった。このあと池田は、「これから戸田先生に報告する」と言い、北条、森田、星野らを引き連れて、理境坊に赴いた。私も参謀室の一員として責任があるので、同行した。
ところが、階段の下まで来たところで、池田は急に、ついてきた我々全員に、「ここで待っていろ」といい、自分一人で理境坊の2階に上がって行った。そして、しばらくして下りて来ると、青年部員を集めて、こう言った。
「戸田先生は、(宗門攻撃の)追撃の手をゆるめるな、といわれた」と(当時、池田と同じく参謀室の一員であった竜年光)
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と証言している。つまり、戸田氏に報告をし"遺言"を聞いた、とする場には、池田は誰人も同行させなかった、というのだ。
じつに不自然極まりない話であるが、では、本当に池田は、理境坊の2階において、戸田氏と2人きりで話をしたのか、いや、すでに戸田氏の声が出なかったとすれぱ、せめて目と表情ででも意志を通わせたのか。
◆3月20日過ぎからは、人手を借りても、床へ身を起こすこともかなわず、病状急傾斜して、お声も出ず、御耳(というよりは皮膚であろう)だけは温度に鋭敏であられたようであります。何ともお痛ましいことでありました。会務や面接は一切禁止、というより不可能--こういう状態で面会や会話ができると思う者は、死にかけた経験がないからだ―自動禁止で、病室へは、理事長さえも近寄ってはおりません。医師以外は完壁に入室阻止です。
一切の会務は、戸田先生御自身での報告受け取り不可能・指示不可能のため、小泉理事長が責任ですべてを処理しておりました。
それなのに、29日なのに、阻止もされないで、どうして池田氏だけは、前後2度も、病床へ参上しスリ寄れたのでしょうか?お声も出ない先生から、どうして2度も〈お声での指示〉を承れたのでしょうか!
氏は、出ない声、声無き声を、心耳で聞いたのでしょうか?今ならばテレビのワイドショーものでしょう。氏の自家撞着を絵に描いたような話ではありませんか。
何でもありません。これ、全部、偽造なのです。偽造の動機は、己れの独断であることを隠すため、所化さん水漬けが「戸田先生の御命令に依ったものだ」と正当化するためでした。(同書)
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文中に「前後2度も」とか「2度も〈お声での指示〉を」等と出てくるのは、当時の学会内では、戸田氏が「御僧侶水潰け事件」を、事前にも指示し、事後にも"遺言"として指示した、とされていたからである(現在、文献で見る状況とは異なるが、これもまた、池田の情報操作の歪みによるものといえよう)。
◆傍証ですが、在山終わり頃の先生の病床には、M女さんとオシャべリ美代さん(和泉美代秘書部長)2人体制での看護が続き、あと、補佐の婦人部幹部が交代で当たっただけでした。この2人は昼夜付き切りですから、仮に、29日に池田氏が2度、病床へ参上できたとしても、戸田先生と2人きりにはなれません。ですから、「先生と私の2人だけの場で残された"遺言"の1つとなった」(第14回本幹での池田発言)は作り事であることがハッキリ判ります。(石田次男著『内外一致の妙法』)
事件が引き起こされた3月29日といえば、戸田氏逝去の4日前、石田氏の証言も十分に納得できる。
竜氏の証言では、池田は2階へ行ったことになっているが、この石田氏の証言を併せ考えてみれば、おそらく池田は、階下に幹部を残したまま2階に行き、戸田氏の病室へは入らず、否、入れず、そこでしばらく時間をっぶした後、その足で1階へおり、デッチ上げの"遺言"を皆に伝えた―というのが実際であろう。
ともあれ、西洋のことわざに「ウソは雪だるま、転がすほどに大きくなっていく」というものがあるが、この不可解な点ばかりが目立つ"遺言"も、転がすほどにウソが拡大していったもの、であることは間違いない。
【"遺言"の真相】
◆池田氏は戸田先生に面接して、"被害"を自分の口から報告申し上げ、直(じか)に"謗法征伐"の指示を受けたそうであります。これ、本当でしょうか?
リンチ済の報告の場では、「一歩も退くな!追撃の手をゆるめるな!」と御遺言兼用の御指示をいただいたのだそうです。これ、本当でしょうか?
演出上手な上に演技上手な池田氏は、この日、この事件後、担ぎ出し参加者を含む手空きの青年全員を、客殿に待機集合させておりました。アジって人を乗せる事が大好きな氏は、そこへ赴いて、キレイゴトで飾り立てた、御手製の〈先生の「追撃…」の御指示〉なるものを伝えてアジり、全員の志気をいっそう高揚させて帰りました。してやったり、ということでした。(同書)
-----------------------
つまり、池田は、「水漬け事件」に参加させた青年部員たちを客殿に集めておき、御僧侶への暴行を正当化するため、彼らに、戸田氏の言葉を捏造して伝えた、というのである。
以上のことからすると、池田は事件後、戸田氏へ報告してきたと称して、青年部員へ「追撃の手をゆるめるな」との、御僧侶への暴行行為を正当化する"遺言"を伝え、その後、幹部会では「追撃」の対象を曖昧にした"遺言"を、全会員に伝えたことになる。
今日の学会のやり口を見るような巧妙さである。
つまり、事件に直接関与した人達には「宗門御僧侶への追撃」と受け取れ、関与していない幹部・会員には「諸宗への追撃」と受け取れるよう、表現の使い分けがされているのである。
[画像]:3月度本部幹部会を報じる『聖教新聞』(昭和33年4月4日付)と『人間革命』第12巻「寂光」の章=池田は己れの言葉すら改ざんし、"御僧侶水漬け事件"の正当化を図っている
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池田豚作、
from: 21世紀さん
2011年07月30日 00時50分54秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
「御僧侶リンチ事件」の真相
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―「小僧さんをいじめた所化頭を諭(さと)した」だって!?一
―真相は「注意を逆恨みして討画的に集団暴行」―
(『慧妙』H9.5.16)
【事件の概要】
戸田会長逝去直前の昭和33年3月29日、後の池田創価学会の暴力体質を窺(うかが)わせる事件が、池田によって引き起こされた。
いわゆる「的場正順尊師水漬け事件」である。
事件は、大講堂落慶法要のため大坊に起居していた学会青年部が、当時、所化頭であった的場正順尊師から、大坊内での行状について注意されたことに始まる。
青年部幹部からそれを伝え聞いた池田は、逆上し、的場尊師を御塔川の川原に連れ出して、尊師の頭を冷たい川に押し込む等の暴行を加えたのである。
これが「水漬け事件」の概要だが、このような学会の暗部ともいうべき事件を、池田が正直に『人間革命』に載せるわけがない。
【事件の発端】
『人間革命』"寂光"の章を要約すると、所化頭を務めていた御僧侶が、暴言と暴力で小僧さんたちをいじめていたから、宗門の将来を危惧した池田が、御塔川の河原で所化頭を諄々(じゅんじゅん)と諭した、ということになっている。
もちろん、「水漬け事件」には一言も触れていない。
さて、事件の本題に入る前に、指摘しておかなければいけないことがある。それは、小説中で、池田は、事件自体が偶発的に起きたように描いているが、実際は、池田によって周到かつ計画的に行なわれた、ということである。
この点について、当時の大幹部であった竜年光氏は、
●池田は、16日に行なわれた広宣流布の模擬試験の儀式を青年部に伝授する式典の後、大蔵商事の営業部長として、北条、森田ともども、東京に帰っていた。ところが、事件の前日に当たる27日、北条、森田を引き連れて、突然、総本山に戻ってきたのだ。
この頃、連日、全国から千人以上の学会員が登山してきていた。それら学会員の世話や整理のために、30〜40人の青年部員が「登山部員」として大坊内の部屋に宿泊し、「客殿」で集会・打ち合わせをしていた。登山部長は星野義雄だった。(中略)ところが、青年部員たちが、小僧さんたちに、煙草や日用品を買いに行かせるなど私用を頼み、そのお礼として菓子をやったりソバ代を出してやったりしていたらしい。
所化・小僧さんたちの親代わりとして指導ずる立場にあった「所化頭」の的場正順師(当時33歳)は、これを知り、再三にわたって青年部に抗議していた。青年部と的場師の感情的対立は、星野を通して、逐一、池田に報告されていた。池田はこれをもとに、一騒動起こすために総本山にやってきたのだ(竜年光著『日蓮正宗の敵・池田創価学会を解敬させよ』)
-----------------------
と、的場尊師から注意された池田が、これを根にもって計画的に暴行事件を起こしたことを指摘している。
また、同じく大幹部であった石田次男氏も、
●在山中、宿坊不足で、相当数が大坊へ宿泊させていただきました。本山の所化小僧さんたちとほとんど雑居です。昔の大坊は今と違って、設備いっさい粗末で不便なものでした。不幸の種蒔(たねまき)はここでの起居から起こりました。
剥(む)き付けに書くのは遠慮しなければなりませんが、今と違って、昔の所化小僧さん方の生活は「旧陸軍内務班の暮らし振りにさも似たり」、と申せば、高齢僧侶の方々は、ハハーンと、お判りだと思いまず。(中略)
泊まり込んだ学会青年部員達は、新米の所化小僧さん達と同様に、入営新兵みたいな事になりました。これらは当然、青年部へ報告されました。(中略)池田氏の独断と偏見とには、自分の可愛い部下達がミソクソ扱いにされた、と映りました。つまり、突っ込み不足で短絡な癖を持つ、情量主義者の池田氏は、事態を情念で捉えたのです。
(中略)
ここで日本一の身勝手男・池田参謀室長は、1人で勝手に、ある事を決意しました。(中略)入営新兵扱いされた青年部貫達の"カタキ"を討つべく、大坊最古参基幹兵たる所化頭へ懲罰を加えて、水漬(みづ)く"屍(かばね)"にすることです(石田次男著『内外一致の妙法-この在るべからざるもの』)
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と、竜氏と同様に、池田の計画的犯行を指摘しているのである。
さて、本題に入ろう。
池田は、このような状況など小説中にはおくびにも出さず、的場尊師の"悪業"を次のようにデッチ上げている。
************************************************************
青年は、いたいけな少年たちを、怒鳴りつける僧侶を見て、あっけにとられて立ち止まった。この僧侶は所化頭であった。酒を飲んでいると見え、顔は異様に赤かった。(中略)所化頭は、さんざん罵声を浴びせると、ひとかかえほどもある六壷の大きな鈴を手にし、1人のお小僧さんの頭に被せた。そして、その上から、鈴棒を力まかせに振り下ろし、打ち据えたのである。(中略)
青年部は驚いて立ち去り、理境坊の運営本部に行くと、参謀窒長の山本伸一にその模様を伝えた。
「また、そんなことがあったのか……」
じつはその前にも、清掃作業のために総本山に雇われていた特別作業班の青年部員から、同じような報告が寄せられていたのである。(中略)
作業班の青年たちは大坊に宿泊していたが、この所化頭が酒を飲んで、お小僧さんたちをすごい剣幕で罵倒する現場を目にした。
「お前たちなど、身延の山へ行ってしまえ!」
謗法の身延へ行けなどという言葉を日運正宗の僧侶が口にするなど、およそ考えられないことであった。(中略)
「参謀室長、それだけじゃありません。あの所化頭は、登山者がお小僧さんのために持ってきた各地の銘菓や果物に対して、"こんな余り物を"と吐き捨てるように言っているんです。16日に戸田先生を車駕にお乗せしたことについても、"総本山では乗物は禁止されているのに、いい気になってなんだ"と声高に罵っていました。もう、黙っているわけにはいきません」
青年たちにしてみれば、この所化頭の振る舞いはとても許すことのできない所業であった。(『人間革命』第12巻「寂光」の章)
------------------------------------------------------------
文中で省略した箇処でも、延々と、的場尊師の悪口を書き連ねている。
しかし、池田が挙げたこうした"悪業"の数々も、じつは、捏造・スリカエの産物であったことを、竜氏は次のように証言している。
●的場師の手記によれば、池田が来た27日の夜、青年部員たちが「正宗の坊主も、邪宗の坊主となんら変わりない。物さえ与えれば、自分たちのいうことを聞く」と言っていたのを的場師が聞き、翌28日の朝、六壷での所化小僧さんとの勤行の後、厳しく注意した。
隣の客殿でこれを聞いていた青年部員達は激しく反発し、的場師に抗議した。すると的場師はこう逆襲した。
「本山には本山のしきたりがある。あなたたちも、本山のしきたりをよく勉強しなさい。例えば、本山の中では乗物は禁止されている。それなのに、あなたたちの会長は、豪華な輿(こし)に乗って山内を練り歩き、宗教界の王者といって威張っている。これは増上慢というものだ」
このことを「ご注進」された池田大作は激怒した。
とくに池田を怒らせたのは、輿の一件だろう。前述のごとく、16日の式典の際、戸田先生は体が弱っていたので、目立たぬように会場へ行くため、蓮台のようなものを作らせようとした。ところが池田は先生の意に反して豪華な輿を作ってきたので、先生から厳しく叱られた。的場師の指摘は、池田の最も痛いところを突いたのだ。(竜年光著『日蓮正宗の敵・池田創価学会を解散させよ』)
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文中に出てくる「的場師の手記」とは、創価学会がいかに総本山大石寺に圧力を加えたかという証拠資料として、裁判所にも提出された、的場尊師が事件を記録したメモのことである。
同手記には、学会青年部に対し、
「小僧とはいえ修行中の僧侶である。信者が僧に私用をいいつけるのは遠慮してもらいたい。大坊は本来、修行僧の宿泊するところを、大講堂落慶式典だというので、猊下とお仲居の特別の許可を得てお泊めしているのである」
と、厳しく注意した旨も記されているという。
これらの証言からわかるように、事件は、本山の山法山規にしたがった的場尊師の指摘を、学会への悪口と捉えた池田が、的場尊師を逆恨みして起こしたものだった、ということである。
それにしても、的場尊師が、本宗の化儀・信条の上から学会青年部に対して行った指摘を、悪口・雑言としか捉えられない池田大作―学会の無慚・無愧・無反省の体質は、やはり池田が作ったのだ。
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―「御僧侶が酔っていたから潤井川で顔を洗わせた」だと?―
―真相は「池田が青年部を指揮し御僧侶を川に放り込んだ」―
(『慧妙』H9.6.1)
【事件の検証】
前回、「御僧侶水漬け事件」の発端と概略を記した。今回は、事件そのものを検証してみよう。
的場正順尊師の指摘に激怒した池田は、的場尊師に対し「水漬け」という暴力行為に及んでいくが、この場面も、池田の手にかかると、次のように変わる。
************************************************************
伸一は、所化頭に反省を求める必要があると考え、総本山の内事部を訪ねた。内事部にいた宗門の理事は、事情を聞くと、「それでは、彼を呼んで反省を促し、謝罪させましょう」と約束してくれた。しかし、所化頭は、自分の言動が問題にされていることを知ると、姿を隠してしまった。だが、近くの旅館の押入に隠れているところを見つけられ、やむなく六壼にやってきた。そこには、学会の青年部の幹部も2、30人ほど出向いていた。(中略)
所化頭は押し黙って青年たちを睨(にら)みつけるばかりで、まったく反省している様子はなかった。同席していた僧侶も困惑していた。
間もなく御開扉のために、日淳上人がここを通られる時間が迫っていた。青年たちは、ご心配をおかけしてはならないとの思いから、場所を移して話し合うことにした。立ち会いの僧侶と所化頭とともに、青年たちは潤井川へ向かった。
(中略)
青年の1人が言った。
「酔っているのなら、顔を洗ってきたらどうですか」
所化頭は衣を脱ぐと、川に入り、顔を洗いはじめた。戻ってくるのを待って、伸一は込み上げる激情をこらえ、諄々(じゅんじゅん)と諭(さと)すように語りはじめた。」(『人間革命』第12巻「寂光」の章)
------------------------------------------------------------
以上のように『人間革命』では、何事もなかったかのごとく淡々と描いてあるが、この記述はとんでもない大ウソである。
的場尊師は、事件の模様につき、大要、次のように証言している。
●六壷に赴いた的場尊師を、池田をはじめとする学会青年部30〜40人ほどが待ち受け、池田は青年部に「この小僧の衣を脱がせろ」と命じたが、的場尊師は、「信者が法衣を脱がせたのではバチが当たる。自分でやる」と、いったん部屋に戻り法衣をきちんとたたみ、下に巻ていた白装束で再び出向いた。
戻ってきた的場尊師を前に、池田は、背広のポケットに手を入れた得意のポースで「こいつを担ぎ上げろ」と青年達に命じたが、的場尊師は「足があるのだから自分で歩く」と、青年達の手を振り切り、押されるようにして御塔川の河原に連れて行かれた。
この時、池田は的場尊師に対し「学会と会長をバカにして申し訳ないと謝罪文を書け」と迫り、的場尊師も「死んでも書かぬ」と返した。
そのような池田に、的場尊師が「殺す気か」と訪ねると、池田は、「そこまでやる気はない、反省させるのだ」と言い、白衣を取って下着だけになった的場尊師を、青年部員が数人がかりで担ぎ上げて御塔川に放り込んだ。
いつのまにか青年部員は2百人ほどにふくれ上がり、罵声(ばせい)を浴びせては、代わる代わる的場尊師に馬乗りになって、頭を水の中につっこむ等の暴行を加えたのである。
その間、池田は、ポケットに手を差し入れた、例のポーズで見下しながら、指揮していたという。(的場尊師の証言『週刊文春』S52.9.1要旨)
また、当時、参謀室の一員であった竜年光氏も、
●池田は、「的場の頭を冷やしてやれ!」と叫んだ。的場師は、「後で白衣や襦袢(じゅばん)を洗濯するのは大儀だから、自分で脱ぐから待て」といい、自ら帯を解き、白衣を畳んで石の上に置いた。すると池田は、裸になった的場師を青年部員に担き上げさせ、冷たい水の中に頭を何度も押し込ませた。この時の池田の異常な形相は、これまで誰にも見せなかった険悪なものだった(竜年光著『日蓮正宗の敵・池田創価学会を解散させよ』)
と語っている。さらに、当時、日淳上人の御仲居を務められていた八木直道尊師(故人)も、
●急を聞いて駆けつけ、この暴行をやめさせようとしたが、池田がそれを聞かなかったため、「私は猊下の代理だ」と一喝し、この暴行をやめさせた(当時、日淳上人の御仲居を務められていた八木直道尊師)
-----------------------
と証言している。
以上が、「御僧侶水漬け事件」の顛末(てんまつ)であるが、池田の『人間革命』がいかに欺瞞に満ち、いかに多くのウソで塗り固められているかがわかろう。
【「追撃の手をゆるめるな」】
さて、池田は、この事件について、事件5日後の昭和33年4月3日、つまり戸田氏逝去の翌日の本部幹部会の席上、
************************************************************
青年部に最後の指示を下さったのは、3月29日、この日、ある人物が、お小僧さんをいじめ創価学会を非常に馬鹿にしている存在の人物がおりました。その人物と青年部は闘いました。その報告を会長先生に申し上げましたところ、お休みになっておられた会長先生は、毅然としたお姿で、「一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな。一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな」というご指示を受けたのでございます(池田大作『聖教新聞』S33.4.4)
------------------------------------------------------------
と発表し、戸田氏が事件を承認したかのように言い繕(つくろ)い、これを正当化しようとしている。
「追撃の手をゆるめるな」との戸田氏の"遺言"とやらについては、次回にゆずるが、では、戸田氏は、この事件に関与していたのであろうか。
まず、戸田氏自身は、
●立宗7百年を明年にひかえて、ますます宗門内の団結を固め、折伏逆化に進むべきことは当然でありますが、「或者(あるもの)は僧を軽侮する風潮すらきざせるを感ぜられることは慨嘆(がいたん)を禁じ得ないのである」とのおことばを拝しましたことは、とくに宗徒として、もっとも厳戒せねばならぬ点でありながら、ご心痛をいただいたことについて、各人、深く己れの謗法の有無を省みねばならぬところであります(『戸田城聖全集』第3巻)
-----------------------
と述べているように、御僧侶を軽侮することすら"謗法"と捉え、また、会員達にもそのように指導していたのである。その戸田氏が、御僧侶へのリンチを承認する、などということは考えられない。
また、当時、学会の理事の1人であった石田次男氏は、
●当時、学会には理事室も青年の参謀室もありまして、その誰もが池田氏の気性や羽振りには一目も二目もおいて遠慮がちではあったものの、普通は、池田氏その他、誰かの独断専行というのはなくて、何でも、形だけにもせよ、理事や参謀の協議でしか〈計画〉というものは決まりませんでした。しかし、大坊最古参基幹兵水漬(みづ)く事件屍化ゲバ計画―テロ計画の方が近い―に限っては、誰一人として参謀室長から相談を持ちかけられた人さえもおりません。自分の羽振りに驕(おご)り、猜疑(さいぎ)心が強くて人を信用しない池田氏が、幹部仲間にも極秘で奇襲を狙ったことが明らかです。
いっさいを理事長責任で取り仕切っていた―戸田先生はこの時会務不可能―理事長さえも、池田氏の鼻息の荒さに辟易(へきえき)するばかりで、何かの指示を発するどころか、「黙って俺に委(まか)せて置け』と言わんばかりの『青年部で善処しますから……」と言う曖昧(あいまい)な〈報告といろ名の申し渡し〉を受けただけで、どう"善処"するやら何も知らされてはおりませんでした。
小泉氏(当時理事長)は、当時からすでに池田氏の猜疑の対象であり、徹底して氏から舐(な)められていた訳でした。したがって、戸田先生はおろか理事長以下何びとも、この事件には絡んでおりません。つまり、全員バカチョン扱いされていたのでして、何のことはない、揃いも揃って棚上げされていたのであります(石田次男著『内外一致の妙法-この在るべからざるもの』)
-----------------------
と語り、理事長以下、最高幹部全員が、この事件に関しては、事件の前も後もまったく知らなかった、否、知らされていなかったことを明らかにしている。
これらのことからわかるように、この暴行事件は、戸田氏とも組織体としての創価学会ともまったく無関係に、池田の単独暴走行為として行なわれたものであった。
かくのごとく、僧俗の筋目をわきまえず、私怨を晴らすために手前勝手に騒乱を起こしておきながら、「内事部も事情を知っていた」「同席していた御僧侶も池田に同調していた」「戸田先生も認めた」だのと、ありもしない証言者を勝手に作り出す池田大作―この男の辞書に「反省」の2字はどこにもない。
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from: 21世紀さん
2011年07月29日 10時16分41秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
"エレベーター相承"の虚構を粉砕する!!
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―戸田会長の真意を曲げ、自らを神格化―
―許せぬ!池田の悪らつな歴史改竄―
(『慧妙』H18.3.16ほか編集)
「栄光の--」「誓願の--」「不滅の--」等々、様々な"冠詞"をつけて語られてきた、創価学会でいうところの「広宣流布の模擬試験の日『3・16』」--。
この日はまた、第2代戸田会長が、池田大作に実質的に後を託(たく)した日、とされてきたが、その前提となっているのが、昭和33年3月1日、大講堂落慶大法要の当日に、大講堂のエレベーターの中で行なわれたとされる、いわゆる"エレベーター相承"の話。
しかし、この"エレベーター相承"、調べれば調べるほど、池田が自ら発信者となって演出した"ガセネタ"の疑いが濃厚になってきた。
戸田会長の真意を曲げ、創価学会の支配者として君臨(くんりん)し続けようとする池田大作を叱(しか)る。
【「戸田会長が『第3代を守り抜け』と」!?】
―戸田会長の意図はそれと正反対―
「師弟に生き抜け!不滅の『3・16』」--。創価学会の機関誌『大白蓮華』3月号は、池田大作が、第2代会長・戸田城聖氏から創価学会の全てを引き継いだ、とされる昭和33年3月16日、いわゆる「3・16」についての、延々28ぺージにもわたる特集記事(※まだ次号にも続くらしい!)を掲載、池田大作のさらなる神格化を目論(もくろ)んでいる。
『大白蓮華』はまず、去る1月27日に行なわれた創価学会の「全国代表協議会」で、池田大作が次のような"指導"を行なったとする。
「戸田先生は次のようにおっしやっていた。
『第3代会長がいる限り、創価学会は興隆し、発展する。幹部は、だれ人たりとも、第3代を守り抜け!これが、私のただ1つの遺言である』
将来のために、あえて伝え残しておきたい。」
そして、記事
「この『ただ1つの遺言』を託す式典こそ、戸田第2代会長が亡くなる前月の、昭和33年3月に行われた『3・16(広宣流布記念の日)』の儀式であった」
と断ずるのである。
だが、はたして戸田城聖氏は本当に、「幹部は、だれ人たりとも、第3代を守り抜け!」と語ったのか--。
池田大作が、その発言の根拠(というより原型、元ネタ)としたのは、戸田会長の次の指導であろう。
「(いまの牧口門下がわたくしを支えるように)3代会長を戸田門下が支えていきなさい。わたくしは広宣流布のために、身を捨てます。その屍(しかばね)が、品川の沖に、また、どこにさらされようとも、3代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます。」(昭和27年2月17日「青年部研究発表会」)
一読して判(わか)るように、これは、先輩・同志が若い3代会長を介助していけ、という意味で「3代会長を支えろ」と指導したものである。
しかしてその後、戸田会長は、
「会長は会員の小使であり、支部長は支部員の小使である。(中略)会長は諸君に使われるものでしかない。」(昭和29年3月30日「3月度本部幹部会」)
「(組織論として"長を守れ"というのは当たり前だろうが)私がきみたちに守ってもらっているか。支部長に守ってもらっているか。けっして守られていない。それより、支部長をかばってやっている。(中略)いま、支部長で、(後輩の)地区部長に守られているようなものは出ていきなさい。支部長は、地区部長を守ってやるのです。これを支部長に命令します。また、地区部長は(後輩の)班長に守られるようではいけない。(中略)班長は組長を、組長は組員を守りなさい。これが学会の精神です。
学会の幹部で、支部長、地区部長、班長、組長に守られているような、だらしのない者は1人もいないと思う。もしいたら、手紙を出してください。このように学会の伝統的な精神はきまっている。だから、あまり、守る、守るといわないように。おへそが茶を沸(わ)かすから」(昭和29年5月31日「5月度本部幹部会」)
と、厳しく指導しているのである。
その戸田会長が、「だれ人たりとも第3代を守り抜け!」という遺訓(いくん)を残した、などと平然と語ること自体、「恩師」の真意を冒涜(ぼうとく)する無慙(むざん)な行為である。
「恩師」戸田会長の真意を曲げ、"私を守れ""私を守れ"とひっきりなしに口にする「だらしのない者」の代表・池田大作は、戸田会長の指導のとおりなら、自ら進んで学会から出ていくべきなのだ。
【「『3・16』は広布後継の儀式」!?】
―35年当時は最高幹部も揃って無視―
さて、この『大白蓮華』は、かの有名な"エレベーター相承"について、次のように書いている。
************************************************************
戸田第2代会長、青年部の室長であった池田名誉会長らが、エレベーターで6階に上がるその途次のことであった。
戸田第2代会長は池田名誉会長に後事を託す遺書を残した。
「3月1日、先生は、私に言われた。《大作、あとはお前だ。。頼むぞ!》」(『随筆 新・人間革命』)
また、その時の模様を池田名誉会長はこうも語っている。
「戸田先生のお体は、非常に衰弱したご様子で、私が片腕を抱えながら、その日の式典の会場へ向かった。その大講堂の式場に向かうエレベーターの中で、先生は《これで自分の仕事は全部終わった。いつ死んでもよいと思っている。あとは大作、頼むぞ》と、ほほえみながらも厳格な口調でおっしゃったことが、胸に突きささってはなれない。この時、戸田先生58歳、私は30歳となっていた。」
◆証言(山浦千鶴子さん)
3月1日、落成法要を終えて、戸田先生は祝賀会に向かうためにエレベーターに乗られ、柏原ヤスさんと森田一哉さんと私が同乗しました。戸田先生は隣の池田先生の顔を見つめながら言われました。
「これで俺の仕事は終わった。これからは、大作、お前が全部やるんだ」
と。
あまりにも峻厳(しゅんげん)な師弟後継の歴史的場面でした。「そうなのだ。広布後継はきまったのだ。」その感動は忘れられません。
(『大白蓮華』H18.3)
------------------------------------------------------------
山浦千鶴子氏の"主観"はひとまず置き、この"証言"が事実だとすれば、いわゆる"エレベーター相承"の現場には、柏原ヤス・森田一哉の両名が同座していたことになる。
ところが、この両名が、『大白蓮華』昭和35年6月号の「特集・第3代会長就任」と題する記事に寄せた文。その内容は、それぞれの言葉で"戸田会長が意図したとおりに青年部の中から3代会長が生まれた"ということを喜び、池田へおべんちゃらを贈ったものだが、両名とも、「大作、お前が全部やるんだ」との重大発言のことどころか、「大講堂落成法要」にも、「3・16」にも触れていない。当然のことながら、「エレベーター」の「エ」の字もない。
そればかりか、この特集記事には、総勢10名の創価学会最高幹部が名を連ね、それぞれ自分の知る、戸田会長と池田大作のエピソードを披瀝(ひれき)し、池田大作こそが戸田会長の後継者に相応(ふさわ)しい、と持ち上げているが、そうしたエピソードにおいても、「大講堂落成法要」「3・16」に関するものは皆無である。
このことからも、"「3・16」は広布後継の儀式だった"というのが、後から強引にコジツケたものであることが窺(うかが)われる。
【池田のいう"エレベーター相承"はデタラメ】
―戸田会長は「第3代は皆で決めろ」と―
◆昭和33年3月1日、大講堂落成式の日、5階から、1階に降りるエレベーターの中で、先生は申された。
「わしの、いっさいの仕事は、これで終わったよ。あとは、おれと、お前だ。お前が、あとはしっかりするんだぞ」と(池田大作『大白蓮華』S36.5「巻頭言」)
◆「わしのいっさいの仕事はこれで終わったよ。あとはおれとお前だ、お前があとはしっかりするんだぞ」と、大講堂落成式の日、5階から1階に降りるエレベーターの中で、恩師より先生に申されたのである(森田一哉『大白蓮華』S40.5)
つまり、少なくともこの時までは、「5階から1階に降りるエレベーターの中」で"相承"が行なわれたことになっていたのだ。ところが、これが『人間革命』では、
↓
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◆エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。そして、静かだが、力をこめて言った。
「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ!」(中略)
それから戸田は、大きく頷(うなず)くと、にっこりと微笑を浮かべた。エレべーターは6階に着いた(『人間革命』第12巻)
◆戸田第2代会長、青年部の室長であった池田名誉会長らが、エレベーターで6階に上がるその途次のことであった。(『大白蓮華』H18.3)
はて、「5階から降りる」途中だったのか、それとも「6階に上がる」途中だったのか。さすが"エレベーター相承"だけあって、降りたり上ったり、目まぐるしいことこの上ない。この目まぐるしさでは、"相承"もへったくれもなかろう。
ともあれ、大事の"相承"についての記述の基本部分が、このように大きく変遷(へんせん)していては、池田らの言葉を信ずることなど、できようはずがない。
ちなみに、戸田会長の真意について、戸田会長が、第3代会長候補として実際にその名を口にしたこともある石田次男氏(故人)は、その著書の中で、
「戸田先生は、この儀式の祝宴散会後の午後4時頃、その場、その席で、理事長以下、祝宴に参加した全員に対して『次の会長は皆で相談して決めろ、皆で仲良くやっていけ』とおっしゃったではないか。そしてその席に池田氏は参加していなかったし、それでも当日のうちには耳にした筈(はず)ではないか。池田氏の言いぶりでは、戸田先生は理事長以下、理事・支部長・常任委員・婦人部長・男女青年部長・の全員を騙(だま)した事になる」(『内外一致の妙法・この在るべからざるもの』)
と、また、龍年光氏は
「(3・16の後)、先生の体がいよいよ衰弱されたため、原島宏治、小泉隆、辻武寿、柏原ヤス、馬場勝種ら理事たちと、池田・北条・森田・龍の4参謀が、揃(そろ)って戸田先生の枕元に行き、遺言を聞こうということになった。音頭を取ったのは辻、原島、小泉らで、この際、はっきり池田を3代会長に指名してもらおうというハラづもりだったようだ。
辻は『大久保彦左衛門』と渾名(あだな)され、どんな場面でも物怖(ものお)じせずにズバッと物をいう男だった。この時も、病の先生の枕辺で、当然のような顔をして、『先生、3代会長は誰にするんですか』と単刀直入に尋ねた。ところが先生は、はっきりした声で、『それは、お前たちが決めるんだ』と答えられた」(『日蓮正宗の敵池田創価学会を解散させよ』)
と記し、歴史の証人として、池田の主張のデタラメさを暴(あば)いている。
前の池田らの信じ難い主張と較べ、やはり、こちらが真実のようだ。
あらゆる手法を使って歴史を改ざんしようとする池田大作--。だが、真実の歴史は、変えようにも変えられるものではないのである。
※(「5階から降りる」途中だったのを「6階に上がる」途中に変更したのは)いったいなぜか--、それは、"5階から降りるエレベーターの中で相承を受けた"と言ってしまった後で、肝心の昭和33年3月1日には、池田大作が戸田域聖氏と共に5階に行く理由が全くないことに気付いたからではないでしょうか。
というのは、じつは件(くだん)の『人間革命』にもチャッカリ書いてあるのですが、その日の大講堂5階は寺族の祝宴の会場となっており、戸田氏や池田大作にとっては"用のない場所"だったのです。当然、5階で2人を見た寺族もいるはずがありません。
そこで、辻棲(つじつま)を合わせようとして、「5階から1階に降りるエレベータの中」ではなく、「1階から6階に上がるエレベーターの中」に変更した、というのが、話が「下ったり上ったり」した理由だと思われます。(『慧妙』H18.12.1)
[画像]:▲『大白蓮華』昭和35年6月号(『慧妙』H18.12.1)=池田大作の会長就任を祝う森田・柏原の手記が掲載されているが、そこには「大講堂落成法要」も「エレベーター」も登場しない
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from: 21世紀さん
2011年07月28日 23時38分27秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
第3代会長就任式で池田大作が胴上げされる場面(『グラフィティ創価学会』/『慧妙』H19.1.1)
改↓竄
▲「歓喜の胴上げ」と題する絵画(『グラフィティ創価学会』/『慧妙』H19.1.1)=「消す」だけではなく「書き替え」も。かつて砂利船汚職で逮捕され、有罪判決を受けた田代富士男氏は別の顔に書き替えられ(左側の円内)、写真には写っていない池田かねが書き加えられた(右側の円内)
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このような姑息(こそく)な手段を使ってまで、自分自身の経歴を飾り立てようとする池田大作―その愚(おろ)かな姿からは、かつてのソビエトの独裁者・スターリンや、北朝鮮の独裁者親子と同類の"ファシスト"の臭(にお)いがプンプン漂(ただよっ)っています。
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from: 21世紀さん
2011年07月28日 23時27分25秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
【「歓喜の胴上げ」】
これに較べ、なせ"消された"かが非常に解(わか)りやすいのが、かつて砂利船汚職で逮捕され、有罪判決を受けた田代富士男氏でしょう。
「歓喜の胴上げ」と題された、第3代会長就任式で池田大作が胴上げされる場面を描いた絵では、池田を囲む青年部幹部の中にいた田代氏が、全くの別人に描き替えられてしまっています。
しかもそれだけでなく、その場にはいなかった池田かね(※香峯子)が書き加えられているのです。
このような姑息(こそく)な手段を使ってまで、自分自身の経歴を飾り立てようとする池田大作―その愚(おろ)かな姿からは、かつてのソビエトの独裁者・スターリンや、北朝鮮の独裁者親子と同類の"ファシスト"の臭(にお)いがプンプン漂(ただよっ)っています。
[画像]:「消す」だけではなく「書き替え」も。田代富士男氏は別の顔に書き替えられ(左側の円内)、写真には写っていない池田かねが書き加えられた(右側の円内)
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from: 21世紀さん
2011年07月27日 12時47分28秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
▲「第3代会長就任式」と題する絵画(『グラフィティ創価学会』/『慧妙』H19.1.1)=池田大作の右後方の壇上には、3名の幹部が並んでいますが、実際には、写真のように、辻武寿の後ろにもう1人の人物がいたのですが、その人物が、ものの見事に消されてしまっています。
その、消された人物というのは、衆院議員の渡部一郎氏。
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from: 21世紀さん
2011年07月27日 12時39分39秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
【「第3代会長就任式」】
次は、「第3代会長就任式」なる絵。
これは、日大講堂で行なわれた、池田大作の、創価学会第3代会長就任式の一場面(就任あいさつ)ですが、池田大作の右後方の壇上には、3名の幹部が並んでいますが、実際には、写真のように、辻武寿の後ろにもう1人の人物がいたのですが、その人物が、ものの見事に消されてしまっています。
その、消された人物というのは、衆院議員の渡部一郎氏。
しかし、渡部氏は、池田大作に敵対したことも、何か不祥事を起こしたこともありません。
その渡部氏が消されたのは、やはり、氏の奥方の渡部通子女史―『月刊ペン』で、池田大作との"仲"を取り沙汰(ざた)された、あの渡部通子女史--との絡みからでしょうか。
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from: 21世紀さん
2011年07月27日 12時33分00秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
▲水滸会メンバーの相撲を観戦(『グラフィティ創価学会』/『慧妙』H19.1.1)=昭和30年6月11、12日の両日、水滸会のメンバー83人は、山梨県の河口湖、山中湖に1泊2日の野外訓練を行った。青年をこよなく愛する戸田会長は、池田名誉会長(当時・青年室長)ととむに水滸会メンバーの熱こもる相撲を観戦(『聖教グラフ』)
改竄写真
[画像]:周囲の青年部幹部を消し去り、戸田会長との"特別な関係"を演出
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from: 21世紀さん
2011年08月02日 22時26分48秒
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「Re:歴史改竄(かいざん)」
「宗門は小樽問答から逃避」!?
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―史実を全く改竄(かいざん)した池田―
(『慧妙』H17.6.1)
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(小樽問答の際)宗門には、戦う気概など微塵もなかった。それどころか、戸田先生を学会本部に訪ね、平身低頭、助けを求めてきたのだ。
情けない「敵前逃亡」であった。
折伏の大将軍たる先生は、瞬時に決断された。
「この法論は、私が引き受ける!」
小樽問答――それは「正法正義の日興上人の門流」と、「大聖人に師敵対してきた五老僧の末流」との対決であった。(中略)
愚劣な日顕(上人)一派は、この大聖人、日興上人に直結する創価学会に敵対した。まさに、民衆救済の使命を捨てた「五老僧の末流」でもあることを、自ら証明していったのである。
(「随筆・人間世紀の光」『聖教新聞』H17.3.22)
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宗門が「小樽問答」から逃げた、と宣(のたま)う池田大作――。しかし、その池田が書いた、会内で"現代の御書"とまで称される『人間革命』(第9巻)には、
「法論は(※創価学会の)小樽班の責任ですでに誓約されていることがわかり、(中略)戸田は両尊師(※細井庶務部長・早瀬教学部長=いずれも当時)に、法論は戸田が引き受けます。心置きなく猊下の(※北海道御親教の)お供をしていただきたいと、即座に申し上げた」
とある。すなわち戸田会長は、"創価学会が受けた法論である以上、お山を煩(わずら)わすまでもなく、創価学会で受けて立つ"という、当然至極の決断をしただけのこと。
それでも、細井庶務部長(後の日達上人)は、法論のことを心配されて、わざわざ法論会場の小樽公会堂に足を運ばれている。そしてそのことも、『人間革命』(第9巻)に、
「右側(※学会側)の聴衆のなかほどに、袴をつけた和服姿の細井尊師がいた。この日一般聴衆にまじって、2人の尊師を引き連れて来場されていたのである」
と明記されているのだ。
しかも池田は、この法論の顛末(てんまつ)を記した『小樽問答誌』において、
「日達上人が、この小樽問答に臨(のぞ)まれておられたのである。しかも質問者のひとりとして学会と一体となり闘魂(とうこん)あふれるお姿で身延側講師を徹底的に追及されたのであった。私は学会側司会者として、その時、指名させていただいたのであるが、まことに勇気百倍の思いであり、永遠に忘れえぬ感激の一瞬であったことを申さずにはいられない」
と述べていたのである。
これら従前の記述と、このたびの『聖教』所載の記述を比べてみると、まったく天と地ほどの自語相違を生じていることがわかろう。
池田大作が、何の良心の呵責(かしゃく)もなしに、これをなしたとすれば、池田は『ジキル博士とハイド氏』のような二重人格者か、重度の精神分裂病、さもなくば老人性痴呆(ちほう)を発症しているとしか思えない。"迷医"高山直子センセーの診断を受けた方がよいのではないか!?
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