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from: 22世紀さん
2011年12月04日 12時20分42秒
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池田大作「権力者」の構造
アナクロニズムで無内容な文章のたれ流し
池田が偉大だったのは創価学会=公明党によってだったが、いつしか池田は、組織を離れて裸一貫でも偉いのだと
思いこみ始めた。その思いこみに力を貸したのは彼の著作活動であった。彼の著作はことごとくが大ベストセラーとな
った。
「小説『人間革命』は一巻から五巻まであるし、合計で617万部。『家庭革命』35万部、『科学と宗教』50万部、『私は
こう思う』42万部、『わたくしの随想集』45万部、十月に出たばかりの『私の人生観』でもわずか1ヵ月たらずで30万部
だ」(浅野、前掲書)
これらは内容ではなく、池田の創価学会会長という地位によって売れたと見られる。彼の本を会員外の者が、どれ
ほど購読したかは詳らかでないが、たとえば『人間革命』五巻で計617万部は、一巻あたり平均123万部となり、購読
者を会員だけとしても、むしろ少なきに過ぎるようだ。公称世帯数に及ばぬことは当然としても、公称教学部員数
185万人にも達してはいない。
同書は教学部の任用から助師、講師、助教授補、助教授、教授補に至る各級すべての試験に出題され、受験者は
『聖教新聞』に連載された分を読むとしても、利用しやすい形で手元に置きたいだろうから、その多くが購入したであろう。
まして一般の新聞社、出版社から刊行された随想ものの最高45万部は、大ベストセラーは間違いないものの、池田
の地位にしては、さらに少部数との感は免れず、会員外の購読者はごく少数だったに違いない。そうならば、池田は
なくもがなの自著によって会員の財布をいっそう軽くしたのだから、それによる印税の、会活動への寄付は当然だった
といえよう。
が、ともあれ池田はこうした実績を踏まえて、私は小説家というより詩人といい、また言論抑圧の際には、
「私自身、小説も書いております。随筆も書いてきました。いろいろな論文も書いております。これからも書いてまいりま
す。近代社会の言論の自由の恩恵に浴している一人であります」(池田『池田会長講演集』 三)
と、誇らしげにいうことができた。
彼の本は、講演にしろ、随筆にしろだいぶ収録文がだぶっており、速記による講演や講義、輩下が編集したと思われ
る指導ものを除けば、著作らしい著作はかなり少数となる。
が、いずれにしろ、池田は一日に九枚から四十枚というペースをもって教義、講演以外にも様々な分野で発言してきた。
『人間革命』のほか、ありきたりの微温の常識をとく女性ものや少年もの、物知りのあまり、カントが「『法哲学』等の有名
な著書を残した」とする『政治と宗教』、科学的な研究の成果が仏法の正しさを証明すると主張する『科学と宗教』、
さらにはまた、その多くが、ああとか、おおとかで始まり、命令形で終わる、時代錯誤の寮歌と星菫派の混合物、デラッ
クスな詩集『青年の譜』をも出版した。
池田の名による多数の著作は代筆陣に支えられていた。『人間革命』は本部近くで博文堂という書店を経営し、川用
清史というペンネームを持つ作家でもあった篠原善太郎による。また池田の日蓮正宗の教義関係の著作は参院議員
の多田省吾と、元教学部長・原島崇の代作、『忘れ得ぬ人々』は聖教新聞局長の佐々木捷祐、松岡資、『仏教説話』
は同論説委員長の松島淑のそれぞれ代筆、ほかに現教学部長・桐村泰次、総務・野崎勲、野崎至亮、川田洋一、松本
一夫らの幹部も代筆陣の一員であり、彼らは「特別書籍」という名のグループをつくっていたという(『週刊文春』昭和
55年6月19日号)。
たしかに池田自身、『人間革命』を書くと発表した昭和39年4月1日、「私ひとりではできませんもので、同じく戸田門
下生を代表して、一、二名の人に手伝ってもらう予定であります」(『聖教新聞』昭和39年4月4日)と語っている。その
「手伝い」がどの程度のものか、おそらく代筆にまで及ぶものだったのだろうが、一面、池田もなかなか文章にうるさか
ったのも事実である。内部文書の中には池田が聖教紙の記事を書き直す場面のものがあったり、代筆した原島崇でさ
え、自分は「文章も下手で、先生にずいぶんご迷惑をかけたことも幾度もあり」(原島『池田大作先生への手紙』)と
記している。
彼の著作の中には全面的な代筆によるものも含まれていようが、そのようなものをも含めて、彼の名による著作には
彼の構想や文飾がなんらかのかたちで混入していることは確かと見られる。芸能人の自伝等によくあるように、短時間
取材して、ゴーストライターがまとめるものとは性格を異にしている。
ものを書く人間として恥ずべきことにちがいないものの、ここでは一応、池田の名による著作は池田の著作として扱う
ことにする。
池田は自ら、「私は、あくまでも、創価学会会長であり、仏法の指導者の立場である。政治、経済、教育、学術、芸術
等の、万般にわたる文化の土壌を創っていくのである」(池田『政治と宗教』)と述べた通り、ルネサンス的な全能者だっ
たから、彼の脂ぎった手で言葉を汚し、洛陽の紙価を高める権利を授けられていたのであった。
池田の全著作は、主として彼の物怖じしない態度の産物であった。彼の著作の水準は、一般紙の読者投稿欄のそれ
を抜くものではない。一般向けのどの書をとっても、陳腐な世智が冗漫に記されているに過ぎず、読了するに退屈で
耐えがたいものばかりである。そこには、宗教者の書いた書籍にときおり見られるハッと胸をつかれる指摘も、にじみ
出て迫る精神の高貴さもなく、逆に池田ほどの権力者だけが持つような邪悪なまでの権力意志のひらめきもなく、ある
のは凡庸と無内容ばかりである。
また池田の詩にしたところで、小器用さは認められるとしても、その意識はせいぜい明治の段階にとどまり、世界は
円満に自己完結しているのだった。
彼にあっては少年の心は、結構なことに、「もぎたての果実のように 柔軟」(『少年』)だし、また「少年動かず 月明かり
伝記と歴史の 書をよみて 紅顔可憐に涙あり 正義の心の鼓動楽」(『厚田村』)なのである。月並みというより、むしろ
噴飯ものの語法と発想、貧しさを貧しさなりによしとするリズム、紋切型の感性。ここに、太宰治の作品中、「走れメロス」
だけしか理解し得ない池田の限界が露呈している。彼にとっては、詩は世界の認識ではなく、卑小、甘美な感傷と粉飾
の小世界であった。
彼はことによると、現代にはまれに見る全的人間だったかもしれないが、それは彼の度しがたいアナクロニズムによ
ってのみ、からくも可能だったのだ。
池田は売れることを自負とし、会員と同調者からの激賞を内発性にかえて、恥ずかしげもなく著作活動にいそしんで
きた。池田の文章に対して、世間がその発行部数に対したとき以上には、賛嘆の声をあげることを惜しんだのも道理
である。
曾野綾子は、「ツルツルで読むものの心にナニもひっかからない」、野坂昭如は、「区役所の広報、お知らせみたいな
ところがあるヨ。味もソッケもない。・・・・・ボクはつまらない文章だと思います」と評した(『週刊文春』昭和45年3月30日号)。
またマックファーランドは、創価学会の出版物は、「日本語のも英語のも、露骨なほど宣伝臭が強く、また空理空論な
ものが多い。そして、その文学的な質はきわめて貧しい」としている。
「昔の人の芸術は実に優秀であった。それは夜は電燈がなく、睡眠を思いきり取ったからともいえよう」(池田『指導メモ』)
という池田学説をもってしても、彼の名高い睡眠時間の短さでは、ロクな詩や小説はできなかったということになろうか。
池田がどのように知的上昇の思いに身もだえしようと、彼はどこまでいっても似非インテリから抜けられなかった。
彼は23歳時の日記に、「久方振りに、バーバーにゆく。帰り浴場(バス)にゆく」(池田『若き日の日記から』昭和26年
4月24日の条)と、小、中学生並みの英語を使わずにいられなかったが、これと、「学生を、破壊的な抵抗運動に走ら
せたものは、現代大学社会に瀰漫する積年の病弊と、矛盾にあることは誰の目にも明らかである」(池田「学生問題に
思う」昭和44年、『私はこう思う』所収)との、もっともらしい、その実何もいってないに等しい無内容との間には、本質的
な差違はなに一つない。
ベストセラーが現れると浮かび上がる、やや軽蔑的なニュアンスを含んだベストセラー購読者層という言葉があるが、
池田をはじめとする創価学会員たちは、どうやらその層と多分に重なる疑いがある。彼らはまじめで時流の知識の獲得
に熱心なのだが、どうも偏頗なのである。
池田はしきりにインテリ的な一家言を持ちたいと願ってきた。おそらく池田の心内には、彼が意識する、しないにかか
わりなく、知的水準の低さが定評と化した感のある創価学会=公明党と、彼自身を同一視しないでほしいとの願望も
あったことだろう。
そのために、彼はその時々の最新の話題と流行語の使用法を会得した。たとえば池田は、言論妨害を一応詫びた
昭和45(1970)年5月の演説で、日蓮はともかくとしても、ボルテール、エーリッヒ・フロム、ボールディングを引用し、
アインシュタイン、トレンビーを引き合いに出し、またコンピュータ、アポロ13号、アース・デー、世代の断絶、
スチューデント・パワー、ゲバルト、ヒッピーなどに言及、ないし言葉として使っていた。
だが、それは単にそれだけにとどまり、文章としても構造化されず、つねに上すべりなものに終わった。
「ソ連はこの『言論の自由』の威力が、社会主義国においては、原子爆弾より恐ろしいことを知って、恥も外聞もなく、
武力介入に出ざるを得なかったのであろう」(『プラハの秋』昭和43年、『私はこう思う』所収)
池田は天下国家を大所高所から論じれば、単に語としての把握にとどまっても、それだけで自身の大物ぶりを自覚
するという快感を覚えることができた。彼はもっともらしさとしかめっつらの教養主義者で、彼がこれぞと思う知識人像に
自らを合わせ、得々と弁じたてた。
が、そこでは文は人なりの言葉そのままに、池田らしいいくつかの特徴を隠すわけにはいかなかった。
まず尊大な語り口。「私は・・・・・現在の地球の防衛について、いかにすべきかに思いを致しているのである」
(『人間革命』 四)「私は・・・・・人間の異常さに考えをいたしているのである」(同前六)
比喩による見せかけの論証。
「自動車も走っていれば、窓から風もはいって涼しいが、止まっていたのでは、風も入らないから、涼しさを味わうことが
できない。同じように信心も前進していなければ、しあわせをわが身にうけることはできない」(『指導メモ』)
冬ならば涼しいどころか寒いだろうし、風があれば止まっていても涼しいだろう。また窓やベンチレーターが閉まって
いれば、走っていても風は入らない。このような屁理屈をもってしても、この一文は何ものでもなくなる。比喩による論証
は俗耳に入りやすいという利点はあっても、多くが不正確で、偽りの論証にすぎない。
非科学的な床屋談議。
「戦前、満州に日本人が行くようになったら、それまで鳴らなかった雷が、鳴りはじめた。北海道や東北も、人口が増え
てきたら、雪が少なくなったという。どれほど、人心の動きが、宇宙に瀰漫し影響するかという証拠である」(同前)
これは床屋談議にはふさわしかろうが、指導と銘打った活字にする文章ではあるまい。いうまでもなく天候は、局地的
な人口増がただちにその局地に影響するようなものではない。天候を決定する要因は多数複雑なはずであり、もし
人口増だけによるのなら、積雪量の年ごとの変化は説明できないことになる。
総じて池田の文章は、大仰な形容、陳腐な表現、新しがり、論証抜きの断定といった欠点があると思われるが、
さとう・せいこうは彼の文章に即して詳細に批判を試みている。次に再引用する池田の文章は、例の戸田の原水爆
声明に関する『人間革命』の一節であり、よくも悪くも彼の文章の典型であろう。
「<いったい 『魔』とは、どんな正体なのであろうか。これまで、抽象的な解釈や説明はなされてきたが、要を得た解明
はみられない。だが、根本的には、幸福を奪うもの――人をして、不幸へ、不幸へと落してゆく作用、力であるにちがい
ない。では、その 『魔』を見破ることのできるものは何か。ここに、生命哲学の重大さが浮かび上がってくる。結論して
いえば、『魔』を破るものは、ただ一つ『仏』の生命しかないのだ。魔は絶対に、仏に勝つことはできない。ゆえに、核戦力
という魔の仕業も、所詮は仏の軍勢によって衰退するに至るであろう。核能力の絶滅ということは、二十世紀に時を同じく
して、この地上に出現した、仏の軍勢の使命にかかっている>(池田『人間革命』 四)
これまたアッケラカンとしている。魔が『どんな正体なのだろうか』と自問しながら、『根本的には、幸福を奪うもの』という
自分で遺憾とした『これまで』の『抽象的な』『説明』しかできないのである。何が『だが、』であろうか。もっとも、それ以上
説明できるはずもない『にちがいない』のであるのだけれども。続けて『魔を見破る』ことがさもさも『重大』そうに語られ、
その証明がメンドクサクなったのであろう、『結論していえば』とくる。そして、『魔は絶対に、仏に勝つことはできない』と
断言し、この断言に勢いつ゛けられて「ゆえに」と、力を入れる。この断言はどこからくるのかは皆目見当がつかない。
例によってアイマイである。そういう時にかぎって彼らはゼッタイニと断言してそこをすばやくスリ抜けてしまうのだ」
(さとう『池田大作を裁く』)
これにつけ加えることはあるまい。池田の文章の一大特色は非論理という点にあり、ゆえにとか、したがってとかの
論理の帰結を示す言葉を単なる整調に用いる点にある。前章で引用した衆議院進出の演説は、書かれた文章とは
いえまいが、それをよく示していよう。
このことは池田がなかなか詭弁にすぐれ、飛ばし読みする分には、――もっとも『人間革命』は前述したように教学部
の試験に出題され、会員は熟読玩味を要求されるのだが、――さしてアラの目立たない文章を書けたということでもある。
彼の臆面もない自己肯定――池田は『中央公論』昭和46年7月特別号「日本の宗教」で、「自己否定と法華経」という
題の文章を求められ、私には書けないと断わった、その結果、「自己変革と宗教者」になったという――と、自己陶酔
――「やや長い睫毛が、影をおとし、稚ない眼元を涼しくしていたが、また、そのあたりに憂いを帯びていた」(池田自身
である副主人公の描写、『人間革命』 二)――をもってすれば、彼は創価学会会長ならずとも、彼自身をモデルとする
スーパーマン的な善玉が主人公の、彼の用語を借りれば、五、六流の通俗小説の書き手には立派になれたとみられる。-
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