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続 哲学〜真理〜探求について

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  • from: yeshangさん

    2012年05月27日 17時50分36秒

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    自利利他 ―菩薩道について

     ちょうど山登りにロープでもって何人かが進むように、自分も登っていくが(自力・自利)、後に続く人をも引っ張って(利他)進む。

     そして自分も前を行く人に引き上げられている。誰かが崖から落っこちそうになると、前後がロープを引っ張って助ける。

     自分も上に向かって歩き続けるが、続く人をにも力を貸して進む。
     そして自分も前を行く人に引き上げてもらっている。

     この一連のつながり、行為が菩薩道。そして頂上につけば(成仏すれば)、あとは続く人たちをロープで引き上げてやるだけ。山上から周囲の景色を楽しみながら仏の世界。

     ここに「お互い様」、「おかげさま」、「有難うの感謝のこころ」があるのでしょう。

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コメント: 全1件

from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月28日 00時38分01秒

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「Re:自利利他 ―菩薩道について」
菩薩 という言葉は、サンスクリット語のボ-ディサットヴァという単語を音写したそうですね。

普通、一般の人達が解釈される 菩薩の意味は、

衆生を救う、、という意味で理解しているようです。

つまり、悩む人達を助ける 仏門にて 助ける人達の事と理解されているらしいです。

仏教の歴史の流れを7みると、インドでゴータマ、シッタールダによって教えが口伝によって伝えられ、原始仏教 上座部仏教<小乗>から、大乗仏教へと変遷し、日本には、聖徳太子の時代、仏教が布教されてきたのですが

菩薩が、クローズアップされたのは、やはり、菩薩の他者性を重んじるという事なんでしょう、、と思います、

声聞乗=ブッダの教えを聞いた者だけの乗り物に乗る、、、という、個人だけに、目的を 置く、、生き方に、

大乗は、自分自身だけが?悟りをひらけばいい?????

それ、随分自分勝手じゃないの?

自分が一人で、この世に来たと思っているの???

自分一人で、戒律実践して、自分一人でスパークして、あの世に逝く?????

「それって、自己満足じゃない?」

と、上座部に大乗は問いたのでしょうね、、と思われます。

確かに、一人で苦痛を忍んで、一人で、修行に励む、なんだか、、

すごく、孤立性を感じます。

それは、好きに自分で、孤立しているのだから、自由です、、という 自由とは違うと思うのです。

何というか、自他は最初から自分の世界では共存していて、無自覚であるという感じなのでしょう。どちらにしても、自分一人<他者を説かない>という感覚がわたしは、よく分からないのですよね。

阿羅漢を目差す上座部仏教の姿勢が利己的であると批判され、大乗は現世での、悟りに拘らず、現世で衆生を救う、徳を積むという ブッダになる前経験と同じ途上を実践する、、、という教えが、大衆に普遍化したのだと思うのですね。と仏教の歴史を簡単に述べました。

という事で、菩薩は、他者との関係なしには語れない存在として 仏教の世界に存在するのですね。
お経も、般若心経のような、宇宙観、哲学観が強い抽象的な意味あいのお経よりも、法華経 のように、人間界情動運動によって生じる人間世界の苦からの解放される、八苦、渇愛といった 苦の原因をのぞく事が修行と成す、、という教えが、当事すごく 道理に観得たのじゃないでしょうか?

しかし、何が?苦を生むのか?
何が?苦しませているのか?

という原因探し<因果探し>の実践を 説かなければ、
教えといっても、、、信仰させる、、という一方的な 教えに なるでしょうと思います。

つまり、盲目的に 信じ込むという 教義の仕方でしか、存在出来ないと思うのですね。

人が、苦に悩む時、

「 これこれ、そのような、人生を歩むのは、コレコレの人と、そのような事で関係が結ばれているからそのように 悩むのではないですか?」

と途上の説明出来る事と

「 その 苦から、解かれるには、毎日、何々仏像の前で、何々お経を唱えなさい」とだけ 語る、、、という関係は、

前者の方が、他者を重んじて接していると思うのですね。

後者は、最初から、菩薩は衆生を救うという判断や信仰がなければ、成り立たない関係であると思います。

現代の社会事情からいうと、後者の存在の仕方は、普遍性はみえません。ごく限られた少数人数世界での信仰世界では、一方通行だけの教えによって、成り立つ、、という世界観かもしれません。

菩薩が、歴史上、つまり上下関係の強い世界の途上でどのように、その時代、その時代、生きてきたか?
興味深いです。

色々菩薩の自他については、色々考えますが、あまりにも、他者性を重んじて、平等観を重んじ、人間は本来自然のままでいい、、、、ばかり説いていると、いつの間にか、歎異抄の悪人正機説の流れの途上に存在している事にもなりかねないと思うのですね。

世俗倫理は、人間が造ってきていますから、その時代、その時代の 菩薩と呼ばれる人達の 発心行為は、世俗人ではとても理解出来ない、層で、因果やまたは、縁起を生じる事を能動的に観ているのではないか?

という感じがします。大乗仏教の理解は、空の理解にもなると思いますが、菩薩が、自他の関係で何らかの、善の行為に能動的改善させているように世俗人側から観えるのは、、それは、やはり菩薩が 空 の世界を理解し、観得ているのでしょうし、世俗人には、観えない、沢山の、空に存在する、高次の存在との 合意によってでしょう、、と思われます。

法華経は菩薩の思想と解釈されているのですが、初期の頃は、一切衆生はすべて菩薩である、、、という解釈から、仏滅後の菩薩の実践の問題を扱い死者としての、仏を問題にしているとされています

コレは、興味ふかいですが、大乗の菩薩が、利他を説くからといって、必ずしも、他者に対する倫理性を保証している内容ではないそうです。

ここは、大変重要に思えます。
菩薩に限らず西洋宗教の、聖人でもよいのですが、衆生を救う、、という意識を、受動態で見ている限り、
何故?
能動的に、いつのまにか、現れて 菩薩や聖人が、その時、その場に 存在するのか?

という説明が出来ないのですね。

一切衆生は菩薩である、、という教えは、 一般に向けられて、誰でも、頑張れば、ブッダに近づけるという平等意識の上の 誓願に導きますが、
実は、そのような解釈ではなく、「一切衆生は、他者なしには存在しえない」という次元に存在しているのだと思うのですね。

つまり 自他の区別が出来ない世界観に存在しているのだと思います。

世俗語で表現すると、うまく機能させるコミュニティー、共存は、他者との共存世界なのだから、当たり前ではないか?という反応があるかもしれませんが、その当たり前は、ある人間が造る倫理を義務化し、存在している社会の体制を 述べる次元は、時間を必要とする時間を追う後追い次元ですから、菩薩や聖人は、それを原理として 立てられる、実践する、、つまり、時間や空間のない 世界で、実践しているのですね。

つまり、他者の中には、あの世のモノ達、死者も含む、、、と言われるのは、そのような意味になり、世界観、宇宙観を持つという事は、生者だけでなく当然、死者達とのコミュニケートもある程度取れているのでしょう、、、という実践が、不思議な世界として、現れているのだと思うのですね。




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