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続 哲学〜真理〜探求について

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月28日 18時44分35秒

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    1800年代の異国への 定住意志




    お台場に 1998年運ばれた、パリのセーヌ河にある
    自由の女神

    去年、311の震災後、鹿島に実家がある友人のK子は、わたしに似ている超能力者の松原照子さんのブログを絶対見てほしい、、とメイルを送って来た。
    地震の予見や予知が、ホントの情報であるかどうか、、という判断するのは、大概、超能力を持たない凡人でして、、、こういう
    次元の書き込みや議論を読むと、なんと言うか、、ズレているという感じを持たされるのですね。その人<超能力者>がわかるのは、その人と同じ土俵に乗れる時だけである、、というわたしにとっては、当たり前の事に思うのですが、、、わからなければ、それで気にしなければいいと思うのですけど、大衆や一般や民衆というのは、複数ですからねぇぇ、、ニーチェも言いますが、バタバタ心が走る扇動したり扇動されたりする事を自分から求めているのだと思うのですね。
    有名になる人に、又意識を
    帰着<目的>させる。そして批判したり、時たま罵倒したり、バッシングする事に便乗したがるという
    次元の低い行動はなんとかならないのでしょうか?と思うのですね。
    ストーカーと同じ傾向の意識なんだと思うのですね。その人求めるか追うか?または、批判するか?どっちかの行動しかしないんですねぇぇ、、それだけ、他者の存在を求めているのでしょうけど、依存関係をおのずからつくる他者を、排他したい想念世界を繰り広げて、呼応する事ばかり自立して、しようとしない自分の弱さに気づきながら、実は、どうにもならない自分を嫌って排他しているのと同じなんですよね。その代変え者に怒りの矛先向けているんでしょう、、精神分析者が見れば、自他の密接な関係はこのように分析するはずなんです。

    時たま、仏教説法を聞いていると「苦悩は凡人だから仕方ない、、苦悩を滅すには、自分が無であらなけらばならない、、」、というような一般人に向ける、単純定理では、複雑な人間の存在や存在させてる理由や原因は、分かりません。何故?苦悩を生むのか?という何故?という疑問を向ける事なく、苦悩は人間だから仕方ない、、という次元に迎合して、笑う、、という情けなさに同意する事での共感を持つ事の関係に
    、、安堵感を生じる<{わたしも、あなたも同じなのね、、あぁぁ、、よかった}という次元ねぇぇ、、
    「そんなに、この次元にいる事が心地良いのですか?」
    「そんなに、安心します?」
    「そんなに、人が自分と同じだと、嬉しいですか?」
    こういう風に、自己に問いてみる、、自分自身に問う、、という事があって、当たり前に思うのですね。
    哲学は、人から教えてもらって、身につく事はまずないでしょうし、そのような哲学は偽りの知識に思えます。
    自分自身でしか、切り開くしかないと思うのですね。何故なら、人、それぞれ、違うのですから、この宇宙にひとり、ひとり、自立、独立
    させようとしている意味を、自他共感や宇宙一体感として観じとる、、という経験がなければ、いつも、肉体を持つ、3次元に生きる情動運動に呼応しながら、なるたけ、多くの人に迎合する事で、安心感を得なければ、ならなくなるという
    存在の仕方になるんでしょう?、、わたくしの言事、間違っていますか?

    日本だけでないけど、この世界、どうするんでしょう?と思ったりするんですね。
    以下、今日、28日の
    松原照子さんのブログ読んでいて、内容はほぼ、わたしの観じる宇宙観と同じ意味だと思う。性格はわたしと松原さんでは随分違う感じがするのですが、、友人がわたしに似ている、、という感覚をどこらへんに感じて、言ってきたのか?良くわからなかった。
    松原氏が、地震の予知の
    地名まで、挙げる<陸前高田>が危ないとされた2月16日のブログを見た時は、部分明記には、さすが思いましたが、、部分や、一部、に視点を向けるのは大変な疲労伴いそうだ、、と思って当時のブログを読んでいたのです。

    わたしの場合は、前日、、つまり3月10日の夜、寝床で読む本を、
    ふと、半年前に読み終わった 本「わたしの遺言」佐藤愛子の 本の
    4章だけ、、神界から来た人というタイトルの章だけ、、読んだ。
    何故?その4章なのか?わからない、、、
    前にも書きましたけど、この4章には、
    神戸、淡路島地震を一週間前に予言し、佐藤愛子に電話をかけてくる。
    「地震は必ずきます。場所は言えないけど、必ずきます、気をつけてください」という電話だけ、佐藤愛子にかけてくるのである。
    わたしは、このフレーズを読んで、3月10日の夜ベッドに寝た、日本とフランスは当然時差があるから、眠りについたのは、多分、日本時間の8時から9時の間に自分の心{魂}が
    日本に存在している事になる。こういう風に 説明すれば、超能力者の
    予知が、心や魂の存在にあるのが、分かるのではないだろうか?
    ただ、後から考えると、前年、2010年10月のダヴィッドと一緒に、生まれてはじめて訪ねた、広島、原爆資料館と平和の鐘の下で遇った、不思議な体験も全て、半年後の福島への汚染の示唆をしめしていたんだと思う。
    つまり、地震や津波という、インパクトの災害が起こる事で、なにが生じたか?何が?その後に起こったか?
    という視点に
    目を向ける事だと思うのですね。つまり、死者の死を無駄にしない、、、という気持ちが、その
    福島やその後の原発に対する意識を試されているのではないか?

    ただ、問題はそのような、状態において、人々は、自分の体験した心情事でしか、分からない、、体験{体感}していない事は、分からないのである。どのような感情や心情を起していても、同じ映画をみても、感じる人、感じない人、面白い場面が各人違うのと同じで、自分の心や魂が体験{体感}していなければ、ひもとけない。何故なら、、霊感、直感、あるいは霊視、霊聴にしても、ほとんど、意味論で通じようとしている、、という形而上世界とのテレパシーではないか?と思う。
    そしてその意味する事は、受信側の
    人生の上で生じた個人的体験がなければ、第三者達の体験や体感など全く関係の無い事で、個人への何らかの暗示的な体験<不思議なシンクロにしても>意味を通じ合っているのだと思う。
    そのような個々人との繫がりが独立、自立、インデパンダントであろうという予測がついてくるのである。そう考えると、第三者が、超能力者の能力や体験や予言が、本物であるとかないとかは、判断する関係事ではないのである。もし、3次元の世界での下種の勘ぐり意識で、何かを
    放てるとしたら、後は、その個人が、人々の間に普遍的な存在として浸透していくか?という未来へ向かう視点に立っての地点でしか、判断できないのである。

    以下、今日11月28日のブログの内容なのですが、、この
    笠戸丸、、何処の造船所で造られた船なのか?知りたかった。調べても、分からなかったけど、、、笠戸丸の話は何度か記憶にあるけど、、笠戸丸の記事を書かれたブログがありこの
    写真は
    確かに貴重で興味深いと思いました。何故なら、わたしが、生まれたのが山口の下松の笠戸島にある笠戸造船所の前にある社宅に両親は住んでいた頃、生まれたので、笠戸丸は、もしかしたら、笠戸造船所で造られ、神戸からブラジルに
    行ったのか?とフト、よぎったからなのですね。
    ================================================
    「地球家族」この言葉が当たり前になる時代が来る事を。
    <2012.11.28>
    日本に於いても名ばかりの管理職が増え、残業は自己責任の企業もあり、うつ病患者と診断される人や職がなくひきこもりになる20代・30代の人が増えるのも気になります。
    自殺者も年間何処かの町や市の人口がひとつ消える勢いです。
    1908年ブラジルに向けた移民船の第1号の「笠戸丸」が神戸港を出港する時、約780人の日本人はどの様な思いを胸に抱いていたのでしょう。
    あの日から百年が過ぎました。
    現在は約150万人もブラジルで日系人が住んでもいます。
    後500年もすると、世界中はどの様な人類分布になっているのでしょうネ。
    「地球家族」
    この言葉が当たり前になる時代が来る事を願わずにはおれません。
    地球は他の星と同じ球体の星です。
    どなたがお付けになられたのか地の球と付けられています。
    私達はこの地球の表面で生きる知恵を持つ生物です。
    いつだったかなぁ~
    この世見を始めてから書かせて頂いた気がするのですが、
    海の死が近付いていると・・・
    現実に海の酸性濃度が上がっていると知りますと胸が痛みます。
    50年 イエ 後30年もすると珊瑚は全滅するかもしれません。それとプランクトンも減少して海の生態系は大きく変わる事でしょう。
    私達人間が犯した罪は今、この地球を崩壊させようとしているのは事実です。
    http://rakuan117.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
    ブラジル国、ニッポン村だより
    笠戸丸移民について考える

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    By Shigeo Nakamura
    15 May 2008
    100年前の今頃、移民781人の契約移民と自由渡航者たちを乗せた笠戸丸は洋上にあった。サントス港に到着する6月18日まで、神戸港を出てから60日の航海である。
    この笠戸丸移民の集合写真、というものがありそうでない。私が知っていたのは、ずっと鹿児島県出身者が神戸の神社で撮影したという一枚の写真だけ
    だった。だけだった、と過去形にできるのは、つい最近、別の一枚を見る機会があったからで、その一枚をここに掲げる。笠戸丸甲板上に勢揃いした移民たち
    の、おそらく出港前の記念撮影である。
    画像というのは不思議なもので、私のように想像力の羽ばたきの弱い人間でも、一見すればどこかが刺激されるらしく、いろんな思いがひっぱり出されて
    くる。どうやらこの写真、知っている人にはとっくに知られていたものらしいが、ブラジル日本移民史に興味を持ちながら、これまで笠戸丸移民についてはあま
    り明瞭なイメージを描けないまま来た私にとっては、ひとつの新しい、ちょっとした出会いだ。
    はっきり見えるのは前のほうに写っている数名にすぎないが、移民たちの顔、というより面構えと言いたくなるような彼らの表情をどう読み取ればよいのだろ
    う。不安でもなく、かといって決意といった清々しいものでもない、なんとなくふてぶてしさすら感じるのは、ブラジルでコーヒー農園に入った彼らの多くに、
    待遇に怒ってストライキを起こしたり、さっさと見切りをつけて都市や遠くアルゼンチンにまで行って働く主張と行動力があったこと、一方で農園に残った人び
    との、そんなトラブルにもかかわらず日本移民はダメだと烙印を押させなかった粘り強さを知っているからだろうか。いずれにしろ私の目には、この後大正、昭
    和、平成と生きて今日にいたった同じ日本人の表情には見えない。
    そもそも今のわれわれには、60日かけてようやく行きつく未知の土地などというものが残されていない。ほとんど情報のない土地へ自分と家族の生活を
    かけて出発するという選択もまずないだろう。ネットを通じて綿密な情報収集ができる旅行者は、メールを通じて知り合った現地在住者とまるで旧知であるかの
    ように「再会」し、その土地のネットワークに苦もなく溶け込んでいくのが珍しくもないご時勢だ。
    甲板上で撮られたこの写真が出港時のものだとすれば、われわれには想像もできない旅に向け、もう後戻りができなくなった時点ということだ。そんなときに人はいったいどんな表情をするのだろう。私には読み取れなくて当たり前かもしれない。
    それにしてもこの写真を見ていると、彼らをブラジルに向かわせたものが何だったのか、もう一度よく
    考えてみたいという気持ちにさせられる。
    人はなぜ移民となるのか。いちばん一般的で、説得力もある答えは、その時の経済状況からされる説明だろう。近代日本の景気状況と移民送出数を示すグラフを
    重ねると、相関関係は明らかだ。人は食うために、家族を食わせるために、生活を豊かにするために海を渡る。実に簡明な説明である。
    それだけだろうか、と、しかしもうひとつ胸に落ちない思いがいつもあった。
    移民という選択肢以外に生計を成り立たせる方法はほかにもありはしなかったか。あえて家郷を離れ、言葉すら通じない人の間に入り、金のなる木がある
    という噂(本当に信じたのか?)だけを頼りに保証のない生活に飛び込むほどの賭けに出なければならなかったと簡単に納得はできない。
    そんな考えを持って思い入れたっぷりに写真を眺めていると、笠戸丸に乗り込んだ移民たちが、やはり当時としても特別な「冒険心」(もっと適切な言葉
    がありそうだが思いつかない)を持った人びとのように見えてくる。それは今でも、個性的な移民一世たちと実際に接する中で時々感じるものでもある。ほんと
    うの冒険心というのは、だれにでもある資質ではなく、ある種の人にだけ宿るものだというのが私の考えだ。
    それは、合理的な思考を鈍らせ、まわりの人びとを巻き込んでありえない進路を選ばせ、おそらくは「失敗」という結果に帰着することが多い。「失敗」
    といってももちろんひとつの価値観に基づいての評価にすぎないが。かれらはただ、見たこともないものを見たい、行ったことのない土地に行ってみたい、人が
    経験できない生活を経験したい、という思いに憑かれた人たちだったのではないか。この写真から私は不思議なエネルギーを感じるのだが、それはそんな精神を
    もった人間が一同に会しているところから発するものかと思う。
    世界は結局、そういった人びとがいて、得にならない、不合理な選択を時々しながら新しい道を切り拓いてきたからなんとかここまで存続してきたという
    こともいえる。個人としては損になることが多そうな冒険心を持つ人間がいつまでも淘汰されずにいるのは、その存在が長い目で見れば人類に利益もたらすからだという考え方もあるだろう。笠戸丸移民の係累は、そう考えると人類史上にたくさんいることになる。
    笠戸丸移民については、ウソの宣伝にだまされてブラジルに来た被害者という見方もある。その側面を認めない訳ではないが、それ一辺倒の見方はかれらに失礼だと思えてくる。
    さて、写真の彼らの視線の先にはカメラがある。その傍らにまさに立っていたかも知れない、彼らをブラジルに導いた張本人である水野龍がいったい何を考えてこのような企てをしたのか、これも再考に価するテーマだ。
    ©
    2008 Shigeo
    Nakamura
    http://www.discovernikkei.org/en/journal/2008/5/15/brazil-nippon-dayori/

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