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from: 22世紀さん
2011年09月16日 18時26分54秒
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転載です
金と権力を生む宗教の本音、その3From:22世紀一方、学会本部、公明党関係の裏金ルートは、私が北条浩副会長のそばにいたおかげでそのほとんど全容を知る
金と権力を生む宗教の本音 、その3From: 22世紀
一方、学会本部、公明党関係の裏金ルートは、私が北条浩副会長のそばにいたおかげでそのほとんど全容を知ることができた。 中西治雄は、その後、私や原島嵩氏の造反(昭和五十五年頃)と時を同じくして池田大作との間が冷え、やがて一線から自ら身を引いた。その原因は、池田大作の命令で勝手に板本尊をつくらされた「ニセ本尊模刻事件」の実行者としての自分にいやけがさしたためと見られる。余談であるが、中西治雄が八王子の土地取引をめぐって業者から受取ったリベートを、池田大作が専用室にしまっていたところ、昭和五十二年、国会での追及をおそれて、全国一斉に専用室をとりこわした際、金庫ごと聖教新聞社地下倉庫に移した。これを、中西治雄が引退した後、何も知らない職員が〝粗大ゴミ〟として捨ててしまった。 平成元年六月三十日、横浜のゴミ捨て場から一億七千万円入りの金庫が捨てられているのが発見された事件のこれが真相である。 私は、写真で見た風呂敷のもように見覚えがあり、リベートを贈った業者に確認したところ、「金額も、風呂敷も、あの時のものだ」との回答を得ている。 この事件は、中西治雄が、外郭会社の利益をクスねて着服したものを金庫に入れたまま忘れていた、ということで、除名処分になってドロをかぶってフタをした。 その後、今日まで、中西治雄は沈黙をまもり、その代価として生活は保障されゴルフ三昧の優雅な生活を送っている。 星生務は、正本堂募金の処理をめぐってミソをつけたのがケチのつきはじめで、次第に会内での権勢を失い、今ではほとんど目立たない。
大蔵商事のしりぬぐいに正本堂御供養金
さて、大蔵商事の営業はどのようなものであったか。 話は少し先にとぶが、私は、昭和四十六年頃、大蔵商事の後身である「大同商事」の負債整理を、中西治雄らと共に行なった。 池田大作は、創価学会三代会長に就任した後、和泉覚、星生務、中西治雄らを引きつれて創価学会本部に乗り込んだ。そして、大蔵商事とは絶縁する。〝二度と汚い仕事などするものか〟 残された大蔵商事は、森重紀美子と、その甥である森重章が経営するところとなり、創価学会とは切り離される。だが、昭和四十年代の初めには、脱税で国税局の手入れを受け、ダメージを受けたばかりか、経営の基盤であった創価学会から切られたため、次第に営業不振に陥り、多大な負債をかかえて、森重章は、池田大作に泣きついた。それは、 「大同商事(大蔵商事)が倒産したら、古くからの債権者(学会員もかなり残ったいた)がさわぎ、池田先生の名前も出て創価学会にも迷惑がかかるでしょう」 という、〝どうなっても知りませんよ〟といわんばかりの投げ出し方であった。 池田大作の指示で、森重紀美子に連絡が行ったが、 「まことにすみません。御迷惑をおかけしますが、よろしく」 と逆にゲタをあずけられる始末。 森重紀美子の一人息子光生は、「和光商事」という会社の社長であったが、これは、聖教新聞社の用紙を一手に扱う会社で、すべての製紙会社がこの会社をとおして創価学会関係の紙を納入する〝利権会社〟であり、莫大な利益を保証されていた。これは、池田大作が、大蔵商事時代、自分をひいきしてくれ、今日の地位をきずかせてくれた森重紀美子に対する感謝のプレゼントであった。 戸田城聖の本妻、幾子に対しては、死後、ただちにトラック二台で邸に乗り込み、戸田城聖の遺品と称して目ぼしいものをすべて引き上げる、という非情な仕打ちをした池田大作が、森重紀美子には、惜しげもなく創価学会の利益の分け前を終生与えつづけた。この〝アメ〟と〝ムチ〟のつかい分けのきびしさは、池田大作の人心掌らん術の特徴である。
池田大作は、 「これだけ利益を分けてやっているのだから、大同商事のあと始末くらい自分でしたらどうか」 と言いたかったのだが、あにはからんや、森重光生は、〝銀座の帝王〟と呼ばれた遊とう児で、あらんかぎりの金を、女遊びにつぎ込み、和光商事には一文のたくわえもなかった。 あきれ、怒った池田大作ではあったが、背に腹はかえられず、私達に善処を命じる他なかった。 私は、森重章らに会って、会社の実情調査を行なった。 森重章は、自らの放漫経営はたなに上げて、 「私は、池田先生らがおいしいところを全部吸って行なったカスの会社を引き受けさせられたんです。当時からの貸金のコゲ付きもまだ残っているし、それに、学会は、その後全く面倒を見てくれないばかりか、有力な出資者に手を引くようにしむけたんです。」 と、うらみつらみを述べ立てた。 創価学会の発展とタイアップして伸び、維持されて来た会社だけに、創価学会と切り離されたことが致命傷になったことは当然である。だが、森重章らは、それにもかかわらず放漫経営と浪費を続けた。 「母が、池田大作のめんどうを見、引きたてたおかげで池田大作は会長になれた。学会が森重一族の面倒を見るのは当たり前だ」 という態度を露骨に見せながら、森重章は大蔵商事以来の由来と経営の実態を私に話した。
大同商事は、信じられないほどの巨額の負債をかかえ、その債権者の多くは学会員であった。また、池田大作や中西治雄が開拓した出資先も多くのこっていた。 しょせん、創価学会に寄生していたにすぎない会社が、寄生主である創価学会から切り離されて生きていけるわけがないのである。森重一族は、大同商事を投げ出し、創価学会にゲタを預ける気でいたから、どうしようもない。 私は、部下の弁護士とともに、大同商事の整理を行ない、再生させる作業にとりかかった。社名を「日章」に変更し、社長や役員も、創価学会青年部にとりかえた。監査役には、私の部下の弁護士が入った。 肝心の〝負債の穴うめ〟は、中西治雄の仕事であった。
中西治雄は、その財源をまず「正本堂御供養金」にもとめ、続いて学会本部に求め、更に日蓮正宗に求めた。
一、正本堂、及び同建立事業にともなう末寺建設の際の、〝災害保険〟をすべて「日章」の扱いとし、手数料収入あげる。
二、創価学会関係の施設の災害保険を一手に扱わせ、手数料収入をあげる。 三、正本堂建立にともなう記念品やグッズ、本山売店での販売品、創価学会の使う物品の納入を「日章」経由で行なう。
四、会員用の物品をとり扱わせる。
こうした方法で、中西治雄氏は、「日章」となった大蔵商事の赤字の穴うめをした。その金は、先述のとおり、正本堂募金(三百五十五億円)日蓮正宗、そして創価学会から支出され、或いは会員のフトコロから出た。
結局のところすべて学会員の負担で行なったのである。 これらは、すべて、池田大作の決裁と指示で行なわれた。 社長会記録には次のような記述がある。
「(念珠)一手に買い取り、卸せば良い。もう内の人達が使うもので、外郭に儲けさせる事はない。線香もローソクも東洋精光でやんなさい。正本堂のみやげものも作れ、とにかく作るものは全部東洋にやらせる」(第24回)
「一連50円の儲けとしても、10年間に1、000万本としても5億だ。年間5、000万だ、大きいよ」(第29回)
「北海道 絵はがき6万売った。うまいことをした。来年は栞を5枚一組で50円位で売る」(第47回)
「杉本君(栄光建設=注)の方はどうだ。東海研修所、小さいがやんなさい」(第48回)
「白糸の近所、5、000坪のものを建てる、それも栄光でやれ」(同)
「(本山バザール)1、900万売り上げるか、それはいい。しっかりやれ」(第51回)
金に関することは、こうした細かいことまで、池田大作は自ら指図していたことを証明する記録である。 正本堂が落成した昭和四十七年頃学会員であった人達は、〝記念〟にもらったり本山売店で買ったりした〝金盃〟(もちろんメッキである)などのグッズを覚えている人も多いだろう。その代金の何割かは、大蔵商事の赤字の穴うめに使われたのである。 現在も、「日章」は、東京都千代田区富士見二ノ三のビルの二階に本社がある。社長の佐藤武一は、創価学会の古参幹部である。取締役には、森重紀美子の一人息子、光生の妻裕子の名がまだ残っている。これは、光生の死後、その遺族を池田大作が面倒を見ているのである。監査役には福島啓充弁護士がずっと務めている。法学委員会出身で、数年検事をつとめたあと弁護士になり「日章」の整理を担当した。現在創価学会副会長であり、創価学会の訴訟事件の多くの主任弁護士を務める。
創価学会系総合雑誌「潮」には、次のような広告を出している。 平成七年十二月四日、参議院宗教法人等に関する特別委員会に秋谷栄之助が参考人として呼ばれたとき、共産党の橋本敦議員は、創価学会施設に関する損害保険契約をエサに保険会社に対し、公明党への選挙協力を強要していることについて、 「明らかに公選法違反の利益誘導罪が、特定の創価学会の巨大な財産の保険契約との関係、その特別の利害関係を通じての誘導行為に当たるということで、これは公選法違反の利益誘導罪に当たるということは、私は間違いない事案だと確信して話をしているんですよ。
それでもう一つ、秋谷さん、重大な問題は、この問題の基礎になっている境内建物、礼拝所、その他創価学会の資産は、これは非課税の資金で蓄積された大事な資産でしょう。そして、礼拝所は固定資産税非課税の建物でしょう。二重に非課税の建物が、創価学会のこの利益誘導によって特定政党支持活動の公選法違反の犯罪のまさにその母体になっていることは、これは社会的に重大な問題じゃありませんか。こういう問題について率直にあなたは反省されないのかどうか。まさに創価学会の責任者として徹底的に調べなさいよ。徹底的に調べて国会に報告する、それぐらいのことはしなさいよ。どうですか。」と追及した。(議事録引用) これらの保険契約も、日章をとおして行なわれている。
平成六年十一月二十五日号「週刊ポスト」で、「長期総合保険をめぐって学会及び聖教新聞社と東京海上の間で交わされている十億二千九百六十二万六千九十円の保険の不正契約の一件」がスクープされているが、同契約の取扱代理店はすべて「日章」である。「日章」は、二千五百万円の手数料をかせいでいる。(野田常雄氏著「池田大作の金脈」より) 大蔵商事、大同商事、日章と、社名を転々と変えながら、池田大作の「葉っぱをお札にかえる工房」である会社は、ひっそりと創価学会への寄生をつづけているのである。それは、表立って「関連企業」と名乗ることを許されず、日陰でつながっていて、あたかも、かつての主宰者であった戸田城聖の愛人、森重紀美子さんの立場を象徴するようでもある。
池田大作は、後に、熱海の東海研修道場の庭園で、一ぱしの俳人気取りで私に言った。 「どうだ。萩の花は風情があるだろう。どこか、さみしげで、萩は、二号さんの花だな。私は萩が好きなんだよ。」 好きなのも当然だろう。 池田大作は、戸田城聖の二号さんに「お母さんお母さん」とオベッカをつかい、引立ててもらったおかげで、創価学会会長への足場を固めることが出来たのだから。 池田大作が、後日 「戸田先生は、何で私に金貸しのような汚い仕事をさせたのか……」 と怨みつづけるほど汚い仕事をつづけた舞台の大蔵商事―今日の「日章」を、池田大作はしかし切りすてることはできない。日陰で、養い続けなくてはならない。 池田大作にとって、創価学会が本妻なら、大蔵商事―日章は、正に二号にあたるといえよう。 要するに、創価学会からうまい汁を吸う会社を切りはなしたが、結局、元のように寄生状態にもどしただけである。
from: 22世紀さん
2011年09月27日 03時16分53秒
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「Re:転載です」
高利貸池田大作〝取り立て〟のすご腕 投稿者:管理人 投稿日:2011年 9月27日(火)03時14分50秒 通報 返信・引用
〝信仰心〟という〝葉っぱ〟を〝月三分〟という高利でくすぐり、〝出資金〟という〝お札〟に替えることに成功した大蔵商事は、その金を〝月七分〟以上で貸しつけ、或いは〝月一割〟という高利で手形割引にまわした。
現在、年利一%台の預金金利が常識となっている時代には、一般庶民には考えられないような高利の世界である。だが、終戦直後のインフレ期からようやく抜け出そうという昭和二十五年当時では、当然といってよい金利であるし、現在でも、暴力団金融、町金融では、月五分、月八分、といった金利は、むしろ良識的ですらある。〝トイチ〟(十日で一割)とか、〝カラス銭〟(カラスがカーと鳴いたら一割上るという、日歩一割〟といった金融もいまだに根強く存在しているのである。 〝高利〟には、貸倒れに対する危険保障がふくまれる。貸倒れになる確率の高い金融ほど利息が高いのである。
つまり、大蔵商事の貸付金利は、当時の経済情勢からすれば、リーズナブルなものであったのではないか。そして、その金利で利益を上げるということは、〝回収の確実性〟が必要である。貸しつける元金を確保するのも大仕事であるが、貸付けた金の回収は、もっと大仕事である。だからこそ、弁護士や、取立て屋や、更には暴力団などがそこでシノギをしている。だが、こうした〝取立て職人〟をつかえば、コストは飛躍的にはね上る。少々の利息など吹きとんでしまう。
金融の営業マンの腕の見せどころは、まさに「取り立て」にあると言えるのである。 貸し出すときの調査、法律手続、担保、そして、コゲついた時の対応。 先述の森重章は、 「それは、池田先生は、群を抜いていましたよ。だれも及びませんでした」 と語った。 学会員から金を借り入れる時の、ニコヤカで礼儀正しい青年が、取り立てる時は、冷酷非情に徹しなくてはならない。
よく、 「寝ている病人のフトンをはがして行く」 とか、 「ナベ、カマまで持って行く」 とかいわれるが、それに似た徹底さがなくては、金融業はやっていけない。 東京安全信用組合の失敗や教訓として、戸田城聖と池田大作は、貸出先を厳選した。聖教新聞の広告を見て、倒産間ぎわの学会員が大蔵商事を訪れても初めから相手にされなかった。 「うちは、あなたのような人が利用するところではありませんよ。利息は高いし、一度借金地獄に入ると抜けられなくなります。悪いことはいわないから、地道に努力しなさい。あなたのために言うんです」 会員をいたわるような口調でていねいにことわられる。 ことわられた会員は、 「戸田先生は、商売気抜きでそこまで私のためを思って下さる」 と逆に感激する。 その一方で、回収の見込みがあり、或いは担保の充分ある相手にはどんどん貸し付ける。それでもコゲついたら、容赦なく担保を流す。足りなかったら、「寝ているフトンをはがす」こともやる。
こういう仕事の過程で暴力団など裏の組織との接触も当然生じる。 終戦直後のインフレ、そして次にデフレ。戦災で打ちのめされていた日本経済に、チャンスが訪れていた。 昭和二十五年から七年にかけての朝鮮動乱は、我が国に〝特需景気〟をもたらし、経済は一気に立ちなおりはじめた。 「一ヵ月たつと物価が倍になり、お札の値打ちは半分になる」 といった時代。 「ものを作ろうにも金も資材もなく、作っても売れない」 といった時代。 それをしのいだ後に、 「作りさえすれば売れる」 という時代が到来したのである。 町工場も企業も、設備投資と増産に走り、そしてそれがもうけにつながった。強い資金需要と好景気の中で、大蔵商事にとって有利な貸付先に不自由せず、しかも倒産とか貸倒れといったケースが少ないという経済状況は、願ってもないことであった。
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