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from: 沙羅(Sarah)さん
2013年01月05日 02時22分02秒
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自分を愛する事
こんにちは
真理について語る時、日本語を介して語るという事を 考えると、
平等について語る自分は一番苦労する。
特に、2人称単数についての日本語は、大変幅広い。人間関係を結ぶ時、わたし個人は、大変邪魔になる二人称単数扱いなのですよね。
一対一という 人間関係、、これを日本人が 大変過剰呼応してしまうというのは、この 二人称単数の単語の 多さによるのではないか?と思う。
ちゃんと、面と向かって 相手の目を見て、話す、、という4つに組む 関係を苦手とするのは、この 呼称の曖昧さも原因だと思う。
年長さんは、苗字で呼んで、年下さんは、あだ名や、可愛らしい 呼び方で呼ぶ方が、人間関係を曖昧にしやすいし、なにしろ、 真剣に 真正面から 向き合わなくても良い、、という 付き合い方が、善意識とされている嫌いがあると思う。
アルファベットの YOU は貴方、貴女、君、お前、アンタ、きさま~なんていう言葉もある。
フランス語は、VOUS <丁寧)貴方、、TU<親密関係>君、あんた、お前
しかない。
VOUS と TUしかないのです。
二人だけで喋る時、例えば、父親と息子という関係でも、息子は、父親の事を、「おとうさんが、話したんでしょ?」という会話ではなく、「 貴方が話したんでしょ?」という人間関係をつくるのがアルファベット言語の人間関係が出来上がる。
母親が、娘に 二人きりで、話す時も同じ。「貴女、どこ行ってきたの?」と母親が話すのが、普通で、「恵ちゃん、何処に行ってきたの?」とは、一つ、ワンクッショよんを置く会話であること。
例えば、社長と 平社員という関係も同じ、二人称単数は、貴方とわたし、わたしと貴方である事。
「社長」と 空間に二人しかいないのに、放つのは、二人しかいない、個人と個人の関係をあくまでも、縦列関係にお互いが 存在したいのだと思う。
個々の自立は、こういう言葉の 性格まで、着眼しないと、中々、難しいと思う。個の存在や自立を言われてから、かれこれ半世紀以上たつのに、いつまでも、依存するのが、普通だと思い、依存されるのは、頼られていると思い込むという、発展のない世襲制などの依存関係をむやみに 存続させてしまっているのだと思う。
ところで、違う見方を見てみよう。例えば、あまりお近づきになりたくない、Cさんという異性がいるとする。社会での立ち振る舞いをみていると、Aは、名前でCを呼んでいる。
Cは、Aを名前で呼んでいる。
Bは、苗字で Cを呼んでいる。Cも、 Bを苗字で呼んでいる。
Dも、Cを苗字で呼んでいる。ABCD皆、同じ位の 人達と考えたとき、
人間関係の近さが、呼び名によって、仄めかされるのだ。
Cは、Dを 個人的に気に入っている。
だから、Cは、Dの Cの呼び方が、他人行儀で嫌だと思っている。
これは、アルファベット世界の 二人だけの関係だと、 私と貴方になる、苗字や名前は、
其の場所にいない、人間も 使うであろうと思う。つまり、関係の近さが曖昧になってしまう。きっと、二人だけの向き合う関係というのは、苦手なんだと思う。
しかし、貴方とわたし、わたしと貴方、と呼び合う関係が、両親と子供達、先生と生徒、 雇用者と雇い人の間ですべて、機能するという事、、
平等関係を築くには、必要だと思っているのですね。
目の前の人間は一人<社長>という事は、一対一の関係が成立するのに、社長さん、、と呼び事で、その他一般の人々と主体は一緒、、という関係なんですよね。
という事は、別に、通行人A 通行人B というレッテルはりと同じだと思う。
その人でなければ、ならない、因果は見えないであろうと思う。
自分を自ら、見下してしまうのが、謙遜意識として判断されるなら、無意識に自分も他者を見下しているのだろうし、他者から見下される事も当然あると思う。そのような人間関係つくりを、DISCIPLINE
規律正しい、人間間の関係と思い違いしていたら大変な神域の冒涜なのではないだろうか?
日本語の「 私は、Z氏を馬鹿にする」
という文体は意味が分かるだろうと思うけど、馬鹿にする対象が Z氏、、という日本語の表現になっている、
フランス語で組み立てると、Je
me moque de
Mr Z
馬鹿にするという代動詞には、 再帰代名詞が<oneself>が入る
直訳は「、わたしは、わたしを馬鹿にする、Z氏を、、」という文構造になるのですよね。
だから、他者を馬鹿にしているような意識は、自分を自分で馬鹿にしている、つまり自分にとって、自分を傷つけているのが自覚出来ず、他者の中に、馬鹿に出来る対象を探しにいって 不満を放っているんだと思う。
ですから、自分を愛しなさい、、、と述べたくなるのですね。
自己被虐、自己ばかりを、責めたり、嫌ったり、自分が自分を愛せないのは、不幸だと思う。
結局、自分に報われないような不満を、他者が埋めてくれると思い、優しそうな人を探しても、無理でしょう。自分と他者は、孤立していないのですから、、、
時々、仕事や社会生活をしていると異性に
「僕の事、TU<君、あんた>と呼んでね?>
と言われる時は、大概、相手が自分と友達関係を深めたい時か?好意を自分によせている人達だ。
自分より年長であろうが、わたしより年下であろうが、TU
<君,~ちゃん、~君>と呼ぶ呼び方はリスクがあるから、最初から呼ばない方がいいと思う。大概相手が
私を、Tuと 呼ぶまで、わたしは、VOUSという丁寧語で通すのですよね。それでも、あまりにも長く続けていると、相手は、もう少し、近づいて、親密な関係を結びたい関係になるらしい。これが異性である場合、熟考しますね、どちらかというと同性に そのような 意識をもってもらう事の方が 次元は高いであろうと思う。
何故なら、異性が、引き寄せられるというのは、当たり前の関係で、地球に引力があるのと同じくらい普通な物理的な意識運動だと思う。つまり、異性の意識を惹かない、存在の仕方をしてはいけないという事かもしれない。
ただ、それが、その人でなければならないのか?<人格、個性>それとも、異性だからなのか?<異性なら誰でもよい?>という次元の低さの転倒を、自覚できるか、出来ないかは、ちゃんと 考えるべきだと思う。
世間には色々な人間関係が成立するのだけど、近づきたくない人は、いつまでも、VOUS<貴方>と呼びながら、なぁなぁ関係をが、生じやすい、雰囲気に、STOPをかける時がままあるのですね。
丁寧語でお互いを呼ぶというのは、馴れ合いの関係にしないという事なんですよね。つまり、家族同士の人間間で 使うべきであろうと思う。何故なら、家族は許されて当たり前、、という 占有意識の 乱用に歯止めを利かすという意味があるからでしょう。
家庭内暴力や、最近、閉塞的、隠蔽化している密室での人間関係の 刑事問題が多いのは、そのような、空に漂う何らかの次元の低い意識が、他者と関係を結びたがっているんじゃないでしょうかね?
健康的な人間関係という事、今一度、ちゃんと考えないと、。ならない時期にきています。
人と交流を持つときは、主体が選択するという事だと思う。どちらにしても次元の高い意識をもつ人間は、四方八方から、いろいろな人が集まってくるだろうと思っている。-
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