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吉田拓郎ファンサークル

吉田拓郎ファンサークル>掲示板

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年08月31日 15時51分19秒

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    ラジオの青春 29

    2024.8.31Satレコ-ディングもmixダウンに入ったいよいよ・・そんな時が来たともかく「今やれる事はやったな」だまだ僕の周辺は何となく、あわた

    2024.8.31 Sat

    レコ-ディングもmixダウンに入った

    いよいよ・・そんな時が来た

    ともかく「今やれる事はやったな」だ

    まだ僕の周辺は何となく、あわただしい動きもあるようで

    正直に言って・・もう・・いいよ・・と思う事もあるし・・

    でも以前からたのまれていた作曲が、もう1件ある・・今のところ(苦笑)

    これも、絶対に全力投球するつもりではいる

    だってね-・・アイツからたのまれたら・・ねえ・・アハハ・・

    *画像は・・

    2度目のロスアンジェルス

    アルバム「シャングリラ」の制作で再びL.Aへ

    機内で手にしているのは懐かしの「Sonyウオ-クマン1号機」で1979年頃発売かな?

    このウオ-クマン!ともかく録音機能が無い(このアイデアは斬新だったね)

    ポ-タブル・カセットプレ-ヤ-だったが爆発的な人気となった

    我々ミュ-ジシャン仲間もツア-移動中は、ほぼ全員が機内、車内で使っていた

    その後2代目ウオ-クマン以後はCD・MD等の機種が続き

    カセットテ-プの姿は時代と共に見られなくなって行く

    これは僕個人の勝手な感覚だけど・・例えばLP盤とかEP盤が全てCDになった時

    マジで「これからは、こんな貧相なサウンドでいいわけ?」って・・

    単に「音」の事に限って言えば・・それくらい・・CDの音って冷たく細く感じた

    そんな気分からすると・・ポ-タブルな録音機器も同じ事が言えたように思うのだ

    カセットテ-プの決してクリアではないけれど「何だか暖かい」って思える音質は

    その後のCDやMD等の新しいモノからは感じられなくなったと・・

    チョイ淋しく感じていた・・あの頃はね・・

    ちなみに僕は現在も自宅で就寝時にiPod・nanoとウオ-クマンSを使って

    50年代60年代アメリカンオ-ルディ-ズを聴きながら楽しい眠りに入っている

    まあ、この場合はステレオサウンドもモノイヤホンに変換しての「眠り用」なので

    音質は要らないし、横向きに眠るので(何だか・・寝ぞう・・が・・バレて・・)

    片耳にイヤホン差したままで朝が来てもOKな状態を優先している(ヘンなのッ!)

    さて、録音スタジオはL.A郊外のマリブにある「シャングリラ・スタジオ」

    憧れのザ・バンド解散記念ドキュメント映画「ラストワルツ」が

    撮影されたスタジオである

    あのザ・バンドの連中が「ここに居たんだ」と思うだけで身震いがした

    一番びっくりしたのは・・そのキ-ボ-ディストのリチャ-ド・マニュエルが

    時々スタジオに来て僕達の作業をのぞいていた事だった

    (どうも・・いけないタバコを、いつも持っていたようだった?)

    レコ-ディングの後半になってプロデュ-サ-のブッカ-Tジョ-ンズが

    「タクロ-はザ・バンドの大ファンらしいから、1人呼んでやるよ」と

    もう1人のキ-ボ-ディスト、ガ-ス・ハドソンをスタジオに呼んで

    アコ-ディオンをダビングする事になった

    作詞の岡本おさみも同行していて、ガ-スが「この曲ってどういう内容だい?」

    と聞いてきたので、岡本おさみが日本語で歌詞の内容を説明した

    通訳が訳すのを聞いていたガ-スは「フウ・フ-ン・・フウ・フ-ン」とうなずいて

    スタジオに入り演奏し始めたが・・

    僕のつたない英語力でも、通訳の説明が「なんだか・・そうかなあ?」だったし

    それを聞いていたガ-スが「大いに理解して納得した」とは・・思えなかった

    そして、彼の弾くアコ-ディオンは・・さらに難解なアプロ-チで・・まいった(笑)

    初めての海外レコ-ディングで「わかっていない自分」を発見する事が多かった

    ブッカ-Tジョ-ンズとの音楽的なコミュニケ-ションにも

    大いに戸惑ったし、言葉の壁も感じた・・全てが僕の勉強不足だったのだ

    そこで思ったのが、セッションの場で様々な場面を想定して(特に言葉のニュアンス)

    もっと「説得力のあるデモテ-プを作って現地入りすべきだ」という事だった

    それは後のバハマ諸島コンパスポイント・スタジオでのセッション

    「Long time no see」では大いに力を発揮する事になるのだった

    2024年8月31日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年08月30日 13時25分36秒

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    ラジオの青春 28

    2024.8.30Fri「あの曲」が完成した!「どの曲?」・・・・「だから・・あの曲だってば」信じられない素敵なアレンジを武部君と考え出したのだまず武

    2024.8.30 Fri

    「あの曲」が完成した!

    「どの曲?」・・・・「だから・・あの曲だってば」

    信じられない素敵なアレンジを武部君と考え出したのだ

    まず武部がブラスセクションをサックス3本(アルト・テナ-・バリトン)で

    見事なまでのドゥ-ワップ!

    もう嬉しくて涙がチョチョ切れます

    「そう来るんなら俺はこうやるぜ」と僕がコ-ラスチ-ムに

    まさに「あの時代」ホウフツのバッキング例を歌って聴かせ

    それを横で武部が譜面にアレンジして彼等にレッスン

    思わず笑顔になっちゃうよ--

    これだから音楽は楽しいんだよねえ-ね-ね-

    音楽とは「音を楽しむ」と書くんだからね

    この曲を「どうしても、こうやって歌いたかった」のでした

    それが実現しました

    嬉しいです・・ありがとうございます・・僕の音楽を好きになってくれて!

    本当にありがとう!

    こんな楽しい瞬間を求め続けて、ここまで音楽して来ました

    遠い青春の頃、広島でバンド仲間と毎日のように育んだ夢は

    音楽の持つ「自由」への憧れから始まったものでした

    「こうでなければ」という偏屈な言い分は音楽には通用しないのだと

    あの頃、毎晩のように4人で夜遅くまで語り合った若い情熱

    まさに青春の季節の、小さいけれど大切な!約束でした

    *画像はコ-ラスチ-ムに武部と僕がレッスンしている風景と

    スタジオインで迫力のコ-ラスRec中の「いづみ・ゆうほ・今井・土居」

    僕の最終章ツア-で素敵なハ-モニ-とパフォ-マンスを披露してくれた4人

    2019年名古屋センチュリ-ホ-ルLiveでの彼らと僕のコンビネ-ションは

    今も自慢出来る、パ-フェクトなステ-ジとなりました

    中でも「恋の歌」で楽しんで「純」「ガンバラナイけど・・」「この指とまれ」の

    ガンガン来る彼等のボ-カルは圧巻で、リ-ドボ-カルの僕を押し押し!

    「ガンバラナイけど・・」「この指・・」では、さすがの僕が押されて

    クソッ!と「この指・・」最後の1フレ-ズでついついシャウトしちゃったな

    あ-懐かしいね!

    2024年8月30日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年08月27日 16時09分12秒

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    ラジオの青春 27

    2024.8.27Tue以前にラジオでお話しした「ラジオの青春」をテ-マにミニアルバムを製作中ですここで僕が言う「ラジオの青春」とは・・単に、ラジオの

    2024.8.27 Tue

    以前にラジオでお話しした「ラジオの青春」をテ-マにミニアルバムを製作中です

    ここで僕が言う「ラジオの青春」とは・・

    単に、ラジオのパ-ソナリティ-を沢山やらせていただいた・・とか

    深夜放送を色々と体験させてもらった・・とか

    そのレベルの話ではありません

    いきなり始めた感だったと思いますが・・「そうしたい!」と思ったのです

    ここのブログペ-ジでの連載エッセイにも記したように

    僕自身が、ラジオを聴きながら成長して行く人生において

    日常を勉強し、愛も憎しみも体験し、そして音楽を追求する事になった日々

    そこに常にラジオが居たような

    ラジオは僕に何があっても「そこに居てくれた」ような

    そんな気がする現在の心境を「歌にする」なら、どうなるか?

    そんなシンプルな心情を数曲レコ-ディングしてみたい

    では・・どんな曲が・・

    詳しいラインアップとライナ-ノ-ツは9月になったら

    このホ-ムペ-ジだけで!!!掲載するつもりです!!!

    僕は本当にラジオが好きでした

    高校生だった頃に1リスナ-として音楽番組にリクエストハガキも出しました

    ハガキが読まれた事もあって、とても嬉しかったのです

    上京して最初に吉田拓郎に声をかけてくれた、のもラジオでした

    以来、僕はラジオで語る事が幸せで、楽しくて、リスナ-からの便り、メ-ルを

    読むのが本当に大好きだったのです

    その時代、その季節、その時の「あなたの想い」をたくさん聞かせていただきました

    そんな「あなた」に今、いっぱいの感謝の気持ちです

    素敵な時間を「ありがとう」

    *画像は昔のラジオスタジオ風景です

    パ-ソナリティ-の机の上は、機材でいっぱいだった事もありました

    レコ-ドを自分でタ-ンテ-ブルに乗せて、曲をかけたり

    用意されている録音素材を自分でテ-プ回したり

    今では考えられない・・セルフサ-ビスぶりでした

    もう1枚は、まさに今

    スタジオで最後の曲にボ-カル入れをしています

    こんな風景も、いよいよ「見おさめ」

    もう一度

    「ありがとう!」

    2024年8月27日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年08月26日 16時32分03秒

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    ラジオの青春 26

    2024.8.26Mon※画像-1はつい先日、西麻布にあるRecスタジオでのスナップJ-45をダビングする事になり弦を新しいものに取り換えている僕です

    2024.8.26 Mon

    ※画像-1は

    つい先日、西麻布にあるRecスタジオでのスナップ

    J-45をダビングする事になり弦を新しいものに取り換えている僕です

    以前だったら・・マネ-ジャ-、ツア-ロ-ディ-、ステ-ジスタッフ・・他

    いずれにしろ「僕ではない誰か」がギタ-の弦を、張り換えてくれた・・・

    そんな時代でしたが・・・さすがに色々とリタイアを進めている身です

    こんな事も自分でやるのが当たり前な季節をむかえております

    (でもあの頃も・・こうでした・・それも楽しい青春です)

    画像-2は

    このところ僕が良く使っているRecスタジオの風景

    昔と違うのは、スタッフに若い女性が増えたこと

    しかも大変に優秀な人たちなのです

    メインの男性エンジニアは古くからの知りあいですが

    後方で録音・再生・修正etcの機器を担当する女性スタッフの手際の良さは

    実に素晴らしく、僕のボ-カルRecでの対応も非常に軽快な

    言葉のキャッチボ-ルで、とても「歌いやすかった」という印象が残りました

    実は、このボ-カル入れ!という作業は大変にナ-バスな時間なのです

    「この曲を、どう歌いこなすか・・聴く人々に伝えるか・・」などは

    1曲ごとに気分も違うし、心の在り方も微妙に違うものなのです

    スタジオでのエンジニアやサポ-トスタッフとの「絶妙のタイミング」が

    その1曲1曲を「気持ちよく歌えるかどうか?」につながるのです

    2024年8月26日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年08月22日 12時06分21秒

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    ラジオの青春 25

    2024.8.22Thuさて「ああ青春」だが・・当時トランザムというバンドを結成していたドラマ-のチト河内とは以前から僕のツア-や録音スタジオなどで一

    2024.8.22 Thu

    さて「ああ青春」だが・・

    当時トランザムというバンドを結成していたドラマ-のチト河内とは

    以前から僕のツア-や録音スタジオなどで一緒になる事が多かった

    彼が「俺達の勲章」の音楽を担当する、と聞いていたので楽しみにしていた

    ある日、彼から「テ-マソング」をトランザムで演奏したいのだけど

    歌詞をつけて「ボ-カルもの」を作りたい「歌詞を作ってくれ」と連絡があった

    「僕はこの曲はインスト物として作ったから、歌詞のアイデアは無いよ

    松本隆にたのんでみたらどうなの」と伝えたのだ

    そして事は順調に進行しトランザムが歌い演奏する新曲「ああ青春」が

    出来上がったのだった

    つまり松本隆が、後から僕の作ったあのメロディ-に詞を当てはめる事で

    「俺達の勲章」が「ああ青春」という曲に生まれ変わったのである

    あの時に松本隆から「かぞえ歌みたいな事を考えてるけど、どうかな?」と連絡があり

    僕は「あのメロディ-はチョット哀愁モノだから和風な言葉も面白いかも」と思った

    出来上がった「ああ青春」は僕自身も何度もステ-ジで歌ったけれど

    吉田拓郎的には(どんな的だい?)やはり、その後の彼との多くの共作と比べると

    「一緒に作った感」みたいな気分・・(僕の勝手な思い入れだが・・)が薄いのだ

    そんな事もあって、これが松本隆との初の共作とは僕は思っていない

    (ちなみに「つま恋1975」でオ-プニングシ-ンが、この曲になった経緯は

    あの時の僕のオ-プニングバックバンドがトランザムだった事が大きな要因で

    あの前代未聞で、全てが初体験なステ-ジに、いきなり登場して演奏する

    我々の気持ちというのは・・予測不可な事態であり「何を1曲目に演奏するか?」

    大いに悩んだ結果「安全策」という意味合いも含めての選曲となったのだ

    (事実、そのオ-プニング1曲目を演奏すべくステ-ジ裏に集まったトランザムと僕は

    スタッフに叫んだ「おいアルコ-ル無いか!」・・・今でも忘れない・・・

    6万人強の聴衆を生まれて初めて目の前にした我々は完全に・・舞い上がっていた!

    それは恐怖感とも言える心臓の鼓動で、全員でウイスキ-を口に含んでステ-ジへ

    かけ上がったのを忘れない)

    あのオ-プニングは、その後「朝までやるよ-朝まで歌うよ–」の僕の第1声に呼応した

    6万観客の歓声と共に・・感動的な?オ-プニングと語られる事になるが・・

    実は・・「ああ青春」の歌詞・・「二人じゃ息さえもつまる部屋」とか「心は遠ざかる安い宿」

    というフレ-ズが、あの真夏の太陽が照りつける午後、数万の観客の大歓声を前に

    1曲目に選ぶには、やや空気が違う!と感じたのは・・・

    歌っていた僕1人だったかも知れない・・もちろん僕も、あの場にいた全ての若者達も

    「それどころではない!歌の歌詞なんか冷静に聴いていない!」

    それほどの興奮状態だった事は間違いない

    さて、では松本隆と僕の第1作は?と言えば

    間違いなく「東京メルヘン」木之内みどりへの提供曲である

    木之内みどりは当時、あらゆる雑誌の表紙を飾る本当に美しい少女だった

    あの頃、有名な「GORO」の表紙をカメラマン篠山紀信が撮影して大人気だったが

    中でも木之内みどりは群を抜いて素敵な雰囲気をもった存在だった

    ある日、松本隆から「一緒に木之内みどりの新曲をやらないか?」と連絡があった

    すでに松本は彼女の作品をいくつか書いており

    今回は僕にオファ-してみようとスタッフ間で決まったらしい

    作曲をするにあたり、アレンジャ-を石川鷹彦でやる事を決めた

    基本はロックテイストのバンドでリズムセクションを録音し

    加えてストリングスを本格的に使いたいと考えた時

    当時アレンジャ-では石川鷹彦が最も流麗なストリングスを書ける1人だった

    ちなみにこのレコ-ディングでリズムセクションを録音した時に

    後に僕がツア-などで親しくセッションする事になる

    島村英二や徳武弘文が新人ミュ-ジシャンとしてスタジオに居た

    ボ-カルレコ-ディングの現場で、拓郎ブシを木之内みどりに教えるのは

    けっこう大変だったが、彼女がすでに良く知る松本隆を「先生」と呼びながら

    「このメロディ-って難しいですよねえ松本先生」と訴える姿を横目で見て

    「そのうち俺の事もタクロ-先生って言わせるからな!」とヤキモチ半分の

    「負けたくない」精神がムラムラと湧き上がってきたものだった

    余談だが、後年に太田裕美の作品を作る時がやって来て

    再び松本隆とコンビを組む事になる

    やはり太田裕美のボ-カル入れに同席した松本に対しても

    太田裕美は「松本先生」と愛情いっぱいに接していたが

    僕には単なる「タクロ-さん」であった(負)

    *画像は・・・アルバム「ロ-リング30」のジャケット写真

    このサイパン島での撮影はカメラマン大川裝一郎との思い出のセッションとなった

    彼は愉快な人間で、撮影時には必ず「何が起こるかわからないから」と

    「自分なりのキッチリしたファッション」で決めて撮影に入るのだ

    ある日「ねえねえ大川ちゃん!君って何で、撮影の時にファッションを

    キッチリ決めるんだい?」って質問してみた

    答えは「今回は拓郎の撮影だから、まあそれなりにキッチリとね

    そして・・例えば若い女優さんとか女性の歌手とかのオファ-があれば

    撮影中に何があるか?起こるか?ワカライじゃ-ないですか!

    だから僕なりの準備はバンタンで臨みたいわけですね」だってさ!(笑)

    要するに・・こうだ・・若くて美しい被写体(女性)と接する時に

    そのモデルの方と大川君が・・アハハ・・・恋におちないとも限らない・・

    そういう事ね(笑)

    あり得ない!!絶対に!!あり得ない!!

    アンタ・・今ごろ天国でも無用のファッション決めて撮影中だろうね

    2024年8月22日  拓郎

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    2024年08月19日 18時51分50秒

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    ラジオの青春 24

    2024.8.19Monアルバム「ロ-リング30」刺激的なレコ-ディングだった作詞の松本隆との短期合宿での作品作りは忘れられない想い出となったその前も

    2024.8.19 Mon

    アルバム「ロ-リング30」刺激的なレコ-ディングだった

    作詞の松本隆との短期合宿での作品作りは忘れられない想い出となった

    その前もその後にも沢山のアルバムを作り

    それぞれに想い出と愛のスト-リ-がいっぱい残っている

    ただ「ロ-リング30」ほど短い時間でのスリリングな曲作りと

    レコ-ディングというのは記憶に無い

    特に松本隆と2人だけで箱根のホテルに閉じこもり曲作りしながら

    息抜きにプ-ルサイドに出て、プ-ルで泳ぐ若い女性たちのまぶしい姿に

    思わず笑みが浮かぶのをとめられない、あのすがすがしい夏の景色は

    間違いなく、名曲を生み出す「素敵な空気」を僕達2人に送ってくれた

    「外は白い雪の夜」を5分くらいで僕に作らせてくれたのは

    あのプ-ルサイドの夏の風景だった事を今!・・・白状いたします

    またスタジオでのRec風景を文化放送の(たしか生放送?違ったかな?)

    番組で中継したような記憶があるが・・

    番組用にスタジオではメンバ-が色々と気を使って明るく振る舞ってくれたが

    実は残念な事に、レコ-ディング前夜の顔合わせ飲み会で

    バンドメンバ-にフトドキモノが1人居る事が判明し

    一緒にいた他のメンバ-達も総意で彼をシャットアウトした事件があり

    結果的にはメンバ-全員が「せっかくの合宿Recが楽しくない」という

    アルバムの完成度とは異なるマイナスな気分が残ってしまった

    (そんな事もあって予想外に早いピッチでRecが進んだ事は逆に良かったが)

    松本隆との曲作りのハッピ-な時間に比べると

    あの「ロックウエル・スタジオ」での合宿レコ-ディングは

    僕もメンバ-も、あまり良いイメ-ジが残っていないのだった

    (フォ-ライフ4人でのクリスマスアルバムも、ロックウエルstだった

    いっけん4人の楽しそうなRec風景という景色を演出してはいたが・・・

    スタジオインした日から、すでに不協和音は鳴り始めていたのだった

    ともかく4人ともそれぞれに出来るベストを尽くしたが・・

    ひび割れは、いかんともしがたく大きくなるだけで

    このスタジオには良い思い出が、あまり無い・・事になった)

    松本隆との初めての曲作りは1975年の「ああ青春」という事が

    通説となっているようだが・・違う!(と僕は言い切りたい)

    この曲は元々、1975年に日本テレビの連ドラ「俺達の勲章」のスタッフから

    ドラマの中で使う主題曲を、まず「インストゥルメンタル(歌無しで)」で!

    そして主人公を演じる松田優作と中村雅俊の2人用に

    彼等が活躍するシ-ンで各々のテ-マ曲が必要となるので

    松田優作には松田優作のテ-マとしてインストゥルメンタルで!

    中村雅俊には(彼は歌手でビュ-もしているので)歌詞ありの曲を!

    計3曲を作ってくれないか?とのオファ-があった

    「歌の無いインストでドラマ主題歌を作ってくれ」というリクエストは

    僕としても、とても嬉しいオファ-であり、さっそく自宅での

    4チャンネルテレコを使ってドラム・ベ-ス・コ-ドに

    エレキギタ-でリ-ドメロを録音して先方にプレゼンした

    つまり、この段階ではドラマ「俺達の勲章」のテ-マ曲!というだけで

    「ああ青春」というタイトルは付いていないのである

    次に松田優作のテ-マだが「彼が事件や犯人を追いアクションするシ-ン用」

    という注文で少し悩んでいたが・・・

    ある日、某テレビ人気番組からヒントを得て完成した・・・事を今バラス(笑)

    中村雅俊のテ-マはドラマ班と共に彼のスタッフからもリクエストがあり

    わかりやすく言えば「ヒットをねらう」という事だったので

    作詞に喜多條忠を推薦した

    彼とは時を同じくして、松平純子という女優の「両国橋」を作り

    僕の個人的な感覚でしかないが・・「喜多條はヒット歌謡が書ける男」と

    感じていたので、中村雅俊サイドのオファ-に合致するものが出来るような

    予感があったのだ

    「いつか街で会ったなら」は予想通りヒットしたし、今でも大好きな1曲である

    後編へつづく!

    *画像は「ロ-リング30」のジャケット撮影でサイパン島へ行った時のもの

    左側が松本隆で中央が僕

    松本隆とは軽井沢などへも他の歌手への提供曲の打ち合わせで良く行った

    二人とも愛車でのドライブが好きだった事もあっただろう

    軽井沢の蕎麦屋で、定番の「信州手打ちそば」を食べる彼をヨソに

    関西ウドン派の僕は「天ぷらウドン」を注文して失笑をかった

    50歳を過ぎた頃に、やっとソバの美味しさがわかり始めたのだった

    2024年 8月19日  拓郎

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    2024年08月16日 21時47分38秒

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    ラジオの青春 23

    2024.8.16Fri有楽町、旧ニッポン放送の正面入り口の少し横のあたりに駐車するオ-ルナイトニッポンへは自分の車で向かっていた夜9時頃にスタジオイ

    2024.8.16 Fri

    有楽町、旧ニッポン放送の正面入り口の少し横のあたりに駐車する

    オ-ルナイトニッポンへは自分の車で向かっていた

    夜9時頃にスタジオインしていたので、あの頃は駐車違反なども

    取り締まりが柔軟だったようだ?

    生番組が終わり、午前3時半頃に外へ出ると

    毎回、数人の「デマチ(出待ち)」がいて・・時には車で僕を追走する人もいた

    そんな時、必ず使った手段は・・

    霞が関から高速道路に乗って、深夜なので走っている車も少ないから

    高速を暴走して(いけない事である)ふり切っていた

    あの頃の有楽町のスタジオは雰囲気のある

    まさにオ-ルディ-ズな空気が流れていて僕は好きな場所だった

    そして後年に社屋が改築される事になり、スタジオは「お台場」に移動したが

    僕はワガママを言って、有楽町の誰もいない古びた昔のままのスタジオで

    ANNデラックスという番組収録を続けさせていただいた

    当時「お台場」という場所が何故か(僕の第1フィ-リングで好きじゃない!)

    という理由でディレクタ-のK氏が頑張って、もはや使う事の無い有楽町の

    旧スタジオでの収録を可能にしてくれた

    しかし、何しろもう全社員スタッフがお台場へ引っ越した後の社屋である

    人影の無いビルは全体に薄暗くて少し不気味でもあり

    そしてトイレも清掃がおろそかになっているから「匂った」(苦)

    また秋から冬の期間になるとナンと!暖房が効かなくなるのにはマイッタ

    だから番組中もぶ厚いダウンコ-トなど着たままでの収録だった

    (石油コンロを置いた日もあったなあ)

    有楽町の旧スタジオで忘れられないエピソ-ドは

    1997年12月ゲストに女性4人組「マックス」を呼んだ夜

    ナンと!ラジオでは・・あるまじき・・スタジオで「鍋を囲んで」の

    愉快なト-ク!をやったのだった

    ラジオ番組で「湯豆腐鍋」やりながらの収録は後にも先にも、これ1回!

    番組収録後は必ずゲストもまじえての打ち上げだった

    その席で僕は必ずディレクタ-のK君をやり玉に上げてイジルのが楽しかった

    まさか、後に彼が会社の重要ポストに昇進するなんて思っていない

    もちろん、それがわかっていたら僕だって彼にオベンチャラを使って

    ゴマをすったはずである(・・・出来たかなあ~???)

    最近も、時々ニッポン放送地下のレストランで彼とビ-ルする時がある

    もちろん僕は、あの頃のように「おい!K!」と呼び捨てにする事はない

    丁重に「そうですよねKさん」と穏やかにお話させていただくのだ(汗)

    当時の番組ディレクタ-K氏は現ニッポン放送の常務取締役である

    ※画像は旧ニッポン放送社屋の入り口と

    その時代にスタジオインする、車に乗った僕と

    後年に、誰もいなくなった有楽町スタジオで湯豆腐するマックスと僕

    残念がらマックスの表情は見えない

    2024年 8月16日  拓郎



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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年08月14日 14時03分47秒

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    ラジオの青春 22

    2024.8.14Wed深夜放送のブ-ムがものすごくて各放送局のパ-ソナリティ-も色々な職業の人やキャラクタ-が選ばれていたがやはり各局の所属アナウン

    2024.8.14 Wed

    深夜放送のブ-ムがものすごくて各放送局のパ-ソナリティ-も

    色々な職業の人やキャラクタ-が選ばれていたが

    やはり各局の所属アナウンサ-の人気がスゴかった

    そんなパ-ソナリティ-が一堂に会するコンサ-トも催される

    今では考えられない企画だと思うけれど

    当時の各局の深夜放送パ-ソナリティ-が全員ステ-ジに登場するイベント

    フォ-クソングのブ-ムもそれなりにあったが・・

    それにも増して深夜放送パ-ソナリティ-の人気は大変なものだった

    そんなコンサ-トに僕などがシンガ-としてゲスト出演しても

    彼等の人気には敵わない事を実感したものだった

    また、専門誌が発刊され毎月その月の各番組パ-ソナリティ-の

    人気投票などが行われて月刊のベストテンが発表になっていた

    そんな中でも圧倒的な人気だったのが文化放送セイヤングの落合恵子で

    レモンちゃんの愛称で深夜族に愛されていた

    (ちなみに僕は2位に選ばれたりした事もあったが・・レモンちゃんには勝てなかった)

    *画像は、その頃におぼえたゴルフをする僕(笑)

    2年くらい続いたが・・国内のとあるゴルフ場でトラブルになり・・やめた

    やめた後はハワイやL.Aなどに行った時だけプレイを楽しんだ

    ちなみに僕は100を切るか切れないか(切れない)程度の初心者レベルで

    ゴルフをする人ならおわかりだと思うが・・

    パ-4やパ-5のコ-スのティ-グラウンドで1打目を打ったあとは

    4人パ-ティ-の他の3人がフェアウエイを歩いて談笑しながら

    2打目、3打目の地点に向かうのだが・・僕は・・

    1打目(ティ-ショット)を、まず林の中とか森の中とかに打ち込み

    5番アイアンや6番アイアンを持ってボ-ルの落ちた地点へ(森の中)走り

    そこからの2打目で脱出に失敗し、3打目・4打目も森の中から

    カ-ン(ボ-ルが木立に当たる音)という音を続けて、何とかグリ-ン近くへ

    そこで、やっと・・3人の仲間に出会う!というゴルフだった(わかる?)

    日本のゴルフ場はとにかく深い木立に囲まれているコ-スがほとんど・・・

    因にハワイやL.Aのコ-スは、おおむねシ-サイドに設けられており

    景観の広がるコ-スは、僕のようなビギナ-に開放的な気分を与えるから

    案外、1打目からフェアウエイキ-プが可能だったのだ

    (ゴルフってマジにメンタルなスポ-ツなんです・・・よね?)

    最後にクラブを握ったのはアレンジャ-の瀬尾一三にハワイ・マウイ島で

    生まれて初めてのゴルフを体験させた時で

    その日、彼はこれも生まれて初めてのカ-トに乗り、もう一つ生まれて初めて

    エンジン付き4輪を運転した(関係無いけど彼は運転免許を持っていない、今も)

    そして、美しいゴルフ場に立つ素敵な1本の木に激突!

    あえなく木は二つに折れて・・・・我々は逃げるようにゴルフ場を後にした

    (俺は知らん・・)

    2024年 8月14日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年08月14日 10時30分11秒

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    ラジオの青春 21

    2024.8.13Tue初めてのアメリカだったロスアンジェルスでボブ・ディラン&ザ・バンドの全米ツア-と聞いて「これを見逃すようではボブ・ディランのフ

    2024.8.13 Tue

    初めてのアメリカだった

    ロスアンジェルスでボブ・ディラン&ザ・バンドの全米ツア-と聞いて

    「これを見逃すようではボブ・ディランのファンだなんて大きな声で言えない」

    な-んて・・考えたか・・どうか・・ともかく友人たちの強い誘いもあって

    あんまり好きとは言えない長時間の飛行機旅を決意した

    あの頃・・どうだったんだろう?羽田とL.A間は10時間以上はカカッタのでは?

    ファ-ストクラスやビジネスクラスで行けばもう少しは楽だった?のに・・

    チケット手配した者ですらが海外の経験の無い人物だったので

    エコノミ-クラスでの長時間は実に疲れた事を覚えている

    機内では一緒にコンサ-トを観に行く事になった某音楽事務所の社長が

    奥さまが作ってくれたというオニギリを皆んなに振る舞うのだが・・

    エコノミ-とは言え機内食とかで、その気(米国旅)になりたい我々としては

    初の海外旅行の飛行機内で手製のオニギリが、なんだか遠足みたいでシラケタ(苦笑)

    初めてのアメリカは毎日がドキドキの連続で、早朝から深夜まで遊び回った

    当時は、まだ人種差別的な空気が色濃くあったので、白人中心主義からすると

    我々はカラ-ドというククリに入っていたようで、夜の街のバ-等へ入る時も

    白人オンリ-の店ではチョット居心地が悪いが、逆にカラ-ドと書かれた店では

    黒人と一緒に楽しくアルコ-ルを飲み、見知らぬ同士がブロ-クンで意気投合した

    (生まれて初めて体験する肌の色による差別に大いなる怒りもおぼえた)

    ある夜、バ-で知りあった黒人客の誘いに乗って、彼の自宅へ案内されて

    驚きの体験をした・・(詳しい事はここでは言えない)

    また翌日は乗ったタクシ-の運転手に「ワン・ダラ-・ガイドするかい?」と聞かれ

    我々全員が「ワン・ダラ-・ガ-ル」との聞き間違いで・・

    ハリウッドスタ-達の高級邸宅が並ぶビバリ-ヒルズを1周しながら

    「ここにプレスリ-の別荘が、ここがフランクシナトラの家で

    こっちがスティ-ブマックイ-ンの邸宅で・・・」と我々4人から1ドルずつ巻き上げ

    まさにワン・ダラ-・ガイドであった

    見事なまでの「オノボリサン」状態でのアメリカ初体験だった

    ボブディランとザ・バンドのコンサ-トはロスアンジェルス・フォ-ラムという

    ド-ム風の会場で行われた

    時代が時代だったから、会場は開演前から「例のタバコ」の匂いに包まれる

    異様な盛り上がりの中・・ディランとバンドがステ-ジに登場

    ナンと!ステ-ジ中央のマイクではなく、ややセンタ-から外れた位置のマイクに

    ディランが立ち歌い始めた

    ステ-ジセンタ-にはザ・バンドのギタリスト、ロビ-・ロバ-トソンが立つ

    このセッティングには驚きと同時に感激と興奮を覚えた

    (後に青山・浜田たち愛奴との全国ツア-で、このセッティングを真似た)

    初めてこの目と耳で体験した、憧れのボブ・ディランとザ・バンドは素晴らしかった

    特にザ・バンドとは、僕の日本国内ツア-が企画されていただけに

    誰にも理解出来ないであろう悔しさが胸にひろがった

    と同時に強く心に言い聞かせた

    「いつか、そんな拓郎色に染まったバンドを作り上げ全国ツア-に出る」

    ギタリストの青山とは彼が愛奴を去った後から

    僕の作曲する他の歌手への提供曲のレコ-ディングにギタリストとして

    スタジオ参加してもらい、そんな機会を繰り返す毎に僕の夢を語り

    理想とするバンドの結成を目指したのだった

    *画像は初のロスアンジェルスの街でのワンカット

    電柱?にボブディランのコンサ-トのチケット情報が貼ってある

    2024年 8月13日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年08月12日 22時04分39秒

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    ラジオの青春 20

    2024.8.12Monラジオの公開番組の収録は各ステ-ションで盛んに行われた主にデパ-トの屋上、そして豊島園などに設けられた特設ステ-ジでほぼリハ-

    2024.8.12 Mon

    ラジオの公開番組の収録は各ステ-ションで盛んに行われた

    主にデパ-トの屋上、そして豊島園などに設けられた特設ステ-ジで

    ほぼリハ-サルとか無しで歌う事が多かった

    そして例えば僕と、いわゆる歌謡曲のヒット歌手が共にゲストで

    そこに登場する、という企画はゼロだった

    当時は空オケというものが未だ無い時代である

    彼等は生のオ-ケストラ無しでは歌う事が出来ない・・

    そこへいくと我々のスタイルはギタ-1本でOK、安上がりでもある

    そして、もちろん「そういう方々とは一緒のステ-ジに立ちたくない」

    と内心で思っていたのも事実だったと言える

    とは言え、僕のもとには「アッチ側」からの様々なアプロ-チが増えつつもあった

    (当時は我々のような存在をコッチ側、テレビ中心の歌手達をアッチ側と言っていた)

    そんな「アッチだのコッチだの」言ってるうちに時代はどんどん流れて行く

    僕の周りにも多種多様な生き方を主張する連中が集まってくる

    「音楽に接する限り、我々は同じ世界に住むライバルであり友達なのだ」

    大手芸能プロダクション所属で売れっ子歌手のマネ-ジャ-諸氏

    メジャ-レコ-ド会社のディレクタ-達とも夜な夜な語り合う時間が増えた

    僕自身の「不必要なまでの反逆精神」も、その事の無意味さの方が気になり始める

    ラジオで本音を吐露する事で「個人的なやすらぎ」を得ていたつもりだったが

    その方針そのものが時代の流れに合わなくなっている事にも気がつく

    ラジオを聴くリスナ-の側でも、彼等の住む自分の実生活の中での変化や実情が

    (例えば就職、例えば結婚そして子育て)

    僕の発する言葉と交わらない現実を感じ始めていた

    *画像は山本コウタロ-と池袋のデパ-ト前の特設ステ-ジで

    まだ「岬めぐり」の大ヒットの前だったと思われる

    彼はその頃、僕のところへ来てはギタ-の奏法や作曲の時のコ-ド進行などを

    熱心に聞きながら「我流ってホントにカッコいいものなんだね」とつぶやいていた

    また彼は高田渡たちと「武蔵野タンポポ団」というバンドをやった時期があり

    僕も彼等と何回も同じステ-ジに立った

    あるライブでは先に出演した僕が「カエレ、カエレ」のヤジに包まれて

    さすがに頭に来た僕が1~2曲だけしか歌わないでステ-ジを降りた後に

    武蔵野タンポポ団が出演・・・高田渡は少しアルコ-ルが入っていて

    演奏が「揺れていた」が、客席は無言で彼等を受け入れていた

    ステ-ジ横で、その光景を見て僕は思った「酔っ払ってるコイツらの演奏に

    客席は何らのブ-イングも示さない・・愛されているんだコイツラは!」

    愛が無いステ-ジをやっても意味が無い、僕はそんな中に居る自分を痛感し

    そして強く心に決めた「拓郎の音楽を愛してくれる人たちの前で

    持ち時間など気にしないで思いきり自分の音楽の世界を展開したい」

    ステ-ジが終わってコウタロ-が近づいて来て言った

    「今日の観客たちにはタクロ-はNGなんだよね、それは最初から空気で感じた

    そういう場所が、まだまだ、あるんだって今日は強く感じたね」

    ワタルが来て言った「タクロ-お前、また頭に来たんだろ–?しょうがね-よ

    ウイスキ-でも飲んで発散しちゃえよ・・・つき合うぞ」

    フォ-クソングなんて「クソ食らえ」ではあったが・・

    彼等の気づかいが痛いほど伝わって・・泣いた

    コウタロ-もワタルも本当に「いいヤツ」だった

    2024年 8月12日  拓郎

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