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続 哲学〜真理〜探求について

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月09日 00時13分19秒

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    メルローポンティーの現象学



    日本のニュースを見ていて、

    アルジェリアの 人質事件のニュースを流していた時に感じた事。

    日本人が日本人の事を理解するのは、
    他者<他諸国>を介して 日本人自身の事を理解できる

    という事は、哲学で言われる、自分自身の事を理解できるのには、
    他者を介さないと自分がどのような人間なのか?理解できないのですよね。

    現象学の言わんとする事でしょうと思います。

    日本のアルジェリア大使館に、
    相次いで「日本人を殺しやがって、、、」という電話が相次いでかかってきたそうだ。

    このような事をニュースで聞かされると、

    「あの事件は、日本人だけ(だけが強調)が、人質で日本人だけ(だけが強調)が、殺されたのかァァ?」


    思わされる。何故か?「殺しやがって」という表現は 受動態である・
    何か、被害を蒙ったという 被害者に安易に
    自分の感情を上塗りする、、という意識ですね。

    この次元に呼応してしまうという人が多いらしい。

    それは別に置いといて、

    いつも思うのですが、

    ニュースを流す側
    報道精神というのは、いかにニュートラルの
    視点を持って、報道を流すという精神を問われていると思うのですよね。日本のニュースだから、日本人だけのニュースを放つのは当たり前でしょう?という意識ですか?????????

    例えば、各国人質となった国の報道を、受信がわから眺めて観る。日本だけでなく、他の国が流す情報mノールウェイとかフランスも、もちろんそうですが、海外の報道姿勢がどの視点に立って、報道を流すのか?という視点、、自分がフランス人だから、なるたけフランス人の感情<人質感情>を呼び起こすような報道をする、、というのは、なんだか報道精神と、ゴシップ雑誌の次元とあまり変わらないでしょう?
    情動と精神は、別に考えるべきだと思うのですね。
    精神は、次元が高いんです。
    感情、人情は、次元が低いんです。
    何故なら、感じた事をそのまま、放っているだけですから、、、

    人間の歴史には、人間と動物の境界線を引かなければならなかった意味があると思うのですね。

    思うに、あまり自国の感情が
    情動に偏りがちで、国民の気の毒、あるいは怒り感情を 呼応を呼び起すというのは、その視点から見て 日本側に流す 情報を、隣国は
    見て感じ取っているんではないですかね?

    隣国の反日感情が 何故か?不意をついて10年くらいのタームで呼び起こされる、、という原因はこのような
    情動に靡きやすいという、弱点に
    簡単に日本国民の感情が上塗りされているという事は決して無関係ではないと思うのですね。

    何故?

    そのような 民族意識に過剰に
    自己投影しないとならない自分がいるのか?

    そのような土壌に 根をはやす民族の心にはどのような 感情を 同じ民族同士で
    同じ感情に呼応しないとならないのか?

    例えば、フィリピンのアルジェリア大使館には、フィリピン人から、「フィリピン人を
    殺してどうしてくれるんだ!!!、、」云々というような電話が相次いで、かかってきているのでしょうか?

    現象学は 他者、、つまり自分以外の他者が
    何を感じているのか?という心に思っている事が、相手を介して初めて分かる、、自分が分かるのですよね。

    相手が分かるではなく、自分が社会的にどのような人間として捉えられているか?わかるという事ですよね。

    それは、無言のコミュニケートですよね。

    この交流は、人間が進化を続けるのに失ってはいけない
    意識でしょうし退化させてはいけない能力に思えます。

    理解する行為は、知性が必要ですが、事物の意味や諸関係を捉える心の働き、つまり知的理解をも意味するのでしょう。
    実践的知性というものは、古典的な心理学が主として理論的知性に関わってきた、途上にあるのですよね。
    実践的知性は、過去の資料や史実を
    調べて認識として覚えるという行為ではなく、その時、その時に 実践できる知性です。

    それは知
    というよりもむしろ、手腕であり、ここの場合は過去の他者との交流や」経験が土台になっているはずです。


    真に知るとは原因に拠って知ることにある」
    ベーコン

    そこにあるのは説明的知識だけである。

    しかし説明的知識の獲得は、知性を要求し発達させる。
    いっそう困難な問題の解決のためにつかわれれば、使われるほど、いっそうよく理解するようになる。

    しかし、知識の所有は、一般的な理解能力としても、知性とは
    無関係である。<フルキエ{
    認識}から転記>

    <ここは一番大事だと思う。なんでも学校で習う知識や認識だけを偏重しがちな社会層にあっては、物事の本質を見抜くのに、必要なのは、上辺だけの
    知識ではない、、という事を
    十分に理解する事が必要に思えます>

    工学的、物理的な事、パソコン知識に長けているからと言って、ある人の境遇をよりよく理解するのに向いていることにはならないでしょう。

    パソコン知識や
    科学、物理的な事、あるいは何もかも ア、ポステリオリ<帰納、後天的 >にに順序よく分析出来るからと言って、それは
    その人が知性的に理解しているのではなく、知識でしょう。

    知識は、言わば知性に 供される手段ではあるが、知性と一つになることはない。 P,フルキエ
    「認識}

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