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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

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  • from: yeshangさん

    2012年03月20日 02時52分38秒

    icon

    「実感・体感・共感」出来る哲学を

     先ほどのは、あまりばかばかしい感じがして削除しました。

     何度か書いていますが゛哲学、真理の探究では「実感・体感・共感」出来ることが大切だとこのごろつくづく思うのです。

     やはりこの世だけでなくあの世に行っても確信できるものを持ちたいと願っています。

     例えば般若心経の「色即是空空即是色、受想行識亦復如是」。「なにもかもが空であり、空はまたこの世の何もかもなのだ」とは頭で理解しても、まだ実感としてはとらまえきれません。

     日本でも1500年も唱えられ、仏教だけでなく神道でも唱えられることがある真実を言い表した経典と考えています。

     若いころは、西洋哲学にしても力づくで理解しようと努めましたが、それでは実感・体感・共感にいたるどころか何度読み返してもどうもさっぱりわからない。(当時のものは訳者も解らずに訳しているとかとの話にやや安心した次第ですが)

     やはり「般若波羅蜜」を行じて、本当の理解が至るまで待つしかないのか? そうなのだろうとも思っています。

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コメント: 全2件

from: 沙羅(Sarah)さん

2012年03月22日 06時33分45秒

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「Re:Re:「実感・体感・共感」出来る哲学を」

時間 と 私達の 存在、、

この両者の間には、やはり何らかの 意味が あり、生かされているのでしょう、、と思う・

例えば、今、テレビのニュースを見をわり、台所の食器をかたずけ、パソコンの前にすわり、起動させる。

いつもの操作をし、画面に次々 アイコンが現れる。


右側の 枠の下に 時刻が出る。

21:03
21/03/2012

停まっている。

いや 時間は 止まっていないのだけど、

表示が停まっているのだ。

いつも パソコンを開け、 時刻を見る習慣がある訳ではなく

その時に限り、停まっている表示を見るのである。

このような事は、よくあるのですが、

数字 の存在は 実に 不思議な存在なのです。

数日前には、 Kちゃんは、娘さんが 送ってきた 写メを、転送してきた。

嵐というグループのファンで 東京タワーで7色の イルミネーションを写してきた。その 写真には 一台の タクシーが前に位置して 車のナンバーが写っている。

彼女の結婚記念日の数字なのだ。

写したのは娘さんなので、娘さんは 知ってて写したの?と聞いたら、「知らなかった」と応えたという。この娘さんは、ある日、初めて言葉を交わす、神官さんの娘さんから、

「 もしかしたら、お父様、亡くなられていますか?」と聞かれ

「 どうしてですか?」

と聞くと

「 お父様と思う方が、側にいますよ」と 言われた、、、

と 母親の Kちゃんに話してきた、、、という娘さんなのです。

Kちゃんのご主人が 11月27日 パリの聖母出現の日に
クモマッカ出血で倒れ亡くなれた時娘さんは、中学生。
考えれば、お父さんの 存在は 中学生の心に ポッカリ 穴を 残したまま、、、埋まらないでいるのかも知れない。

大きくなって、好きな人と結婚しその人との間に子供が出来て、親の立場にならないと、きっと父親の存在を求めてしまうのかもしれない。

母親のK ちゃんと、江原氏の番組で、亡くなった家族の 声と交流する 天国からの手紙、、という番組を見て、

「私達も 申し込んでみよう?」と言ったという。

江原氏が、死者との交流を 前もってする番組で、

家族にしか知らない思い出や 残された家族の癖を 言ったり、つまり、亡くなった死者の立場に 心を這わす。主体として、生者に 話しかける、、という 形になっている。

残された生者家族は、生前の旅行で行って食べたモノを話されたり、それこそ綺麗な景色の思い出を 話したりする。

小学生の子供は、当然 亡くなったお父さんとの旅行の思い出は忘れていない。このような思い出は、大人より 鮮明に子供は覚えているのだと思う。

正直、子供の涙腺が緩むのを見せられると、わたしも緩む。子供を生む、子供の 親になる、、という経験をするという事は、結局こういう事なのだ。あの世にいっても、気になる存在(子供)の存在、忘れられない存在が、地上に いるという事なのだと思う。

そういった 意味で、子供を生むという経験、子供の親になるという経験は、全く経験がない人に比べるとやはり違うと思う。24時間忘れらない、DNAの繫がる肉体が存在する。

思い、心の 存在は、生者にとって、生きている以上に、死後の方が 存在感を増す、、というのは、全くもって納得いく事だと思う。

フランス映画に有名な、男と女、、という映画があるのです、

あの映画など、事故で死者となった夫と 目の前の愛人との心の揺れが克明に 表されている

彼女は、結局、寝室ではその気になる事が出来なくて、彼氏はベッドサイドスタンドの電話を取る。 駅までのタクシーを ホテルのフロントに 頼む。、

その間、あの ダバダバダ〜♪、 ダバダバダ〜、♪の余韻が空に流れる

、それは、立ちはだかる 事故死をした夫の 忘れられない思い出。
愛しあった男女のカップルが現存する。
ある日事故で、夫はいなくなる。
肉体的な関係は、特に愛情によって結ばれた関係は、そんなに簡単に忘れる事はできないであろうと思う。

いくら、突然素敵な新しい恋人が現れようと、、肉体関係というのは、前の夫以上に愛する事ができなければ、その気になる事は難しいにちがいない。ここら辺の 心模様の 動きを 表現する 仏映画というのは、驚くほど繊細にアヌーク、エーメによって 表現されている。

心というもの、心の存在というもの、

死者の存在、、日常生きる フランス人達の 会話からも 似たような問題をよく聞かされる。男と女の映画は、 映画の中の出来事ではなく、日常の男女の問題なのだと思う。


ところで、Kちゃんに、娘さんは 東京タワーが、昭和33年に建てられた333メートルで、ある事を知っていたか?聞いてみた。

33 は 観音の数字で、 お父さんは 3月3日の誕生日なのだから、、
と話したら、

送られた、東京タワーのイルミネーションの写真に写ってる タクシーの プレートナンバーは、結婚記念日の数字の上には、 品川330

だと、返事が返って来た。

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年03月20日 19時59分07秒

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「Re:「実感・体感・共感」出来る哲学を」
おはようございます。

そういえば、わたくしも、

書き込みを終わると、あまり考えず 送信クリックして、

席離れたり、何か食べたり、、、その後時間が経つのですが、、、

その後、パソコン開けて、再読すると、、

「何? この内容???」と思って、削除する事が

度々あるんです。

最近、あまりないけど、、、数年前までは、よくあったのです。


すると、ちょうど、めるろ〜さんが 閲覧した後に、わたしが自分の書き込みを削除する、、

という行為(時間上)になるんです。

すると、、、めるろ〜さんが、

「沙羅ちゃん?、いやぁ、内容よかったから、削除しなくてもよかったのに、、、」

という書き込みが、すぐ後に 書き込まれた事がありました。

わたしの、書き落とした 書き込みは、送信した時間と、

その後 読むと<、ナンじゃこの内容?これ?>

と、思う自分は 時間は 後です。

この 二人の 私<主体>が、

時間の途上にいるわけです・


めるろ〜さんは、 前者のわたしの 書き込みの内容に 共感を持つのですが、、、

それは、わたしにしてみれば、既に 過去に 存在していた 私なんです。

時間超越の 鍵を握るのは ここら辺です。

哲学では 、書き落とした記号は、書いた地点で、
死んだ記号<点と線>

という 抽象表現を 難しい言葉で 現しますが、実践する私は、ここら辺まで、簡単に 書けると思います。

他者の存在 は、

絶えず、一緒なんです。未来に向っています。

他者との共感や 体験によって、書き込みが力動化するんです。

つまり、わたしが 書いているのですが、未来に 存在しようとしている あらゆる 他者達の 気持ちが 篭められているのを、わたしの 心が

共感するから、わたしに 書かせている、、という感じです。

共感<COMMUNICATIONコミュニケーションの 接頭語COM は、他者との共在です>するから 書くのであり、

それを、

自分が 思ったから 書いた、

と思っている自分がいるのですが、

それは違うと思います。

例えば、時間軸で言うと、yeshang さんのお家で飼われている 猫の話しから、奥様の 書かれている ブログの話しへと 展開している訳ですよね?

それは、そのように 最初から そうなって、私や 空に 存在する者と 共在しているから、そのような 書き込み内容になっているんです。

何故なら?

飼い猫の名前と同じ名前を つけているわたしの鹿島にすむ Kちゃんの事は、その前の時間軸で書きました。飼い犬ですけど、2010年の 3月11日に亡くなった、チョコの
犬猫霊園から帰りに 地震が 起きた事。

ちょこ という音素を、わたしが、わざわざ 書き込まなくても、

あの世のモノ達は、当然波紋していると思います。

又、削除された内容は、動物の死(身) を食べる(食べられなくなる>、、という書き込みでしたよね?

一瞬 超倫理の 事を 暗示している内容だったので、後から よく考えて書き込みしようと思ってしました。

人間の 心 というのは、語れない 文字や記号にして語れない、表現できない 、、、そのような 感情を 心は 感じるのだと思います。

公共化できない言葉です。

目の前の 動物、小動物を 殺して食べる、、つまり昨日まで餌をあげて、触っていた 動物を殺して食べる事の出来る人と出来なくなる人の違いはどこか?
という問題です。

逆な立場から書いてみます。

ある時、 どこかの 王が、牛がオドオド引かれて行くのを見て、
「何処に連れていくのか?」と家臣に聞いてみる。

祭りの為に、これから 調理する、、
と言われる。

「かわいそうだから、 牛は 辞めて 羊に しなさい、」、と 王は 言う。

これは、王は、 牛の オドオド感、恐怖で 力づくで、調理場に 連れていかれる そのような 状態 から、何かを感じたのでしょう、、

でも、 羊は、 見ていないから、 羊に しなさい、、と 王は言う。

これを読むと、

大概の 読者は、 自分勝手な 王様だ!

という次元で 共感するはずなんですね。

これが、 人間のつくる 倫理でしょうと思います。何故なら時間軸上の情動運動を煽りますから、、、

話し変わりますけど

この人間のつくる 倫理を 正義だ!と

言いながら、善悪を判断しながら 他者を 制裁したがる、、、

これが、社会の偽りの権力者とか偽善者とか、

ま!そういった 力(権力)の 動きを 集中化 するのを利用する訳なんです。

次元が低い、一般者は、簡単に騙されると思います。あのヒットラーがあそこまで、権力を集中できたのも、彼を(信じる)支える 大衆達の存在がもちろんあるのですから、、オームと言った信教団体の存在を 存在させてしまった 日本の土壌には、 信と真 の取違いが あるでしょうし、
知識が豊富、または学歴が高い人達ばかりが 何故に?

と一般者は疑問を皆感じた。
学歴の高い事に対する 不信感を 募らせた理由、、
つまり、信じる という事は??????

とそこまで 踏み込んだ。

世洋でも、同じですね。

話し飛びついでに この前見たフランスのテレビ番組ですが

未成年暴行罪で問われた、ある神父さんの 刑事問題と 何故?
そのような 事態が生じるか?
という原因を調べる番組が、あったのです。2時間半、コマーシャルなしです。このような倫理的な番組は、
大概、事件発生後から、 10年以降経ってから、、
当事の担当調査に当たった 刑事や監査官、証人、を集め 収録する番組があるんです。


一番最後に、留置場にいる 元神父<神職は剥奪されてた>には、やはり元信者さんというか、現信者さんというか、、、

励ましの 手紙が 沢山来る、、、と ナレーションは最後の言葉で、隠喩を含めていました。つまり

手紙の内容は、「 何かの間違いで、神父さんは 留置場に 居る」

という 信じ方なんです。

裁判で、有罪になった決め手は、被害者である当事未成年の男の子の言説でしたけど、
神父さんの、お腹にある 手術跡が記憶にある事 手術跡の場所の一致などでした。

しかし、何かを妄信するという関係は、
そのような言説は 見ないように
、聞かないように
あるいは、想像力が足りないか?
あるいは 性的関係未体験により、未熟な世界に 生きているのか?

いろいろ 原因がありまして、、、
信じる、、、という意識も、 一筋縄でいきません。

哲学では 愛と信 の意識は類似の意識として、議論される事、頻繁にありますから、、、

つまり、自分で 見たくないモノ、聴きたくないもの、 受け入れられないもの
信じたくないもの

は、見ないし、考えない、、つまり 頭能から抜け落ちる、、という

信じるものを 自分の ものとして守るには、そのような無意識の破棄をしているらしいんですね。

例えば、死 を隠蔽化する事で、死の恐怖から 自分を 遠ざける、、
という 生き方、、になるのに似ています。

恐怖や 不安を 感じないように、生きる、、という感じです。

閉塞的で隠蔽化、または 集中化、という 人間の動きや 固まり方の 雰囲気に 不自然な 感じがしたら、

もうそれは、普遍性はおびませんし、

そうなると、哲学が云々とか どこの 教義が云々とか、どの宗派が素晴らしいとか、 仏教が良いだとかキリスト教が良いだとか、、そのような問題を論じる 次元に固執して発信する、、という 浮世離れしている人も かなりいるようですが、、結局、コミュニケートの断絶、、という事だと思います。これが一番に、問題に思えます。

以上は、精神分析や心理学の見地に立って観た場合です。


それで、何を述べたかったか?というと、

例えば、殺されそうになる 動物の 悲鳴を 聞かなければ、その動物の 肉を 平気で食べられる、、、、

という行為は、

見たり、 聞く、、、

という体験が、 食べる前に 生じていないからなんでしょう。



ここで、何が?人間の 心に生じるか?

怖気づいて、鳴き声をあげる動物を 見てしまう、、

見てしまった、目の当たりにみてしまった、 食べる側の 心には、殺さないと食べられない、、、という準備がなかった。
または、こんなに 悲鳴をあげる動物を、力づくで殺さなくても

いいだろう?という 情 が 生じる。

この感情の 揺れ が どうして生じるのか?

という事に 気がつく。

そして、それでは、その 目の当たりしなければ、

食べれるのか?

という自分に 真正面に 対峙してみる。

これが、例えば、ネットの世界が発達して、色々な映像を目の当たりに見る人間が増えます。

9,11事件も、 東北地震のすさまじい 光景を、 世界中の人達は、目の当たりにする、、あるいは、アウシュビッツの光景や、広島、長崎の原爆投下の様子もそうですが、

大 昔は、 このような虐殺行為は、手段は違えどいくらでもあったでしょうし、震災も 歴史を見れば、頻繁に生じていたのでしょう。
ただし、その様子を目の当たり、経験する事が出来なかった。

つまり牛や豚の 悲鳴を聞いてしまった、、、という経験から 何か心に生じた感情と、

ネットで、すさまじい画像を 現実の画像として見せられた人間は、何らかの情動が生じます。大きな世界的な出来事でなくても、

飼ってた 犬が 治療しても結局治らない、無理であると分った瞬間、狭いおりの点滴生活を何日も 続かせ苦しませる時間を引き伸ばせる生きるという意味に 疑問を 感じさせる瞬間、犬猫に、死を選択させる事は出来なくても、人間には動物の死の決定を選択できる 力や決定権、選択権があるんですよね。ここに、動物と人間の 境界線、強者と弱者が明確になってしまう、、、

そのような日常生活でも、個々人の心に突き刺さる、悲しみ、苦しみ、
体験をしない他者にとっては、どうでもよい体験にみえても、

当事者にとっては トラウマ的に、深層部分に 記憶される 事があるのですよね。それは 世間や他者にとっては、どうでも良いと判断されそうな事でも、

説明がつかない、言葉をもたない 倫理の世界が 確かに あるんです。

それは、言葉を 扱う全ての人間の
究極なる 目的というか、、、、、

言葉を蔑ろに使わない、

言葉を、無意識に放たない

という意識に 繋がりますし、

結局 自分が放った言葉は、他者からも 同じように返って来ます。

そういった結構重い内容なんだけど、、

飼ってた動物の肉を食べられなくなる、、という書き込みの内容を読んだので、書こうかな?と思っていた処で、削除されてしまった!<笑>

と いう事を伝えたかったのです。、

ま、この白鳥の親子の絵でも張ります ^ ^



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