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from: 22世紀さん
2011年11月19日 09時23分54秒
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池田大作「権力者」の構造
池田流社交術
こうして池田は組織活動に指針を与え、権力を組織的に支えた。しかし首領である池田の役割はそれですむもので
なく、なにかと引き合いに出されては心労のたえまがなかった。
そのような場合、池田の原理の基調は創価学会=公明党の利益に置かれ、その言動はすべて、組織の利益にどの
ような効果を及ぼすかという観点からなされた。彼は基本的には会外者を信用しないという、油断のない打算をもって
行動し、小心なまでにその権力の保守に汲々とした。
このことは彼のもっとも得意とする分野、人あしらい、対人の態度によくうかがわれよう。草柳大蔵は池田に関する次
のエピソードを紹介している。
「会員が600万世帯をこえ、『聖教新聞』『公明新聞』が日刊となったときのことだ(昭和40年か、41年)。ある〝大物〟
が池田を訪ねて来て言った。
『君のところはずいぶん強大な組織になったが、いったい、これからどうするんだ』
彼は池田の顔を読むような眼つきになった。池田はこう答えている。
『とんでもないことです。組織はこのへんが頭打ちですし、議員の質にしても、その他の人材にしても、そうは整いませ
んよ』
『うん、そりゃそうだな』
池田は、このとき吉川栄治の『三国志』の中の、曹操と玄徳のエピソードを思い出していたという。雷が鳴ったとき、
玄徳は』あな、おそろし』と机の下に潜りこんだ。それを見て、豪傑・曹操は『ハハア、なんたる臆病者か』と笑った。
あとで玄徳は『あのとき、あの豪傑と張り合っていたら、どんなに冷酷な手を打たれるかわからないからな』と呟くので
ある。このクダリが頭にあって、池田は〝大物〟の『創価学会にはもう人材はおるまい』という判断に従って見せた
わけである」(『文藝春秋』昭和44年9月号)
このプラグマチックな組織防衛反応は、単なるエピソードにとどまらず、池田の言動の随所に見られる反応であった。
彼はしばしば三国志を思い出しては自制し、実利を自分にいいきかせ、今に見ていろとの鬱屈と憎悪の心を養ってき
た。大時代な意気と、粗雑な認識の持ち主である池田にとって『三国志』は、汲めどもつきぬ知恵と指針の泉だったの
である。
青島幸男との対談でも、彼は次のように応対して青島の鉾先を玄徳ばりにしのいだ。
「青島 (創価学会が)なんで政治に介入してこなければならないのかという点がもう一つわからないんですね。つい
には議席をふやして与党になり、池田大作が王にとって代わるのではなかろうかというような・・・・・(笑い)心配して
いる人もあるんじゃないかな。
池田 まるで落語ですね。三議席ふやすのにも十年も命が縮まっているぐらいですよ。与党なんか夢物語ですよ。
・・・・・ファッショだとか、なんとかいうのは、アンチ派の恐怖症ですよ。そんなに簡単に議席がとれますか。とんでもない
(笑い)。
・・・・・だいたい私みたいな気の弱いものがファッショの中心になんてなれっこないじゃありませんか。こんな平々凡々
な、面倒くさがりやで、体が弱くて、政治が嫌いで、平凡に生きたいという念願できた人間が、そんなことできませんよ、
おかしくて」(『宝石』昭和44年1月号)
池田の対人の態度は、大物やウルサ型に対しては笑いにまぎらしつつ、へり下ることが基本型であり、かなり底の
割れやすいものといえた。そしてその卑下には態度ばかりか、内容の割引――嘘も用いられた。「与党なんか夢物語」
という言葉は、池田の心内では、与党にしたいという願望とまるで矛盾せず、与党への有用な過程的な言辞としてだ
け把えられた。そこでは虚言しないという一般倫理は、与党になるとの彼にとっての善の前に吹っ飛んでいた。
一体に池田は非常に恨みがましい性格の持ち主で、その自尊心は対者の些細な言動でしばしば傷つけられたが、
彼はその場で溜飲を下げることが得策でないと見れば、「生意気」と思いつつも怒りを胸の内におさめた。そのことは
発表時に手入れされたはずの彼の『若き日の日記から』にも、なお散見される。
昭和26年2月13日(池田23歳)、「吉沢君なぞに於いては言をまたず。――先輩にへつらい、盲目にして生意気な
女性よ。――」
同年4月7日、「夜、青年部月例部会。出席者、約数十名。男女共に。愚かな、気ざな、幹部が気に入らぬ。町の、
青年部の幹部のつもりでいる」
28年1月8日(25歳)、「二時、R(竜年光と思われる)宅にゆく。交通事故の、弁償金、八万円也を、整理してあげる。
心からの礼もいわず、いやな同志と思う。利己主義と権威主義の同志ほど、情けなきものはなし」
同年10月22日、「Y君、少々慢となって来る。そろそろ厳重に、指導の要ある。自分が謙虚になっていると、図に
乗って来る」
29年6月23日(26歳)、「S宅を訪う。実に生意気である。じっと耐えよう。そして三年後に勝負せんと、帰り、一人
思索する」
同年7月30日、「大宮方面に出張。K氏の生意気を憤る。5年後、10年後の勝負を――と我慢する」
同年12月29日、「8蒔、R(たぶん竜年光)宅へ。参謀室の友と共に。生意気な一家、特に女房に怒りをおぼえる」
陰にこもった立腹の甚しきものは古来小人と決まっているが、まして宗教人にとっては、「生意気」「図に乗る」などの
語や、他人の「女房」を悪しざまにいうなぞは、理由がどうあれ聞き苦しく、池田の野卑な人格、逆投影した傲慢を察知
させてあまりあろう(なお文中の「勝負」とは果たし合いではなく、創価学会員用語で、何年か後をゴールと決め、その
時までにどちらが幸福になっているか、出世しているかを較べる意)。
おそらく、池田が相変わらず日記をつけているなら、青島幸男は、「青島の生意気を憤る(!)。十年後に勝負せんと、
帰り、一人思索(!)する」と彼の日記につけられたはずである。なにしろ、池田は彼のために、「こんな平々凡々な、
面倒くさがりやで、体が弱くて、政治が嫌いで・・・・・」といわせられたのである。
もっとも、池田も「勝負」の念いだけでは精神衛生に悪いと知ってか、平凡に関する態度の方を変えて心の不協和を
解消していた。池田の常用する「平凡」は、彼の内部においては決してへり下りを意味せず、自制の代償をきちんと
済ませる構造になっていたのだ。
「〝偉大な人〟とは、平凡であることの偉大さを知った人のことだ」(池田『指導要言集』)
池田がこのようにいうからには、彼は、「平凡であることの偉大さを知っ」ており、また自ら「平凡に生きたい」と願って
いるのだから、彼は「偉大な人」となる道理だった。まことに語るに落ちる、すさまじい尊大ぶりというべきだろう。
池田の対人のもう一つのパターンは、彼がインタビューされる企画にもかかわらず、相手(ホスト)のことを尋ねてみ
せるというテクニックだった。相手に関心を持っていることを示せば、相手が喜び、自分の扱いもよくなるだろうという
きわめて皮相な、一面では人をなめた発想である。
現に前出の青島との対談の冒頭部分で池田はこういった。
「きょうは青島さん、私のほうから幾つか、是非お聞きしたいことがあるんですよ。
・・・・・私の友人でも、うちのお手伝いさんや隣り近所の人にも、青島さんのファンがおりましてね、その人たちを代表
して三、四点お聞きしたいんです」
嫌味なほどに池田は露骨なくすぐりを常用した。彼にとってはその場を巧妙に立ち回れればそれでよく、品性を疑わ
れそうな卑屈なこともさらりといってのけた。ジョン・ガンサーとの対談もその例である。
「ガンサーさんは世界における言論界の大統領でありますので、今日は私こそ青年を代表して質問をさせてくれませ
んか。こんどアメリカに行ったときは私はゆっくりと質問を受けますから(笑い)」(『中央公論』昭和41年12月号)
これでインタビュアーが無名の新聞、雑誌記者になると、これらの手はつかえないから商売ホメ――「わたしは新聞
記者志望でした。息子も記者志望でしてね」――と、対照の妙とでもいうべきテクニック――池田の両側に幹部が並び、
彼らは茶菓にも手をつけず、池田が記者に語る言葉を必死にメモする。その中で池田は悠揚迫らず、お茶をどうぞ、
お砂糖は? などと細かい心つ゛かいを見せる――を使ったようだ。記者は目の当たりにする池田の権威との対照で
さらに強められる池田の頭の低さに感じ入ることを狙う演出である。
また、池田はしばしばインタビューの予定時間を超過してしゃべりこむというサービスを行った。談話取材者のつねで、
忙しい身にもかかわらず、これほど熱心に他の約束をすっぽかしてまで応じてくれるとはと、ひとしお感激を新たにする
わけである。長時間にわたる異例の会見であったと前書きにうたう記事が、いかに多かったことか。
池田がジャーナリズムにこれほどの気をつかったのも、池田や創価学会=公明党が何よりジャーナリズムを重視した
からである。昭和45年の言論抑圧批判への逆攻撃のさなかでも、『聖教新聞』声欄に、例の「社会党のうすバカども」
とやった渡部発言(昭和45年1月11日、創価学会学生部幹部会)中に新聞記者への誹謗があったのはまずい、との
投書をのせるほどに、彼らは社会的な孤立をおそれていた。
さらに池田は必要とあらば、老人の肩を抱き、大石寺で酒を出し、また婆さんに頬ずりし、髪をなでながら「あばあさん、
本当に偉いね。いちばん可愛いよ」(央忠邦)とやることも辞さなかった。重要なのは彼の世評であって、彼の好悪では
ない。
池田はこれらの泥くさいセリフや仕草を律義に繰り返してきた。彼の人間認識の原型は、人は賞められれば喜び、
へり下れば安心するというみごとなほどに単純なものであった。単純を厚顔にも押し通すという点で、彼は実に優れた
演技者であったといえよう。
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