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from: 哲ちゃんさん
2024年07月06日 14時44分13秒
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ラジオの青春
エイベックスのサイトで拓郎さんのブログが始まりました!
2024.7.02 Tue
まだ僕が広島で高校生だった頃
ゲルマニウムラジオとか鉱石ラジオという
今で言えばMP3プレイヤ-みたいなコンパクトなもので
電池・電源不要のイヤホンでのみ聴く事が出来るラジオがあった
(トランジスタ-ラジオが大ヒットする直前だったかな・・?)
夜中になると電波の具合が良くなるようで
東京の放送局の番組が雑音まじりながら聴こえるようになった
当時はまだ地方では僕の好きなアメリカンポップスを
聴かせてくれる放送局とか番組は存在しなかったのだが
お隣の山口県、岩国市には米軍の基地があるので
そこが発するFEN/Far East Network
(現在はAFN/American Forces Networkと言うそうだ)
を毎日聴くのが楽しみの1つだった
遠い記憶だが・・毎日夕刻の4時頃に「ビルボ-ドTop40」という
ランキング番組があった?と記憶する
高校2年の秋頃からだっただろう?
「卒業したら東京の大学へ行きたい」と思うようになり
まあ人並みに夜は受験勉強と称して深夜まで机に向かっていた
深夜0時とか1時頃にベッドに入り眠る前に必ずこの鉱石ラジオで
東京の音楽番組をチェックするのが楽しみだったのだ
僕とラジオとの青春の始まりである!
*画像は高校時代の僕
2024年7月1日
拓郎from: よしさん
2024年08月08日 17時55分30秒
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ラジオの青春、いいですね。8月5日の坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLDを、これからラジコで聴こうと思っています。
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from: 哲ちゃんさん
2024年07月30日 23時29分56秒
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ラジオの青春 13
2024.7.30 Tue
関東の色々な大学の文化祭などからステ-ジの声がかかり始めた頃
曲のレパ-トリ-が「ギタ-1本の弾き語り」というスタイルに限界を感じて
経済的には4~5人のバンドを常時、専属では雇えないけれど
エレキベ-スとエレキギタ-という最小限のロックスタイルならどうか?
という思いつきから、広島時代の後輩で東京に大学生として住む2人に
声をかけ「ミニ・バンド」結成の話を持ちかけた
ドラムスが居ない、という編成では僕の弾くアコ-スティックギタ-での
ストロ-クスタイルが3人の構成上は大きな意味を持つ事が判明し
各会場での僕用のマイクチェックとPAシステムが重要になってくる
しかし時代的には現地に行ってガッカリする事が大部分だった
当時はギブソンJ-45というギタ-が僕のメイン楽器だったが
レコ-ディングでは、その独特のサウンドが重要になるけれども
Liveでは音量的に限界があるのでマ-ティンD-35に変更する事にした
ミニ・バンドでの新曲リハ-サルは杉並区にあった僕の部屋がメインで
夜ごとの練習に上下の階から苦情が多かった
練習後は3人で鍋を囲んだりしてはいたが・・実に質素な暮らしで
僕の口ぐせは「ボブディランはプ-ル付きの豪邸に住んでいるのに
俺は狭いマンションから脱け出せない!フォ-クって何だ!
絶対に俺はここを脱出してスゲエ外車に女の娘を乗っけて・・」
ミニ・バンドのI君とT君が言った「タクちゃん、頑張ってね!その日は近いよ」
*画像はミニ・バンドで東京でのステ-ジと長野信越放送での
公開番組収録風景・・ミニ・バンドの顔も見える・・か?
2024年7月30日 拓郎 -
from: 哲ちゃんさん
2024年07月30日 09時51分11秒
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ラジオの青春 12
2024.7.29 Mon
広島フォ-ク村のアルバムから後に「アラレもない継ぎ接ぎ」による
原曲を無視した短縮版「イメ-ジの詩」がE社から発売されてしまう
この件で頭に血が昇った僕は販売会社へ猛烈なる抗議のため上京する
ここから僕の最後の挑戦となる決意の東京生活が始まった
そして、所属する事になる通販系のマイナ-レコ-ド会社が
先の広島フォ-ク村のアルバム制作に裏側で関与していた事など
当時の僕が知るよしも無い事だった
ともかく東京で「これが最後の挑戦」という生活に突入する事が
好むと好まざるとに、かかわらず決定してしまったのだ(運命なのか?)
この会社へ僕はア-ティストではなく1人の社員としての給料制で
入社する事になった(当時、何もワカラナイこの男はア-ティスト契約とか
作家印税とか・・知らない・・知らされていないロ-カル人間であった)
ただ、東京で自分の音楽を何とか開花させるために頑張ろうと言う気持ちは
純粋に燃えたぎっていたから、何も疑う事なく会社の言う事を信じて
前向きに日々を送っていたのだ
色々な場所で歌った
・デパ-トの屋上特設テントで
走り回る子供達の遊び声を前に
・東京近郊の商店街にあるレコ-ド店の店頭で夕刻
買い物途中のお母さん達が行き来する中で
・渋谷の宮下公園に午前4時集合で「ある映画」の撮影に
いまだに「なぜ僕が・・?」と首をひねる・・1シ-ン
・子供達が審査員で、新人歌手に点数をつけるテレビコンテスト番組で
イメ-ジの詩「何が言いたいのかわからない」と落選(笑)
・NHKの音楽番組に出演するには絶対!とオ-ディション
イメ-ジの詩「4コ-ラス目あたりでNG」が出る
その他・・色々と体験しながら心の中に1つの思いが芽生え始めた
「このまま、この環境で同じ事を繰り返す事は時間の無駄ではないか
こんな事をやるために上京を決断したのではない!
そして、こういう東京中心型の旧態然としたメディア等の体質の中で
自分が目指している音楽に未来は無い」
ある日の事、ラジオ局(当時のラジオ関東)で出会った加藤和彦と
数時間お茶をしながら色々と話し合う機会があった
彼はすでに日本のポップス界のヒットメ-カ-としての地位を築き
普段のイデタチからして僕などと別世界の人に感じた
「今いるマイナ-なレコ-ド会社で1枚LPやったんだけど・・
たった1日ですべて仕上げろ!って言われて・・しかもアレンジとかも
俺の意見は聞いてくれずに会社が用意したバンドでやらされてサ-
とにかく全てにおいて不満だらけなんだよね-・・
それで、もう早くも2枚目を作れ!って言われちゃって・・困ってるんだ」
加藤和彦は現状の日本のポピュラ-音楽の環境とかを「良くも悪くも」
彼なりのポジションで理解していたのだろう・・・僕に言った
「もし次のLPとかレコ-ディングする用意があるんなら手伝おうか?
少なくとも拓郎の今の不満はクリア出来ると思うよ」
「具体的には俺はどうすればいいんだい?」
「会社に話しておけよ!加藤が何曲か責任もって現場でやるから」ってね
このレコ-ディングで僕の次へのステップが決定的になる
1:今ある環境から出る 2:新しい世界を見つける
3:OKかNGかをハッキリする 4:もう妥協はしない
メジャ-の世界に飛び込み、そして、そのメジャ-の意識改革にも挑む
僕の周りには既に才能あふれる次世代ミュ-ジシャンや
現状に飽きたらない音楽関係者が集まって「明日」を語り合っていたのだ
僕が上京後に初めて出演させてもらったのは当時のラジオ関東だった
パ-ソナリティ-は森山良子(広島時代からラジオで曲も知っていた)
とても気づかいの優しい語りかけでロ-カル出身の僕を和ませてくれた
その後も色々な番組で色々なパ-ソナリティ-達と出会う事になるが
ほとんどが先輩風を吹かせるキャラクタ-で好きになれなかった
そして・・加藤和彦との出会いも!やはり「ラジオ関東」での出来事だった
*画像はレコ-ドデビュ-という事で会社が古い習慣にならい
地方のレコ-ド店の店頭サイン会を企画するも・・
誰も見向きもしない・・興味も示さない・・
夜になって街の酒場で飲みながら思った「もう無理だよ」
もう1枚は後年に加藤和彦と映画「旅の重さ」用に「私の足音」「歩け歩け」を
レコ-ディング中(六本木CBSソニ-1st)
2024年7月29日 拓郎 -
from: 哲ちゃんさん
2024年07月27日 22時17分14秒
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ラジオの青春 11
2024.7.27 Sat
M君は広島大学政経学部の学生だったので順調に卒業すれば
大いなる将来も期待が大だったと思うが
僕達とバンド活動に熱中する時間やプライベ-トに恋人と遊ぶのも
中途半端をイヤがり、僕の目にはプレイボ-イにも映っていた
しかし、彼にも卒業と就職という現実が目の前にちらつき始める
彼としても、まさかこのまま音楽でメシを食って行こう等とは考えない
どの大学でも4年生たちは就職活動が当面の第一課題となる季節がある
それは、ある意味では自分の人生を決める出発点となるのだから
まあ学外でバンドなんて時間は、正直に言ってキビシイものとなる
リ-ダ-のこの問題は残る3人にも色々と影響を与える事となった
彼を抜きにしてザ・ダウンタウンズは絶対にあり得ない事は
我々も良くわかっていたから、時の流れのままにバンド活動が
自然消滅の方向へ向かっている事が空気として伝わっていたのだ
そして実質2年と数ヶ月という短い活動期間ではあったが
メンバ-各々にとって忘れる事の出来ない青春のペ-ジが
派手な解散コンサ-ト等も無く、誰が言葉にするでもなく
気がつくと・・幕を閉じていた
時を同じくして広島フォ-ク村は活発なコンサ-ト活動を展開していた
その頃、東京の上智大学の卒業生たちが集まって企画を立てていた
「全国でブ-ムのキャンパスフォ-クの中に東京とは雰囲気の違う
異色のグル-プや団体がロ-カルには存在するらしいが
彼等を特集した企画アルバムLPを制作・販売してビジネス出来ないか」
「フュ-チャ-ズサ-ビス」と名乗る数人の若者達が広島を訪ねて来た
広島フォ-ク村のI君M君と僕の3人が代表で対応した
滞在期間中に彼等の企画内容、今後の方針などを聞く事になった
I君が広島フォ-ク村の代表だったので彼の決断に僕は従う事にして
もっぱら東京の連中に広島の夜を案内する役割を担当した
連日、彼等と飲み歩くうちに、この企画アルバムにさほど魅かれないが
東京で録音スタジオを借り切ってのレコ-ディングが出来る事!
この事には、チョットやってみたいという好奇心も芽生えた
最近の自作曲の評価を試すいいチャンスという事でもあったし
前回の挑戦では自分の技術的な力量不足を感じていたのだが
あれからザ・ダウンタウンズでR&Bやロックンロ-ルのボ-カルと
ギタ-を磨き上げた自信もある「これも1つのトライじゃないか!」
そこからアルバム制作に参加する広島フォ-ク村の人選がスタ-ト
レコ-ディングを想定した各自のリハ-サルも始まった
僕は「イメ-ジの詩」を後輩のS君にギタ-、K君にエレキベ-スと
いうアレンジメントで各人にフレ-ズラインを指定しながら
連日の猛特訓が始まったのである
*画像はエレックレコ-ドでの契約後に初となるステ-ジ
左側に写る後ろ姿は、僕も驚きを隠せなかった!
あの「はしだのりひこ」が花束を持ってステ-ジに登場した場面
この事を知る人は、きっとその日、会場に居た人だけだろう
2024年7月27日 拓郎 -
from: 哲ちゃんさん
2024年07月26日 18時33分50秒
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ラジオの青春 10
2024.7.26 Fri
愛してやまないR&B系のロックやブル-スという音楽だったが
それほど世間的にはポピュラ-な存在にはなっていなかった
ビ-トルズがアルバムの中で歌ってみせた「ロングト-ルサリ-」
「You Really Got a Hold on Me」「プリ-ズミスタ-ポストマン」などが
彼等のオリジナルではなくアメリカの黒人R&B系の曲をカバ-したもの
だと知っていたのは、かなりなポップス通であり音楽好きな人々で
客席で失神していた女の子たちは、そんな事どうでも良かった(と思う?)
そんな時代だから僕らが目指していたロックバンドの理想型も
あの季節、ましてや広島というロ-カルでは「ワカッテもらい難い」
音楽志向だったと思う
(ちなみに僕が歌うレパ-トリ-はリトルリチャ-ド「Good Golly Miss Molly」
マッコイズ「ハングオンスル-ピ-」キンクス「All Day & All of the Night」
ソロモンバ-ク「If You Need Me」テンプテ-ションズ「マイガ-ル」
などがメインで・・大好きだった女性歌手ティミユ-ロ「涙が頬をぬらす時」
を歌うと客席から黄色い声が飛んでいた・・親衛隊の女の子たちだった(笑)
もともと僕個人はFENの影響で60年代アメリカンポップスが大好き
だから自分が歌うとなると選曲がそちらへ偏りがちだったのだが
リ-ダ-のM君が毎回の練習場に持って来て我々に聴かせるのは
市内のレコ-ド店で彼自身が取り寄せたLPやEP盤で
黒人R&B系の曲が多くなっていた事もあって
バンドがそっちの方向へ向かって行くのは自然の成り行きだった
彼は新たに「バンドを作り直そう」という決心をした頃から
黒人ア-ティストのR&Bという音楽に魅力を感じていたようで
持ち前のハイト-ン(歌う声が男声としては高い音域でカッコいい)を
充分に発揮出来る曲を選んで来るようになっていた
しかし例えば僕が彼のボ-カルのバックで弾く事になる
エレキギタ-のカッティング等は非常にユニ-クでざん新だけれど
当初は曲によって戸惑うくらいに、従来のアメリカンポップスとは
アプロ-チが違っていてマスタ-するのに戸惑う事も多かった
ドラムスもベ-スも同じ事が言えたのである
この貴重な体験が、後の僕の音楽の最大の支えとなり
また、時代の変化の中で逆らえない荒波に、もまれる事もあったが
そんな時の心の誇りでもあった
*画像はダウンタウンズ最後のリサイタルとなったステ-ジで
M君が歌うプロコル・ハルムの「青い影」
僕はこの曲では有名な「オルガンソロ」をキ-ボ-ドで弾いた
3回目のリサイタルをもってバンドは活動に終止符をうつ
2回のヤマハライトミュ-ジックコンテストで中四国代表に
その間、山口県の岩国市米軍キャンプ、広島市内のディスコや
ライブハウスに出演しながら4人の青春の日々を送った
2024年 7月26日 拓郎-
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from: 哲ちゃんさん
2024年07月25日 17時15分07秒
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ラジオの青春 9
2024.7.24 Wed
千葉での挑戦中に知りあった東京の音楽関係者の紹介で
「人前で歌う機会」を作ってもらった事が数回あった
東京の渋谷や新宿の小さなLive形式の喫茶店
(今ならライブハウスと言う事だが当時そう言う呼称は無く
音楽喫茶とか・・そんな名称だったような記憶がある)
に出入りして東京の音楽事情を肌で感じる必要があった
しかし、正直に言って少し失望し始めていた事も事実だった
例えば、あるバンドは日本語で作られたオリジナルの持ち歌を
1~2曲演奏しながも、30分のステ-ジのほとんどが
ベンチャ-ズの「インスト曲を演奏する」というスタイル
その、いっけん器用とも受け止められる演奏スタイルは
僕には理解不能の音楽性であり、決してカッコヨクナイのだ
(少なくともビ-トルズのスタイルには、ほど遠い)
そんなバンドが人気者になっている東京の音楽の現状は
挑戦のはずが、失望感の方が大きくなるばかりで
僕の夢も、はかなく消えて行くだけ!という終幕を迎えていた
そして半年の間に10数曲の新作をレコ-ド会社に届けて
判断を委ねたが・・反応は大いにニブイものであった
(もちろん僕の実力にも限界があった事は間違いない)
広島のバンド仲間だったM君に手紙を書いた
「思っていたのと現実はまったく違っていました
ここには僕の思い描いていたポピュラ-音楽の夢は存在しません」
M君から折り返し返事が来た
「東京だからすべてがベタ-って時代じゃないんだと思います
帰って来ませんか?もう一度我々の残りの時間をフルに活かして
理想に近いバンドを結成しませんか!」
「やっぱり僕ってバンドの1人としての道が似合ってるのかな」
「君が帰って来て再びバンドに参加する気持ちがあるなら
僕にも新しいアイデアがあります
お互いにラジオで目覚めたポピュラ-ミュ-ジックを
さらに絞り込んでプロでも出来ないサウンドを目指しましょう」
母にも手紙を書いた
「約半年とちょっとの挑戦でしたが夢は叶いませんでした
でも本当に有意義な時間をありがとう! 帰ります」
帰広する前からM君とは頻繁に連絡を取り合い
新たに作りたい僕等の理想とするバンドの骨子を相談していた
大好きだったペトゥラ・クラ-クのヒット曲「恋のダウンタウン」から
バンド名は「ザ・ダウンタウンズ」とすること
4人編成でM君と僕がメインボ-カルとギタリスト担当
ベ-スはバチェラ-ズ時代の仲間のO君に声をかける
そして新たにドラマ-を募集して探す
*画像はザ・ダウンタウンズの本拠地だった
広島カワイ楽器5Fでの定期無料Live中の写真と
市内のホ-ルによる有料リサイタルのチケット
2024年7月24日 拓郎-
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2024年07月22日 17時05分36秒
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ラジオの青春 8
2024.7.22 Mon
コロンビアフォ-クソングコンテスト中四国予選大会に参加した
結果は僕の予想通りの大学生グル-プが1位・2位に選ばれた
そして審査員の特別推薦という枠が設けられ
神奈川県逗子市の逗子マリ-ナで開かれる決勝大会に
僕も出場する事になってしまった(マジで予想外だった)
ところが、この決勝大会でも僕は3位入賞という事になる
(ともかく1人でギタ-の弾き語りスタイルは珍しかったのだ)
*これも何か運命的なスト-リ-という事になるのだろうか?
僕は妻の佳代とその母と3人で後年に逗子に住む事になるのだ*
3位までの入賞者には主催者であるコロンビアレコ-ドから
特典でスタジオでのレコ-ディングが用意されていた
コンテスト翌日に赤坂のレコ-ディングスタジオに招かれたのは
1位と2位のグル-プと僕だった
(僕のあやしい記憶力でそのバンド名を思い出してみると・・
1位がベ-クランド・カルテット、2位はフ-ツ・エミ-ルという
2組だったではなかろうか・・そして後者は後の「赤い鳥」では??)
2組とも僕がその場で驚くほど場慣れしていて
演奏もコ-ラスもとても上手かったのを覚えている
さて・・僕はと言えば・・何しろフォ-クというジャンルへの知識も
本格的なスタジオでのレコ-ディングという体験も無いのだ
我ながら恥ずかしさと未熟さを身をもって味わう結果となった
だが、この体験をキッカケとして僕はフォ-クソングも含めての
「音楽の道」に何らかの自分の未来が見えて来るような気分を感じ初める
まだ何も具体的ではないのだけれど・・音楽をもっと追求したいと
そしてつくづく思ったのは東京とロ-カルとのプレイの力量差だった
アマチュアとは言えコンテスト決勝での1位2位グル-プは
本当に上手かった!同じようなグル-プは広島の大学にも沢山いたが
とにかくテクニックという事ではかなりの差があった
アメリカンフォ-クミュ-ジシャン達のテクニックをコピ-するには
当時とすればアナログLP盤が唯一の教師なのだが
広島のレコ-ドショップで入手するには限界もあった
そんな時、求める楽曲がラジオでオンエアされる事は大いに有り難い
ただ、しかし、ここでも地方に住む僕達にはハンディがあったのだ
この事は先にこのエッセイで触れたが、東京とロ-カルでは
ラジオでの音楽番組の内容があきらかに違う、時差のようなもので
その違いによってロ-カルに住む僕等は「音」による情報が少ない中で
楽器・演奏・歌などをコピ-するのだが、豊富な情報量の中でレッスンした
人達には及ばない事になってしまう
ある日、意を決して母に話した「俺ねえ、大学を1年休学して東京で自分の
可能性に挑戦してみたいって思ってるんだよ」
「それでアナタ何がやりたいの?」
「これからもっと沢山の曲を作って歌ってみたくなった
それを東京という場所で勝負してみようかって思うんだ」
「1年間の休学って・・じゃあ1年でダメだったら大学へ戻るって事なの?」
「うん、俺の性格からしても、そうだし、それにこんな挑戦って
1年でダメなものは5年も10年も頑張ったってダメだろうって思うんだよ」
「その1年でダメなら潔くやめるって事を私と約束してくれるのなら
私はアナタを応援する側に回りますよ」
当時広島カワイ楽器店店長はOさんという千葉県出身で学習院大卒の
エリ-トだったが、大変に音楽を愛する人物で僕達のバンド活動や
ギタ-教室などに積極的でバンドのメンバ-から「兄貴」と慕われていた
僕は、ある夜Oさんを楽器店横のバ-へ誘って決意を聞いてもらった
「そうなのか!拓郎君、いよいよトライしてみますか!
だったらね、僕がいい話をしてあげよう・・
僕の実家が千葉なのを知ってるよね、千葉の検見川って所で我が家は
お寺なんだよ!今も僕以外の家族全員でお寺を守っているんだ」
「あ-・・なんか・・店員の人から聞いた事あったなあ・・ホントだったんだ」
「君は東京とか千葉の地理や位置関係なんて知らないだろうけど
千葉から東京は電車で1時間弱くらいで行けちゃうんだ
僕が居た頃より今はもっと早いと思うから・・
つまり・・何が言いたいか?と言えば・・君は今回の挑戦を
千葉の我が家に無料でイソウロウしながら東京へ通うという日常・・
この提案を素直に受け入れなさい!東京に1人で住むとなると
何かと経済的に負担が大きくて、君だけでなくご家族も大変だと思う
君は出来るだけ誰にも迷惑をかけないで、自分の信じる音楽の道を
進むべきだと僕は思うんだよ」
*画像は千葉の検見川という町に居候時代、半年くらいだったが
お寺の本堂の横にあった8畳くらいの畳の部屋に居候させてもらった
朝晩の食事はご家族と一緒にいただき大変に良くしていただいた
毎日2chのテ-プレコ-ダ-に多重録音で曲作りをして
完成するたびに東京の赤坂のレコ-ド会社に届けていた
2024年7月22日 拓郎-
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2024年07月21日 07時04分41秒
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ラジオの青春 7
2024.7.19 Fri
ある日バンドのメンバ-でO君が僕に話しかけて来た
「拓郎!広島でフォ-クソングのコンテストがあるみたいだぞ
お前、出てみたらどうだ?どうせ俺達のバンドは解散風だし
フォ-ク村でもお前のはチョット変わってるから
案外と東京の審査員達もビックリするかも知れないぞ」
「へえ-そうか・・でもなあ・・俺フォ-クソングって良く知らないし
歌う曲が無いんだよな-・・アメリカンポップスならねえ・・
それに、お前達のバックが居ないとなあ・・1人じゃ無理だよねえ」
「だってお前ボブ・ディランとか時々真似してるじゃ-ないか!
ディランって1人でギタ-弾きながら歌うんだろう?
それをやればいいじゃ-ないか」
楽しかったバンド活動が自然消滅的な時期だったが
かと言って・・フォ-クソングに熱中するエネルギ-も出て来ない
「コンテストって何か面白いのかな-」くらいの関心しか湧いて来ない
くわえて、我が家の経済状態も僕をマイナス指向にさせた
母親が1人で茶道教室での収入を頼りに僕の学費を支えている今
もはや音楽を続ける事よりも就職活動に本腰を入れる時ではないか
その頃、僕はギタ-教室などのアルバイトも徐々に減らしていて
持っているのはセミアコのエレキギタ-1本だけである
フォ-クソングで使われているアコ-スティックギタ-なんて
当時はとても買えない値段だったのだ
もう1人のバンドメンバ-M君は
フォ-クソングのブ-ムとかを冷ややかに見ている人だった
M君は僕が上京後も「フォ-クの拓郎」には興味を示さず
新曲やアルバム曲にR&B風のフィ-リングがあると必ず
「拓郎、あの曲いいですね-」と喜びを伝えて来てくれたのだ
(キャンディ-ズの「やさしい悪魔」が大好きだったと後年に話していた)
「拓郎!君がもし、そのコンテストとかに出るんだったら
他の出演者とは違うアピ-ルを考えた方がいいよね
何か審査員とかがびっくりするような事を考えてね・・」
「え-?例えば・・どんな事だい?何をやればいいんだい?」
「まあ、そうだな・・俺だったら上半身は裸で・・下はステテコとかで・・」
「・・・・・・」
僕は1つのアイデアを思いついた
持っている「エレキギタ-1本」でディラン風に弾き語りをやってみる
(まだボブ・ディランもエレキギタ-を弾いていない?と思っていた)
歌う曲はフォ-クソングではないアメリカンポップスから選ぼう
もし課題曲とかがあってフォ-クソングというジャンルから
選曲する場合は、オリジナルとは全然違うアレンジにして
審査員達にも原曲がワカラナイようにして演奏しよう
コンテストの関係者から前もってアンケ-ト用紙が届いた
歌う曲目はエディ・フィッシャ-の「愛しのシンディ-」と決めた
フォ-クソングと言うジャンルからは「花はどこへ行った」を
キングストントリオの盤で覚えて、途中から7thコ-ドでの
ブル-ス風アレンジで演奏しながら歌う、と答えた
*画像は広島時代「フォ-ク毒えん会」という僕のソロコンサ-ト
弾き語りでオリジナル曲が中心だったと思う
他にギタ-教室の後輩生徒たちとグル-プを作り
僕のオリジナル曲を数曲演奏した
この時、僕と一緒にステ-ジに立った後輩たちのほとんどが
「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」
のレコ-ディングに参加する事になる
2024年7月19日 拓郎-
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2024年07月21日 07時01分37秒
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ラジオの青春 6
2024.7.18 Thu
高校を卒業して僕はバンドがやりたかった
しかし入学した広島商科大学(現在の広島修道大学)で
エレキギタ-を弾きたければカントリ-&ウエスタン部
に入るしかなかったのだ
当時は「ロックンロ-ル部」なんてクラブ活動はあり得なかった
しかし、まあその後もきっとどこの大学でも現在に至るまで
そんなクラブは正式には存在しなかったのだろうと推測する
僕はあの頃まだカントリ-ミュ-ジックとかに興味は無く
とにかくエレキギタ-でロックがやりたいのだ
入学して間もなく先輩学生による新入生への部活勧誘が始まった
とりあえずカントリ-&ウエスタン部をのぞいてみよう!と思い
僕は部室へ向かった・・ここからドラマが始まる
カントリ-&ウエスタン部の部室を探している僕に
1人の大柄な学ラン姿の男が話しかけてきた
「おい!君は俺と同じクラスの吉田君だろう!何してるんだい?」
「え・・あ・・そうだよ吉田です・・あの・・カントリ-の部室ってどこ?」
「あ-カントリ-か、君・・そこへ入部したいのか?」
「いや・・まだ・・決めてないし・・ちょっと・・様子を・・」
「おい!君、こっちの部室へ来いよ、君は高校時代に応援団とか
やってたんだよな?噂が入ってるぞ」
「え・・え・・何ですか?・・え・・応援団?・・僕がですか?え?」
実は・・この大学の各クラブの部室の並びが・・運命的だったのだ
「カントリ-&ウエスタン部」の隣は「応援部」の部室だった
そしてこの2つのクラブに所属していた1人の先輩Kさんは
何と広島で当時、最も有名だった(確かに演奏が上手かった)
エレキバンドのドラマ-だったのだ
僕はカントリ-部に入部することは取りやめた
そして僕に声をかけてきた同級生のF君は応援団員となり
その後しばらく交友関係が続く事になるのだ
後年、日本中で問題となった大学のクラブ部員による下級生への
シゴキ事件が我が校でも表面化し応援団は謹慎となるのだが
F君は1人頑張って応援団愛好会を結成し団の復活を目指した
僕は彼とのつき合いから及ばずながらも後押しをする事になる
そして月日が流れ、ある日、全国ツア-で新幹線の広島駅に到着
駅のホ-ムに列車が入るその直前から・・
車内の僕達にも何やら聞こえてきたのは
太鼓を鳴らす音と人の大きなかけ声だったのだ
F君が僕に示してくれた友情の「応援団による駅での出迎え」
僕は列車から降りる時、他の乗客への恥ずかしさを覚えながら
ホ-ムにずらっと並んで学ラン姿でエ-ルを送ってくれている
名前も知らない後輩たちに・・涙でしか応えられなかった
さて上述した広島NO1バンドのドラマ-で大学の先輩Kさんとは
その後、広島のバンド同士で良きライバルとなるが
彼等はベンチャ-ズスタイル、僕達はビ-トルズスタイルだったので
時代的に僕たちの方が生き残る事になる
そして、そして、このドラマ-の先輩Kさんは後に・・何と!
我々が育ち有名になって行くのを最後までサポ-トし続けてくれた
広島カワイ楽器店の店長に就任する!という・・不思議なドラマなのだ
*画像は高校を卒業後に高校時代の音楽好きが集まって
初めてバンドを結成した時の初ステ-ジと2回目のもの
皆実高校出身と広島商業高校出身が3人ずつ集まって結成した
「ザ・バチェラ-ズ」では僕はドラマ-としてデビュ-だった
会場は平和記念館という、ロックのLiveには不向きな場所だった
だが「若者の文化は誰にも止められない」という景色が見られる
そんな場所でありながら、我慢出来なくなった客席の若者達が
流行りのモンキ-ダンスを踊り始めてしまったのだった
当然、コンサ-ト終了後に我々は会場側からお叱りを受け
「この場所へ2度と出入り禁止」と通達された
素晴らしい想い出の1枚である
2024年7月18日 拓郎-
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すみとも、
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from: 哲ちゃんさん
2024年07月17日 08時45分55秒
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ラジオの青春 5
2024.7.16 Tue
広島フォーク村と言う団体の結成にあたっては
僕自身はさほどの興味とかを抱いていたわけではなかった
(そもそもフォ-クソングって?という程度の知識だった)
だが、愛してやまなかったロックバンドのLive活動が
大学の卒業を1年半後に控えていた事と、その後の就活もあり
バンド内でメンバ-個々の自由時間が噛みあわなくなっていた
当時メインのLive活動と言えば岩国米軍基地や市内のディスコが
多かったが、週に1回程度の新曲を含めた練習も困難になった
そんな時期に大学の後輩であるI君から相談を受けたのだ
あの頃は全国的に大学でキャンパスフォ-クという名称での
ブ-ムが盛り上がりをみせていた時代だったと思う
広島市内にも各楽器店の戦略でアコ-スティックギタ-販売を
促進させようと「ギタ-教室の開設」が盛んになっていた
ヤマハ・カワイ等のピアノ中心に全国的な販売網を展開していた
いわゆるメジャ-な楽器店が、突然のように巻き起こった
フォ-クブ-ムを無視できない季節だったのだと思う
このブ-ムの前に日本ではザ・ベンチャ-ズの「ウオ-クドントラン」
の大ヒットでエレキブ-ムという時代があってエレキギタ-で
演奏するバンドがプロ・アマ問わず沢山登場していた
大手の楽器会社だけでなくエレキギタ-専門の新規メ-カ-も含め
国内外製のエレキギタ-が楽器店の店頭に並ぶようになった
「勝ち抜きエレキ合戦」(このタイトルで間違いなかったかな?)
という番組がテレビで放送されるほどエレキブ-ムは凄まじかった
ただし当初はザ・ベンチャ-ズがそうであったように
リ-ドギタリストがひたすらにテクニックを披露するという
いわゆるインストゥルメンタル中心のバンドという形態で
(僕はベンチャ-ズよりもイギリスのシャドウズが好みだった)
ボ-カルが中心の「グル-プサウンズ」(誰が言い始めたのか?
今になって思うと実に雑で軽々な名称だと感じる)の登場は
ビ-トルズの世界的な大ヒットから始まる事になる
広島の市内にある主な楽器店はギタ-の販売促進として
各々がエレキギタ-教室を開催していたのだが
エレキギタ-ではなくアコ-スティックギタ-を使う
(日本ではフォ-クギタ-と言うようになった、これもどうか?)
フォ-クブ-ムも無視出来ないという時代が来ていた
僕とバンドリ-ダ-のM君はすでにエレキギタ-教室を
開設していたのだが、ある日カワイ楽器店の店長から
「拓郎くんフォ-クギタ-教室もやれるのかね?」と聞かれ
僕は当時フォ-クソングにほとんど興味も無かったし
もっと言えばフォ-クギタ-の奏法・・
例えばカ-タ-ファミリ-ピッキングという独特の奏法などの
知識も技術も持たない、あくまで自己流のエレキギタ-しか
弾けない人間だったのだけれど・・
「アルバイトとして結構いい稼ぎになるかも」と承諾した
事実、月収は大学生のバイトとしては悪くなかったから
行きつけのマンモスバ-にボトルをキ-プして毎晩のように
バンドの仲間と飲んだり音楽の話で朝まで語り合ったり
もちろんナンパしたり・・楽しいアルバイトとなっていた
時代がキャンパスフォ-クのブ-ムでもあったし
僕等のロックバンドがかなり有名になっていたのも影響してか
僕のギタ-教室には主に女子大生や高校生たちが来るようになる
しかし、そこで教えるのはいわゆるフォ-クギタ-奏法ではなく
僕が自分で作成した教則ノ-トを見ながら
「ピックで弾く」(ベ-スランを加えながら弾く僕の自己流テク)
「色々なストロ-クを教える」と言う異色の教室だったのである
レッスン曲も人気のフォ-クソングなどではなく
(そもそも僕はフォ-クソングのレパ-トリ-すら知らない)
アメリカンポップスから選んだエルビスプレスリ-や
ジョニ-リバ-ス等のロックンロ-ル曲がほとんどだった
I君が言った「カワイとヤマハと楽器センタ-や他の
ギタ-教室を1つにまとめてフォ-ク村という団体を作りたい
そこで皆で一緒に歌や楽器やコ-ラス等の研修を積んで
各ギタ-教室の生徒も含めての定期コンサ-トを開催したい」
バンド活動がヒマになっていた僕は、就職という目先の将来にも
何か「夢」を見いだせないままのグ-タラ日常だったはずである
「やってみたら!協力するよ」と応えたのだった
*画像は広島フォ-ク村時代
地元のテレビ局からの出演依頼で市内の平和公園で
子供たちと一緒にフォ-クソングの名曲「パフ」を演奏
ただしオリジナルのピ-タ-ポ-ル&マリ-が弾いた
2フィンガ-奏法を1夜づけでコピ-したが上手く弾けず
現場ではピックで弾いてごまかした(笑)
この時生まれて初めてボブディランの「風に吹かれて」を
歌ってみせたら、子供たちに「こっちがカッコいい」
と褒められて・・
内心「俺はP.P.Mではなく今後はボブディランで行こう」と
思った・・か・・どうか・・?・・?
2024年7月16日 拓郎-
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すみとも、
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from: 哲ちゃんさん
2024年08月09日 11時48分54秒
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よしさんさん「ラジオ」今朝YouTubeで聴きました。相変わらずの二人のトークに笑ってしまいました。(^o^)いいコンビですよね。このまままたレギュラ