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from: yeshangさん
2012年05月31日 12時35分54秒
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「タライ・ラマ「死の謎」を説く」 ダライ・ラマ(角川ソフィア文庫)を読んで
ノンフィクション作家大谷幸三がインドのダラムサラで14世ダライ・ラマに会って取材・口述を筆記したもの。大谷幸三のわかりやすい解説・注釈が添えられていま
ノンフィクション作家大谷幸三がインドのダラムサラで14世ダライ・ラマに会って取材・口述を筆記したもの。大谷幸三のわかりやすい解説・注釈が添えられています。
死とは何か?輪廻転生は?を歴代ラマの転生、観世音菩薩の化身といわれるダライ・ラマ自身から直接聞きとったものです。
日本人の大多数を占める仏教信者・仏教徒であれば、基本的なところは同じくしていると思いますし、さらに述べられているところでは共感するところ、新たに気づかせられるところがあると思います。
ダライ・ラマの説くところは日本人にとって日本の仏教宗派ほどの違いもないので素直に受け入れられるところは多いと思います。
200ページ程度の小冊子ですが、あれやこれや考えながら4,5日かけて読みました。仏教を考える上で、ダライ・ラマを知る上でよい本だと思います。
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孔子が「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と言うように、生を明らめてもいず、死も死後の世界も体験した事のない私にとって死は空想の世界です。本書も半分は死に対してこの世をどう生きるかがが説かれています。
「人事を尽くして天命を待つ」、何もせずに神のご加護や運勢占いを信じるのは試験勉強をせずに入試に受かるかどうかの心配ばかりしているようなものとも考えています。種や縁のない所に結果はありません。ちなみに縁は自分で作るものでもありましょう。(犬も歩けば棒にあたる)
「ただ仏教の教えだからと無条件にしたがうということを厳に戒める」とも言っているように知性と心、主体性を持って実践することの大切さを教えられたと思います。人によっては既知の話かもしれませんが、ダライ・ラマの言葉として重く感じました。
関連して書きたいことはありますが、まずはここまでとします。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年05月31日 17時42分51秒
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「Re:「タライ・ラマ「死の謎」を説く」 ダライ・ラマ(角川ソフィア文庫)を読んで」
種や縁のない所に結果はありません。ちなみに縁は自分で作るものでもありましょう。(犬も歩けば棒にあたる) > > 「ただ仏教の教えだからと無条件にしたがうということを厳に戒める」とも言っているように知性と心、主体性を持って実践することの大切さを教えられたと思います。
縁 想起説として、<犬も歩けば 棒にあたる> は、斬新な考えですね〜
話しは違いますが、、そういえば、日本語の喩えというのは、言葉をつくる側の心情を現していて、なるほど、、と思わされます。
例えば「、猿も 木から落ちる 」という喩えは、
「 弘法も筆のあやまり」 風 に
解釈したいのでしょう、、、と思いますが、、
これは、弘法大師自身が、門下に言った、教えとは思えませんから<笑>
やはり、民衆側でしょう。
言語が、造られる 途上の 民衆心情(心理)というか、、、
すでに、弘法大師さんは、私達民衆と 違う、、、という 対象扱いによって、
「 弘法大師も、 私達<民衆>と 同じなのよ。」
平等意識をもつと、安心したい<救われる>、、というのでしょうか、、、
安心するのでしょうね?、、、
あやまって書いてしまう 事に 対して
「 誰でも、あやまって書く事は、有り得るから大丈夫」、、みたいな 自己催眠呼応運動しながら、民衆が会話しているんじゃないでしょうかね・、、
という 意識は、間違ったり、あやまったり、失敗する事の 一種の自己卑下意識、又は罪悪感を持つ 事からの 解放(自由)なんでしょう、、と思うのですね。
それくらい、 弘法大師は、民衆から、かけ離れた 上の 存在と 化してしまったのでしょう、、と思います。
それと、 猿も 木から落ちる、、、という喩えが、 本当なのか?
という事は、 お猿さんに 聞かないと、 その意味するところは、
分らないのですが、
前に動物園の 飼育係りや獣医の 話しを、聞いて書かれたある寄稿文を読みました。 現代思想に載っていたと思うのですが、
猿が、木から落ちる、、というのは、 その猿は、死がまじかい
という、、一種の 団体生活には ついていけない、、体力が弱っている、、高齢化している、、という暗示です。
と書かれてありました。つまり、「元気で健康な猿は、木から落ちません。」、、、らしいです)<笑>
哲学の関連記事ですから、それが、本当なのか?
という問題ではなく、
人間が、言葉を、造る時、人間側しか、言葉を造れない、、という事なのでしょう、、、と思います。
何故なら、その言葉の 意味するところを、前予測しながら、コミュニケートさせてゆく、言葉には、 自分と同じ知点で、
共感するであろう、、、という 無意識分野の 判断が、なされて、
言葉を、他者に 放ってコミュニケートを 取っているはずですから、、
思うに、弘法大師本人に、「 貴方も 時々あやまって書く事ありますか?」と いう質問した人は、誰もいない、、、
という地点で、大衆は、共感したがってコミュニケートしている、、という世界らしいんですね。
この比喩とか喩え、、の 意味 構造を知ると、
やはり 人間 そのもの情動に、密着していますね?
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