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from: 沙羅(Sarah)さん
2013年05月19日 16時52分10秒
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メディア情報の存在の意味は、状況の判断をするのではなく、その場に必然的に存在しようとする・・・
写真は、700年代に 出現したミカエル大天使、
このトンブに 僧院を建てよ!と、神父の夢や霊視に何度も出現した。
神父さんは当然信じない。信じないから天使もしつこく、出現する。
ここらへんは、 どちらがシツコイか?という行為に尽きるようだ。
霊体の出現で、18回も出現したのが、あのルルドの聖母マリアの出現の回数の多さも 尋常ではない。そこまでしないと、ルルドという村に、大聖堂は建てられなかった。
今は、モンサン、ミッシェルと言う名前の観光地になっているけど、元はと言えば、トンブという単語は、墓場という意味なのだからミカエル大天使が、指をさして、この墓場に僧院を建てなさい・・・・という出現によって、21世紀には、膨大な数の観光客を引寄せる、、モンサン、ミッシェルという場所が存在するという事。ミカエルは、フランス語だとミッシェルになる。
Cの発音は、Kの音素には、ならず、Sの音素に近い。これも意味があってそのように放たなければ、存在出来なかったのでしょう・・・と思う・変化することで、存在し続ける。
2001年
911事件の時、
時、何故か?フランステレビ局が、ニューヨーク消防隊のドキュメンタリー作成の為、ワールドトレードセンターのほとんど真下にいて、カメラを回していた。
その映像が、世界中のお茶の間に流れたのである。
その撮影時期にたまたま、ボストンの飛行場を発った旅客機11便が、マンハッタンに向けてハイジャックされ、、、、そして、フランステレビ局人の
いた上空のビルに追突したのだ。
世界に流れた追突の瞬間が何故?映像で取れたのですか?という質問が世界中に
飛び回った。
誰かが、携帯で撮っていたのではなく、たまたま?居合わせた、ニューヨーク消防隊を撮る為に
待機していた、フランステレビ局のスタッフが撮った映像が、地球上の家庭のテレビの映像として映し出されたのだ。
前からいつも思うけど・・・・・フランス人というのは、その為に、・・・・・その時を伝える為に存在している生き方をしている・・・・つまり存在する為に、時間を越えて存在する・・・という生き方が多いと思っていた・・・・
自由の女神が、一部始終観ているとしたら、そういう視点ではないか?と思う。
先月の
ボストンマラソンの時に起きた、爆発事件・・・・・・
最初、メディアが流していたニュースは、
デゼキブレdéséquilibré
の行為であると、ニュースは流していたのです。
時間を
追うと<経つと>その情報が、犯人捜しへと、ピンポイントとして、
テロリスト扱いとして 情報が放たれる。
最初は、
デゼキリブリストと、放っていた単語は、時間が経つと、テロリストになる。
もっと、時間がたつと、今度はイスラミスト云々、国籍や名前といった、個人へと
意識が集中(執着>
させて行く事の途上に世界中の人間が、憎悪感を 膨らますという
途上に存在する事なんでしょう。
déséquilibre デゼキリブル
は、日本語辞書には、平衡を失う、、平衡障害、精神不安定・・・という意味で載っていますが、
単語を分解すると
平衡を失うという意味、平衡感覚の障害という意味・・・
という事を考えず、一番安易な表現、精神異常者<と載っている辞書もある>と、決め付けて
なんらかの
自分の内に生じる
憎しみの感情を発散する機会をボストンマラソン事件が生じた時期を利用する・・・・という存在になってはいけないと思うのですね。
時間が経過すると、犯人扱いとしてメディアが、放ちますから、・・・・
本当は、裁判という方法的な場において、裁かれる・・・・・という民主的な社会をつくらなければいけない・・・・・という、市民としての、義務などは、全く放置されて、テロリストという単語を聞くと=悪という認識の仕方なんだと思うのです。
この時間の存在がないと、情動<愛憎>が生じないようなんですよね。
最初は、平衡感覚の障害者、、déséquilibreデゼキリーブルの犯行だと
ニュースが流れるのですから・・・・・
何故?平衡感覚の障害が、精神異常、精神の病を持つ
人として、放つか?
というと、libreリーブルという単語を含むのですよね。
リーブルは、自由であるとか、束縛されない・・という意味でしょう。
バランスを取るという意味、バランスや釣り合いは、エキリーブルequilibreと言う単語、
自由、束縛されない単語、libreの前の接頭詞、エキ
équi=等しい という意味、、
そして、一番前にdes
デをつけると、精神を病む事(人)という単語の意味である事。
すると、アルカイダは、精神を病む人達なのか?と考えると・・・どうも、変だ!
何故なら、精神を病む人に、憎しみや、執念深い怒りを、ぶつける事に一生懸命にならないといられない・・・・・という行為に疑問を感じるでしょう。
話しは逸れますが、このように話しを展開をすると、日本人的な情動の特徴に、
「
貴方は、被害者の立場に立っていないからそういう事が言えるのです」という呼応運動を挑発するような言説を放つ人がいますが、
物事を言語分析しながら思索するという視点と、
体験者この場合、被害者の立場に立つとどのように 感じますか?
という質問は、
方向性が違うのですよね。一緒にして、哲学は語れないと思う。
情動は、水のような流動的な方向に動くのであり、水が流れるのは、時間の存在が必要である・・・という事を
インプットしないと、探求意識はなかなか養えないと思う。
ところで、話しを元へ、
精神異常者=平衡、バランスを失う人<自由でない?、束縛された人>
という言葉の造り~考えても分かるとおり、何らかの信仰を持ち、度が過ぎる事は、バランス平衡感覚を失う、自由でない・・・という事も言い換える事が出来るのですよね。
信仰そのものを判断する、悪だとか善だとか、イスラム教がイケない・・とか善いという判断は、その
信仰を信じている人達自身まで、悪い人、善い人と無意識に拡大解釈導きながら話し展開していくと、結局最後は、
だから、一神教は悪いとか、外国の宗教や争いが多い、肉食だから、しょうがない・・・等の、感情吐露の言説に落ちていません?
一般者ならそれでもしょうがないのですが、知識が豊富で、知識人や文化人、又ある宗教の責任者といわれる学識者までも、他教を批判する事で、自分の信じる宗教の正当性を説く・・・・・というのは、その宗教云々ではなく、人格を疑うのですよね。
他教を批判するという事はその宗教を信じている人の立場に立てば、傷つくでしょう?
人の心を傷つける・・・・と言う事は、
他者への尊重や尊厳や 他者を認めるという 受容の器が狭いと思うのですね。その場にいないから、何を言っても、ナにを、放ってもいい・・・という事も、すごく
品位を疑います。
他者への批判は、しない。
他者や他教と比べるという
比較意識も育てない。
何故なら、比較するという意識は、優劣をつけたがる、、という意識を助長させていくでしょう。
ですから、自分は自分・・・普遍性を持つ存在というのは、他者や他民族や他教と、争い、排他したり、押しのけたりすることで、テリトワールを広げたり、支配下の人間を増やすような事は、もう時代遅れですから・・・・・・
世界や宇宙に
真理が
あるとしたら、日本人の真理とかアメリカ人の真理とかフランス人の真理とかあっては、困るし、それは真理とは言えないと思うのですよね。
真、善、美(自然)
はあるでしょう。世界人に共通する、納得できる、心にストンと納得させられる宇宙の成す 真理、善、美(自然)
が必ず存在すると思うのですよ。
時々、以下のエック,ハルとさんのYOUTUBEを聞きますが、本当に分かりやすく説明する能力には脱帽です。-
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