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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年08月09日 22時42分04秒
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心理学
人の書き込みや 人の意見をあちこち聞いたり、読んだりするのですが、
気になる事、、
謙遜、、という意識は、取り違えて 受け止めていると、その人の
本当の 魂や心の 状態や性格を 見抜く事が出来ていないと思われる、返事を している 場に はち会わされる事があるのですね。
何故か、、、
謙遜って意識、すごく 美化したくなっている自分がいません?
謙遜意識の 何処に そんなに、自分が 惹かれるのか?
という 事を よくよく、考えてみませんか?
自分が 何かの 言葉や 言説を 観たり、読んだりして、
「 あぁぁぁ、〜、この人、謙遜で、控えめで、偉ぶらなくて、
好感もてますね」、、と、言う時の自分の、
謙遜、、という 意識を、どの 次元で感じていますか?
その次元は、他者達と共感出来る共通の次元ですか?
そこに、 他者達<違民族の存在や、違う言語を話す 、人達と同じ感覚を持てるのですか? 同じ、善の意識や、善悪判断の 物差しが同じで、
謙遜は、すばらしい、、と述べているのですか?
という 事なんですね。
違うでしょ?
よく、 謙遜意識はよいのだけど、自分を卑下する人、、、
自分を卑下することで、 相手を持ち上げよう、、とする人、居ますけど、
この性格は 要注意なんです。
過度の自己非難と過度の尊大は、同じ人間に 共棲する 性格なんですね。
そんな事あるわけない?
それは 貴方が 観えないだけです、片一方の面からしか、感じられないからです。
ロロ、メイの書いた、「失われた自我を求めて」
という本の中に、
「過度の自己非難や、自己断罪は、かえって内に隠れた尊大さを、とりつくろうための 衣となっている」、、と述べています。
同時にスピノザ<哲学者>の 言葉
「 自己を 軽蔑する人間は高慢な人間にもっとも近い」という言葉をあげています。
何故なら、
そのように、しながら、無意識、意識の バランスを 執ろうとするからなんです。
ですから、自分を 愛せない 自分は、他者と愛情関係を結べなくなるんです。
自分を愛す事、、自分を卑下したり、 過度に 自分の存在に 自信を失くしてはいけないでしょう。
ですから、極端に 自分を 控えめな 人に見せたがるような人ならまだしも、、過度の謙遜な態度の裏には、親密な関係になると、とんでも、性格の 人、、かなりいますよ。
知識人の教育者、、宗教人、政治家など、 近くなり、メイル交換する間柄になると、「何?この人、、この次元?」と思わす人、かなりいますよ。
そういう人達は、なぜか、高学歴で、勤めている場所も、信用されてる場所ですけどね、、
ようするに、本人も 観えていないらしいのですが、、
土壌がそうなのだから、仕方ありません。
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コメント: 全27件
from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月29日 18時15分36秒
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「Re:Re:心理学」
日本を歩くと、必ず電柱というものがあるのです。
ヨーロッパには中々見かけない光景なのです。
電柱に目を視線を 向けると、
いろんな広告が張られている。
ときどき。警視庁からの不思議な注意用語などもある。
不審な人を見かけたら110番
という標語
ハタ!
と閃いて、大層驚いて、腰抜かしそうだった。
110 番。。。。
の日本語音素は、
HIYAKUJYUU番
という音素にしない事。
なぜ?
十<10>を、 TOO と呼ばせるのか?
赤ちゃんの 妊娠期間を、日本は、何故か
TOTUKI TOOKA 十月十日
と言うのに、気がつかされて この時も、驚いてしまったけど。。
十は、十字の 十である事、
十字架の 十と同じなのですが、
十=10-TOO
と呼ばす事。
日本語WEBで、妊娠期間はどうして 10月10日ですか?
という質問が あるサイトに質問されていて、
質問者は、10月10日に生まれる赤ちゃんの
妊娠日<精子と卵子が受精>は、1月1日なんですか?
という 質問がされていて、、、それ見て、ドスン!
このように、考える方向性を持つというのも、なかなか。
ユニークであると思うのです。
人間の頭の中の センスや思考の センス、方向というのは、実にさまざまであると思う。
それより、それより。
フランス語の百は、 CENT サンという発音なので、
カタカナ発音だけ、読むと、
サン、聖<SAINT.>
でもあり
サン、血<SANG>
血と聖が同じ 音素にしているのは、もちろん、聖書から導いているので、 血が聖 つまり先祖(同民族)を敬いがちという方向に、信仰を持つと、その傾向に無意識と向かうであろう。。。ところ 自覚できるのでしょうね。
人間の平等性を謳う事との実践の一致が見えなくなりがちであること。
哲学がどこまで、そのような 人間のアンバランスの存在方に、STOP。。。ブレーキを自分自身にかけるのだろうか?
なんでも、信仰心でもタガが外れたような、信じ方を している人を問題にしているのが、哲学であり、近代のデイベーとであるのでしょう
話がズレマシタ。
十を トウと呼ばす日本語
警察は?
110番
11 という数字、、カバラでいう、マスターキー
日本だと、十一面観音菩薩
10は、TOU
百=CENT サン
110番は。。消防局ではなく、警察。。。
ミカエル大天使は、善悪の 秤を持ち
死者の魂の、善悪を図る。。
死後、肉体を離れた魂は、神の 下の世界で、ミカエル大天使の 判断<裁判>を待つ
ですから、フランスの法曹界は、ミカエル大天使が持つ、秤が裁判所のロゴになっている。
110番の音素は CENT= SAINT サン
10<TOU>十字架 CROIX
まるで、、110番は、聖十字架の 意味で 通じさせてしまっているのかしら?
あのミカエル大天使と交流した、 ジャンヌダルクのオルレアン聖堂は、 SAINT CROIX 聖十字架聖堂と呼ばれるし、
2011年3月11日に、ショパンの死に顔スクープのニュースがロイター通信によって流される。
日本の 大地震津波の数時間前の事。
ショパンは、メルローポンテーと同じ墓地に埋葬されいますが、ショパンの心臓だけ、祖国ポーランドに帰り 聖十字架教会に保管されている。
その日になれば、自然と 気がつかされる、、、という宇宙、世界一体感、総体<相対ではないです。対峙世界ではないです>
気がつかされる、、という感覚は、他者<外界>からの働きかけなので、自分から追う(執着)のではないです。
実践はm自分に関係する、興味のある分野にだけ<だけを強調>に反応したり、呼応したりする、、、ということはありえません。
他者共存という世界観はm自分の中に、知らない他者達の共感、共存、追体験が あるかどうか、、、で自分の未来の普遍性が外界に繋がっているのか?あるいは。閉塞世界<孤立>の中での事なのか?
という事を自覚出来るという事だと思います。
自分の魂や心が経験していないことは、分からないし、覚えもないし、感動もありません。心や魂の発達はm経験、感動がなければ、思い出せないでしょうし、自分の中に不在な感情や、感動を思い出しなさい!と言ったって、無理でしょう。
無いものは無いのですから、、、
しかし、無いものに、なんらかの 上に位置する何らかの制裁が加わるとは思えませんけど、
無い事を好いとして、悪用する、または、現時点の地位や 名声や職務の 権力を 乱用し、弱者を支配したり、我田引水的に自己正当化を、一般人には難しい言葉を並べ、実践には及ばない、馬の耳に念仏を手練手管などしているから、美しくないのでしょう?
美しくない、現れ方は 淘汰されてしまうでしょう?
いつまでも、表彰、うわべだけ、取り繕うのは、辞めないと、、
心は葉、天上界に見透かされているのでしょう?
今日、9月29日は、ミカエル大天使の日なんですね。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月25日 21時58分31秒
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「Re:心理学」
最近思いますが、あるスピリチュエルでも、哲学でも、禅でも、、ある仏教派の教義を聞いたり見たり、読んだりした感想。
現実問題で切羽詰った時は、なんだかあまりよく分からない信仰関係やスピリチュエルやヨガ教室や、整体師の処にいくよりも、、普通の人が頼りになったりするんですよね。
なんでも、、信じ込むという意識は辞めた方がいいと思う。
仏教の 信仰世界では、派によって、この世界が幻想で、すべては自分の内面の反映だと考える人達いますね・
本当は、何も苦悩はないんです。、、と、教え込む人達がいるんですよね。
これ、意味は分からない訳では、ありませんが、
時と話す相手の選択間違っている時が多くあると思います。
正直、そんな事を言っている場合なのかしら?と、非現実的な世界での、 無理やり、力づくで、教説を唱えている、宗教人や精神世界の人達が確かにいるのですよね。
病気で苦しむ人を病院へ連れていくという行為は考えず
手当てや看病をするよりも
こんな現象を見ている自分の内面を変えようと
、目の前の現実は、無なのですから、、放っておいて、瞑想みたいなことをしだす。
これ、、困るでしょう?
自我ないから、貴方の苦悩も現実の 痛みや悩みでない、、と云われても、、、瞑想やお経だけで治れば、医者は要らない、、と云われてしまうのは、そのような現実味のない存在の仕方をしているからだと思ったりする。
そして
この世界は、あなたが生み出した幻想ですよ。
病気も、あなたが生み出した頭の中だけの出来事です、、と言い出す。
酷い時には、あなたの内面 (意識) さえ変われば、その病気は治ります:
ここまでくれば、これは、立派な、何処かの、信仰協会のセクト的ですね・
弱者の意識を操って、小数で 同一意見で固まる寄り添いながら、お互いがお互いの傷口を舐めあって存在しようとし、、、、という存在の仕方に外から見えるんですね。
本人達には もちろんそう思っていませんが、普遍性の失さに はっきり、現れているんですよね。ドンドン、縮小しなければ存在しない、、
どうも、無機質な顔の表情の無さが気になりますね。人間の心と触れ合う機会が多い人達の顔に浮き出る表情は、作られた 笑顔などではなく、もっと自然なんですよね。
、
心の底から、人間になろうとするべきなんですよね。
いつまでも、杓子定規で、他者の作り出した 価値観の物差しばかりではかる。そうかと思うと、ナニヤ節の 政治家まで、「 人間の命は、地球より重い、、とヴァチカン 枢機卿でさえも 述べないような事を、ポロッと述べてしまう、、という 空気の読めない人達の 集まりが 司る 日本のコミュニケートの質の不気味さ、、、
ウルウルしている人達半分、目点になっている人達半分という、
存在の仕方、、、
こういう世界が、確かに、 脳内の出来事で、自分が造っている世界と言われてもですねぇぇ、、
半分、肉体はその世界にいるし、子供達がい=生かされる世界普通はですね? 思うと思うのですね。
自分一人の世界だけではない、、、という視点に立つのも必要だと思います。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月13日 01時16分35秒
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「Re:Re:心理学」
ルイ、ヴィトンが、島津藩や徳川藩の 家紋に 目がいった、、という1800年代のパリの万博は何か?あったんでしょうね?
それに、ルイ、ヴィトンの、代表、秦郷次郎氏は、 何故? 秦氏という苗字なんでしょうかね?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E9%83%B7%E6%AC%A1%E9%83%8E
秦氏が、渡来人で、稲作を韓国から渡来人により日本に流行らせた、島津藩と 関係が深いという 資料から色々言われますが、、
伏見の お稲荷総本山のオキツネさん、、
十字の家紋になったのは、やはりそれなりの 歴史の 流れや民族の移動の縮図を体現しているのではないか?とか、、思いません?
とりあえず、ルイヴィトンの5代目は、パトリック、ヴィトンだそうですが、
日本の 気仙沼の 牡蠣の 養殖を 存続させる為に 長期間 牡蠣養殖の お助けをするそうです。
やはりねぇぇ、、、 これだけ、世界が 経済不況なんだけど、 地球の自然保護に関した
ルイヴィトンならではの勘、、、
気仙沼の 牡蠣養殖サポートというアイデアがルイヴィトンらしいデスネェェ、、
、、、、、
唸りますねぇぇ、「、頑張れぇぇ、」、、 東北の 牡蠣も、ヴィトン
も。。
なんか、不思議でしょ? 八という数字と同じなんですよ。
八は、天満宮かな? 牛かァァ、、 やはりそうだ、十字 CROIXクロアの威力でしょう。
フランス語の 音素は、 食べるカキ は HUITRE ユイットゥルで、
八という数字を現す フランス語の音素も 同じ、 HUITユィットなんですよねぇぇ。
「パトリックさぁぁん、ロアール川なんですよ、ダヴィンチが永眠しているのは、、、ちゃんと忘れないでくださいよ、、貴方の国 フランスなんですから、、十字の紋章の SAVOIE公国出自のフランソワ一世が呼び寄せているのですから、、ちゃんと、気がついて下さいね?牛が日本にオキツネさんの格好して、聖母マリアと 仲良く手繋いで、船こいでますよ!」
なんでしょうかね?ガンダーラを渡る三蔵法師の変わりに聖母マリア様ですかね?孫悟空の変わりに、伏見の オキツネさんなんでしょうか?
良く分かりませんが、、マ、なんでもいいけど、国境なくして仲良くすればいいでしょ?、、
http://wired.jp/120730_louisvitton/
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月12日 17時16分54秒
icon
「Re:心理学」
おはようございます。
大分 涼しくなってきましたね。
この ブログを開ける前に「、日本の事が好き! 」という
意識において、色々 ブログを立ち上げられる 人達の 内容を読んでいて、「、なるほどねぇぇ、、やっぱりねぇぇ、」と納得させられる
見解が一つある。
この 好き、、、という 感情に、 二つ 種類があるという事らしい。
つまり、 執着の 好き と、
永遠の 愛 とも呼べる意識の 途上の 好き と言う感情の 違い。
心理学や精神分析という 分野は 科学なんですね。
人間の 心理現象 がどうしてそのような、 考えに 至るか?
という 分析なんですね。そして、その 分析には 多数のプロの人達、経験 そして同一見解という ベースがあるんです。
日本の 事が 好き、、という意識には、 多分 愛国心 という意識と 呼応しているのでは ないかと思う。
しかし、 愛という 意識は、 守る(既存過去に帰属)という広義の上では 同じ行為に 現れるかもしれないけど、そのような
固定<断定>意識ではなく、存在させる<願う、希望、祈る>、、という意識である事は、 次元の高い意識なんですね。
既に 過去に 存在しているものに、 しがみ付く、失う恐れ、自分が排他される恐怖や 不安に 心が 反応して、どうしようもなく、 しがみ付く、、、というように なんだか、哀れさが漂う、存在とは違うと思う。美しさもかんじないし、普遍性も ないから、ドンドン、自然に消えていくみたいな途上に 存在しているのですよね。
失くしては いけないと 一生懸命になる、、という 意識は、
本当の 愛 という高次の 意識と 同一であろうか?
なんだか違うと思うのですよ。
愛さずにはいられない、美しいもの、愛おしい存在だからこそ、未来へと 続いて欲しい、、という 気持ちが底辺に 自然と わくんでしょう?
どうも、次元が違う 好きとか 愛という 意識が存在するらしい。
見かけは、同じ行為、 愛国心 が強い、、という 意識に すりかえられて、善の意識と判断しがちですが、
どうも、 読んでいると、 違和感を 感じてくる。
しかも 「貴方は日本人だから、日本を愛して 当たり前でしょう?」
という 義務とか、責任とかの意識が 、唯物<肉体>に 直結してしまいながら、他者達と、呼応したがる、、
という 存在の仕方が 多いと思う。
いったいどうしてなんでしょう?
日本人だから、日本が好きなのではなく、
愛さずには、いられないほど、日本は美しい場所が一杯あったり、日本の文芸の存在 神道も仏教もそうだけど、 田舎に行くと、
温泉のある 畳の部屋で、布団敷いて、寝たくなる、、みたいな、
日頃、ベッドのあるエレベーターマンション住まいでも、 そのような 安心感を共感出来る、、という 体感があると思うのですね。、
そのような 日本の環境に住むと、安心するとか心が落ち着く、、という体感が、日本を 愛さずには いられない、、、、という事だと思うので、
何も、日本人である、赤いパスポートを持ってるから、日本人の両親がいるから、日本が好き、、という 日本を愛している、、という 事ではないでしょう?と思うのですね。
どうも、 唯物<肉体>が 根ざす 土地に 執着する、、という 途上反応が強くて、 違和感を 感じるのですね。
しかも 個々人の存在に対して、 尊重とか 心の距離感を持つ事、、がすごく下手な人も 多いと思う。
きっと、日本人だから、集まって当たり前、、日本人だから、分かって当たり前、、
という 断定価値観で、他者達と 関係を持とうとしているのではないか?と思う。
TONトーン は 品とか、 音調の、事ですけどね、、、、
品を持つという事は、 相手を尊重するという 他者の立場を尊重し、自分以外の他者を 存在させるという意識に結ばれると思う。
他者のプライベートの 事を知りたがるという意識は、 卑しい、、と判断されるのですよね。
日本人だから、同じであろう、、という 時に限って、なんでも ズカズカ 他者の 心に 入り込むような、乱暴な言葉や権威的な言葉、無意識に述べると言う事、
それは、知らない事に対しての 探求心ではなく、 暴くという、我欲による、占有意識に偏った 行為じゃないか?と思いますが、、
そういえば、、オリンピック 8月20日時、NASAが火星に、CURIOSITYキュリオシテという 探査機を着陸させて映像が送られて来たけど、
CURIOSITY キュリオシティという 音素は、探索、探求という意識と、詮索、むしろ、フランス語音素は、 好奇心という意味あいが、一番頻繁に
通じている。
curiosite=① 好奇心のつよい、 物見高い 詮索好き、奇妙な、変わった 野次馬、 好事家、 収集家
と辞書に載っている。
しかも、 家庭教育で話される、小さい子供に説得させる時、la curiosite est mauvaise キュリオシテ、エ 、オブェース
「詮索や 探求は、人間ノ卑しい行為」と 教える家族もよく知っている。
なんだか、意味使いが違う火星の 探査機の名前だったのだけど、普通語感を 話すと、大概の人達は、 「そんなに、細かい事まで 考えて 命名したんじゃないよ」と 反応が返って来る人達の 放つ 言葉使いは、大変粗いし、 酷いと思わされる時もしょっちゅうなので、
音に 対する、繊細さを 述べてもしょうがないと思って 黙っている。
それで、話しを元へ戻すと、
日本が好きという 意識で ブログを書く人達の
内容を読んでいると、例えば、家系とか ご先祖の 名前を知りたがる、、という 意識も 強いのではないか?という 行為に つながっていくようなのです。つまり、 家系とかご先祖に すごく 重要な 価値感を持つから、他者の、、たとえば、皇室の ご先祖の 家系も 気になる<知りたくなる>という 行為らしいのですね。
別に、その行為がいけないとか悪いと述べているのではなく、良いのですけど、、 未来に向う、行為決定する時に、義務、責任、という意識が生じないのですよね。
そして
日本が好き、、という 愛国心を謳う、、 たとえば、 皇室の 家系を調べて UP するという ブログの 内容になる 存在の 仕方になっている、
日本が好き という 意識は、そのような 意識も あるけど、
日本を 存在させる<途上、未来>、、、
という 意識が、 真の 愛の意識であり、
過去の 家系やご先祖に 誰が いるか?という 他者の存在への知りたがり、、、という 傾向が強い 意識が もたらす 愛の 意識とは違うと思う。
結局、 現在 という 時間軸に おいて、 目指しが、 どちらに 向いているのか?
という 事、、
何が<誰が>、まちがいであるとか、何が<誰が> 正しいという 、他者に執着し、 個人の 判断を 放っていても、 何も 動かないという事だと思う・
ジャック、アタリも 述べていますが、
世界が、 グローバル化するという事は、
その国の、代表<党、人、政治>である 機関が与える影響がますます、 その 国に 反映する 力が 弱くなる、、という事でしょう。
つまり、 国民は、 その都度、その都度変わる度に、期待はしても、、 誰が、<どの政党が>、どのような指針があって政治をしても、変わらない、、、という 体感を もたらせる。不機嫌、不満や怒りは、 吐き出さないと、 人間壊れるので、精神的な 均衡保つために、
半年すると、首相の 同じ顔を見るのも 飽きてくる。なんだか、 全然 日本は 変わらないと思えるように、あるいは、思う事で、自分の 内的にたまる 不機嫌と 甘えの 感情や意識を、その都度 解消させている、、という 依存関係にあるような気がしてならない。
支配的な世界観にあっては 被害意識は育ちやすいですから、どうしても、 自分によってではなく、 外的<他者>の存在によって 我慢させられている、、、という 精神状態が 続くと、 社会に 生きる人間の 呼応はいつも、受動によって、感じさせられる、、同一心情を 放ちやすくなる。
何を、観なければ ならないか?
という 人間の 意識と、
何を、感じますか?
と 誰にも、聞かれていないのに、 自分と同じ 気持ちや 心情の 人を捜して、 釣るみたい、、という世界を造りたい、、
という 人達に、「日本が 好き」と 表現している 愛国心を 謳う 人達が すごく多いのはどうしてなのか?
という 事だと思う。
何かが 好き、、という 感情(意識)は、 何かを 独占する事とは全く違う。
何かが、好き という 感情(意識)は、その存在が永久に 存在し続ける事を願うものであり、その存在が、 自分の 事が好きか?とか 嫌いか?という 事など 全く 関係 ない 次元の 意識であると思う。
何かが、好き という 意識は、 自己の 不安や 恐怖を、 帳消ししたくて、愛している、好きだから、どうしようもなく、しがみ付いて いるという 存在の 仕方は違うと思う。
、 そのモノが、好きとか例えば、信仰でもそうですが その存在を 愛しているという 表現に いたるのは、
自分<個>の 心の 不安低な、意識を、 忘れさせる為の 存在であっては
いけないと思う。
もっと、 個々人の 意識の 超えた 次元の事だと思う。
決まった信仰はないから、仕方なく、政治に 意識を向けて不満を解消させる。
それでも、変わらないと、今度は、 家人の誰かに 向う。それも 無理だと、WEBの 書き込みという 行為に 至る。
もちろん、そういう 人達だけでなく、 中には、 死を宣告されている 人達の毎日の、 日常生活をつづる ブログという 存在もあって、そのブログにコメントをつける人達の、やさしい 心情を感じる 言葉が 飛び交うブログやコミュも ある。
こういう 世界観を WEBの メガロポール megalopoleと呼ぶのかしら?、
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月08日 17時44分32秒
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「Re:心理学」
新幹線に乗ると
途中で検札するJRの人や、お弁当を 売る女性が来て、必ず、その車両に入るとお辞儀をし、次の車両に移る時も、 又お辞儀をして、去ってゆく。
わたしは、この、お辞儀をされる時、知らない振りして、新聞を読んだり、何かその時自分がしている事を 辞めないで、まったく 存在しない居ない人のようにしている事が出来ない。
つまり、非常に 自分の魂とか心が、 居心地が悪いのだ。
どんな人でも、 こちらに、お辞儀をしているのに、 無視するという 横柄な 態度にはでれない。横柄にしている気持ちがなくても、無視しているのか? まったく 気がつかないのか、 ただの サービスで、別に、大した意味はない、、と思っているのか?
良く分からないけど、 お客は、神様でもなんでもない、、
検札の人が しゃべっているのだから、 お辞儀しているのだから、「どうもありがとう」、くらい コミュニケートすればいいのに、、といつも思う。
だから、お弁当を売る人でも、検札の 人が、きて、お辞儀をして、次の車両に 移動する時、お辞儀してありがとう、、と言ってる 自分がいる。
おなじく、飛行機に乗ると、離陸前に 説明される スチュワートやスチュワーデスの、救命、非常具の説明もある。
この説明も、毎回同じなんだけど、 聞いている人はほとんどいない。
この時も、 わたしは 居心地がよくないので、何十回聞いたであろう説明だけど、 その人の 仕草を見て、聞いている自分がいる。
今は、誰も聞かないから、画像になってしまったようだけど、、
人が、こちらに 向って、何か、メッセージを 送っているのに、
必要ないとか、 知っているとかの理由で、 全く、後ろを向いて、知人と大きな声で話したり、違う話題をして、自分達だけの 世界に 閉じこもって、楽しむという 気持ちにならない。
どうも、自分の回りに いる、知らない他者達の存在を 気にしたり、考える事をしなくなった人が多いと思う。
前に、デュッセルドルフ(ドイツ)発、成田行きの 飛行機の 中で、座席でパック(顔)をする日本人女性、に 気がついた、 ヨーロッパ人達の観光客の 唖然とした顔を目撃した事があったけど、
世界という回りとの 存在のバランスというのが、観じられない日本人がすごく多くなったと思う。
その存在のバランス
という空に存在する バランスがあるはずなのに、
飛行機の中で、「お化粧してはいけないという、法律でもあるんですか?」
という次元での、 対話に必ず落ちる。
そういう 事を述べているのではない!という 意味が全く 理解できないのだと思う。
やっていい、やってはいけない、、という律法だけで、この世がうまく機能するなら、これだけの神経症の 人達や鬱病や、コミュニケート層がもてない、人達の心理的問題はこんなに多く生じないし、自殺や、いじめといった、社会的な 問題が 解決出来ないでいる事はないと思う。
そのような、人間の 心や魂の 接し方、感情があること、心を交流させるという 事にもっと、目を向けないといけないと思う。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月06日 17時32分31秒
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「Re:Re:心理学」
メル友について少し考えを述べてみたいと思うのですね。
メル友が、普遍化するのは、 その気軽さ、、という手段ではないか?と思う。
決して、その人の 存在やその人を 思っている、、という意味ではなく、
人生、日常生活で、暇な時間を もてあますという事がない、、
という とりあえず、携帯を出せば、意識を執着できる事が 画面に 現れるという、手軽さにあるのだと思う・
しかし、本当の 心の状態はそうではなく、侘しさとか寂しさとか、愛情欠乏というような、
なんらかの、心に 充たされないもの、あるいは、不満や不安や 恐怖というものの、心の平行間隔を保つ為に、メイルを読んだり、書き込みしたりしているのではないか?と思う人がすごく多いのだけど、違いますか?
現実の世界では、ほとんど 甘えが満たされない、または、傷つくことから、憎しみを持つ事もある。 それが いけないとか しょうがない、、と述べたいのではなく、その状態になるのは、この世に肉体をもてば、避けられない感情でしょう?と述べたいのですよね。
それでは、その感情を 見てみない振りをする、、または、経典を読んで、なんとか、 すでに、ある感情を、 無い、、、、事である、、と 無理やり 何処かに 押し込み、自己処理内をしようとする。
これは 事故処理でしょう?と思う。
すでに 生じた、ある感情を ないモノと、見なすと言う事は、どういう事なんでしょうか?
あるモノが、ナイと信じ込む。
これは、どう考えても 不自然に 思うのですね。
憎しみや 殺意が 万が一 自分の 心に あるのであったら、
無理やりに、 ナイものだ、、見ない振りしても、潜在意識に留まるでしょうと思います。
このような 不自然な事をしない方がいいと思う。
まだまだ、交霊や 招霊 を して、あの世の魂との 交流を はかって、なんとか 浄化を願うという 行為は、世間では 認められていないけど、
この世の出来事は、この世に 生きてる人だけの 心模様が 成しているのではないのですよね。
死なない人は誰もいないのですから、あの世に 逝く前に、 この世に生まれてくる人達におんぶにだっこ、、しないような
人生、これでよかった、、と 自分の 人生を 享受出来る満足できる
世の中を造らないとならないのじゃないか?と思いますが、違いますか?
インデパンダントは、 辞書に載っている、自立、とか独立 という意味ではないです。
イン+デパンダントという意味ですね。
依存しないという意味なんでしょう。
意味は同じように見えても、 途上が違うでしょう。
人間は、やはり他者の存在が 必要で、他者の存在によって 生かされているのですから、、
そのような 底辺層 の 理解なくして、 ただ、自立、、とか独立 とか安易に 表現は出来ないでしょうと思う。そんなに 簡単な事ではないから、紋切り型表現、断定 表現は、出来ないのでしょう。
ところが、 言葉を、断定表現することで、浸透させたがる、、というインパクトの強い 表現しか出来なくなる、、という 事、、
これでは、 人間的な 文化的な 意識は、どうしたんでしょうね?
と思うのですね。
人間に 戻る、、と言う事、、、
心に 戻るという事、、
神経症を 引き起こす前になんとか、人間的な感情を 呼び起こさないと、壊れてしまうのではないですか?
人間破壊、コミュニケートが不通になってしまう前に 何故?
自分は、こういう形で生きているのか?という事を考えてもいいと思うのです。
それでメイルの事、、日常生活での直接的に、吐き出せない 怒りや不満や 憎しみは、吐き出せないから 不機嫌になるのでしょう。
不機嫌に押し黙ることしか出来ない、日常生活での同居をしている人間関係者や、血縁達、、
ところが、メル友というのは、この複雑な心理がないのですよね。
心理的に 楽な 環境なんですね。
しかし、そこからは、感動など、真の人間関係の喜びは生まれないのではないですか?
日常生活で、空いてる時間だけ、ピコピコする動作に、 心の感動は、得にくいでしょう?
メル友は、そのような 存在になり勝ちなんですよね。
携帯変われば、音信不通の メル友は、連絡しなくても 容赦なく 破棄してしまう
、、人間を 使い捨てのように 接していれば、自分も当然、存在感ないですし、普遍性ないですから、どんどん、使い捨てされるような社会をつくっているのですよね。
TOURS トゥールは、旋回するとか、塔の意味ですが、、、
輪廻するか、次元を上げ塔に 向うか、
どちらも同じ 単語で 表現するというのは、面白いですね。
どちらも有りなのでしょう、、どちらも有りなのなら、どちらかにしないといけないでしょうね、、
受動的にいつも、 外からの影響ばかりに、 迎合することばかりが、 善と 思い込んでいるという 状態ではなく、
「 私は、こういう人間だ」と言える人は。心の葛藤に 苦しめられることはないでしょう。
嫌いな人は嫌いでいいんだし、好きな人は好きなんですから、、、
どう、いきていいか分からなくなるという事はないでしょうと思う。
自我がないなどと、思い込んでもだめでしょう。
ダヴィンチは、
「 人生を全く 評価しない者は、人生に値いしない
聡明さは、経験 から生まれる」
と述べています。
知識や 上辺の机上や本から得た 認識ではなく、聡明さは、 経験<人間達との 関係です>
からなんでしょう。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月06日 06時20分08秒
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「Re:心理学」
自分がどういう人間なのか?
というのは、科学的に知るのなら、やはり心理学でしょう。
宗教人でも教育者でも、どこかの、霊能者でも なく、
心理学とか精神分析とか、科学に価値を認めるなら、良く分からない、宗教や信仰ではなく、心理学を、、科学と呼ぶ、、のが普通でしょう、、
ところが、どうも、 日本人は、科学には、絶対的な価値をおくのに、 心の問題になると、いきなり、宗教や、信仰の門を叩くらしい。
精神科や外来で心理科病棟へ、向うのは、ほんの一握りだと思う。
それなのに、普通に回りを見渡すと、大丈夫なのかな?
この人達、、家で、何して時間を過ごしているのかしら?
と、思わせる、つまり 社会生活の外にいる時、一人で居る時の時間の過ごし方に、アレ?と不安を感じる人達の 多い事、、、
素直な自分になれない 造った自分を 世間の人と接しても、分かる人には分かってしまう、、
人と話していて気がつく事
、例えば、日頃無力感に悩まされた 中年男性が、ある時、家族や、身近な人や 知り合いから、感謝の言葉を述べると、すごく 喜ぶと言うような事。
無力感に悩まされている事は、最初分からないはずですから、、、
その喜びの 様子から、何かを察するのですよね。
分析も心理分析も、まず末端の 表象行為から、分析していくのですよね。
霊能者は、その点、心を見抜いたり、多分霊聴が教えてくれるようなんですね。ですから、もともと違う思考でしょう。
たとえば、劣等感の激しい人は、回りが、権力のある人をけなすと喜ぶ、、、という行為にでるようなんですね。
劣等感の激しい人は、絶えず、心に 自分に向けて認められない怒りを向けているんでしょうと思います。
それがいけないというのではなく、自分が何故?他者を 批判する時、安易に喜んで、呼応したがってしまうのか?
という理由があるはずなんですね、、そういう事をひとつ、ひとつ分析するのですよね。
情緒的に未熟な人は、愛の意識も、しがみつく愛 しか経験できなくなるでしょう。でも、きっと、それは幼少の時からの経験によるのでしょう。その人の 責任全部と言えないかもしれません。
でも、 本人は幼少の経験からだとは全く思わないようなんですね。また 霊的に、過去からのなんらかのカルマがそのような家庭環境を生んでいるのかも知れないけど、そういう事は、感じても言わない方がいいでしょう。
愛と恐怖と憎悪の相互関係 で生じる愛情は、ほとんど、執着愛でしょうと思います。
愛を知らないから、神経症になってしまうのに、最初から神経症の 放つ愛を、本当の 愛と思って、通じている時がある。
神経症が自分の感情を愛と呼ぶような感情は、他者にとっては、愛と呼ぶ意識ではないかも知れないのに、
その確認はまずしない。とりあえず、愛なのである、、という事で一致しようとする。
そのような言葉を、全てひとつひとつ 自分の 放つ言葉の 意味と 同等価値、一致できるか、全て考える。コミュニケートはそれが必要でしょう?
安易に、表象の言葉だけに 呼応するのではなく、言葉の 意味です。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月03日 22時31分19秒
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「Re:Re:Re:心理学」
小さい頃、日本語で、仏語書いて フランス語の 意味だと知って、たまげてしまった事があった。
どうして?
仏=FRANCE にしなければいけなかったのか?
仏教とか仏壇とか 仏像とか 神仏とか、そのような 漢字が、いたるところに 目に付く。
そのような言語環境、 構造 の 中で、どっぷり 浸かる。それなのに、
フランス語と書くの面倒だから、仏語でいい!とか云われると、
こりゃ、誰でも ヱ???^
と思うのでしょう?
いったい、漢字って何?
と思うのである。
何か、あったのだ、、、
フランスという国と 仏の漢字を当てはめたい理由があったのだ。
むしろ、 漢字国、中国語では フランスはどう書くのか?というと、 法の 国、、つまり
「法国」と書いて、フランスという意味だったら、なるほど、、と納得するのは、どういう 感情なのか?
というと、やはり、自由とか平等とか人間中心の 国、 革命を起したからかな?、、、と、子供の頭でも、なんとなく 納得できたけど、さすが、仏とフランスの 結びつきは、 閃かない!、
、
小さい頃から、そういう事しか考えない子だったらしい。
だから?フランスに住むようになっていた?というと、これも、そういう何らかの 意識があった訳ではない、、と 思い込んでいるのに、
いきなり、知らない人に、「過去世で お釈迦様にあっているでしょう?」、、なんていきなり 云われると、ドッキリする。
そんな馬鹿な事はありえない、、と思いながら、霊能者というのは、 過去世が誰々といって、相手が、信じる、信じないなんてどうでもよい事なのだという事。
彼らは確実に、 心を観ている。それは、わたしの、 平等意識を、 述べるからだった。
いったい、 何故?
わたしは、小さい頃から、仲が良い訳ではないけど、、先生が、クラスの 長期欠席している 友達の 家に行って、様子を 見てくれる人はいないか?と聞かれると、 手を上げて 会いに行く。という子だった。
大概学級員と一緒に 先生に住所を聞いて会いに行く。
昔は、登校拒否という 心理的な問題は、今と違った。いじめが怖くて 学校に行かないという事ではなかった。
家に行くと、驚いた事に、 病欠な、はずなのに、立って起きている。
布団も敷かれて居ない。じゃ!何故?学校に 来ないのか?というと、 台所は、 空のアルコール瓶がたくさん 転がっている。
コタツに、 昼間なのだが、泥酔して寝ている父親か母親がいる。来客で起きる事もない。
つまり、子供は、ほっとかれているのであった
。自分の育った家庭とは 違う世界があったのだという 経験をする。
そのような自分と違う知らない世界の中に生きる友達と一緒に、机を並べて勉強する、、という 世界観だったのだ。
長期欠席をしたくなる子供達には、 学校に行く事が、楽しいとか、 友達に会うのが楽しいとか、そのような 気持ちさえも わかないらしい、、そのような 環境に 生まれ、育つ。
なんとなく、 暗い雰囲気、なんとなく、口数が少ない、なんとなく、人を後ろからジーと見ていて、何も 言わない、なんとなく、人と混じって 笑いたいという 気持ちを持たない人、
その人の周りには、そのような雰囲気というか、今で言う、オーラとかいうものだと思うけど、、そのような雰囲気が漂うのですよね。
長期欠席していて、なんとなく、存在性がない、その 暗い雰囲気が、何処から くるのか?分からなかった。だから、 彼女たちの 置かれている、生活、日常生活を見て、「これだったのかぁぁ」と 変に納得してしまう自分がいた。
子供が、子供らしい 笑い声をあげる時、なんとなく、周りの人間をホットさせる。あの 雰囲気はなんだろう?
知らない回りの人達の顔に、 フト、笑顔がよみがえる。あの感情の 伝播の 力はなんだろう?と思っていた。
人間は 平等ではなかったんだ、、という子供が意識する平等 意識はそういう 曖昧な意識だと思う。
決して、お金持ちの子供に生まれると、なんでも欲しいモノを、買ってもらえる、、とか、 そのような物理的な 条件の 多い少ない、、ではないでしょう。
10歳くらいから、すでに 人間の平等意識は、根づくと思う。
そのような 小さい頃から無意識に 根付いている、平等意識を、いきなり霊能者は、述べてくるのである。
だから驚くのである。
だから、20歳以降にフランスに移住しはじめているのに、突然、初めて会った人から「宗教の起源、原始仏教の発生、インドに 住んでいて、カースト制に、疑問をもったんですよね?貴女自身が、インドの大きな家の 子供に生まれているんですね、貴女が 平等に 拘るのは、 今世だけじゃないんですよ」とか言われると、 たまげてしまう。
これは、正直、唸ってしまった経験だった。
だから、 心<魂>の接し方を 蔑にしてはいけない。
今世だけの問題ではないと思う。だから、フランスを仏国と書くと 小さい頃知って驚いた時間軸でいう前の 体験は、 別に、驚く事ではなかったのかも知れない。<ややっこしい書き方ですが>
話はちがうけど、
ルイヴィトンの バックの モノグラムは、 島津藩の 十字の 家紋と徳川の葵の家紋は、「美しい」、、、
と、 戊辰戦争前年にパリで万博が行なわれた時に、
ルイヴィトンの 目に 島津藩 徳川藩の 家紋が 意識を 引いたのだ。
ルイヴィトンのバックは、何故?あんなに、日本人の ギャルにネームバリューが浸透したのかしら?
去年2011年、3月11日地震の前日だったか?知り合いが、メイルで、ルイヴィトンとブルガリが、提携したらしい、、というニュースを伝えて来た。
そうそう興味深い関連事、
地震の数時間前にロイター共同通信は、 ショパンの お葬式の棺の中の写真を、世界に 放たれた形になった。この事象は、全部 世界が地球の土地を通じて、つながっているという事でしょう。
このような 繫がりの流れ<途上>を感じないと
、局面、局面、時間の 断面ばかりの 現象ばかり、 過剰に 投影する人が多いのでしょうか?
時間は、つながっているんです。過去、現在、未来です。それなのに切り出された、瞬時の現象ね、記号でも 単語でも、テキストでも、、その部分のみに、 呼応しがちなのは、
統合失調症の方達の症状に すごく 似ているんですね。
紋切り型単語のみで、 呼応したがる 人多いでしょう?
つまり時間の 局面に浮かぶ、単語でも、短文でも、インパクトが強い方が、大衆は 呼応しやすいのですよね。
時間断面に生じる現象にだけにしか、反応や 呼応できないんです。これは、唯物論に偏重しがちで、バランス悪いと思うのですね・記号しか、見ないのも、記号執着でしょうかね?ですから、心を病む人達が、大変に 多いという 事になるのでしょう?
人間は、心を持っているんですよね。自我でもいいですけど、、、
ダヴィンチは、あれほど、数学の重要性を問いているでしょう?
それでも、ダヴィンチは、
「我々の判断ほど、我々を誤まらせることはない」
と語録に残すのですよね・
それでは、誤りに 気がつくのは?どうしたらいいかですか?
他者達の存在なんです。
けっして、 少数の仲間内や 少数の 同一価値観で集まる グループの中の 他者ではないです。
自分と全く違う 他者達の存在です。
話し違いますが、
このルイヴィトンの YOUTUBEは、「やはり、ねぇぇ」、、、東京は、 十字の家紋と重なってしまうらしい。見るとドキッとするんですね・万華鏡の世界です。
http://www.youtube.com/watch?v=lsLG9tfmgx8&feature=em-subs_digest
観音浄土の那智の滝です。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月03日 18時34分00秒
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「Re:Re:心理学」
少し 気になるので、書き留めておきます。
あのね?
人に やさしい、、という事は、
なんでも、かんでも、 人に 迎合して 慰めたり、勇気を与えたりという 事ではないです。
優しい人を 求めているという事、、
それは 自分に、 判断をせず優しくしてくれる 人を求めてしまうのは、
当然、人に優しい人を、褒めたり、感動したりする訳です。
それが、どうの、、と言う事ではなく、
もっと、 ちゃんと 本質を見抜いて下さいね、、
上辺の 優しさと、 むやみに、安易に 誰とでも、迎合している 人達<説くに、宗教人や 教育者達は、名誉とか 社会的な 身分を つけているから、 多数から 気に入られないといけない、、というような 変な 個人判断に 支配されているようなので、仕方がありませんが、、、>
結局、 大衆も 肩書きに依存しますから、「ええええぇぇぇ!あの人がぁぁ?」という驚きにあるんです。
驚くのは、 最初から 肩書きで 判断していた、、という無意識判断が 支配しているからなんですね。
本当の 平等は、「 男女の 賃金格差を なおす、、エイエイオー」と、この 次元で語られる 事ではありません。これは、次元が低いのです。
どうも、 自分勝手に、 形而上と形而下の 世界の生業というか、宗教史実を 我田引水ばかり 約したり、言説ノベル人多いですけど、実践が ともなえば、
何か、一つの分野に 拘る、他を批判<非難>するという
品性が欠ける、行為にはでない はずですね。
それと、心の病の 方達を、益々、孤立させるような、 交わり方、関係の仕方を 続けていく、、という事は、在り得ません。
万が一の 心や精神の 病いに 苦しませられているなら、必ず、普遍性をもつような、存在の仕方に、自然と向けさせていく、、という人間関係の 結び方、存在の仕方でなければ、ならないでしょう?
世間の 人達と普通の感情交流が可能が他者の判断する必要などない、心地よい交流が出来る関係気付けるという事でしょう
一部分<少数>虚実の 真理と信じて、何かに ズルズルと、後追い行為をする。自分に優しいから ウルウルしてしまう。自分をやっと認めてくれる人に会ったと、感動する、自分と対等に話してくれるから、すごく優しい人と判断してしまう。
あのね? 人に やさしくするのは、誰でも出来るんです。でも、その人を心から愛する事が出来るか?とは違いますね。
それに、人を誰でも、認めて優しくする行為は一つ間違うと、本当に、赤のれんの カウンターの中で、しこしこ、手料理の小鉢を出す、お叱りママの存在になるのです。
明日への 働く 元気を 出させてくれる、、背中を パンと叩いてくれる、、そういう元気が欲しいだけに、 仕事の帰りに 通う 呑みやさんのママと変わらない存在の仕方になるんです。
哲学ではないと言ったら変ですが、、これでは、わたしも、こんな書き込みを此処でしてないで、 駅の近場で、お店出すほうが、楽しいのですよ。
本とに、何にも、分かっていないようですけど、、、
ですから、自我がない、、などと 放ってはいけないのでしょう。
簡単に迎合出来るという事と、その人が 自分を愛しているという事とは。違います・
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月03日 05時21分22秒
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「Re:心理学」
ちょっと 考えれば すぐ分かる事だと思うのですけど、、、
イエスでもお釈迦様でも、その他の諸聖人、または 空海さん、竜樹、、、、
既に、この世から居なくなられ、あの世に 居られる 方達は、
一体、この世の 人間が、諸聖人達が教えたかった宗教でも、釈迦の教えにしても、本当に語る事を 望んでいるのでしょうか?
あのね?
万が一、自分に 純粋な信仰心があるとして、仏教の 教えを 誰かと話したり、集まったり、、美しい助け合い精神によって共同生活をしたり、
とりあえず、信仰者としての、 なんらかの 行動 に至るとするでしょう?
書き込みでもいいですし、本だすのも いいかも知れませんが、、
一つだけ、大事な事、、、、
自分のモロモロの 行動が、他者達へ、広がりのない 普遍性を もたず、ドンドン、中に向っていく、ドンドン部分にのみ呼応する、、というのなら、、
それは、貴方がたの信じている、お釈迦様、 諸聖人達を、悲しませていませんか?、 あの世で悲しんでいるんじゃないですか?
信仰は、自分の信仰心を満足する為の 行為に落ちてしまうなら、それは、 他者不在の 孤立<閉塞>世界でしか通用しない、意味を持たない、あるいは、心の病いの方達にしか 共感を 持たれない、、、
そのような、普遍性の失い、存在をしては、いけないのじゃないですか?
オーム事件を 生んだ土壌は、 日本という国の 土壌なんです。
と言う事は、普遍化させる 土壌に 根を張る 民族という事で、私達、一人、一人の 責任にあるんです。
どうして、そのような 因果関係を感じる事ができず、 自分は自分、他人は他人、事件と無関係だから、 他人<他者>の 問題、、と ほおっておく事が出来るのか?分かりませんが、、、
そこに 自他の 断絶層があるの分かりませんか?
つまり、他者 不在なんです。だから、 鬱病や コミュニケートが取れないんです。他者の 心を感じる事ができず、 だから、 KY(空気が読めない>というような 言葉がはやる 世相の質に、皆が 気が付くんです。
空気が 読めない人を批判しているとか、 馬鹿にしているとか、そのような 事を述べているのではないです。これは 自虐的意識の 強い人の、時間途上に生じる 記号そのものに 過剰投影する、 心の病<精神的病>の 方達の 類似な言動なんですね。
この 事をしっかり、洞察しないと いけないです。むやみに、 いつまでも、記号の後追い 返事を 繰り返しては いけません。
2ちゃんネルのような 書き込みは、全て、時間を追う、後追い 現象なんです。
2ちゃんネルがいけない、、と断定しているのではなく、
品は、大事なんです。
次元の 低い、高いが、分かるからです。
心模様というか、 心や魂が、どの次元に存在しようとしているか?
しか、 天上界は 観ていませんよ。
大変な事なんです。
品格は、 TON トーンです。
音楽の トーンが高いとか低いの TONなんですよ。
音調が高いTONが高いと、 品格がある、の品は、同じなんです。
ですから、 音<声>に 気をつけないといけないんです。
次元の 低い、 何者かとばかり、居心地よい、次元に 存在する事ばかりを、 求めて、呼応してては いけないでしょう?
信仰<教え>が 良くないとか、 他の 宗教に比べて、優秀性が 認められない、、という問題ではなく、
その教えや信教を述べている その人個人の 言説(声)に 問題があるんじゃないですか?
普遍性が、一番大事であるという事は、他者を理解出来るという事に 他ならないでしょう?
そういった意味で、 仏教は、世界の宗教分布からいうと5パーセントの割合なんですよね。
すばらしい釈迦の教えを語っていると思い込んでいるのにも関わらず、 ますます、モロモロの対峙者達と 反発しあう、、普遍性のない存在の仕方を続けていく、言う事は、世界、宇宙から観たらどういう事なんです?
お釈迦様、失望し、悲しみますよね。そのような、 外界から見た、自分の 本当の姿が、いかに閉塞的な想念世界のみで、話していないか?
とくに、宗教家や教育者は、気をつけないとならないと思うのですね。
あのね?精神という言葉、精神的に進化した人間界において、大事だと思うのですね。
「 魂がどのように身体に宿っているかを知りたい者は、身体が毎日どのように自らを使うかを見ればよい。
身体が混乱し無秩序になっている時、魂は身体をその状態に保つ。
いかなる生命体も、虚無へ 向うことはない!」
Leonard de Vinci レオナルド ダ ヴィンチ
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年09月01日 18時17分00秒
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「Re:心理学」
昔、復活祭の 日が毎年 日曜日に中る事に 気がついた時
「なんだかなぁぁぁ〜」と 云う 感じがぬぐえなかった。
なぜなら「西洋では、クリスマスより、復活祭を重んじるんです、」という事は、前からよく言われていた事だから、、頭の 中で、お祝い事が 必ず、日曜日に 中る、、という 結果ばかりに、 執着してしまう 自分がいたのですよね。
ところが、この 自分の想念判断世界は、あまりにも、 単純過ぎると自覚するのです。
あぁぁ、、これはヒドイ!、単細胞の思考の世界であったと唖然と自覚してしまった事に 気がつかされたのですよね。
つまり、そのような 単純な理解を超えている、不思議な つながり、一貫性の途上に、 聖書に書かれている 現象が 起きていたのである、、という 気がつき、
「だから、 12月25日に、 キリストが生まれたなんて、聖書には、何処にも 書いていませんよ!。それがどうかしたんですか???」と 云う、キリスト教信者達の、 アッケラカンな 態度に あって、、彼らは、「あ〜た!、何か、ズレていません?」とでも 云わんばかりの 対話に 落ちてしまうのですよね。
意味が分かって対話が通じる人と、意味が 全然通じていない人の 返答が返って来る事がありますが、これは、コミュニケート不通の問題だけでなく、 あきらかに、 閉塞世界に 閉じこもって、外界との パイプライン<コミュニケート>が 断絶しているようなんです。
言葉だけ、返答すれば形だけ、 対話すればいいと思っているらしい。
でも、 ちゃんと、意味が分かっている人、意味わからないで、返答している、人の 区別は 観えるでしょう?
「あぁぁぁ、、 そこに、 執着して 呼応しているのではないのね」という 自覚でしょうね?
だから、同じ人達と同じ言葉で、同じ思考の形の 人達と、 永遠に あ〜でもない、こ〜でもない、 あ〜云えば、こう云う、 状態の狭い 対話世界に 留まっていても、何も、動かないでしょう?
自然や宇宙との一体感は、体感する、実践できる、、という次元に ひきあげないと、いつまでも、他民族や 他宗教の 批判で、一生を終わりますよ、おわってもいいけど、その後、この世に 居残られて、また違う、「自我などないです」、、何て云う、お友達の 肉体見つけて<ヤッホー!>、心地よい居心地よいと思って居座るような、 他人に迷惑な事、 過去、現在、未来途上で、しないでくださいね。
憑依説って、面と向かって、言うのは避けたい自分がいるのだけど、私自身、観じてしまうのだから、、しょうがない。
それを、魔と呼ぶか、悪と呼ぶか、それは、人に因って違うでしょう。ただ、貴方に 悪<魔>がついている、、なんて事を真正面に云って、悪徳商売する、霊能者がいるから、困るんですよね。
同じ憑依されても、 高級神霊にだけにして欲しいとおもいますが、 そういう時は、 憑依とは云わず、チャネリングとか、マニフェスタシヨンとか、 表意でしょう?
どうも、 なにも分かっていない、未体験なのに、 全部 混ぜて、 好きに判断する人多くて困りますね。
それで
「えぇぇ、、?聖書には、12月25日に、イエスが生まれたと書かれていないんですかァァ?‘」と、驚いてしまう、 次元に 存在していたのではない、、という 事に、 物事の 理解の仕方、、、何処に 視点を向けるのか?、、という 事に、やはり、他者達との違い、外国語を話す 人達の 存在があるのでしょう、、と思う。
考えたら、日曜日が、 休日であるという 判断は、何処から くるのであるのか?という事をまず考えないと いかん!でしょ?
と反省するのであります。
それでは、 どうして、 12月25日にしたのですか?
という質問が、当然 出てくるのであります。
この 日にちなんですが、 一週間という 曜日に 気がつかなければ、いけない、、と、 懐疑論者は、気がつくのですよね。
月、火、 水、木、 金、 土、 日です。
ロザリオの祈りという、信者さんに 聞くとわかりますが、
結局、一週間の存在は、大変重要で、全ての不思議な出来事、 イエスの 苦難にしても、喜びにしても、天国での 歓喜にしても、
地上の 曜日に 全て、どの年にも 不思議と一致するように、 聖書は 書かれてある、、という事らしいんですね。
ご存知の ように、 復活祭の 日は、 移動祝日ですから、 月の 満月や、 春分の 日というのが、関係してくるんですよね。
復活祭の 日が 移動すれば、当然、それに続く、関連事、例えば、灰の 水曜日とか、、全て 関わってくるのですよね。高級神霊の存在については、 ちゃんと、波動チャンネルさせられる 方でしたら、無意識、意識的に関わらず、世界どこでも、信者であるとか、信者でないとか、関係なく、 あちらの世界では、そのようぬ 動いているから、 こちらの世界で、不思議と 偶然の 一致に 気がつかされる、、という事に 思えます。
キリスト教は、祈りの 文を理解すると、現世利益を求めているのではないでしょう、あの世での、 魂の 救いに尽きると思います。あの世の霊魂達の 安らかななる平安、<平和>を願うから、 死者の魂の 平和<la paix>という 音素を述べるのでしょうと思う。
PAIX ぺ という音素が、いつも、 世界平和の 意味使い、平和で 使われぎみだけど、 平穏、安らぎ、安心、、という 意味使いで、 平和PAIX ペを 用いて理解しないと、 聖書や、祈りの 言葉には、 なんだか、 ちぐはぐ感を感じると思うのですね。
つまり、 あの世の魂も、この世の魂も 同じで スピリチュエル家の いう、 死んだら、平行移動です、、、という 言説は、納得 できると思う。
あの世の魂に 安心感が、得られなければ、この世の 人間の 心にも、 平和は 訪れないし、得る事は出来ないのだと思う。
ロザリオの 祈りは、曜日事に、イエスの 生涯と 天空での 出来事の 一貫性によって、祈るようになっているらしい。いや、いるらしいという 言葉はへんだけど、そのように、曜日の流れの途上によって生じている、、
例えば、水曜日と、日曜日は、 不思議なGlorieux.栄光、創元、至福が生じている事で、①復活祭、②イエスの昇天、 ③ 精霊降臨 ④ 聖母マリアの 被昇天 ⑤聖母の 戴冠
と、5つの、ミステリーは、水曜日と日曜日に 毎年生じるようになっているという事らしいんですね。
その他の 月、土曜日に生じる、めでたい、喜ばしい出来事、例えば、受胎告知、など、、
ただ、暦は ユリウスから、グレゴリアに 変わるので、現代の 暦と 単純に 一致出来ないみたいなんですけどね、、ココラ辺は、、、、三次元世界がかりの 出来事に しつこく、 執着し、絶対的な 価値観をおいてしまっては、普遍性はないと思うのですね。
自滅的な存在の仕方に 観得るんです。もっと、自由に柔軟な思考だ出来ると思うのですけど、、
他者の存在が 自分に不在だと 、自分自身の事が 理解出来ないんですね。
http://pweb.sophia.ac.jp/j-puthen/page026.html
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2012年09月01日 00時08分49秒
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「Re:Re:Re:Re:心理学」
川が 出来るのは、 まず 標高差がなければ ならない。
標高差が なければ、流れないので、 上から下に 流れるという 物理的な 理由があるはずなので、その 標高差がない 地域には、川は出来ない。
川が出来ると、人間が 住み着いたりする。田畑に 水を引いたり、生活用水が、近くにあると、便利である。
その時代の頃から考えるのですね。
川があると、 小動物も 水を 飲にくる。狩ができたり、遠くまで狩猟しなくていいから、便利である。
その内、 サンクテゥエール場所必要だと 悟ったりする。何故なら、人間が死ぬと、やはり 皆で、頭を垂れて、祈りの 言葉や 歌を 歌いたくなるという、、信仰生活が 必要になってくる。
フランスの 教会は、何故か? 川の 近くにある、
パリの ノートルダム寺院など、 セーヌ河に ある、小さな 島<シテ島>にある。
わざわざ、交通不便な、島に わたらなけらば、 ノートルダムに 行けない、、という 立地条件の 悪さなのに、 この場所に訪れる、世界からの観光客の数は、驚く数字になっている。 もちろん、 自由に入れる。神域で、お金を取るなどと、 野暮な事は いわなくても、 、人びとは、 お賽銭を ヴォロンテー、自由意志によって、聖母マリアの ご利益を願うのか? いや 世界の 平和を 祈るのであろう、、パリのノートルダム聖母マリアの 普遍性は、ちょっとや、そっとでは 傾かない。
堂々と 存在させていく。普遍性のある 姿で 存在し続けるであろう、、
そういう 確かな、安心感を 与えてくれる。
ラテン語では、ノストラダムス、NOTREノートル=私達の
DAMEダム = 貴婦人
我等の 貴婦人と、呼んで、 聖母 マリアの 意味である事。
そういえば、ユリは、 フランス王家の 花で、
ダヴィンチの 最後の 住居となった、 クロルセ城も、 ダイニングには、 ユリの花束が 飾られていて、ダヴィンチのお墓も、 ユリの 生花が 活けてあった。
ユリは、 ガブリエル天使が、受胎告知の時に、 持って、 現れる
花である。
そういえば、 佐藤愛子の、 「 わたしの 遺言」の 本の中に、 佐藤愛子の ご先祖である、アイヌ族の 酋長の 娘であろう、、という話だった。おかしいのは、 父親が 死に、勇敢にも、部落を 引き攣れ、勇さんにも闘う、 アイヌの 酋長の 娘だった、、という 霊視が、、なんだか、
「あぁぁ、、 なるほど、、」と 納得させてしまう 雰囲気が、 佐藤愛子さんの 存在の 仕方から、 他者達が 感じるであろうとおもうところ。
しかし、 かなり デリケードな 感性だと思う。デリケートというと、なんだか、もろく、傷つきやすいと解釈しがちだけど、
細かい、人間の 心模様を よく 感じ取れる、、という 意味の デリケートさであって、感性の 高さと言い換えても いいと思う、、もともと、 文筆業でいて、感性が 低い、鈍いというのは、確かに、こまると思うけど、、
その、本の中に、やはり アイヌの ご先祖 霊との 交霊場面が かかれているのだけど、、アイヌ人は、ユリという花、女性の名前につける事があると、アイヌ研究家藤村久和氏も 交霊に立ち会って、昔のアイヌ人の 言葉の 通訳をする。
ユリの花は、 種族繁栄、民族繁栄、女性の名前にしたくなる名前なのかもしれない。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年08月31日 17時44分12秒
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「Re:Re:Re:心理学」
2011年は、地震だけでなく、地震が起こる前から、十字架の 十のワードが 気になりはじめたのですが、
、当たり前ですけど、、だけど、10を、十と置き換えるのは わたしという日本人で日本語の読み書きが出来る記憶に 帰属しなければ、分からないはず。
しかも 家紋<紋章>の事を言えば、島津藩の 家紋は、丸に 十字ですよ、、などと、閃いたり、フランスの 県旗で 十字を 県旗に している 県は、 savoie サヴォア県の savoie公国の 紋章を 保存させてきている、、という 歴史は、 わたしの 脳内でしか、生じない、個人的な 考えに尽きるのだ。
この県に住む 住民に一番多い 苗字が、 白さん blancさんという苗字であることは、 その手の フランス語の web で調べる事も 出来る。
しかし、SAVOIE公国の血縁をもつ、フランソワ一世のもとに、ダヴィンチは、 奨励される、、という展開になっているのかしら?
しかも、 1517年、10月10日に枢機卿の 訪問を彼が受けていたとは、これはうかつだった。
同じく、arc 川という 川の名前と、 イゼールという 川の 発生地なのだ。
Arc という宗教言語に一番頻繁に使われる、、この音素を持つ名前は、140キロ先の イゼール川と合流する。
隣県の イゼール県の 街中を流れ、 フランス革命が 勃発した、グルノーブルを流れる 川である事。そのイゼール川には、 dracという、ドラゴンの名前の語源を 要す、川が、合流する 地点、でフランス革命の 種火が、爆発してしまったのだ。
もちろん、何故?そのような場所に そのような事が生じるのか?というと、当時の 文化人、芸術品に 残された作品を読めば、人々の心に 抑圧されたものが、ドンドン蓄積して行く事の 途上に あるという事、、
心の中に 蓄積していく、なんらかの、 抑圧されたものが、ある時、 なんかのきっかけで、火がつく、、その時を待っていたかのように、あっという間に、全国に 革命の 津波が、 遠心を描くように、人々は、立ち上がる、バスチューユの牢獄へ、向かった市民の姿は、なんだか、パリの フランス革命の イメージで よく 浮かぶらしいけど、 同じ、バスチューユという名前の 牢塞が、 イゼール川を 上から眺められる 場所にあり、イゼール川は、この バスチューユ牢塞を 取り囲むように グルリと 周り 流れている。フランス革命が 勃発した、最初と 最後の 締めくくり場所に、バスチューユという 音素の 牢塞と牢獄が あるのは、面白いでしょう?。
起承転結しながら 能動的に 歴史を つくりあげないと、 受動的に ズルズル 引きずられてしまってては、いけません、、などど、言いそうな フランス人達なのである。
わたしが、昔、この 川の名前と場所と歴史の不思議さを 話している時、ある フランス人女性の知り合いが、「貴女、谷によって、男性の 性格違うの 分からない?」と 云ってきた事があって、ハ!とした事があるのです。
、彼女の 分析が 本当なのか?わからないけど、彼女は、 イゼール川沿いの谷に住む 彼氏と、 アルク川沿いに 住む、彼氏と 付き合った事があった彼女だったのだ。
フランス人の付き合いは、友達が友達を呼ぶ、、という広がりのある 付き合い方が 普通なので、だいたい、その人の周りに集まる(引き寄せられる) 友人達、その家族の 考え方というが、 一人付き合うと、その人が生きている 周りの人間環境が、どうしても 観得る。現象学という 客観意識は、彼らの人間関係造りに 根ざしているのだと思う。
彼女は、 ARC川沿いに住む、男性には、マッチョが 多いと思う、話してきた。
地形的にいうと、イタリアとの 国境に流れている、 ARC川の方だから?つまり、キリスト教の 色が濃くなる 宗教心が強くなる地域なのか?という話をした事があった。谷とその 谷に流れる川、、その川に つけられる 音素は、無関係に つけられているとはとても思えない。
日本にも、 風水は、 山と谷と結界を 見ながら、 龍脈の流れを見て、波動の低い場所、高い場所を観るらしいけど、それに 似ている。
2011年に話しは戻すと、、たとえば、2011年に生じた 中東諸国に次々、クーデターの火が起こったのに フランス革命を起す、なんらかの 外側に向かう、人間を力で管理しようという動きに 反発する 人間側の怒りが 爆発するという事に類似していると思う。少数の支配者側と、多数のレジスタントの存在の 均衡が 崩れたのだ。
しかし、 このような 状態に ちかじか なりますよ!という 、、兆候を感じるのは、いつの時代も、 感性の鋭い人達である事。
感性の 鈍い人達は、何故か?唯物論者であって、目の前の 数字や、 地図を 目の前にして、 苦虫を潰している、、という 政府人は どの時代も 同じような人達が、 国を 管理すようと 思うらしいし、 国民も そういう人達に 委ねてしまうという依存関係ばかりを 求めているらしい。
先に 生じる事を、観じられない、、
このままいったら、存在出来なくなるでしょう?
という 感覚が、何故?
持てないのか?
例えば
終戦の時期、イタリア、ドイツが5月に 終戦を迎えたのに「、まだまだ、日本はいける」、、と思ったのか? 戦況はますます、悪化しているのに、 見て見ないようにする、信じたくないから、業と、考えないようにする。
物事を真正面から、 観る事の 勇気が ないんだと思う。
わずかな、希望に しがみつく、、しかし、その間、戦場に 出されて 戦う 日本兵はドンドン、命を失っている、、という 状況は 心にもしない。<考えない。他者不在>
ただただ、 日本は 勝ちたい、みっともない負け方はしまい、というなんだか、 自己満足を 得る為にしか、考えられないのでしょう。<他者不在>
そして、挙句の果てに、
「原爆を 落下したのは、アメリカだから、アメリカが悪い」、、と 敵対心を 向けてしまう、実際、今でも、そのような言説をコミュで放つ人が存在するんです。
その感情は何処からくるのでしょうか?
書き込みしていると、そのような話に 対話者とするような関係を結ばないとならなくなるのですよね。
議論に勝つとか 議論に負ける、、とか議論まで、勝負の世界と同じレベルに 考えている人達が多いのですね。
哲学の 構造主義、、言語=思考なんです。
話す言語の 限界は、思考の 限界、、と言ったのは、 あの ヴィトゲンですが、、
本当に、そう思うのですね。
それで、話しを当事の議論に戻すと、本当は
同じ、敗戦国という立場からいったら、イタリアやドイツは、 原爆投下という 悲劇的な 体験をせず、先に終戦を迎えた 国も 存在するという事、、という事は 云わずにいたら、
なにしろ、 原爆被害意識を過剰に 呼応させられていますから、、、その事だけしか 見えないらしいんですね。
つまりね、それに 至るまでの、途上はどのような 展開の仕方だったのか?という事は、読もうとせず、「 世界でたった 一つの 被爆国なんです。 日本にこれだけ、被爆者を だしたのは、 アメリカの 責任です、、」と、こぶしを、挙げて<結果しかみない、それに至るモロモロの因果関係を 考えようとしない>、それに続く、「 そうだ!、そうだ!」
扇動運動に簡単に なびいてしまう、情動呼応なにやぶし、ウルウルの人達が、後に続くのですよね?
あのね? 尖閣に 他者が 呼応するのも、 類似の このような 感情なんでしょうか?と思うのですよ。受動態意識は 簡単に 被害者意識に 塗り替えられて しまうんです。
ですから、無我なんて云っていては、いけないんです。それこそ、ひとり、ひとり、 精神高揚、高次の世界へと、次元をあげないと、いつまでも、次元の低い 争い事に巻き込まれる。日本人は、出来るでしょう?これだけ、古い歴史があるのですから、、次元を上げる、他者達の 心の様子が感じ取れるはずだと思うのですね。いつまでも、一方通行の 自己保存ばかりの言説を述べるばかりに、一生懸命になるのではなく、普遍性は、そのような 途上で、対峙世界の争い上にあるとは思えません。
いつも、思うのだけど、 自他が、対峙している世界観つくりにあっては、 自滅的な 途上に向かって、存在しているように 思えてしょうがない。何故なら、他者を排除したり排他する事は、外側からみれば、自分自身に 批判や 攻劇の矢を向けているように 観得るのですよね。
自殺と他殺は、同一人物に 生じる裏返しの 行為であると、精神分析では言われる所以でしょう。だからと云って、好きになれない、嫌いな 人と 無理に 付き合う事はないと思う
、
つまり、 和と 調和とという結果ばかりに、迎合<目的に不自然に執着する>事ばかりが、善の意識と思い込む、、という 既成のお仕着せ 倫理や 道徳感で、 人々の 心を縛り、管理する 指導者や 宗教人の 倫理道徳は、 普遍性がないと思う。
人間の 心は、そんなに、簡単な既成道徳感で、平和とか 幸せとか、得られるとは考え難い。
もっと、自分自身が、色々な 人間関係を 体験し、 人々との心の対話をしない限り、いつまでも、難しい、経典や、偉人さんの格言ばかり述べる事しかなくなると思う。
他者達との、心の会話や対話による、実践や体験が 不足すれば、他者の 心に届く、言葉は放てない。いつまでも、頭に 記憶させた知識や 認識ばかりを、上滑りの言葉ばかり、もっともらしく、放っても、馬の 耳に念仏でしょう。
しかも いつも 断定的な表現しか出来ない、、というのは、 どうして?と思う、コレだけ日本文学や芸術は、あちこち簡単に触れる事が出来るのに、詩や ポエムとか 川柳でもいいし、もう少し、そのような 文学的な表現力が身につかないで、どうしていつも、 人と話すのに、 断定的に 上からお仕着せのような 現われ方で、関係結ぼうとするんでしょうか?という人が本当に多いけど、なにかの 過去世に支配されているというか、魂、乗っ取られているんでしょうかね?と、
、あまりの不自然さ首をかしげます。「大丈夫? この人」的に、 感じてしまうというか、、
それで、哲学 話すと、 やはり、その人は大丈夫じゃないんですよ。
明らかに、普遍性が見えない、途上を歩いているのが見えるんです。
どんどん、孤立していくというか、形而上世界でも 引き寄せが生じないというか、 誰からも、求められない、愛されない、、という存在の仕方をしてはいけないのに、、、それで、「あぁぁ、、心の病かな?」という 事も 推測出来る、一貫性の 見えない 言説を返答してくる。
哲学は、 まず自我(自分)、、そして一貫性が 底辺にある事、心や魂 の 存在を 思惟といってもいいですけど、、そのような全体像があるのですよね。まず、それを察知する事の出来る事。右派だとか左派だとか、仏教徒だとか、 イスラム教徒だとか、ユダヤ教徒だから、とか、、そういう 事の 以前の段階で人間陶治と 人間的な 感情を育む事が出来る事、この二つの意識は大事に思えます。。
十の事に関しては、もう少し 煮詰めます。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年08月30日 22時51分57秒
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「Re:Re:心理学」
MSG950の続き、、
この コンコルド広場、
この場で、 歴代の 王、ルイ16世は、絶対君主から立憲君主へ
同じくマリーアントワネットと共にフランスの 象徴化へと、、、
、くすぶっていた、民衆の 怒りが爆発し、 フランス革命を 起させた、
王権が 制止され
彼らは、ギロチン台へ 処刑された 場所には、
CONCORDE コンコルド広場、 CONCORDEは、 調和と和合と呼ばれる 広場に なった。
CON(コン)=共に
CORDE=コード、 綱、紐、ロープ
共に、 つなぎあって、調和を 保つ、、という 意味の広場になったのです。
「あぁぁ、、 フランス人って 怖いわねェェ、、
ギロチン が行なわれた 広場が、今では、 観光客が、世界中 ワンサと、 ルクソーから運んできた、 オベリスクの 鉄塔など背にして写真とっているのを見ても、なんとも思わない?、
血なまぐさい、歴史の出来事は、思い起こされないようになっている」
などと、 ギロチンと聞くと、「きゃー怖い」、、と いう過剰投影する事だけは、外国にきてもしっかり忘れない。
でも、ちゃんと、 広場に行けば、マリーアントワネットの 処刑された場所と良く見れば書かれているでしょうに、と思って、外側から黙って見てるわたしがいる。どうも、 目的が 彼らは、モネの 蓮を見る事が、今回の 旅行 目的だった、、と、 走りまわる、、、、
そうそう、 金の天使などと、いうお名前の 美術館に、 モネを 蓮の 絵を、 展示する。ひと頃、 モネの蓮の 絵を 見るために、 日本人観光客の 行列がすごかった。
そういえば、 この5月、大統領選挙ありサルコジー氏からロランド氏、左派に 移った。
フランソワ françoisという名前、何故か?左派は、フランソワという名前が 多いのかしら?あのミッテランさんから、 シラク<ジャック>氏、サルコジ<ニコラ>氏から 左派に移ったとおもったら、又 名前は フランソワさん。
その フランソワさんが、選んだ、大統領選挙に 選ばれた、初の大統領としての、ディスクー<演説>、場所に 選んだのは、この コンコルド広場だった。
大統領によって、初めての演説の場所は、自分の 意志で決める。 思惟を成す 帰属していると思われる、歴史的な 場所、 を選んで演説をするらしい。
それが、コンコルド<調和>という場所だったのだ。
この場所は、 聖マドレーヌ寺院<マグダラのマリア>の 真正面に 立って、マドレーヌ寺院を 背中にすると、 真っ直ぐ、一直線状に、コンコルドの オベリスクが、立っているのが見えるのです。
こういう事だったのかなぁぁ、、?
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年08月30日 19時15分12秒
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「Re:心理学」
哲学分野のWEBの 書き込みを読んだり、 書き込みしたり 6年ほど
してきましたけど、、
思うに、、
MSN の 議論と言えるか?わからないけど、、、
議論は、 相手を 負かす為だと思っている 人達が かなり多い。
日本語の、 議論で 相手を 負かすの 負かすは、 勝負の 負けという漢字を書く。
いったい、議論って、 勝ち負けする為の 行為なのですかねぇぇ?
と、 日本語の、 議論に 勝つ、、とか 議論に負ける、、とか、
対話<対峙>者と、 相手をしようと、鼻息を 荒らして、しかも、 対話者の、 書き込む 文を、 コピペして 断りなく、作成者の 文面の 断面を 切って、そのつど、 後追い、返答を するという 世界では、変わった 議論の 場に 熱中していて、、それで、 哲学を語っている、、と 思い込んでいる人達が すごく 多かった。
哲学を語るのだから、 哲学を書くのではないのでしょう。
語るは、 語るであり、人の 生きた 言葉と、対話するのが、本来の 姿であると思う。
議論に 勝つとか負ける、、という 表現は ないでしょう、、
どこからそういう 言葉が出来るのかしら?と思う。
議論は、 相手の 意見に 納得出来る。自分の意見又は 共感出来る、同じ 価値観が 存在します。という 同感、一致を 認める、、という 行為は、、相手の 意見に納得します。共感します、同感します、 一致します、、という 事は、議論の相手に 負ける、、という 意味ではないでしょう、、
又、反対に、 自分の 意見や 意図、自分自身のもつ信仰や 概念に至るまで、
相手に、 これこれこうだから、私は、このような意見を持っています。又はこれこれ、このように考えるのですが、 それが、貴方とは 対立 意見に 結果 なります。しかし、 わたしが、 この 考えを 推し進めるのは、 コレコレ、こういう 理由からなんです。、、という
議論するにも、 このような 途上の コミュニケーションが 不可欠であろうと思う。
何故?
そのような 途上の コミュニケーションを 成さず、相手<対峙者>を理解するという 努力も せず、 いきなり、 議論に 勝つ、、とか、負ける、、という 表現に 至るのか? 、まったく持って わからない。
わたしは、日本語を 話すけど、自分自身で、話す 日本語の 意味に、納得出来る、共感がなければ、決して、言葉には しない。
それくらいの、 努力は、最低でもするべきだと、 思っているので、 日本人で、日本語にあるから、安易に、 表現しても、放っても、回りが 使っているから、放っても いい、、などという 考えには、とうてい 及ばないです。
自分に納得できない、自分自身の 価値観が 共感できない言葉は、放たない、、、 日本語にあるから、 日本語を話す、、という大衆に 委ねているのではなく、 言葉を 発する 者の 一人として、 責任を 持つ、、と言う事でしかないと思う。
それは、 思惟 とか 自我とか、 心 とか 魂とか、そのような ものが、納得させなければ、 放たないであろう、、という 事、、当然に思えるのですよね。
人が話しているから、、とか
回りが 話しているから、
回りの皆が やっているから、、
流行っているから、、とか、
どうでも、いいと思う事、価値観をおけないものもありますし、話題性としては、 知りますが、だからと言って 自分が おのずから、そのような 大衆がたなびくムーブメントに 共感し、頭を縦に無意識に 同感する事はないでしょう。
心理学的に思うに、他者が理解出来ないのでしょうと思う。他者との 心の コミュニケーションができていないというか、 いつも、いつも、議論に 勝つ、とか負ける、、コミュは、 テリトワールと 思い込んでいて、 自分の 主張が 通らなければ、その コミュから 遠ざかる<負ける>
と 考えているらしいし、 コミュに 居残る人達は、 何故か?同一意見、同一価値観、 同質 感情で、 集まり。団体に なりたがり、 外からの 意見が 違う 人達を、 遠くに 追いやる、 ディスタンスを、 取りたがる、、という、 結局、 コミュという テリトワール内の 議論なんだけど、 コミュの テリトワール、境界線、例えば、キリスト教なら キリスト教徒、仏教徒なら 仏教徒信者達が、集まって語る、テリトワールなのだから、 仏教語るのあたりまえでしょう???的な、存在の仕方に なっているし、 自分達は、 その 隠蔽、閉塞性を、 造り上げている事さえも 自覚できないのだと思う。
実際、わたしが、 哲学に 興味が あると、回りの 人達が 知っていて、
ある、仏教コミュニティーの コミュに 書き込みすると、
最後には、「 何故? 沙羅さんが、 ここに 書き込むのでしょうね?」という 言葉が、 公開されている コミュ上に、 返答として 書かれるのである。
これを 読まれた方達は、多分、そういう 心の狭い 人は何処でも いる、、という 情動論で 自分を納得させ、他者をも 納得してもらう、、という行為に 出るらしいけど、 その方は、 何処かの 僧職であり、阿闍梨
と呼ばれる世間では 一応ですが、 それなりの なんらかの判断をするであろう、、そのような密教僧の一人でいらっしゃった。
つまりね、 肩書きや名誉とか 知識とか、 教育者とか 宗教者には、 人びとは、信じられない、、この世の現実を見せられて、、嫌気がさしているんでしょう。
もちろん、全部という全部とは もちろん 述べませんが、結局、そのような 世間で通じるような 権力的、存在<実存>の力、横暴性を、心では 嫌っているのに、 反対に ないモノねだりで、求めなくては いられない、、という 感じに思えます。
違う者、異端者として、 押しのけて、言葉の 横暴性を 利用して、相手の主張を 認めないように、排他しても、または、排他していないと 自分では そう思っていなくても、その人をおのずと、 居辛くさせるような 雰囲気を つくり、影で、少数者を無言で 苛めているような、状況つくりをする為に、 その時になると、いきなり、 同行者の意見を 大いに、褒めたりするという 不自然な 行為に出る事。または、いままで、 ROMしていた 人が、 加勢したくて、自己紹介もなく、いきなり、気に入った 対象<対峙>者に、 紋切り型の表現で、 現れるという ほとんど、同調しようが、批判しようが、 あの コミュに現れる、荒らし行為の 存在の 仕方と 同質傾向なんですよね。
このような、 ネット世界の 書き込み行為に、どれほど、 真実に ちかいもの、、空に存在するであろう、、価値ある 体験できるのでしょうかね?
日本人達の好きな モネの 絵
このモネの 蓮の 絵は、 コンコルド<ルイ16世や マリーアントワネットの ギロチンの 刑が 執行された 場所なんですよね)広場の 横、
オランジュリー美術館に モネの 蓮の 絵あります。
オランジュリーは、 OR+ ANGEL と書きますから、
金<OR>の 天使<ANGEL> 美術館です。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年08月29日 23時08分47秒
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「Re:Re:心理学」
哲学が語られる時、、
この 虚無主義、、という「 人間はどうせ、死ぬのよ」的、、
雰囲気が、 場を 支配しだすとどうなるか?
つまり、生きてる時に 楽しまなきゃソンソン(損、損>
ですかね?
独身貴族なんて言葉、昔はやりましたけど、
少子化現象も それに近いのですか?
反対に、どうせ 死ぬのだから、好きな時に 死なせてよ!(自殺)
ですかね?
しかし、どちらにしても、 この世に居る時だけの 感覚のみ、、の判断なんでしょうと思います。
死後は、 ナイ!、、
死んだら、終わり、、
魂?
そんな ものは、 ないですよ!
この世に 産まれ、 死んだら、そこで 終わり、、何も 残らない!
という 霊魂説を 認めなければ、確かに、 自殺ももっと 善悪の 価値観など考えず簡単に 納得出来るようになるのではないか?と思う。
しかし、、 そんな簡単な事ではないのですよね。
昔、 先進諸国が、 中絶手術が合法でない 時代、 日本に 外国から、 堕胎手術を 行いに 来る人達が、後を絶えなかった。
どうして? 日本は、 合法化なんですか?
という質問をしても、 なんだか、いつも 歯切れの 悪い 答えしか 返って来ない。
先進諸国は どうなのか? 一概には 言えないけど、、
「 だって、 どの医者が、 そのような 手術を するのですか?」
という 応えが返って来た。
ハっと 思ったのは、
別に、 キリスト教徒が、 認めている、認めていないから、、という 問題ではなく、、
医者個人の、 倫理観 に かかっているのだ。
産科医が 皆、キリスト教徒とは 考えにくいし、 産科医だから、どの医者も 頼まれれば、行為に至る、、という 事ではなく、
やはり、 個々人の、 人間の、 命 に 対する 考え方、、つまり、 ヒューマニズムに 帰着してしまうのだと思う。
「 だって、どの産科医が そのような 手術を 合意するんですか?」という返答が 、フランス人から 上がった時に、
「あぁぁ、、 なるほど、、」 と 思った事があった。
たまたま、 そのような 善悪の価値観、 罪悪感を、 持つような 共同執刀者の 立場には、 立ちませんよ!、、という 個々人の 思惟が、 どこに 根ざしているのか、 話していると 見えてくる。
罪悪感って、、いったい どのような 意識なんでしょう。
あるいは、 罪悪感は 何もない、、という 心は どのような 事なんでしょう。
例えば、死に目に あえなかった、、と言って、がっくりする人がいる。
日頃 会おうと、思えば、会える 距離なのに、 イザ、危ないと知らされて遇いにいったら、遅かった、、
そして、 死に目に 遇えなかった、、と失望する 意識は いったい どうしてなのか?と 考える。
どこから こういう 気持ちが わくのか?
日頃の 関係の 薄さに 自責の 念をもってしまったのか?
もう少し、 生きてる時に その人との 人間関係をより良い 改善できたのではないか?と、後悔している自分がいるから、
死に目に 遇えなかった、、 と 失望するのだろうか?
人間の 心というのは、そんなに 簡単に 推し量れるものではないし、 どうして、 そのように 思わせられるか? 原因や 因果を しろうとすれば、 どうしても、 未知である過去の 人間との 関係や、知己関係が、浮き上がってくると思う。
でも、その 域は、 スピリチュエル、精神世界であり、 今この 3次元の 世界の価値観からすると、マイナーな 価値観なのですよね。
しかし、思うに、もうこの頭打ちの世界観では 無理だと思いますね。
精神世界、形而上世界の 事を、 信じないように すれば するほど、死者達は、 マニフェスタシヨンすると感じます。蓋をして見ないようにするという死者達の 接し方は、失礼なんですよね。
それは 怖いから、分からないから、近づきたくない、それでもって、怪我したり不幸にあうと、何とかの 祟りだと 騒ぐ、、
もう、この 1500年代の 次元に 居心地良さを見つけて、居座るの 辞めませんか?
もう少し、 精神の 次元を 上げませんか?
昨今
恐怖感 不安感に 縛られて、益々、自己保存しなけらば ならなくなる。当然 生きにくくなる。心が、病まない訳がないと思います。
懐疑意識は、 自分探しなんでしょう、、と思うのですね。自分が この世に 生まれてきた意味、、
それは、やはり、 過去、現在、未来の 途上の 一端の 現れなんでしょう、、
そのような、 ツナガリが 観えたり、無意識に体現している事に 気がつくのですよね。変な 話し、 死に 逝く 意味も あるのでしょう、、と思うのです、つまり、死後、どこかで、必要な存在として、呼ばれて行ってしまった、、というか、、
つまり、 あの世の 逝き方<生き方>に カルマの なんらかの 精算があるのでしょうかね?
あの世に逝くと、又誰かの 守護霊さんになって その人を導いているという事、、そのような 神霊に 移行しなければ いけなくなって、本人の 意図に関係なく、、生死を繰り返している?
転生自体に 価値観を持つと、どうも、 閉塞感が漂いますから、そうではなく、先の 世にいく、ステージアップする為に、舞い戻ってきた、、、
という考え方、、実は、なんとなく、納得出来るんですよね。
「 だって、沙羅さん? 考えて観て?
あの世で、あぁぁ、、マツタケご飯たべたいなぁぁ、、と思ったら、マツタケご飯すぐ出てくる、、
あぁぁ、あの人に 会いたいなあ、と思ったら、直ぐ遇える、、あぁぁ、自由に あちこち、世界飛びたいなァァ、、と思ったら、直ぐ 飛べる、、
これを、年がら年中、、それが、普通なんですよ、、だから、そのうち
あぁぁ、、マツタケご飯食べたい、、と思う 欲望さえも ないんですよ。
そういう 状態に 永久にならされて、 飽きません? 」と 超能力者達は言う。
「飽きます」 と一言、(笑)、、しかし、こういう考えは、未来感があって、楽しい。先の事、楽しい事が好きだからしょうがない。楽観主義だとか、オプティミストとか言われようが、かまわない自分が確かに存在する。
そして知らない事を、不思議に思い、懐疑する、、
ア!と びっくりする、偶然、、
楽しいから、頭を使いたくなるのである、楽しい事、考えないと、アンポンタンになりますよ、本当に、、
出来ない事、享受出来ない 色々あるでしょう?人間って生きてれば、、立場に立つ事、、ソレでいながら、幸福感を 求めようとする 魂の 希求運動のある事、、
結局、 過去ではなく、未来に 向かざるをえない、なんらかの 魂とか 心の存在が 存在しているのだと思う。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年08月29日 06時56分51秒
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「Re:心理学」
人びとの会話を聞いていると、実に 色々観えて面白い。
フランス人の話す、 アイロニー、皮肉は、本当に、舌を巻く、、
アイロニーといっても、 えげつない アイロニー、、「 此処まで言うか?」 的ではなく、
聴衆の 笑いを誘う、そこには、 悲哀さも感じられる。
「 どうしようもないんだね! 一生懸命やってるのは、わかるけど、、
ちょっと、その 現れかた、、 変じゃない?、」、と、無言の 対話を しながら、 表向きでは、
「 すごいですねええぇぇ、、 」、、と、 褒めているのである。
その気持ちが分かるから、第三者はその場に居て、又褒めるしかない、、という苦しい立場に立たされた人の心情を共感できて、噴出して笑ってしまう。
これが、空での、コミュニケーションだと思う。
テレパシーでもいいと思う。
最近は、 世界の惨事を見せられ、終わりをしらない、 中東の 国々に 拡がるクーデター津波、、
先進国の 経済破綻、不況、、
希望なき、 ペシミズムの 省察に はまり込んで、UP..UP...
してしまう。
ナンだろうね?
私達のしてきた 数々の言論を介し、言及してきた事、逸れによって得た諸現象、、、すべては、無意味だったように、 指し示す、、
この 空気の 質って何処から、来るの?
まるで、虚無こそ、真理ないし、実在的な意味を、渇望せずには、居られない、、存在への 意味を、探求視ながら、結局これが 最終的結論ですか?
とでも、言うかのごときじゃない?
と、 人びとは、 話す。
わたしも、色々聞きながら、首を縦に振る。
でも、どうも、思うに、この ニヒリズムというのは、 大衆の意向を簡単に、集めるのだと思う。
しかも 人を支配しやすい点は、教条的でもあると思う。
ニヒリズムは、 「そんなの やっても、無駄なのよ、、どうせ、、コレコレ こうなるのよ)的 な表れで、 他者の 能動意識の 足を 折るのである。
しかし、このような、虚無主義に、 対抗できるのは、懐疑意識しかないと思う。
徹底して、 POUR QUOI 何故? 何の為に? プルクワを、半永久的に、 問うのである。
ニヒリズムが 真に 教条的に 世間や大衆の、同意を 得ようと、いつもいつも、結果の 無意味性ばかりに、 価値をみるなら、
生まれた 赤ちゃんは、 死期に 近づく為に、毎日 大きく、ミルクを飲み 成長してる、、なんていう 表現を、受け入れ、鈍感にも ニヒリズムの 肩を持っている自分になりかねないと思う。日本WEBの 2ちゃんネル、、という存在が、 その ニヒリズムの 存在なのだと思う。
わたしは、見ないけど、知り合いの中には、、 「2ちゃんネル、、あのような存在の仕方が、市民権を持つのは、分からなくもない」と言っている。
しかし、どちらにしても、 哲学は、個々人の 思惟 を 問われているのだから、週刊誌の 内容とは違うと思う。
民族的団体行為、、例えば、ナチズムに 傾くものもあれば
小さいグループ、、例えば、オームのような社会的に 許されない行為であるのに、 盲目的、世界観を作り出す、団体 信仰協会に 発達<許す>させてしまう 土壌、、、
いったい、我々、人間は、 何に 帰属したがっているんでしょうね?
過去なのか?、 未来なのか?
「 狂気は個人にあっては 希有なことである。
しかし集団、党派、民族時代にあっては、通例である」、
ニーチェ 、善悪の彼岸
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年08月26日 23時27分38秒
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「Re:Re:心理学」
小学生の頃、わたしは、東京の杉並にある公立の学校に通っていた。
当事、勉強机が、2つ くっついた 二人掛の 勉強机だった、
隣に座る男の子は、多分 背の順だから、だいたい、同じ身長の男女が、一緒に 座る、、という感じだった。
ある年、隣のK君は、 わたしと、彼の 机の真ん中の 線を引き直し、まるで、 その線から はみ出しては いけない、、というような
行為を するのであった。
わたしの方は、その線は見えないので、消しゴムがはみ出そうが、鉛筆がころがろうが、お構いなく、自由に させてもらっている子で、そのように 小さい頃から育ってきた。
しかし、他者のそのような 過敏な反応は、当然、こちらに、よい 気持ちを与えない。
中心線から はみ出すと、わたしが 気がつくより早く、彼の方からさっさと、かたずけて欲しい、、というような 態度であった。
K君の 態度は、私だけでなく、他の 隣に座った どの子でも同じだったらしい。
私はと言えば、小さい時から 絵を描くとき、画用紙からはみ出して 絵を描く子供だった。画用紙の境界線は見えるのだけど、邪魔なので、 その外まで、線が延びる、つまり机に直接 絵の続きを描くという 子なので、机の中心線などは、ほとんど 気にならない、、という 性格だったようなのです。
この違いは何処から?くるのかしら?
そういえば、うちは 中学のグランドの 横にあるので、体育の授業がよくみえるのだけど、 体育は、男女一緒の 授業である。高校も一緒。
娘達の話しで、それは知っていたけど、 それじゃ、体育の 成績が つけられない?
そんな事はないでしょう。男女一緒の世界というのは、男女一緒の 物差しで図るという事ではなく、男女の 違いを 尊重しながら、お互いの 能力UPを図るために、男女の存在があるのでしょう。
異性は、違性なのでしょう。、特別扱いするのではなく、お互いがお互い自身を 見つめるために、自分を理解するための 存在であるのでしょう、、と思う。これから、一人っ子が多くなりなり、ますます、子供は 自分と違う 他者達との 接触が減ってゆく時代になった。どうするんでしょう?
他者を介してでしか、自分自身がどのような人間なのか?分からないのですよね。
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年08月26日 17時25分13秒
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「Re:心理学」
信の意識
日本語環境の WEBで閲覧出来るブログや コミュや 書き込まれるのを、色々 読んでいて、、
その発した 本人<他者>に 意識を 帰属させるのではなく、その他者と他者が、日本語で 話している、、
「彼らは、 意味が通じているんだ」、、という手応え、、、第三者<私>の 感じる手応え です。
この時、 日本語の 使い方がなんだか、 アルファベット圏語の 使い方と 違う、、
、、そのような感想を持つ、、言葉がかなりある。
例えば、この前も 気になった、
ある 哲学を 語っている ブログだったか? コミュだったか?
それはどうでも よいのだけど、、
「 信じる 義務など ないでしょう」、、
という言葉が 放たれて、 対話者は、その 言葉に 違和感を持つ事なく、
対話が 続行されていた。
「 義務?」
「信じる 事を、 義務 と思う人が いるのかぁぁぁ???????????
」
という考え深い、 信と 義務を、 平立に並べる このような 日本語の 使い方が、底辺にある、、という事であると思う。
何故なら?
例えばです。
「 信じる権利などないでしょう」
という 言葉を 聞くと、「 アレ?」と思いませんか?
これと同じなんですね。
信 の意識を、 後ろ向き、、何かに 帰属しないと、 ならない、、
そのような、民族特有の 意識<判断>が、 底辺にあるから、他国語話す人達からすると
違和感感じたり、全然感じない、普通に 感じ判断している 自分(自我)、、という事を、 他者を介して、 分かってくると思うのですね。
少し話しはとびますが、 スピリチュエルの世界の 存在の仕方で、マズイと思うのは、過去への 帰り 意識、帰属意識というか、、、過剰に呼応させる事だと思う。
過去世という存在です。
例えばですが、わたしの場合も、 2500年昔、インドのすごく位の高い家の子供として 生まれている、、、
と言われるのですね。
それが真実か?、真実でないか?は、どうでもよいのですよ。そういう事は、 転生説を、まず、信じないと、意味ないのですから、、、
その後、 自分は 恵まれた 生活、何不自由なく 暮らしているのに、回りの 人達の 待遇の 差別は 何処からくるのか?
という 疑問をもった、、、と、言われるのですね。
つまり、 人間は 平等 ではないのか?
という 平等意識を、 父親に 聞いた、、と、超能力者は、一番最初の 出会いで言うのですよ。
父親は、「それは、ゴータマ、シッタールダしか お答え出来ないから、 ゴータマシッタールダに、 逢いに 行ったんです、だから、 平等 に煩敏感な 貴女が 今 存在するんですよ!」
と、 遇った事もない、 哲学に 興味がある事など、 哲学コミュに 可書き込んでいる事など、知らないはずの、 超能力者が、 スパっと
語るんです。
これね?
一つ、、「昔? インド人の 魂? お釈迦様に 遇いに行った?」
この 霊能者、、頭少し おかしい、、、
と、、思うのですよね。
何の 接点も ないと、思っている 自分がいるのですね。、、、
ただ、 誰と会った、、とか 誰であった、、という 肉体に 帰属する、事は、 抜きにして、
わたしの 平等感、、 わたしの 持つ 平等意識を、 知らない人から このような 形で、 提示させられると、 驚くの ですよね。
つまり、心の 状態だからであり、それは、未来に持ち続けていくであろう、心だからなんですね。
万が一、過去からの転生に真実性を 置くならば、何人もの、超能力者に会って、同じ事を言われるか?確かめれば いいのですから、、、
そのような事には 感心はないんです。
何故なら、、過去ではなく、 未来に存在しなければならない 足がかりなんですから、肉体や国籍や アイダンテティーは、 心の 下の 次元の問題でしょう。
あまりそういう事に、 自分が問答する事に 時間を費やすのは いけないと思う。 外界の 知らない人が、いきなり 出会って、 何か 類似の事を 言われるのを、 避けられない事はあっても、自分自身は、 価値を観る能動的な 行動には でないんです。
まぁぁ、、そうは、いっても、宇宙は広いですから、、宇宙と一体になるという事は、 日本語はなそうが、フランス語話す地域に いようが、 ポトポト語 話す 地域に くらそうが、 どうでもいいのですよ。心の 状態だけしか、 宇宙と繫がりはないはずですから、、
そういう 事を 、、「信じる 義務?」というおかしな日本語使いは、世界の 人達の 共感を 得る事が出来る 意識なのですか?
と 他者に 問いている自分が いるんです。どちらにしても、2500年以上も 昔から今まで 一度も この世に現れないという事は、スピリチュエル界の人の話しを 聞くと、全くない、、という言い方はしませんが、普通は、300〜400年くらい前の ご先祖様の 魂は、7割くらいで現れているはずだそうです。つまり、ご先祖だと、まあぁぁ、、 1700年に 右衛門さんという人の名前が墓石に ありますし、母方の 祖母の家にある 神棚にある 霊ジは、 延元元号書かれてありますし、
実際の話し、日本人の 肉体が何百年も 続いて今この世に 生まれてきているのは、 確かなようだ、、と思っていたりする。
しかし、平等とか 自由 という意識を、知らない人に、 言われると、やはりドキっとする、 今までの 小さい頃の 行動が、何処から?きているのか?と考えると、、、まったく 無視できない 体験や経験が 確かにあるのです。哲学も ただ、自分が好きで勉強するのか?というと、そうではなかった。フランスで 知り合う、智ちゃんも、 フランス語勉強にくるから、仏文卒業しているのか?と思っていたら、 哲学科卒業だった。若い日本人学生30人くらい個人的にご縁を頂いてフランスで遇いましたけど、たった一人哲学専攻だった。
話し彼女との関係について触れますが、
わたしは、知り合ってから5年後彼女の結婚の証人になっていて、しかも 7月18日パリの不思議のメダイユ聖母出現の日が 結婚式だったという)展開になっている。
彼女のお母様は、結婚される 3週間前の他界だったのだ。考えると本当に大変な年だった。
話しは、この 7月18日出現の 聖母マリアになりますが、
なにも彼らは キリスト教徒ではないのですよね。ミサに行った事もない。
だから、教会の式ではなく、市町村の役所での 結婚式となる。
だから、村長さんや市長さんが、式を 取り持つのだから市長さんに 結婚出来る日を伺う。しかも、土曜日にしか、結婚式は フランスではしないんですね。何故なら、日曜日は、お休みですし、 土曜日にしか結婚式は、どこも 行いません。教会もそうでしょう。何故なら、日曜日は、ミサがありますし、、、何故か?2009年の 7月18日は、 土曜日だったのだ。
ちなみに、一緒に ブルターニュに行って、ホテルに 般若心経をインドから 20年後に運ぶ玄奘三蔵の 掛け軸があった事、同行者I子の 誕生日は、 ルルドの 聖母 出現に中る。
2月11日です、。 この2月11日は、日本の建国記念日なんですよ。ですから、とても無関係に思えないんです。
あのね、出現って公認、未公認ありますが、ヴァチカンの歴史の中で、 聖母出現 世界中ありますが、2千年の歴史の中で、フランスは、4、5回ですし、日本は秋田の 聖母マリアの 涙、、最近公認されたんですね。
このような 流れになっているんですね。
どうも、神霊の存在性というのは、 フイの 思いつかない仕方で、 存在性を示すらしい。つまり、こちら側の 意識して行う 行動などに ウルウルしているのではないようなんですね。
当然といえば当然ですが、、
人知を超える域に存在しているのですから、聖人にしても、高級神霊にしても、そのような神霊の立場にたって考える事さえも おこがましい、、というか、 なんらかの高僧や預言者にとって、書かれた内容を分析しても、それで停まっているのでしょう。そのような記号を分析したり自分なりに解釈したつもりでいても、それが、 普遍性をもつとも限らない。
それでいいのでしょうと思う。 結局、 私達の 個々人の 心と心の 信頼に あると思います。
信じるという 断定事では、なく、信頼 でしょう。
信頼は、 フランス語では、 コンフィアンス。
コンは、 コミューンとか 共同、、共に 言う意味の 接頭語には、 COMとか CON がつく、、という事はのべましたね、
コンフィアンスの、 フィアンス は、 日本語でも フィアンセというカタカナ音素使うでしょう。
婚約、 僕の フィアンセです、、という 意味の フィアンセ、
つまり、信頼、 コンフィアンス、、
聖母マリアでも、神でも、 大日如来でも、アラーでも、観音菩薩でも、
人それぞれだと
思いますけど、、、断定的に「、 信じる 義務はない 」と云われるような信の意識の 解釈ではなく、
共に婚約、コンフィアンス、、、という途上の意識でしょう、、信頼しましょう、、という 未来に向う 途上の現われ方を 述べているのでしょう?
ですから、哲学だと、 シニフィアン<通時態>で、表現しながら、コミュニケートを 取るのでしょう、、と思います。
広島の 平和記念公園に ある、 平和の 天使
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from: 沙羅(Sarah)さん
2012年10月13日 06時22分40秒
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「Re:心理学」
最近つくづく思うのです
日常生活をしていて、色々な事が生じ、、、内容は、たいした事じゃないこと
から、ちょっとややっいこしい問題を起こす引き金になりそうな、、その兆候として現れる事柄、、、
また自分を含め、健康の問題であるとか、、、
色々考えますよね?
その時、「自分は決して、この世に一人ではない!」という確かな手ごたえ、、、
これは、自分の心と外部の何者かの 心とか魂とのコミュニケーションが絶えず行われている、、、という事なんですよね。
コミュニケートというのは、精神世界では、ある方は、自分の守護霊さんと実際話しができるような 霊感者もいれば、なんらかの ひらめきや霊感によって、気がつかされる、、、
物事の 理 、、、物事がなぜ そのように 生じているか?という意味、、、を かいつまんで、、ところどころ、、見せてくれる、、、という、、感じだと思う。
懐疑意識というのは、その誰それ人間の本性を疑う、、という意識ではないですが、
なぜか?
受動的に物事をすべて 感知しがちの 人は、懐疑という言葉に すごく 不愉快に思うらしい。
たとえば、その人が、物を盗む人間である事と、罪人であるという事は、本質の意味においては違う、、、でしょう?
物を盗むは行為が終わってしまっている地点での時間軸であり、その人が、罪人であるという判断は、その行為自体への何らかの世間の目の判断がされている事と、、その人間のそのもの心そのものや魂の本質が罪人である、、、という断定判断を、最初から下す事とは違うでしょう?
そのような人間本来への深い思惑や熟考がなされず、メディアが流す情報のみに、心を安易に呼応させてしまう事は、自分自身にとっても自分という心や人間性を貶めているとおもうのですよね。
日本語で話すと、どうもここら辺の倫理観がまぜこぜになっているのは、物を盗む<取る>という表意文字に、すでになんらかの 倫理判断が、動いているのかも知れないと思っています。
最近は、宗教者や霊能者は、ヒーラーさん達に会う機会も多いのだけど、、とりあえずどの次元で、コミュニケートされても ありでしょう、、、
しかし、なるたけ、高次元の層に 心や魂が位置しているもの達との コミュニケートされないと、、、どんどん
人間の本性を貶められていくような 途上で予言や予知や助言などなど、、、
少し、熟考を必要とされていると思う。
特に、やさしい、、、という意識に飢えてしまっている人達の層が大半化してくる、、と、
、
癒しブームにのっとり、すさんだ心を 癒してくれる為に、あちこち歩き回る。
自分を認めてくれる人、自分の価値を認めてくれる人、自分の存在を大事に思ってくれる人、、、、
何故?そのような個々人との関係を求めないといられないでしょうか?
探す?という事は、自分に欠けているからでしょう?
自分に欠けていなかったら、欠乏感はないのですから、、
自分から探しに、他者に コンタクトをとったり、無言であっても、気にする存在を求める事はないでしょうし、絶えず未知の外部世界から 自分に働きかけられる、、、という存在で存在しようとしているのでしょう。
存在の仕方、存在しようとする、、、という事は、魂や心が向いている方向が、受動態と能動態では、大変な違いがあると思う。
能動態というのは、予知出来る、、何か変、、という前兆を感じ取る事が出来る事であり、受動態は、その前兆の空気の不均衡や、物事が生じている原因にはあらゆる類似の原因が引き金になっているのが感じ取りにくくなっているようなんですね。
マスコミやメディア情報の流す次元が低くなればなるほど、人間もそれに追随するでしょう、、、と思う、
話ちがいますが
日本に居ると、一番困るのが、食べたい欲望が縮小してしまう事、、
それは、食べたい美味しいものが ないという意味ではなく、
あまりにも、視覚に入る、あるいは耳に入る情報が、食べ物に偏り情報過多によって、、、これでもか?これでもか?という情報提供氾濫世界の中で生かされるのに慣れてしまうと、受動態の姿勢が楽なのかもしれない、、、
ご先祖や 前世は、餓鬼に苦しまされていたんではないだろうか?と思わされるほど、、
飽食世界に慣らされると、感性は自然と退化してしまうのでは?
たとえば、同じ物を得るのに、なるたけ安く購入するのは当たり前、、という意識に支配されると、その欲しい物へ、自分の意識が向かう途上の時間や空間に生じる事をむやみに、排他したり、無駄な事と思って、自分の人生に生じなければならなかった小さな出会いや小さな発見さえも、その小さな経験が人間の心の豊かさに向かっている、、、因果関係さえも、削除しているのではないか?と思える人がすごく多い、、、
無駄を省き、まるで無機質な人間になる事に一生懸命なっているようにも見える。<これは理性的な人間と判断されやすい、、しかし、心が硬く閉ざされてどのような些細な事にも反応出来ないでいるのと、理性的という善意識でさえもあるように判断するのは間違いだと思う>
そんなに簡単に、他者や外部のシステムに支配されないと生きていけない、という世界、、言い方を変えれば、従順な人間が好まれるような世界観を作ろうとしているらしいけど、、、従順になる事と自我がない、、、という事は別の問題だと思う。
少し、心理的に分析すると、我慢意識を持ちながら 支配下に 身をおくと、何らかの代償や見返りを 求めて 支配下に おのずと組み込むのですから、代償や見返りが 報われないと、当然 愚痴や文句がでるのですよね。
それは、外に出さないと 溜め込んでいたら心を病むでしょう?
同じ状態に 身を置くにしても、自発意識、自由意識の上での、選択によって身を置くのとは、もともと違うと思うのですね。
最初からなんらかの 見返りや代償を求めたり期待したりする、、、、、
という 意識は、自由だから、、という能動意識ではなく、それしか選択出来ない、、という受動意識の選択に至ってしまうのですよね?
ですから、受動意識というのは、いつも、対象に物や 人 という 個々人と関係を結び付けやすい<執着>
人は、当然期待されれば 一生懸命しますけど、、、しかし〜、、、、、、
人生って、やはり身の丈、、ほどほど でしょう、、と思います。
他者達との依存関係だけに、人間社会がうまく機能し共存出来るとは思えません。ある程度の、他者達との スタンスを取らないと、魂や心や 民族事態も、自由に動き回れないと思うのですね。
インデパンダント は、 辞書では自立とか独立と載っているけど、、、
このアルファベット音素は、イン+デパンダント 依存しない、、、という意味でしょう。
お互いがお互いを頼らないと 共存できない 世界であるという事を踏まえた上で、依存しない、、という 言葉作りの途上<歴史。時間>があると思うのですね。
その途上や人間の歴史を簡単に省き、一人、一人、個人的に独立する事を他者から認めてもらう、あるいは認めさせる、、という存在の仕方も違うと思うし、また他者との境界線をはみ出して、昔は自分の物だった、、、、と、突然思い出したように、文句を 隣国に 述べてくる、、、という行為を 言いがかりを、 50年事に 隣国に 述べたくなる 民族性というのは、いつまでも隣国ではなく敵対国という 歴史上に時間軸にあと戻りしたがり 呼応させてしまう、、というなんらかの情動に支配されてしまう、、、
という事ではないか?と思う。
呼応したがるのがどうのこうの、、というのではなく、どの次元に 存在しようとするのか?というのを問われている、、、哲学が、前向きに 未来に 意識を向ける、、という事、、そのような意識の姿勢が 身についている事、、
人間の情動運動だけにどっぷり 浸ってしまうのはしょうがないけど、、それと同じく 時間の前、先、未来に 意識を向けるという意識も必要だと思う。
哲学意識を身につける、、という事は、結局そのような事だと思います。
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