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from: 沙羅(Sarah)さん
2013年02月04日 19時31分44秒
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親子関係における、主観と客観による見方
そういえば、娘が
テレビやラジオから流れてくる犯罪ニュースを聞いて、溜息をもらしている私に、
「ママは、大昔の時代、情報機械など存在しない時代に生きてる方が幸せだったね。」と言う。
『「アマゾンの密林、未開発村で裸で男女生活する時代、隣村で、突然精神病者が、刃物を振回して家族やその周りに住む、人達を殺してしまった」なんてニュースを知るのに、何週間か何ヶ月かけて知るとか?太鼓かなんかで、遠い村同士の伝達するとか、その方が、幸せでしょ?そんなに、世界で生じる、例えば、向かい近所の話題や隣村の話題、倫理逸脱したニュースを瞬時に毎日聞かされて溜息もらす人生、一生送る事はない思うよ。』と娘
「言えてる~」と思う私。
娘<子供>というのは、「親の背中を見て育つ」と日本語の諺がありますが、親近関係において、とくに子供は、大変鋭い視点で、身近の家族行為の原因や動因を分析している存在である事。
何も言わないが、その都度感知出来ているのであろう、、という手応えは、親子という関係を持たされる関係の中で生きると体験出来るのですね。
それは、まさしくわたしの子供時代の体験と同じなんでしょうと思う。しかし、わたしが子供時代に感じた、親の背中を見て育つという視点で感受した感情や心情は、それなりに子供から親を観るという一方向からの見方であり、普遍性はないのですよね。
いくら真理に近づいているように、真実をついているように観える鋭い見方であってもです。
今度は、逆の立場に子供を産むという経験を得て、はじめて分る、という立場に立てる。
この両方の立場に立てるという事がやはり人間理解には必要に思えるのですね。
情報社会の発達により、年老いた両親をかいがいしく世話をするある子供達の姿だけ見せられたり知る事によって、「この
せちがない、倫理道徳感を疑う事件が多い世界で、両親思いのやさしい子供」と、感情移入しながら個々人へ
ある善行為の判断をするのは、簡単だけど、
人間の表層行為に至る動因や原因を知る事が、真理や真実を知るのには大切に思えます。
元に戻すと、親子の会話には、時たま辛辣な会話も登場しますが、特に子供から親という方向への発信に多いと思う。これは、親と子という関係は、生まれた時から、物理的、唯物的世界では、上下関係が恣意的に存在しやすいという事が、子供にある辛辣な視点で親を判断する、、という存在にさせているのでしょう。つまり存在の力量関係なんだと思います。
「親が生まれた子供を
育てるのは、当たり前」という倫理道徳が恣意的に頭脳内で作用するという関係でしょうね。
この関係の裏返しが
「育ててあげたんだから、子供が歳とった親の面倒を見るのは当たり前」という倫理道徳意識が
成立してしまうのだと思うのですね。
両方、同じ倫理道徳の物差しを持つ人間に生じる行動傾向なんですよね。
ですから、信仰や宗教も良いのですが、哲学といった分野、心理学、精神分析は必要でしょう。とおもいます。
話元へ、子供から大人への辛辣な発言は、「親にそういう生き方になっているからそうしなさい!」と真理をついているように見せ、それに従いなさいという権威的な関係ではなく、子供から観たある視点なんだと思うのです。
しかし、親子が依存関係で成立し存在すると、力関係で、お互いの存在を支配しだします。
つまり、親子だから、という血縁という理由で何かを強いるという関係は健康的な関係は生みにくいでしょう、昨今の
親殺し、子殺し事件が頻発に生じるという事件の 意味を
分析せず、親子関係の心情の希薄さばかりを嘆いてもしょうがないと思うのですね。それは結果<事件>に感情を委ねているのでしょう、、と思う。マスコミが
その地点で煽る情報を流すという姿勢も問題ですが、、、、
進化するという方向は、時間を潜り抜ける、、という事で、それは 親子関係という
血縁関係も当然変革を求められるという事ですから、、、
子供は、わたしの心に一瞬這わせて、体感<共感>出来ているという一種の彼女の離脱なんでしょう。
そして、そのような状況に長時間生かされると、心が病むから、少しニュースから離れないと、肉体は存在出来なくなるよ!という会話なんですよね。
自他共存世界は、これから、世代、世代存在させていこうとするのに、必要なコミュニケート感覚能力ですけど、両方のバランス能力を執るのが
このIT機械の個人の心的分野へ簡単に侵入してきますから大変難しくなっていると思うのですね。
世界と私の関係が、IT関係の存在のおかげで、境界線が曖昧になってきているんでしょうね?
それで、娘が上記のような
発信をする訳なんですよね。
子供を生む、子供を育てる、子供が大きくなる、子供を一人の人間として
接する、子供と平等の関係を構築する、、
こういう体験を持たされるという事によって、どのように自分が変革しなければならないか?という事が、この世に生を受けた意味を知る、探究する、、という事に思えます。
写真は、あのアブラハム、お父さんが 息子イサクを 神のお告げで殺そうとしてしまうところに、天使が、刃物を 落とさせて、行為を中断させるところですね。この創世記が、何故か、多くの日本人との会話で、「西洋の宗教が野蛮なのは、息子を殺そうとする おとっツァン」という理解の仕方になっている事、、、
これでは、、、「オイ、オイ、、、そこの 次元で理解する?そういう事を言いたいのではないでしょう?」と、文脈を 理解せず、イサクのサクリファイスが生け贄という 単純理解に 自己
投影しているのだと思う。どうも、自虐とか犠牲という意識を過剰に 反応させてしまうらしい。これはその意識の裏表は、仕返しとか報復、復讐という意識の裏表反応なんですね
話しそれますが、ユダヤ教と神道の歴史類似点は昨今何度も話されますね、、、ユダヤ教
旧約の出エジプト記、21章の」目には目を、、、歯には歯を
復讐や仕返し意識を 挑発させるような出典は、ハテ、、、、と考えて、イエスが登場しなければならなくなった。
創造神の 手の中にあるコマって、、、どれくらいあるのだろう、、、際限ないのかぁぁ。。。-
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