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続 哲学〜真理〜探求について

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  • from: yeshangさん

    2013年02月10日 21時56分44秒

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    「般若心経」の色受想行識について

    般若心経の最初の行、「・・・照見五蘊皆空」は最後の行の「真言」とともに最も重要なところだと考えています。

     観自在菩薩が「深く般若波羅蜜多を行じし時に五蘊は皆空だと照見した・あきらめた」
     以下、五蘊だけでなくその他の全てのものについて空であることを、そして空は逆に全てのものでもあることを述べています。

     さて、「色受想行識」ですが、「色」:物質、眼に見えるもの、我々の肉体、「受」:感覚・感受、「想」:構想作用、「行」:心の作用、意思の働きなど、「識」:認識する働き、意識と解説されています。
     そして「色」は肉体に、「受」~「識」は心的作用とも言われていますが、どうも私にはしっくりしないところがあります。

     そこで、私は、「色」は肉体、「受」・「想」は感受し・想うこと、「行」はその思い・考えを実行すること、「識」はその結果(身「色」をもって)知ったこと・実感した事と考えました。

     そして「色」を通じて感受・認識し・想い、「行」実行してみて、その結果どうだったかを知り、さらに「色」を通じて受想行識を繰り返す。螺旋状に上へ上へと上昇して行くことになるのだと考えます。

     言葉のお遊びかもしれませんが、是が「色受想行識」だと。しかし般若心経では是は「空」だと述べられ、また、「空」なのでこれらも現れるのだと述べられています。
     その原理を知るには、前に書かれているように観自在菩薩同様「般若波羅蜜多」を行うこと、行い続けることかと考えている次第です。

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コメント: 全1件

from: 沙羅(Sarah)さん

2013年02月12日 21時34分54秒

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以下は、昨日の
友人Yのメイルのわたしの発信のメイルの内容なのだか、他者のブログの内容をこのように、転記するのは良いのか?どうか分からない・
ただ、澄んだ心で、般若心経を読む、、、という行為は結局
この内田さんという方が得た経験を持たされるという事を言うのだと思う。般若心経の 単語の意味やサンスクリット語の
意味云々というより、むしろ、人生の途上への具現化へ繋げ、、そして、知らない他者達へ、通時態の記号の持つ
意味により、普遍化していくのだと思う。
記号に
縛られると、どうしても、心のヒダや感性に訴えにくい、心に響かない記号は、ただのロゴのおもちゃみたいなもので、時間が経てば忘れてしまう。これは
具現化できないし、実践として 空の層に無限的に広がる存在の仕方は 無理だと思うのですね。永遠な存在<魂>の姿であれば、肉体を超えた 次元での、心<精神>の
交流に違いないと思うのです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
以下の話は、友人のkちゃんという人が教えてくれたブログの内容。
わたしねぇぇ、、本当は、霊感は、他の人の前世とか、未来の予知をするんではなく、自分の為に使う方がいいと思うんだよね。
この人はそういう
健康的な世界観持っている人だと思う。コピペするね。
=============================================

22年前に祖母が亡くなったとき、その通夜の晩に、ぼくは原因不明の高熱を出して倒れた。
そして、夢を見た。
白装束の祖母を乗せた小さな舟を漕いで、川を渡り、対岸で祖母が降りると、ぼくも続いて降りようとした。すると、祖母は、「おまえは帰らなければいけないんだよ」と言って、上陸しようとするぼくを押し返した。
ひどく寂しい気がしたまま、靄の掛かった川面を振り返り振り返りしながら、また対岸へ渡っていった。昔、ぼくが山に出かけるときや、東京で暮らすようになってたまに帰省し、また東京に戻るときに、祖母はぼくの姿が見えなくなるまで、道に立って、ずっと見送ってくれたが、このときも川の対岸に佇んで、靄が視界を閉ざすまで、小さく手を振っていた。
両親が共稼ぎで、べたべたのおばあちゃん子だったぼくは、小学校に上がるまでは毎晩、祖母の寝床に入って、身長が140cmそこそこの小さな祖母の懐に子猫のように潜り込んで眠っていた。ときどき、祖母が死んでしまったらと想像するだけで悲しくなって、祖母の懐でひっそりと涙を流した。
祖母が亡くなったときは、もう故郷を離れて10年も経ち、30も間近になっていたが、喪失感は大きかった。
祖母の命日は2月1日だが、今年の命日の1週間前、祖母の夢を見た。
今はない懐かしい生家に入っていくと、居間に祖母がいて、優しく笑っていた。その顔を見ると、涙が溢れて止まらなくなった。そして、小さい祖母にしがみついて、「迎えに来てくれたんだね。もう、そっちへ行っていいんだね」と言いながら泣きじゃくっていた。そして、自分の涙声で目が覚めた。
夢を見たその日に、ここに記しておこうかとも思ったが、身近な人に心配をかけるような気がして躊躇した。
でも、ある出来事があって、今日、あえて記しておくことにした。
ときどき、「死」を想うことがある。「メメント・モリ」。
10代の頃、事故や病気で亡くなった友人たち。18歳のときに目の前で逝ってしまった父。20代、30代のときには、自ら命を断った友人が何人かいた。ぼくより5つ下の従兄弟は、「一成さんは自分の思うように、自由に生きてていいな」と叔父に言い残し、奥さんと二人の子どもを残して死んだ。生きているうちに会って、ぼくだって惨めな思いをいくらでもしているんだと話をしたかったと悔やんだ。
40代から50代に入ったこの10年の間には、友人の何人かが病気で亡くなった。
自分の死期を知って、最期の日々をしっかりと生き抜いた人もいるが、それは稀で、ほとんどの人たちは、この世に未練を残していったに違いないと思っていた。厳しい世の中に疲弊して、萎れるように向こうに行った人でも、やはりなにがしかの未練はあっただろうと。そして、この世から去ることが辛かったり、悔しかっただろうと。
祖母の夢を見て以来、何をしていても心の隅で夢の意味を考え続けていた。はじめは、自分の死期が近いことを教えに来てくれたのかとも思った。だから、あまり公言する気になれなかった。
そして、あることで、不意にその意味がわかった気がした。
それは、自分が、いつどんな死にざまをするかわからないけれど、確実なのは、そのときがくれば、大好きだった祖母が迎えにきてくれるだろうということだ。
祖母が迎えにきてくれれば、安らかに向こうへいくことができる。
先日の夢は、今のぼくを迎えにきたわけではなく、死に急がず、安心して生きろと伝えにきてくれたのだろうと。
きっと誰でも向こうへ行くときは、その人がいちばん好きだった人が迎えに来てくれるのだろう。たとえどんな死にざまであったとしても、向こうへ行くその瞬間には、そこに大好きだった人がいて、飛び込んでいけば、直前の悔いや未練などたちまち消えてしまうのだ。だから、残された者は、逝ってしまった者の思いや未練を考えて、自分が思い悩むことはないのだ。
ただ、無心に見送ってあげること。それこそが供養なのだ。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2012/02/dream.html

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