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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

公開 メンバー数:6人

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2011年12月03日 05時01分16秒

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    Le bien  et Le mal      善 と 悪

    L'activité morale est orientée ver le bien Mais ainsi que nous l'avons dit; C'est par réaction devant le mal que la conscience se manifeste;  


    倫理的活動というのは、善をめざすのでしょう。しかし良心が姿を表すのは、なかんずく、悪<MAL>に対する 反作用としてである。



     ラテン語の beneから派生した 善<Bien>
    と言う言葉は
    最初、副詞としてのみ用いられ<良いやり方で> d'une manière bonne
    を意味している。
    従って、まずこの説明の中に含まれている形容詞の( 良い )bon

    という言葉について考察することが望ましい。



     形容詞 <良い>

    誰かある人について、「あの人は 良い人だ」という時

    「Rさんは、良い人で、親切<bonte>そのものだ」
    その人が親切で、人によくつくしていることを のべようとしている


    しかし、名詞を直接修飾することばとして用いられた場合、、

    良い医者、良い父親、、というような形容詞は、以下のような本来の意味で用いられている。

    一般的意味の場合++++

    一般的に、良いbonという言葉は、物質的なものであれ、精神的なものであれ、
    自らの本性や目的、本来の用途、手に入れるべき結果といったものに、
    ふさわしい性質をもったものに関して、用いられる

    肥えた土地、反対者を狼狽させる応答、行いを改めさせることが出来る罰、回復に至らせる治療、または、殺すことができる毒物といっtものは、いずれも 良い といえる性質をもっているのである。

    倫理的意味の場合++++

    倫理性の領域においては、人間の本性、ここでの人間の

    理性の命ずるところに合致しているということで、あり

    そのような人間の本性にふさわしい行為とか行動が、良いbon
    と言う修飾を受けることになるのである。

    自分の人間としての特性をより、一層現実化するような 人間の行為が良い行為なのである。

        大宰府の戒壇院にある 菩提樹

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コメント: 全4件

from: 沙羅(Sarah)さん

2012年01月07日 06時58分49秒

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「Re:Le bien  et Le mal      善 と 悪」
http://www.lefigaro.fr/

歴代大統領にとって、ジャンヌダルクJeanne D’ARCの存在は特別なのでしょうね。
ドゴール初め、全ての大統領の、ジャンヌダルクの生地を尋ねたヴィデオ、
国民に、ジャンヌダルクの存在はフランスにとって、これからも存在し続ける、、
という敬意表明 ですかね?、、何回もニュースに流れました。

フランス国を救ったという歴史事実、、、確かに、このような事実は、他の国にはないのですよね。17歳、女性、農家の娘、といった 誰からも、信じられない、、条件でありながら、、、それでも 確かに、フランスをイギリスから救ったのは間違いないのですよね・

そういえば、、今年は、ジャンヌダルク生誕 600年記念なんですね。
今日、2012年 1月6日は、ジャンヌ、ダルクの生誕生日だったらしいです
最近、よくメディアで流れると思っていました・

ミカエル大天使のお告げを聞いて、フランスを助けたジャンヌ、、、フランスのシンボルみたいな存在ですね。

ARC アルクという 苗字の家に生まれ、アルクさんちのジャンヌ、、ラテン語は、ヨハネス、、、

今日、サルコジー大統領は、ジャンヌダルクjeanne D’ARCの生まれた場所 ドレミ村に行き、ジャンヌ、ダルクRENDRE HOMMAGE 敬意を表したそうですよ。

ううううう〜ん、、600年、、、


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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年01月04日 19時50分42秒

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「Re:Le bien  et Le mal      善 と 悪」

 人と話す時に考える事は、

 どの地点でこの人と人間関係を築こうか?

 という意識が必ず働く、、

 他者の放ってきた、言説に自分の間性(感性]を委ね、同調したり同調できなかったり、、という呼応する事ばかり、投じる事はまずないのですよね。
よって、他者の放った文を、コピペする、、という行為にはまずならないでしょう。

 メイル機能が、これほど頻繁に海外の人達とコミュニケート出来るようになった途上で 気つく事。

 日本人間のやり取りには、コピペ行為でのコミュニケートが圧倒的に多い、、という不思議な コミュニケートケーションのやりとりをするのである。

 びっくりするのは、何かのコミュニティーといわれる、デイベート形式の 集まりの場でさえも、コピペ行為をしている。

 これは世界のコミュニティ形式の場で、普通のコミュニケートなんでしょうか?

 と、気つかされる。

 フランスでは???、
もちろん、わたしもMSN時代から、例えば、哲学コミュニティー、日本、フランス、又は英語、、で話されるコミュニティーを同時に読みながら、どのような視点をどのような反応をするのか?同じ議題を提示しても、全く違う反応が返って来る。
いかに、他者は自分の想像を超える世界観の中で生きている、、、という事が手応えとして見えて来る。


他者を理解する、、他者が何を考え、どのような世界観を造ろうとしているのか?

やはり、話し、接し、感情交流といった経験が必要になってくる。

 フランス語の、理解する、分かる、、という意味の 言葉は、

 COMPRENDRE コンプランデゥル

 これは

 COM + PRENDRE 

 COM=コミュニティのコミュ、共に、

 PRENDRE=つかむ、手にとる、握る


 つまり、理解する、分かる、、という日本語は

 ラテン語圏の 単語では、

 共に、つかむ(手)

 と音素を放っている。

 理解する、分かる、、、という意識に必要なのは、

 他者の絶対不可欠な存在なのですね。

 他者が不在である時、

 自分が理解した、または分かる、、と言った場合の意味は?


 つまり、自分自身で 理解した、自分自身で分かった、、、と、

 自分一人で、そう思っている思い込みの自分がいるのだと思う。


 特に、他者を判断した時、むしろ、他者の書き込みに至るまで、

 何も、本人と直接交互の感情交流をせず、

 他者の言ってる事分かった、他者の書いてる文を理解する、、

 という事はありえないと思う。

 他者本人を介さず、自分で読んで、自分自身で 自分流に解釈する、、それで自分は理解した、、と思っている自分がいる。


 これは、フランス語の COMPRENDRE コンプランデゥル
 の単語の本当の意味から多いに、かけ離れていると思うのです。

しかし、それでも、コピペを絶対しない全体把握、総体把握の人達の 交流は、何故か?うまく行く、、、

 述べたい意味がちゃんと、伝わっているのね!という手応えが、何故か
 文体に匂う。

 批判にしろ、同調にしろ、他者とのコミュニケーシヨンは、この

 フランス語の 共に手を摑む、 COMPRENDRE の意識がないと、

 いつも、一方通行の会話や対話をさせられ、フラストレーションが募る。

 何故なら、コミュニケートというのは、本来、相手を負かす事でも、相手を牛耳ったり、はたまた、自分の信じている何らかの哲学や信仰や宗教の価値観に、同感してもらいたく、その為に お友達になったりする事はない。

 それは、多分、何らかの自分が信じている、または、価値を置いているものへ、自分が不安を持って信じなくてはいられない、、

という心の自由を、蹂躙されているのではないか?と思う。

知らない他者達の同感や同調を得ないと、自分のしている 事、信じている事の価値観が自分一人のものなのか?普遍性があるのか?要するに、

不安なのでしょう?

そのような、後ろ向きの意識で、仲間集めして同次元で呼応する事で、自分の存在を 自覚認めないとならなくなる、、、、

これは、健康的でないでしょう?
心理的に成熟している人達は、そのような不安を感じる地点で、
他者を求めたり、依存関係を求めたりしないでしょう?


 他者の心を理解する、他者の心が分かる、、、

 つまり他者の存在は、自分が生きていくのには、不可欠な存在なんですね。他者達の存在は 自分を孤立に招く存在ではなく、 むしろ他者達は、自立に導く存在であると思うのですね、、、、

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年01月03日 22時50分24秒

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「Re:Re:Le bien  et Le mal      善 と 悪」

 哲学で語られるところの

 悪 についてです。


 悪 アク という日本語を、フランス語に訳すと、

 悪=MAL マルという音素で、丸 です。アレ?

 なんだか、コケル!現れだけど、本当です。

 MAL という音素です。


 しかし、アルファベット言語を話すという事は、断定形で伝達するのは次元が低い表現なんです。

 ここら辺は、アルファベットを母国語にする 民族と日常生活しないと、なかなか、分かり辛いです。

 とりあえず、日本語を読み書きするという事は、メモリー数を増やさないと、ならない、、という言語環境にある事を理解して下さいね。

 このメモリー数を増やす、、という事は、知識、認識を増やすという事ですよね?

 ところが、パソコンの言語環境のソフトを見ると、

 使用されるメモリー数に大きな数字の開きがある事に気つかないとなりませんよね?

 ヘブライ語、フランス語の環境でコミュニケートする時は、日本語環境でコミュニケートする時の、メモリー数は、3分の1でした。

 この数字の意味を理解出来ますか?

 ところが、この話題は、昔実際にヨーロッパ製のパソコンを購入し、日本語のソフトを、ダウンロードしないと、ヨーロッパに住む、日本人と会話が出来ないので、その話題性に視点が言った事があり、

その事を、旧コミュの、哲学〜真理〜探求コミュに書き込みした事があった。

 ところが、当事書き込まれていた、Oさんは、

 日本人の優秀性をわたしが述べていると意味伝達が正しく伝わらず勘違いされたのか?

 メモリー数の高い数値を示す、日本語を話す日本民族は優秀なのです、、、、という満足された返答をされて、
 翌日、何処かのお寺さんの法話にこのわたしの 話した話題をした、、と書かれてきた。
 
 うううううう〜ん????

 数字が 高い、、数字が 多い、 数字の多さは、そのまま、頭脳のメモリー数が高く、有能な民族なのだ!、、、という

 日本人心のすごく居心地、快感を感じさせられる、
 いままで、外国勢の存在性の威力に、怯えていた、抑圧を跳ね返す為に、こういう話題性は、すごく 喜ばれる、、つまり民族性を嬉しく くすぐられる、、という感じらしい、、、


 しかし、O さんの返答と同時に、めるろ〜さんともう一人のMさんの返答は、わたしの伝えたい、意味を比喩したり変に理解する事なく、伝わっていた回答を頂いた。

 個々で述べたいのは、数字 記号 の意味なんですよね。

 コミュニケートは 創造や想像力を伴うでしょう。

 特に、他者の存在へのコミットは、自分以外の肉体をゆうし、違う文化を持つ他者達だ、、

 自分以外の人と絶えず、心を介さない限り、普遍性は見えなくなる。

 ヘブライ語を話す民族の優秀性は、どうして?常々、、思っていたけど、、

 想像力、創造力であろうと思う。特に哲学や芸術分野には、

 本当に、驚く頭脳集団の人達が創出されている。

 いったい、、どうして?

 歴史的には悲劇を生む民族だったのはどうしてなのかしら?

あまりにも民族は優秀過ぎて、独裁者達の恐怖感を抱く的になった、、という事も読んだけど、、、、

 とにかく、ユダヤ人達は、どうして?

 カタカナ文字のような記号を、右から表記する、、、という文体で、コミュニケートするのだ。

 あのヴィトゲンシュタインが小学生の頃、同じ机を並べた学友の中に、あのヒットラーが座っている。

 ヴィトゲンシュタインが、小学生の時、アドルフ君には、どのような感情をもったのだろうか?

 白黒のクラス写真を見ながら、考え深かった。

 そのドイツと、日本と、イタリアは組んで 世界を相手に戦争をするのである。
 
 どうして、こういう流れになってしまったのか?

 ドイツ人とイタリア人と日本人には、お互いに何か 寄り添う何かがあるのかしら?とも考えた。

 言語は?音素は?
 
 とにかく、、、、、日本と言う国は、世界でただひとつの被爆国という存在として、、存在していたのだ。

 悪って?なんでしょう????

 フランス語の哲学講義の本には、

 MALは否定的な意味を持った言葉で、肯定的な意味を持った反対語であると書かれています。

 善 BIEN びあんを用いて、反対語を表すのですよね。

 本来副詞であり、ある物事があるべき姿を、取っていないこと、あるいは、正常には行われていないことを示す。

 例えば、きちんと果たされなかった義務(UN,DEVOIR MAL FAIT>

又は、

自分は、快く迎えられない、、、<ETRE MAL RECU>

という時にも、MAL を使う。

受動態、能動態、両方面ですね。

 対峙世界ばかりで、ある対象
を定め、MAL悪だとか BIEN 善だとか、、そのような自己判断を放つ、共感や批判を持つ他者と 呼応する、、、という事に使う、 善と悪 BIEN と MAL という言語世界は、辞めましょう<笑>

それは、閉塞社会です、ベルクソンの開かれた社会でも読んで下さいね。


一般的意味の場合の』使い方は、

悪い  MAUVAIS モヴェという形容詞が、

良い  BON  ボン という形容詞の反対語であるのと同様に
名詞としての、MAL 悪は、 BIEN 善の反対語です。

従って、悪ということばに、次のような一般的定義を与える事ができる。

存在が目指す目的に相違すること<もの>が持っている性格。


今度は、倫理的意味の場合、、

感覚能力性に働く 悪MAL マル、、すなわち苦痛に関しては、この定義は、倫理的悪 MAL マルに関する場合同様に有効である。ここでは、倫理的悪マルだけを、考察するので、


モラルにおいては、悪 MAL  マルとは、高次の目的を低次の目的に従属させることから起きる混乱であるということが出来る。

悪 MAL マルとは、本来の階層秩序の転倒を惹き起こすのである、

 ラファエルのアテナイの学堂、

 
 

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from: 沙羅(Sarah)さん

2011年12月10日 08時16分04秒

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「Re:Le bien  et Le mal      善 と 悪」

名詞としての 善 BIEN を 考えるとします

ある人や、ある物にとっての 良さとは、その人や物にとって良い物、すなわち、ある存在するものに、その本性を発現し、その目的に到達することを可能にする性格の事としてます、

たとえば、秋の9月の、暑さは、実をつけた葡萄が熟すのには、良いけど
、水が必要な菜園には、良くない事、、、であったり

自分の子供にをなんらかの体罰や叱った時、
親は「おまえに体罰を与えたは、お前の為を思ってした』と言うような場合です。

人間には、二重の性格があり、肉体的に観ると、人間は動物と共通の性癖や目的を分かち持っているだけではなく、個別的な性質を持っている

従って、人間の心の活動は、自ずから自分個人的利益の追求へと集中するのですね。

この見地からすると、人間の目的や幸福は、快楽や力の中に存在する。
快楽への意志と力への意志が、個人としての人間を特徴づける。

しかし、精神としての人間は、一個の人格を備えた人間となったり、他人の身になって他人の幸福を自分自身の幸福のように追求したり、理想的な秩序を心に描いてそれを実現することに高次の満足を見出したりする事が出来る。
人間が人間となるのは精神によってであるから、人間の目的や幸福は、自らの精神生活を発展させることにある。


倫理的 善

絶えざる葛藤の原因となっているこのような二重性があることからも、
倫理的善、あるいは本来の意味での 善は、人間という複合物の
諸要素の階層組織、即ち、低次の目的を、高次の目的に従属させることから、成り立っているのである。

             行動<哲学講義> P.フルキエ

       
 写真は  ダヴィンチの最後のデッサン

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