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続 哲学〜真理〜探求について

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年01月06日 06時39分44秒

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    絶対を使う時の意味?





    こんにちは
    日本語には、絶対
    という単語があるのだけど
    これ、、、時々、使い方、意味づかい、違うのじゃないか?と思う。

    何故なら、アルファベット語で訳すと、ABSOLUTE
    と出てくるから、、広辞林にはご丁寧に(哲学的意味)と注釈されているけど、アルファベット言語を話す人は日常的に
    ABSOLUTEを使っているのでしょうから、これでは、日本語を話す時の絶対と、アルファベット語を話す国の
    絶対の意味にヅレが生じるでしょうと思う。

    日本語で日本語辞書に
    (哲)と書かれていると、普通は使わない意味と解釈しているらしいんだけど、、、これでは、、、いつまで経っても、外国語を話す国の倫理や道徳の差は狭まらない。
    「絶対、そうだ」、、とか「絶対
    決まってる」、、とか 日本語の使い方を 聞いていると、
    どうも、疑いの余地はなく、断定の
    強調みたいに使われているように思う。

    辞書には、他に並ぶモノの無い事、他との比較、対立を絶している事、、または、決して断じて、どんな事はあっても間違いはない、、という意味で載っている。

    ところが、英和の辞書で、ABSOLUTEアブソルートを引くと、
    14世紀初頭、ラテン語ABSOLUTUS
    より、AB<、、、から>+SOLUTE<自由にされた>=から、完全に解放された、、、cf dissolve resolute solution
    solve
    と載っている。なんだか、絶対の 意味とは程遠いと
    感じないだろうか?

    その後、完全な(限定)、無制限の(正式)
    独立の、遊離する、絶対の、、、と続く、
    このような、アルファベットと日本語の
    意味使いがなんとなく 違うという
    微妙なズレ感じませんか?このズレが、他者の存在なんですよね。

    このズレを知覚できず、いつも、同じエレメント、同じ意味解釈をしあう一つの言語を介す同種類の人達だけのコミュニケーションって、普遍性がないと思いませんか?

    するとね?何故か、そのような他者とは、付き合わないから
    問題は起きません、、という考え方が実際に 返答されるんですね。しかも哲学の場です。


    なんらかの
    自分の心的内部の欠乏感を埋めるための探求しているという感じなんですが、、、、それは良いのですが、
    哲学談義しながら、心理学や精神分析も
    必要になってくる事があるんですね。

    時々執拗な自己卑下ばかりの書き込みを見て思いますが、自分を卑下する事で、相手を持ち上げるという
    意識は、自分が望むような高い自尊の感情が維持できないのでしょうし、返って、相手を持ち上げる事で、相手の事を考えているように
    感違いしている人いますが、相手を持ち上げる理由が、多数の人も同じ理由で、その人を褒めているのなら分かりますが、ただ、自分を卑下する事で、相手に
    太古持ちみたいな事をさせながら、相手を馬鹿にしている接し方が、良いと思っているらしいんですね。


    真剣に向き合う事をせず、適当に接する。

    ここには、普遍性はなく、一対一の
    陰湿関係が出来上がるんです。

    フロム,ライヒマンという優れた精神療法家がいますが、彼女の説は、うつ病の最初の感情が、必要と空虚の感情なんですね。
    人間は、不安に動機付けられて行動していると内的に空虚になってしまいあげく、「見捨てられる不安」を抱え込む事があるようです。

    何故?見捨てられるのが、不安なのかは、自分を頼りに出来ないからだ、、と云っています。
    これはどういう事かというと、自我がないのでしょう。自分というのが無いのでしょうと思います。
    何故なら、うつ病患者の
    見捨てられる不安、自分に価値がないと思い込む、生きる価値がないと思い込む、その上、健康を害し、家族の厄介者のような扱いをされてしまう。
    こういう
    社会現象は、やはり人間という人間性に資質の重さを見る事をせず、上辺の学歴だとか、名声だとか、金銭的な事にしか、価値を見ようとしなかったからではありません?

    そして、執拗な自己卑下の裏にあるもの、たとえば、「自分なんか」、、とか
    「自分のような者を、」、などと自分を悪くいう人に限って、気が引けてるように見えても、他方や家庭内では、厚かましく、驚くほど、傲慢だったりするのですよね。

    何故なら、自分を執拗に非難している人は、実は誰かを責めているのですね。多分、幼少期の自我が健康的な成長をとげられなかったのだろうと思います。親の不機嫌などに接して、受動的に親に見捨てられる不安を持ちながら、一方、他者への依存心を強めるのだと思うのですね。

    絶対=ABSOLUTE
    アブソルートから 話がそれたけど、
    絶対音 という単語ありますね。

    音楽を身につけると、頭の中に 440ヘルツの LA ラという音、
    絶対音とよぶのが記憶されるのですよね。

    弦楽器が調弦する時に、 使用する、音叉 DIAPASONEという金属性のものを叩いて、空気を振動させ、LA の音、つまり
    絶対音によって、調弦するんです。

    最初は、LAと 音叉、その後、ラとミ、そして、ラとレ、 そしてレとソを
    2弦弾きながら、調音します。

    オーケストラの楽器も、 第一ヴァイオリン奏者の 弾く LA に一斉に
    調音する儀式みたいのが、ありますが、ドレミファソラシド、、という音階の LA は、自然界に自然と 調和する空気に 染み渡って、その振動を 伝えていく
    広がりのある LA を
    絶対音、と呼ぶのですね。絶対という意味使いはそういう意味ですね。


    広がり、吸収していく、染み渡る、、という意味に、ABSORBEアブソ~ブという単語があります。

    絶対音も鼓膜にスーと、吸収しやすい心地よい音なんでしょうね。似てますね。

    ですから絶対という日本語の意味使いは、比べるモノがない、という絶対の意味ではなく、むしろ、自然に解放された、自由に普遍性をもつ、空に
    溶け込んでいく、、自然と一体であるという存在の仕方が、本来の絶対、、という意味つかいだと思いますね。
    まるで、自分が、思い込んで、「絶対正しい」、「絶対、間違っています」、、という使い方での絶対とは違うと思うのですよね。

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