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続 哲学〜真理〜探求について

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公開 メンバー数:6人

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from: 沙羅(Sarah)さん

2011年12月10日 08時57分17秒

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マジに哲学!

少し、他者の再認識について述べてみますね。コギト、、この話題ほんとうに難しいです。デカルトのコギト、、「わたしは考える」この一言で、出発したのですよね

 少し、他者の再認識について

 述べてみますね。

 コギト、、この話題ほんとうに難しいです。

 デカルトのコギト、、「わたしは考える」

 この一言で、

 出発したのですよね。
 しかしこれは、唯我論(自我はあるのよ!)へと導かれながら、
 でも、「わたしは考える」という意識が直接的所与と考えると、
 具合がわるくなった。
 何で?
 ここで精神の活動を考えたのでしょう。
 「わたしは考える」ではなく、
 「考える主体ではどう?」と考える

 この方が、すっきりいく、、
 でもこれも、時々だけ、、
 とんでもない方向へいく

 考える主体はそれぞれ、自分自身の実存以外のすべての実存の否定へといたり、又唯我論を、強調したりする。

しかし、これは近代哲学の世界では、解決の意図は見つからなかったですね。
この唯我論、、、表現力乏しい人は、あまり強調しない方が普遍性を持つような気がする。これほんとうに難しい題でしょう、、
時々、唯我論、
 「ちょっと、、あの人 正気で、話しているんだろうか?」と、思わせる 口角泡飛ばし、議論に熱中する人達の デイベートを、いやと言うほど、立ち会わされてきている 哲学者達の話しです。

 最近も 時々 巷で見受けますね、、

それはいいけど

   疑問は、いかにして我々は他者の意識のなかに起こる事を、認識するのか?
 ですよね?

 ハイ、眠いからお終いにします、続きは後日という事で、、

  お休み〜♪

 

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年07月28日 01時15分07秒

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「Re:マジに哲学!」
自己についてのなんらかの真実をえるためには、

わたしは、 他人を通過しなければならない


サルトル「 実存主義は ヒューマニズム」



と 、、1900年代初期、

現象学 哲学者達は、

自分、、という 人間を知るためにには、他者の存在を介さないと、

自分の事は分からない、、、、

と 他者の存在、、を 述べたのですね。

つまり、、、、

他者を 介し、自分が、初めて分かる、、という事ですから、

他者を 介せナイという事は、 自分の本来の 姿や他者達から観ての自分が分からないのですよね。

他者が 自分を分かってくれないのではなく、自分が 他者の事が分からないのでしょう、、と思います。

と言う事は、

普遍性、、、というのは、他者の存在が、絶対不可欠なのでしょう。

自分で分かって、自分で真実を 得た、、と 思い込んでも、

さて、 その存在の仕方が、 普遍性を 示せるか?

というと、必ずしも そうではないでしょう。

そのような時に、 言葉で、 他者を、無理強いに 押さえ込もうとして、
なんでも、訳のわからない、難しい事を言っても、馬の耳に念仏の人達の 心を介す、、というコミュニケートでなければ、ならないでしょう?

聖書の祈りの言葉でもお経でもそうですけど、現場にいる人に聞かせるために お経を唱えるのではなく、自分自身の為でしょう、、と思います。
自分自身の為に 唱えているから、それを聞いている人達の 心に 響くのでしょうと思います。

心に 響かない、 言葉は、なるたけ早く終わらせてもらいたい、、と 言われるような存在の仕方になってしまうのは、きっと、自分自身が、

現代の なぁなぁ主義、便利で早い、、、何でも、簡単がよい、それで安ければなおさら良い、、、、と思ってしまっている、日常生活を 送っているのではないかしら?


自分自身を 切り売りするような 存在の仕方ではいけないと思うのですね。

書き込みの文にしてもメイルにしても、段行に切り、断面図しかみない、、、、というコミュニケートばかり、

あぁぁ、言えば、こう言う、

こう言えば、ああ言う状態は、何故か?知識人の会談や議論に多く、

そういえば、一時、オームの執行部の人達の 存在の仕方の返答も、
見事に、ああ言えば、こう言う、、

という いつまでも対話者の言葉、が先に述べてから、時間を追う状態なんですよね。

ああいえば、上祐、、という 流行り言葉は、流行ったけど、はたから見ていると、高学歴知識と一般に思われている のには、

ああいえば、こう言うように返答しなさい、、、になっているのかもしれない、、、これでは、部落差別域に住む、人達の 思考にとても良く類似してますよね。

こう言ったら、アア言うように返答するという いい訳の手練手管術をマスターするみたいで、何一つ、心を打たれる 言葉、心に響く 言葉を 放てないのは、 幼児期の人間関係の 心情の発達が 問題なのではないか?と思った事があった。、、

抽象表現には 、時間を越えた、真実の 外枠が、観えて来る、、、と言う他者達との コミュニケートいよって 少しづつ 歩みを寄せられる、、という空間の手ごたえがあると思うのですね。

共感、、他者の再認は、他者との共感であるのでしょう。



ですから、他者が語られない、と言う事は、必然的に 自分が見えていない、、、自分の事を、他者からどのように 見られているか?と言う事の察知ができないのですね。

できても、ごく一部の 類似思考傾向の 人達の集まりである事が多いです。

これは、閉塞性、とか隠蔽性とか、グループや仲間うちで、他のグループの 人間を、皆で 批判する行為にまた 同調し、自分の 不満解消、欲求解消に、利用する、、、という、陰湿な人間関係造りになってしまっているのは、情け無いと思うのです。

人間として、又は、日本人として誇りをもって生きる、、というのは、最低限の事だとおもうし、どの人も、誇りをもって、生きましょう、、という世の中にしないとならないのではないですか?

それが、テレビでも 笑い話しでも、なんだか、本当に 個々人の 指摘をする事で、他者の 同意を得る 人気者になればいいと思っているらしいけど、、、、

どうなっているのでしょうか?

と時々 思うのですね。

そんなに、自分を卑下する事は、居心地いいですか?

ですから、他者自身も、卑下して当然と思いたがるのでしょう?



ある人を見て、感じて、謙遜な方で、礼節をよくわきまえてらっしゃる、、という 判断を下す事がすごく、自分自身、気持ち良い驚きなのでしょう?でも、それは、ある善 への価値、、同値の 同類、、といった感情に浸っているのではないかしら?

むしろ、 違うのは、 予期しない 不思議な 驚きという 同じ心地よさでも、驚きを 伴わない、、、むしろ、安心感を得る、感情を求めているのだと思う。

人間、快楽や気持ちよい、魂の居心地さを求めるのは当たり前ですから、それを問題にしているのではなく、その状対を 自覚でていない、物事の重大さというか、他人はどうでもよい、、、と言ってしまえばそれまでですが、、

なんにも分かってないで、喋ったり、返答したりしているのでしょう?と思わされる人が大変多いのですよね。



自分の孤立性を仄めかせているだけに思えます。違いますか?

***********************************************************


我々は 他人の笑いの中に、その人の喜びを、涙に悲しみと苦しみを、

顔のあからみに恥じらいを、組み合わされた手に祈りを、やさしい目指しに愛を、、直接的に知覚すると信じ込んでいることは確かである、、、、

知覚は<感覚器官の総体>であり、我々は確かに、他者の
心的事象の感覚を持たないし、

さらに確実に、他者の心的事象から、発する興奮を受けないから、知覚では、ありえない、それは知覚でないとわたしに 言い難くれば、

こうした反論をする人が、疑わしい理論をすてて、
現象学的状況に向うようにと願うだけである。


M シェラー「共感の本性と形態」1929


オルレアンの 聖十字架 聖堂 手前は、ロワイヤル橋。

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