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from: 21世紀さん
2010年12月27日 10時47分11秒
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YouTube - うそ?創価学会のご本尊ってニセモノなの?
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http://www.youtube.com/watch?v=RQsbwuvF3Hs&NR=1from: 21世紀さん
2010年12月29日 20時52分25秒
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「Re:YouTube-うそ?創価学会のご本尊ってニセモノなの?」カルト宗教ゴロ、広宣部に反省なし。投稿者:葬禍脱会運動(生粋嶽界二世)投稿日:201
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from: 22世紀さん
2010年12月31日 00時43分55秒
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池田大作「権力者」の構造
戸田城聖と石田の母石田の家族はほぼ全員が創価学会の幹部だった。母親・つかは本部婦人部長、妻・栄子は青年部参謀、妹・明子は元女子部第三部隊長で秋谷城永の
戸田城聖と石田の母
石田の家族はほぼ全員が創価学会の幹部だった。母親・つかは本部婦人部長、妻・栄子は青年部参謀、妹・明子は元女子部第三部隊長で秋谷城永の妻、弟・幸四郎は男子部第47部隊長(のちに、公明党委員長)である。だが、彼らは閥をつくるには非力で、単に有力な家系にとどまっていた。
石田自身の権力はいうまでもなく強大で、また若くして、中島治雄と田島文枝、中村慶和と森本滋子の媒酌を行うなど、信望にも欠けていなかったが、彼は無欲で生真面目に過ぎたし、彼の信仰は強固で、外に対して戦闘的だったが、内部の権謀術数には一本調子で、よく耐えるものではなかった。
このような石田の人柄のよって来る由縁は、彼の生まれと昇進のしかたに求められるかもしれない。
石田の家は秋田県鹿角郡の旧家で、高額納税者だったが、戦後、どのような理由によるものか、一家は上京し、小岩にアパートを経営した。その一室に和泉覚夫妻もいた関係で、一家で最初に入信した母親・つかは、入信前から戸田のことを聞き知っていた。
つかは戸田の一周忌法要で、入信当時の追憶談を語っている。聖教新聞にはまれな、味のある話と思われるので、やや長くなるが引用してみよう。
「はじめて私が先生(戸田)にお話したのは、25年の秋ころと思います。先生が一時、理事長を辞されておられましたが、私は先生ほどの方がなぜ事業に失敗なさったか、どうして理事長を辞退されたのか、それをお聞きしたくてしようがありませんでした。
ときどき先生がお酒を飲んでおられるのを見かけていましたので私は自分の常識で判断しまして、いくら先生でも、あんなにお酒を召し上がるから、頭の具合でも悪いんじゃないかと思ったのでございます。(笑)それで、ぜひ先生に大酒をよして頂き、もう一度理事長の席につかれ、学会の指揮をとって頂きたい、といつも思っていたのです。
ある日、先生が私のアパートにいられた和泉先生の処へみえたので、絶好のチャンスと帰られるとき玄関で呼び止めまして『お酒を召し上がっていますか』とお聞きしました。先生はあっさり『ああ飲んでおりますよ』とおっしゃったのでがっかりしたんです(笑)。
『もう酒どころじゃないよ』といって頂きたかったんです。そこで私は、お酒を飲んではいけませんよという意味のことを申し上げたんです。
ところが先生はただお笑いになって、それにはなにも答えて下さいませんで『私もネ、いままで自分のことにかまっていましたけれども、これからは本当に困っている人の味方になっていくつもりですよ』と、こうしみじみおっしゃったのです。
そうして『あなたも弱くては大変ですね』(つかは結核を病んでいた)といわれ、お数珠をもって、私の首から背中をさすって下さった。私はお話をするのもはじめてですので『もう先生結構でございます』(笑)とただ恐縮しておりました。あとで思いますと、先生は、ご祈念をして下さったのだなあと思いました。
そのときは、まだなにかいいたりなかったように思いまして、こんどはお手紙をさしあげたんです。先生はお酒のことにはなにもふれず信心の面でお答え下さいました。(手紙の内容略)
それからほど過ぎてから先生が『奥さん、あんたはまあ正直でいいよ、酒をのむななどといったのは、あなたばかりだ』とおっしゃって下さいました。『あんたもね、もういつまでも、オツにすましていないで、ぼくたちの仲間に入んなさいよ』と、こうおっしゃって下さったんです。
このことがあって、私も先生のお側近くでいろいろとご指導うけるようになりました。焼鳥の味をおぼえたのもそれからでございます。(笑)女というものは、ああいう処へ入って食べるもんだと思っておりませんでしたが、先生が目黒駅の焼鳥屋によくお寄りになって、「まあ、奥さん食べなさいよ』とおっしゃって下さる。柏原(ヤス)先生など、よく召し上がっていらっしゃったようです。(笑)それに子供たちの結婚についても、いろいろとご心配をいただきました。
大幹部の方々が、よく先生にしかられていらっしゃったのですが(笑)そこで私も、一度涙の出るほどしかられてみたいと思いました。先生は私なんか当にしていらっしゃらないんだなあと、ちょっと情なく思っていたのです。でもしかられる時期が来たのでございます。あの参院選のときでした。柏原先生を落したということで、まあ先生にしかられ通し。あのときほど会長室のドアーの重かったことはございません。(以下略)」(『聖教新聞』昭和34年4月10日)
戸田は、つかの世間慣れしていない親切に自分の住む世界とは別の、好意的な物珍しさを感じ、彼女にかわいい女を見ていたのかも知れない。写真で見るかぎり、往年の明眸皓歯といったおもかげがある。組織家として別段優れていそうもない彼女を、理事のすぐ次席の本部婦人部長につけたのも、戸田の彼女へのほのかな感情のせいだったとも考えられよう。戸田はすぐれた指導者ではあったが、その人事に、気まぐれや思いつきが混入すること皆無というわけではなかった。
また戸田は石田をも息子のような気持ちで見ていたのではなかったのか。石田は優秀な幹部に違いなかったが、そのめざましい昇進に母親の存在がまるで無関係だったとはいえまい。が、むしろ逆に、母親の存在が石田の野心を損ない、彼を自足させたというマイナス面の方が大きかったかも知れない。少なくとも石田は池田のような人間関係の飢餓状態にはなかった。
石田は少年時、池田とちがって級長、副級長をつとめ、秋田県大館中学、芝浦高専へと進んだが、学校を出ても就職しようとはせず、毎日、江戸川区平井の加藤六段道場で将棋をさしていた。母の信心には反対し、折伏にきた和泉夫妻を追い返したこともあった。
が、昭和25年11月に自らも入信し、一週間後に戸田と会った。戸田は一度会ったきりの石田に見込むところがあったのだろう、翌26年3月に突然、彼を呼び出し、聖教新聞の編集をまかせた。以後、石田の信仰と出世は聖教新聞とともに進んだ。今日400万部を発行し、三大紙に迫る同紙の基本はすべて石田によって作られた。彼は出世を渇望しなかったが、よき理解者だった戸田の引きで、幹部間随一の昇進を遂げた。
『御書』初版が発行されたとき、戸田は、
夫婦して 御書つくらんと 生れきし
700年の 今日ぞうれしき
との歌を石田夫妻に贈った。また彼を九州総支部長に登用する前、①人間が甘くて何の話でも信用する ②性の悪い人、良い人の見分けがつかぬ ③計画にとらわれて先輩に相談しない、という三点を指摘し、彼を叱ったという(『聖教新聞』昭和30年1月1日、昭和34年5月14日)。が、戸田が、こうした間の抜けたとはいえ、一面では人の良さをも物語る欠点を持つ石田を愛し、重用したことは、彼の青年部主任参謀、小岩支部長、理事、九州総支部長といった経歴がなにより雄弁に証している。
かりに戸田が今すこし永らえていたなら、はたの者がどのように非難しようと、石田を後継者に指名しただろう。そして石田が会長になっていたなら、創価学会は華々しさに欠けても、いかにも宗教らしく発展しただろうし、電話盗聴や替玉投票、出版妨害などを少なくとも引き起こすことなく、世間の風当たりも弱まっていたにちがいない。
が、戸田の死後、彼の重用がすぎたために、石田の庇護者はなく、また彼には池田の持つ粗野なまでの自己主張も野心もマキャベリズムも乏しかった。-
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21世紀、
from: カラへさん
2020年02月25日 15時18分16秒
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日顕死んだの?
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from: 21世紀さん
2010年12月28日 15時32分48秒
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メディア戦略(言論封殺)
中央公論「池田大作・茂木健一郎往復書簡」を嗤う----------------------------------------------------
中央公論「池田大作・茂木健一郎往復書簡」を嗤う
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―「タレント学者」が取るべき「池田大作」に対するスタンスとは―
(ジャーナリスト・古川利明<Forum21>H22.4.29)
【あの高級誌が「なんじゃい、これは」の企画】
「毎月10日」というのは、『文藝春秋』に『中央公論』と、メジャーな総合月刊誌の発売日であるため、書店で平積みにされる「それ」を楽しみにしている人も多いだろう。
ところが、である。『中央公論』4月号(3月10日発売)を手に取ると、表紙には大きな文字で、「池田大作×茂木健一郎 科学と宗教の対話」とあり、当該の箇所を覗くと、創価学会名誉会長である池田大作と、脳科学者の茂木健一郎との「往復書簡」という形で、双方が意見を述べ合うという企画が掲載されている。トータルで、じつに22頁にも達するもので、書簡は、この2年間にやりとりされたといい、最初の見開きの頁で、池田と茂木のそれぞれの顔写真が、いわば、「2ショット」で収められている。だから、この顔写真だけを見た読者の中には、この2人が、直接会って対談したものだと思いこんだ人もいるかもしれない。
しかし、この手の企画、つまり、池田大作と各界著名人とのいわゆる「対談モノ」は、これまでは、「自分のところ」、つまり、『潮』であり、『第三文明』というのが専らであった。『中央公論』といえば、確かに、経営危機によって、99年に版元が、いわば、読売新聞社に“身売り”され、同グループの傘下に組み込まれてからは、その論調の保守化が指摘されてはいるものの、その看板ブランドは、岩波書店の『世界』と並ぶものが、かつてはあり、「中公への文壇デビュー」が、「言論人としての、一人前の証」と見做される時代があったのである。特に、アカデミズムに足場を置く「学者先生」にとっては、この『中央公論』に論文が何度も載ることで、「広く世に認められた」と評価されたものだったのである。
そうした「高級総合雑誌」に、いきなり、池田大作が、何の前触れもなく、どアップの顔写真付きで登場したわけだから、「なんじゃい、これは?」と訝ったのも、恐らく、筆者だけではなかったのではないだろうか。
【疑われる編集部のセンス】
今度の「池田・茂木対話企画」には、大きく言って、2つの問題点がある。
まず、1つは、こうした企画を実行した編集部のセンスである。『中央公論』は、明治期に創刊され、特に、大正時代は、吉野作造の政治評論を精力的に掲載し、「大正デモクラシー」を下支えする役割を果たした。そうしたリベラルな歴史を持つ媒体が、「宗教者」の仮面を被りながらも、「創価学会・公明党」を完全にコントロールし、とりわけ、この「自公の10年」においては、個人情報保護法の制定に名誉毀損訴訟の賠償金高額化といった、数々の「言論封殺」を企んできた「張本人」である「池田大作」を、こうした「ヨイショ」の形で、取り上げてしまったことへの「恥ずかしさ」を、本来、心ある編集者であれば、感じなければならない。「非学会系の」、それも、由緒正しい歴史ある総合月刊誌が行ったことの意味と責任は、決して小さくはない。
ただ、推測するに、この企画は、おそらく、現場レベルから出てきたものではないと思う。「池田大作」という、政治的には超重要人物を誌面に登場させるにあたっては、相当、高度な社内における意思決定があったとみるべきである。とりわけ、『中央公論』は、新社移行にあたって、読売新聞グループの傘下に入り、その影響を大きく受ける立場にある。
そもそも同グループ本社の代表取締役会長の、「ナベツネ」こと渡辺恒雄が、一線の政治部長の頃から、学会サイドは既に目をつけ、取り込むべく、広報室の「ナベツネ担当」を自宅マンションに夜回りさせていた。その際には、果物などのプレゼントを贈る一方で、彼の言動も詳細に報告書をまとめ、ちゃんと、池田の元には提出されていた。そうした息の長い人脈形成からくる、「池田&ナベツネ」の、いわば、「ズブズブ関係」から、94年の時点で、当時の週刊読売で、「ビッグトーク 池田大作の『世界と対話』」の連載を行い、その後、読売新聞社から『私の世界交遊録』のタイトルで単行本化された過去もある。それゆえ、今度の『中央公論』の対話企画をテコに、例えばデフレ不況が続く昨今、「読売新聞本体」における、信濃町サイドからの「広告出稿を、何卒、よろしく」とのメッセージが込められていたのではないか、とみるのは、筆者の勘ぐり過ぎだろうか。
【「タレント学者」の立ち位置に節度と責任を】
もう1つの問題点は、対話相手でもあった脳科学者・茂木の「立ち位置」である。彼は、いわば、「気鋭のアカデミシャン」として、実にわかりやすい形で「脳」をテーマとした書物を多数、刊行する傍ら、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」のキャスターをはじめ、他のテレビ番組でもコメンテーターを務めるなど、「言論人」としても広くその名を世間に知られている。こういう立場にある人物とは、その発するメッセージが社会的に大きな影響を与えるため、自ずと、その立ち振る舞いにも、「節度と責任」が求められるのは、言うまでもない。
ところが、その茂木には、昨年11月、06年から3年間、著書の印税や講演料、テレビの出演料など約4億円の所得を申告していなかったことが、明るみになっている。この事実を、特ダネの形で報じた11月10日付読売朝刊で、「多忙で、申告する暇がなかった」との茂木本人の弁明に、記者が「税理士を頼もうと思わなかったのか」と畳み掛けると、こう答えていた。「知り合いの税理士がいなかったし、(税理士に頼む)暇もなかった。そろそろやらないとまずいな、と思っていたら、(地元の税務署ではなく)国税局が来た。今後は雇うつもり」。
もともと、茂木はソニーコンピュータサイエンス研究所の上席研究員として、年間約1千万円の給与所得があり、この時点で銀行には数億円の預金があったという。この記事だけで、彼のキャラクターを一方的に決め付けるわけにはいかないとは思うが、少なくとも、「カネにはルーズである」との傾向は窺える。
この報道は、茂木にとっては、大きなダメージになったようにも見えるが、それが池田大作との書簡交流を深める契機になったかどうかは知る由もない。しかし、時間軸としては、『中央公論』に、茂木が池田と2ショットで登場するのは、このちょうど4ヶ月後である。で、その往復書簡の内容自体は、はっきり言って、中身には極めて乏しい。「科学と宗教、その間の壁は破れるのか」との、勇ましいタイトルとは裏腹に、一言でいえば、茂木の「宗教の役割とは、何でしょうか?」との問いかけに、池田が、また、いつものように、法華経やトインビーを引っ張り出してきて、「それは、対話の精神であって、脳科学とも共鳴します」と、今回は導き出しているにすぎない。文面を注意深く読み込んでいくと、悩み惑っている茂木が、池田に教えを請うているようにも受け取れるのだ。
筆者は、こうした茂木のような「タレント学者」の存在を否定するものではない。むしろ、その「知名度」すら利用して、アカデミズムの最終目的である、「真実の追求」を究めてもらいたいのである。ちなみに、こうした「タレント学者」の登場は、「テレビの出現」と軌を一にしている。じつを言うと、その第1号ともいえるのは、明治大学教授の藤原弘達だった。彼は、本業である政治評論活動を行う傍らで、朝、昼のワイドショーに出演したり、クイズ番組のレギュラー解答者にもなった。しかし、藤原は、その「タレント教授」というポジションに飽き足らずに、そのマスコミ露出で勝ち取った「知名度」を武器に、「こうした勢力をのさばらせておくことは、やがて言論の自由の崩壊、ファシズムの許容を意味する」と、腹を括る形で、1969年に、日新報道から『創価学会を斬る』を刊行したのである。
その意味では、茂木も、ぜひ、藤原のような先達を見習って、ジャンルは違っても、学問の最終目標である「真実の探究」に向け、さらに骨を折って欲しいと、祈ってやまない。(文中・敬称略)
古川利明(ふるかわ・としあき)1965年生まれ。毎日新聞、東京新聞(中日新聞東京本社)記者を経て、フリージャーナリスト。著書に『システムとしての創価学会=公明党』『シンジケートとしての創価学会=公明党』『カルトとしての創価学会=池田大作』『デジタル・ヘル サイバー化監視社会の闇』『日本の裏金(上、下)』(いずれも第三書館刊)など。-
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from: 22世紀さん
2010年12月31日 23時46分13秒
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スクープ
週刊文春12月30日・1月6日新年特大号より転載イチローと弓子夫人資産管理会社5億2千万円をドブに捨てた〝創価学会霊園計画〟日本百名山に数えられる妙高
週刊文春 12月30日・1月6日新年特大号より転載
イチローと弓子夫人 資産管理会社
5億2千万円をドブに捨てた〝創価学会霊園計画〟
日本百名山に数えられる妙高山は、〝須弥山〟という別名をもつ。仏教で、世界の中心に聳える果てしなく高い山という意味だ。
その麓に広がる新潟県妙高市の土地、約百二十万平米に創価学会の専用霊園を建設しようと、三年ほど前から関係業者が計画を練っていた。そこに「IYIコーポレーション」(以下、IYI社)という会社が加わった。IYI社の代表取締役は鈴木一朗氏、すなわちイチローである。弓子夫人も取締役に名を連ねている。社名のアルファベットは、イチロー夫妻と愛犬の一弓のイニシャルから取られた。なぜイチローが創価学会の霊園建設に参画しようとしているのか――。
その前に、IYI社が設立された経緯から説明しなければならないだろう。
01年に日本人野手としては初めてメジャー入りした、シアトル・マリナーズのイチローは、今季ついに「十年連続二百本安打」という前人未到の記録を達成した。トッププレーヤーとして活躍を続ける彼の年俸は右肩上がりだ。
04年、四年で四千四百万ドル(約39億円)だった年俸は、07年に五年で9千万ドル(約81億円)という破格の契約に更改された。ざっと計算してみても、イチローはメジャーで、総額一億四千八百万ドル(約133億円)の報酬を手にしている。
「五年間で約81億円もの大金を支払えないマリナーズは、うち約22億5,000万円を引退後に年5.5パーセントの利子を付けて、分割で支払う契約にしている」(メジャー関係者)
本業だけでなく、副業収入も破格で、一本につき「1億2,000万円以上」(代理店関係者)といわれるテレビCMの契約は7本。
収入が莫大であれば、当然ながら、節税対策や資産運用も必要になるのだろう。イチローも例外ではなく、米国に資産管理会社を持っている。05年3月、カリフォルニア洲マリーナデルレイ市を本店とするIYI社が設立された。
「基本的にIYI社は、日本での副業で得た収入を管理しています。節税のために、法人はネウ゛ァダ洲に登記されています。主に不動産への投資を行っていますが、弓子さんがシアトル郊外のベルビューで開業している『エンサロン』という美容サロンもIYI社が手がけています」(マリナーズ関係者)
ロサンゼルスで、イチロー夫妻の不動産投資が話題になったことがある。07年3月のことだった。
「LAのダウンタウンにあるコンドミニアムを夫妻名義で購入したんです。1925年に建てられたナビスコの工場を改装したもので、プールやスポーツジムが完備されており、ベッカムも同じ物件を購入しようかと見学に来たのは有名な話。イチローが購入したのは、最上階のペントハウスで、220万ドル(約1億9,000万円)でした。ちなみに映画俳優のウ゛ィンセント・ギャロも同じコンドミニアムに2部屋を持っています」(現地の不動産関係者)
またIYI社は、確認できただけでも、06年からカリフォルニアで6軒の建物を購入している。節税対策のためか一部の物件では借り入れをしているが、総額で1,800万ドル近く(約16億円)をつぎ込んでいる。
「大手ドラッグチエーンのCVSが入っている商業ビルを持っていますが、あとは全て、住宅物件です。メキシコ系、アジア系など様々な人種が住むモーターアベニューには、20部屋近くあるアパートを3軒も所有しています」(同前)
さて、「創価学会霊園計画」に戻ろう。
関係者の一人が語る。「07年の秋から、都内の業者らがプロジェクトに向けて動き始めました。創価学会は富山、長野、新潟の三県に霊園を持っていないので、新潟県内でも建設話がたびたび浮上しています。97年には旧小国町、04年には旧能生町で霊園計画が持ち上がりましたが、住民の猛烈な反対で中止に追い込まれました。 -
from: 21世紀さん
2010年12月27日 13時14分53秒
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YouTube - 創価学会に関する日達上人のお言葉
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from: 21世紀さん
2010年12月26日 00時34分38秒
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YouTube - インチキ教団による言論封鎖事件
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from: 21世紀さん
2010年12月26日 00時19分09秒
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YouTube - 全面対決! 創価学会vs総本山
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from: 21世紀さん
2010年12月16日 18時05分32秒
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憎悪の批判者攻撃
◆宿泊ホテルに誹謗中傷ビラ(『大白法』H21.11.1)9月29日早朝、アメリカ合衆国のシカゴ・妙行寺での海外部長指導会のため渡米された海外部長一行の
◆宿泊ホテルに誹謗中傷ビラ(『大白法』H21.11.1)
9月29日早朝、アメリカ合衆国のシカゴ・妙行寺での海外部長指導会のため渡米された海外部長一行の宿泊先のホテルで、日本語で書かれた誹謗中傷ビラが海外部長の部屋の窓ガラスや駐車場に駐めてあった妙行寺御住職の車のフロントガラスに貼り付けられるという事件が起こった。(記事参照)
宿泊ホテルに誹謗中傷ビラ
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―海外部長出張先のシカゴで―
(『大白法』H21.11.1)
9月29日早朝、アメリカ合衆国のシカゴ・妙行寺での海外部長指導会のため渡米された海外部長一行の宿泊先のホテルで、日本語で書かれた誹謗中傷ビラが海外部長の部屋の窓ガラスや駐車場に駐めてあった妙行寺御住職の車のフロントガラスに貼り付けられるという事件が起こった。
ホテルの敷地に、利用目的以外で入り込み、宿泊者の部屋の窓ガラスに、外側からとはいえ何枚もの悪口誹謗の張り紙をするとは一般常識から見ても常軌を逸した非人道的な行為であり、これにはホテル側も呆れていた。さらに誹謗の言辞を大書きしたフロントガラスを覆うほどの大きな紙を車に貼るという行為は、狂気の沙汰である。
ホテルからは地元警察に被害届が出され、その際に、防犯カメラに残されている犯人とおぼしき者の映像も提出されたようで、遅からず司直の手により悪質な犯人が検挙されるであろう。
現在のところ犯人は明らかになっていないが、このような行為は、日蓮大聖人が「人の振る舞い」と御教示くださっているごとく、仏法にも反する大謗法の行いである。まさに魔に魅入られ、三悪道を彷徨(さまよ)う哀れな姿以外の何者でもない。
このような者たちに対しても慈悲の心をもって折伏を行ずることこそ我らの使命である。-
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池田豚作、
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from: 22世紀さん
2010年12月23日 19時52分16秒
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池田大作「権力者」の構造
戸田城聖の選挙観昭和34(1959)年1月16日、石田次男は文化部員に任命されたが、それは石田の、参議院議員選挙への出馬と、前線からの離脱――無力な名
戸田城聖の選挙観
昭和34(1959)年1月16日、石田次男は文化部員に任命されたが、それは石田の、参議院議員選挙への出馬と、前線からの離脱――無力な名誉集団への繰り入れを意味した。彼は早くもこの時点で会長候補としての資格を失ったのである。
創価学会における選挙は、国立戒壇建立のための政治進出とは別に、国費による折伏活動をも目的としていた。戸田は参院選初進出を前にした31年3月に、組織と選挙との関係を次のように定式化している。
「学会で選挙をやるなどということは、まことに、りっぱなことだと、私は思っているのです。陰でこそこそやるなどということは、絶対にする必要はありませんよ。・・・・・
私は選挙運動が毎年あったらいいと思っているのですよ。ないから残念です。そのわけは、選挙をやるという一つの目的をたてると、みな応援する気になります。そこでしっかりと信心させなければならん。学会は、金で選挙に出させるのではないから、はじめから信心によるのですから、信心の指導をしっかりやらなければならん。そうすると、幹部が夢中になって、班長君でも地区部長君でも、信心の指導を真剣にやってくれると思うのです。
そうすると、いままでかせがない人が、広宣流布のために、これは立ってやらなければならん時がきたから、まあ皆、目の色変えてかせぐ。ふだんやらんことをやるから、支部がピーンとしまってくる。選挙は、支部や学会の信心をしめるために使える。まことに、これは、けっこうなことではないですか」(戸田『講演集』下)
組織引き締めの為の選挙という戸田の着眼は、悪利用との非難はまぬがれまいが、それなりに秀抜であった。現に池田が逮捕された32年の大阪参院補選を、当選の可能性がないにもかかわらず強行したのは、弱体化した大阪各支部へのテコ入れ策だったという見方もある。
創価学会がこの昭和34年に、会員を立候補させる統一地方選挙と参院選挙を二つながら迎えたことは同会の存続にとって願ってもない幸いであった。選挙への総力結集こそ、戸田死後の組織危機を乗り切る最大の鍵であったのだ。
しかし、組織引き締めの手段である参院選に、石田が起用されるいわれはなに一つなかった。彼の器は、参議院議員という一部門の手駒ではなく、それらすべてを掌握する第三代会長にふさわしいものであったはずである。
彼が参院選への立候補を受け入れたことは、会長就任への権利放棄にほかならなかった。
石田はあまりに戸田にかわいがられ、彼の下で出世しすぎていたのかもしれない。彼が29年に原島宏治や和泉覚、森田悌二、辻武寿等の先輩を飛び越えて理事に就任したことは、決して彼らの好感するところではなかっただろう。また彼の早すぎる出世は青年部からの断絶を彼にやむなくさせてもいた。戸田の死後、彼は彼を強力に擁護する同僚も、熱心に押し立てる部門をも失っていた。
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from: 22世紀さん
2010年12月23日 16時16分45秒
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池田大作「権力者」の構造
池田の抬頭と石田の地盤沈下昭和33年5月3日、第18回春季総会で理事長・小泉隆は、会長職は当分置かない、戸田がつくったレールの上を、脱線しないように創
池田の抬頭と石田の地盤沈下
昭和33年5月3日、第18回春季総会で理事長・小泉隆は、会長職は当分置かない、戸田がつくったレールの上を、脱線しないように創価学会という列車を走らせていくのが我々のつとめだ、と演説した。
この日、小泉は蒲田支部長と台東区総ブロック長を辞任し、理事長一本に専念することになり、また戸田の死で一人欠けた理事は和泉覚の就任で補われた(宗教法人の登記面では、戸田が死んだ4月2日、ただちに小泉が創価学会の代表役員代務者になり、4月12日に和泉覚が責任役員についている)。これで同会の理事は、理事長・小泉のほか、白木薫次、原島宏治、柏原ヤス、辻武寿、石田次男、和泉の計7名になった(登記面の責任役員も同様メンバー)。蒲田支部長の小泉の後任には白木薫次が据えられた。
6月30日、本部幹部会の席で、総務、庶務部、出版部の新設が発表され、総務には池田が渉外部長を解任されたうえで任命された。
総務の役職は創価学会規則になく、その権限はなんら新しく規定もされず、一年間、無規定で通しつつ゛けられた。が、それは大体、青年部の参謀室長を本部に格上げしたもの、政党でいえば書記長格といった程度には漠然と諒解されていたようである。
庶務部はそれまでの秘書部の改称で、部長には秘書部長・和泉美代が留任した。出版部長には森田一哉が、渉外部長の後任には辻武寿がそれぞれ任じられた。
この人事は全体として青年部の試験的登用で、まだ池田の会長就任への布石といったものではなかったが、たしかに池田の重用ではあった。総務に要求される活力と事務能力は池田のタレントであり、また小泉は、前年公選法違反でともに臭い飯を食った仲という、池田に対する親近感を持ち、それらが相まって池田を総務に押し上げたのだろう。
池田は総務となっても、青年部参謀室長の役を手放そうとはしなかった。強大化した青年部こそ、彼の唯一の切札であることを熟知していたからである。彼は参謀室を重点に、青年部の完全掌握に歩を進めた。その中には石田の義弟である男子部長・秋谷城永も含まれていた。青年部の力を背景にすれば、池田の発言権は飛躍的に強化され、全組織への攻略もたやすい。彼の戦略は大宅壮一のいうスターリンではなく、三国志から学ばられたが、三国志は派閥操作には依然として有効であった。
池田は一方、与えられた総務の職をもフルに活用した。彼は集団指導体制の間隙をぬって全国の組織を小マメに動き、しきりに自分の顔と名を売り歩いた。
池田だけが会長空席期を、会長着任をめざす事前運動の期間ととらえ、野心的に動きまわった。他の幹部たちは、「会長は当分置かない」「われわれで、会長になりたいなどと考えているものは、それこそ一人もいない」などの小泉や原島の言葉をうのみにして、いたずらに牽制しあっていた。12月7日、男子部総会で、一男子部員が「三代会長は俺だ」と短刀をもって壇上にかけ上がる事件があったが、その男も幹部間のぎこちない緊迫感を触知して、耐えられなかったのだろう。
このころから、石田の聖教新聞への登場は目立って減っていった。彼は大石寺での夏季講習会の講師を担当し、組織面から教学面に移されつつあった。それは、「学会きっての理論家」(『聖教新聞』昭和32年10月4日)と評される石田の悲劇だった。また彼の唯一の組織担当である九州総支部長は要職ではあったが、ここにきて遠隔地という裏目が濃く出てきた。総支部の少なかった時代の戸田の意図は、彼を飛ばすこととはまるで逆だったのだが。
石田の地盤低下は9月の『折伏教典』改訂版の刊行でさらに追い打ちをかけられた。同版の編集は小泉を中心に教学部で進められ、改訂前との主な相違は、石田の書いた第一章生命論が、戸田の講演筆記と入れ替えられたことにあった。
石田は生命論の根拠を、日蓮の佐渡御書――人の衣服飲食をうばえば必ず飢餓となる。持戒尊貴を笑えば貧賤の家に生ず。養戒を笑えば国土の民となり王難に値う。是は常の因果の定まれる法也――に求めて、旧版では過去から現在の因果、現在の差別の理由の説明といった面が強調されていた。
これに対し、改訂版では、「生まれ落ちると女中さんが30人もくっついて、婆やが5人もいて、年頃になれば、優秀な大学の卒業生としてお嫁さんは向うから飛びついてきちゃって、良い子供を生んで立派な暮しをして、そして死んでゆかなきゃならない。その来世の幸福を願うが故に、今、信仰させる」と、現在から未来への視点、努力による因果論から信仰による来世の幸福へのすりかえ、因果論の後退など、力点の置かれかたが変えられた。
こうした改訂は、時代の変化に対応した、教理の「逆立ちしながらの唯物論化」(高木宏夫)の一環をなすものであったが、戸田の講演との入れ替えとはいえ、石田の巻頭を書いたという名誉を著しく損なうものであった。
11月9日、第19回秋季総会が開かれ、3月の総登山、会員百万世帯、地方寺院の建立というこの年の三大目標の達成が発表された。またこの日、十支部が新設され、理事・辻武寿が福島支部長に、文化部長・鈴木一弘が川崎支部長に任じられた。
公称世帯数をそのまま受け取るなら、この年の対前年成長率は37パーセントで、前年の53パーセントに較べて大きな落ち込みであった。が、伸び率の逓減性を考慮にいれるなら、まずさほど遜色のない、戸田亡き後の第一年であった。-
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22世紀、
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from: カラへさん
2020年02月25日 15時19分15秒
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日顕と日如の方が偽物らしい…ひ〜