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from: 22世紀さん
2011年07月30日 19時12分43秒
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池田大作「権力者」の構造
広宣流布の手段としての政治
池田は安保問題のさなかに会長に就任したが、「安保改定よりも、それよりか、もっと本質的に大事な
ことは、邪宗改定である」(『聖教新聞』昭和35年6月4日)と述べて安保への見解の明確化を回避し、
その賛否を会員各自の判断にゆだねた。創価学会の9名の参議院議員たちも、自民党の単独強行採決
に対しては、国会正常化の名目で反対したものの、基本的には安保を傍観した。わずかに会内左翼と
いわれた石田次男が、池田の就任に先立って2月10日、参院本会議で、極東の範囲、海外派兵、条約
の年限、事前協議等について割合まともな質問をしただけであった。
池田が戸田以来の政治進出を受け継ぎ、さらに強化、拡大する方向に踏み出したのは昭和36年5月
3日の文化局の設置からであった。文化局は池田によって「第三文明」の実行機関と意味つ゛けられた、
政治、経済、教育、言論の四部(のちに学芸部増設)からなる、本格的な政治進出のための中枢機関で
あり、局長には参議院議員辻武寿が任じられた。
ことにその政治部は、「混乱した日本の政界を浄化するため、学会精神によってはぐくまれた優秀な
政治部員を養成し、日本の政治に正しい方向を示していくとともに、本質的な国立戒壇建立という大業
の必要性を、政界に理解させようというものである」(『聖教新聞』昭和36年5月6日)との記事に明らかな
ように、国立戒壇の建立をむくつけに目ざすものであった。
同年11月27日、池田は創価学会の外郭政治団体として公明政治連盟(公政連)を発足させ、政党化
へのひそかな布石とした。この少し前、池田は、「創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを
進めるものではない。あくまでも、参議院、地方議会、政党色があってはならない分野に議員を送るもの
である」(『大白蓮華』昭和36年6月)
と述べて政党化と衆議院進出を否定していたが、その裏では政党化への基本工作を着々と進めた。
昭和37年1月7日には教学試験を全国いっせいに行い、教学部員を前年の3倍近く11万数千名に激増
させて選挙運動員の確保策とした。また4月2日には『公明新聞』を創刊し、近代政党への外見を整えた。
参院選後の7月20日、池田は参議院の院内交渉団体・公明会を結成させ、公政連の15議員を無所属
クラブから独立させた。
続く9月13日、公政連は第一回大会を開催した。この席上、池田は、「もし10年先、20年先、・・・・・大
政治団体になり、皆さん方が一流の名士になって、派閥やそれから反目があるようなことが、もし毛すじで
もあったならば、即座にわが政治連盟は大衆の政治団体ではない、そういう資格はないものとして、解散を
私はすべきであるということを、本日第一回の大会において、言い残しておきたいのであります」
(『公明新聞』昭和37年9月16日)と述べた。
当時、公政連は政界浄化を「基本政策」の一つに掲げていたから、派閥を非難する当の政治団体に派閥
があってはならなかった。が、この池田発言には、さらに、池田にそむいてはならない、公政連においても
創価学会と同様、池田の宗教的権威が貫徹するという含みが蔵されていた。組織内の派閥や反目は組織
の能率と体面を損ない、また容易にその指導者への批判に転化すると考える池田にとっては、それらは
最大の不正であり、事前にその芽をつまずにはいられなかった。
公政連は最初から池田に首根っこを押さえられた創価学会の別動隊であった。昭和39年5月3日、第
27回本部総会が開かれたが、池田はここではじめて公明党の結成と、衆議院進出の方針を明らかにした。
「公明政治連盟をば、皆さん方の賛成があるならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の
要望にこたえて政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがで
ございましょうか(大拍手)。それでは全員の賛同を得ましたので、これをもって決定といたします。
すなわち、創価学会のなかに文化局があります。文化局のなかに政治部が現在までありました。その政
治部の使命について私は巻頭言で『われらは政党ではない。すなわち創価学会は政党ではない。従って
衆議院にコマを進めるものではない。あくまでも参議院、地方議会、政党色があってはならない分野に議員
を送るものである』という意味の一項目を書いておきました。
したがって、本日をもって、創価学会の政治部は発展的解消といたしたいと思うのであります。なぜならば、
この十年間、原島委員長を中心として、わが同志である議員は戦い、勉強し、一流の大政治家に育ってま
いりました。恩師戸田先生も時来たらば衆議院へも出よとのご遺訓があったのであります。
したがって、政治の分野においては、公政連であくまでも自由奔放に戦ってもらいたい」(『聖教新聞』
昭和39年5月5日)
これは明らかに前の発言に食言するが、池田にとってはそのようなことは問題ではなかった。なぜなら、
彼の大目的は広宣流布=創価王国の建設にあったから、そこに至る手段はどのようなものであれ、有効で
ありさえすれば認めることができたのである。それは文字通りの嘘も方便であり、社会的な通念からの批判
をなに一つ容れない、池田の体質と化したマキャベリズムであった。
11月17日、東京・両国の日大講堂で公明党の結成大会が開かれ、委員長に原島宏治(昭和39年12月
死亡)、副委員長に辻武寿、書記長に北条浩が任じられた。委員長・原島は結党大会の挨拶で、「きょうは、
この会場にお見えになっておりませんが、池田先生は、この公明党の生みの親であり、育ての親であり、
現在、偉大なるささえとなってくださっております。そして、われわれの将来をじっと見守って下さり、擁護して
下さり、指導して下さっております」(『公明』昭和39年12月号)と述べて、公明党が公政連から引き続き、
池田の指導下にあることを再確認した。
昭和42年1月29日、公明党は総選挙を迎え、25の議席を得て、初の衆議院進出を果たした。選挙直後
の1月31日、池田は公明党指導部を衆議院中心に切りかえ、委員長に創価学会総務の竹入義勝、書記長
は同副理事長の矢野絢也を指名した。竹入は就任後のインタビューで、「池田会長から申し渡されたばか
りで、正直いって面くらっています」(『毎日新聞』昭和42年2月1日)と答えた。-
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