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吉田拓郎ファンサークル

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月29日 11時50分51秒

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    ラジオの青春 54

    2024.10.29Tue東京で生活するようになった当初、僕のファッションはその後のようなジ-ンズ中心ではなかったと思う大学生の頃はVANとJUNが学

    2024.10.29 Tue

    東京で生活するようになった当初、僕のファッションはその後のような

    ジ-ンズ中心ではなかったと思う

    大学生の頃はVANとJUNが学生たちの間で流行の先端を走っていた

    VANはアメリカのアイビ-ルックから発したものだった?と思うが

    石津謙介さんのブランドで、たしかボタンダウンのシャツや先細のスラックスが

    大流行して・・・ヘアも短く7:3にセットした若者が広島でも日曜日などは

    繁華街をかっ歩していた・・・ただしロックバンドをやっていた僕は

    ヘアがロングだったので、VANファッションが「どうも似合っていない」ように感じた

    VANがアメリカのトラディショナルを基本にして流行ったのに対して

    JUNはヨ-ロッパなイメ-ジを売りにして、何となくクラシックな感じが売りだった

    僕は、どちらかと言えば、当時はJUN派だったと思う

    ところが日本のキャンパスフォ-クブ-ムで学生たちのフォ-クグル-プは

    おおむねVANファッションの大学生が多かったのである

    これはアメリカで人気の「キングストン・トリオやブラザ-ス・フォ-」の影響かも知れない

    僕がアマチュアのフォ-クコンテストに出場した時も1位になったグル-プは

    ヘアは7:3で,短めのジャケットにボタンダウンシャツ、先細のスラックスやコッパンで

    シュ-ズはロ-ファ-でキメテいたのを覚えている

    その時、僕はギタ-弾き語りスタイルだったので、参考資料と言えばボブ・ディランだったが

    まだ彼の歌っている画像とかが少ない時代で・・何となく自分なりに「あれこれ」研究して

    横ストライブのマリン系Tシャツに作業着っぽいジャンパ-で白のコッパンに茶色ロ-ファ-

    つまりJUNとVANと、その他、我流が混在のデタラメファッションだった

    後に、その日の写真が平凡パンチに掲載されて、僕の開催するギタ-教室の後輩から

    「タクロ-さん!あれはナイでしょう-!VANとJUNを一緒に着るなんてサイテ-だ!

    音楽は最高でも、まったくファッションがナッテナイ!ですよ」と叱られまくった(大笑)

    この後輩は学生時代からVAN絶対!の男で・・後に上京後の初ステ-ジに再び僕が

    今度は近所の日用品店で揃えたフリ-ファッションで登場すると・・

    「まだまだ!ナットラン!」と不満をブチまけていた(笑)

    そんな事があった・・からでもないけれど、エレック時代の売れない頃から僕は

    ファッションに神経を使うようになり、時間があると新宿の街を歩きながら

    「安くて、人が買わないような、個性的なデザイン」を捜す事が多くなった

    そんなこんな・・するうちに・・どんな場合でも、ベ-シックを「ジ-ンズ」にする事で

    ステ-ジもオフも「シンプル」を基本にしよう!と思うようになって行くのだ

    *映画「ラブ・アゲイン」(スティ-ブ・カレル、ライアン・ゴズリング、ジュリアン・ム-ア

    エマ・スト-ン、マリサ・トメイ、ケビン・ベ-コンetc)が出演の最高に楽しい

    ラブコメ映画の中で、若くてモテモテの遊び人ゴズリングに、40代で妻が浮気し

    ショックのダサダサ男カレルが、今どきの遊びのテクニックを習う事になる・・・

    カレルが履いていた「ギャップジ-ンズ」や「ニュ-バランス」のスニ-カ-を

    ゴズリングに「あの高名なスティ-ブ・ジョブズなら似合うけど・・

    アンタみたいにダサイ中年男はヤメトケ!」と叱られたあげくに・・

    ハイブランドのファッションをおしつけられる・・メッチャ笑える1シ-ンだったが・・

    実は今・・僕はジ-ンズはギャップ・バナナリパブリック党なのだ(笑)

    価格も手ごろでスタイリングも好き・・ネットでも手に入るし

    そして、ゴズリングには悪いが(笑)・・・・・・kayoさんのスニ-カ-は・・

    ある日、六本木の東京ミッドタウンへ二人でショッピングに行った時

    そこで彼女が「スニ-カ-が欲しいな!いい店あるかしら」と散策中だったところ

    「あ!お久しぶりです-」と偶然に、あのカッコイイ「長瀬智也」君に出会ったのだ

    彼が出てきた店がスニ-カ-ブランドで有名な「ニュ-バランス」だったのである

    手には購入したスニ-カ-の袋が・・長瀬君とkayoさんは「クドカンドラマ」の

    歴史的第1作「池袋ウエストゲ-トパ-ク」で親子の役を演じ、その後も多くの

    ドラマで共演した旧知の二人だ・・また僕もlove2で長瀬ゲストのハワイロケもやった

    kayoさんは長瀬君に出会った瞬間「私もニュ-バランスにする」と決めたようだった(笑)

    しかも「IU(韓国ス-パ-スタ-のアイ・ユ-)もニュ-バランス履いてるんだよね」と

    実にワカリヤスイ・・性格そのままのkayoさんのショッピングなのであった(笑)

    ・・・・ゴズリングが聞いたら我が家は二人とも叱られそうである・・アハハハ

    世界的なハイブランドが(もともとジ-ンズなんて作りません!とか言ってたのにね)

    十万円以上・・なんてジ-ンズを販売する昨今であるが・・・

    正直に言って興味は無い・・たしかに何十年も履けば「色落ちやダメ-ジ」も自然だけれど

    何十年も先の事なんて考えたくないし・・今!この一瞬こそが大切だと思う人間なのだ

    (年月を経て味のある人間像とかって・・僕には・・無理な話しです)

    形だって「不滅の」なんて言うけど・・結局は各社とも時代に沿った流行のデザインを

    作らざるを得ないのが現実なのである

    カ-ペンタ-、ロ-ライズ、ル-ズ、スキニ-、テ-パ-ド、ワイド・・・その他

    そんなジ-ンズって昔は無かったよ

    *画像はこの5~6年かな・・大いに気に入って、ラジオ収録やRecスタジオへ行く時

    夫婦で時々の夕食へ出かける時、あらゆる日常で「これ1着」の

    バナ・リパ(バナナ・リパブリック)のジ-ンズ、脱色違いである

    (ギャップとバナリパは同一メ-カ-の兄弟・姉妹的なブランドで

    ギャップが若い層、バナリパは少し上の世代と・・僕は勝手に決めている・・価格も含めて)

    スタイルは「スリムフィットのリュクストラベラ-」という品目で

    細すぎず、素材も柔らかで履きやすい、シュ-ズ色々、上着色々が合わせやすい

    僕はウエスト32、レングス(ジ-ンズの長さ)30を無修整で愛用している

    アハハ・・・ちょっとコマ-シャルだったかな・・・でも安くてホンマいいんですよ(笑)

    2024年10月29日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月27日 09時23分23秒

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    ラジオの青春 53

    2024.10.26Satラジオのパ-ソナリティ-・・このパ-ソナリティ-という呼称は僕がTBSパックインミュ-ジックを始めた頃にはすでに使われていた

    2024.10.26 Sat

    ラジオのパ-ソナリティ-・・

    このパ-ソナリティ-という呼称は僕がTBSパックインミュ-ジックを始めた頃には

    すでに使われていた?と記憶する・・・たしか僕の前を担当していた北山修は

    「木曜担当パ-ソナリティ-北山修」として人気があった

    もっと以前だと音楽番組での、この役はD.J(ディスクジョッキ-)と呼ばれていたが

    音楽をオンエアするだけでなく、本人のト-クも番組の大きな要素となるようになり

    パ-ソナリティ-の名称が定着したようである

    あの頃(70年代の初期)フォ-クソングのステ-ジでは「独特のしゃべり」をするのも

    そのシンガ-の人気の1つだったような記憶がある

    僕の危なっかしい記憶では、高田渡の曲と曲の間の「間」は・・何とも言えないボソボソで

    時には「眠ってしまうのではないか・・」という危ない空気が、いつも笑いを誘っていた

    (彼は無類のアルコ-ル好きだったので・・余計にト-クが危なくて、でも面白かった)

    パックインミュ-ジックを担当した期間は短かったけれど

    (ある時から番組の制作スタッフがTBSではなく外部制作になると通告されて

    僕としては自分を抜擢してラジオの楽しさを細かく導いてくれたMディレクタ-達と

    一緒にやれない番組を続ける意思は無く・・残念だったが降りる決心をした)

    初めての深夜放送だったから、実に楽しくて、毎回やり甲斐のあるテ-マも用意されたり

    ともかく全てが大いなる「勉強の時間」となっていたのも事実だったのである

    同じ時期にニッポン放送でバイタリス・フォ-クビレッジを担当していた

    記憶がアヤフヤだが・・毎夜の11時からの15分の番組ではなかったか?

    後に同じ事務所の出版ディレクタ-となる陣山俊一(春を待つ手紙の架空の主人公)など

    多くの後輩たちが、大学生のア-ティストとしてゲスト出演していた

    毎回ゲストのほとんどが大学キャンパスフォ-クのアマチュアミュ-ジシャンだったので

    石川鷹彦と岡本おさみが番組の顧問的なスタッフとして音楽面、作品面でのサポ-トを担当

    僕も二人とは「ここで」知り合う事となったのだ

    ミニアルバム「ラジオの夢」4曲目は「真夜中のレタ-」

    フォ-クビレッジのテ-マソングは、当時は番組用だったので1コ-ラスの作詞だけだった

    アレンジはアルバム「人間なんて」で、何とも流行のフォ-クミュ-ジックらしくない!!

    むしろB,S,Tとかシカゴを意識した木田高介のアレンジによるブラスロックでのRecを選んだ

    後に僕がフォ-ライフからインペリアルへ移籍し、鳥山雄司と二人だけで

    旧曲のカバ-アルバムを発売した時に、このテ-マソングの2コ-ラス目を書き足して

    「僕等の旅(CMソング)と合体させた「Oldies」を録音した

    そして今回、やっと、この未完の・・されど大好きなメロディ-に「フルで作詞を完成」

    胸を張って「この曲を聴いて下さい」と言える日が来た事がなにより嬉しい

    「君の心に触れる夜 涙拭かずに歌いたい

    君の言葉を抱きしめる 僕の気持ちを打ち明ける

    今夜の僕等は 地上の星屑 せつない時間を旅する」

    2024年10月26日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月25日 13時35分38秒

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    ラジオの青春 52

    2024.10.25Fri植物を日常の中に意識する事は大切な時間だと感じるこれは現在の僕の心境という事ではなく、もっと昔・・広島に住んでいる頃からこの

    2024.10.25 Fri

    植物を日常の中に意識する事は大切な時間だと感じる

    これは現在の僕の心境という事ではなく、もっと昔・・広島に住んでいる頃から

    このガキは植物や動物に興味を持つ男の子だったようである

    小学6年の春だったか・・母が偉大なる前進力と無言の努力によって

    広島市内の新しく開発された住宅地に家屋を建てたのだ

    あの時代に、子供達を育てながら、女性が1人の力で家を建てるなんて・・

    スゴイ事なのだが・・当時はガキで・・母の苦労など考えもせず・・

    ともかく貸し間(1軒家に空き室を持つ家主さんが部屋を賃貸ししていた)や

    アパ-ト暮らしからの脱出が夢だったので、自分の家に住める歓びで気分は天国だった

    母はその頃、広島市内の盲学校で栄養士として働いていたが

    土地購入と自宅建設の費用で大きな借財を背負う事になり、収入の拡大を考えていた

    友人の誘いで覚えた茶道を、何とか活かしたいという情熱のままに

    茶道レッスン用の茶室を作り、自らも茶道教授の免許を迅速に得るべく

    市内の有名な茶道教室へ日参し・・またたく間に師範の免状をいただいて

    新築の我が家で「吉田宗朝」(母の名は朝子)による茶道教室が開催される事になった

    僕が中学に進学してから、時々だが茶室に呼ばれて生徒さん達と一緒に

    「お茶のお点前」をつき合わされるようになり、次第に茶道の基本の手順などを覚えていく

    高校2年の頃には茶道の中級資格に値する「台天目(だいてんもく)」等をクリアしていた

    *母が当時よく話していたのは「拓ちゃんは大学も広島に留まって、就職が決まったら

    母さんの後をついで茶道の教師も続けるといいね」であった

    元々が病弱な僕の、将来を見据えての考えだったのだろう・・

    ただし・・高校を卒業する頃に僕の心に強く芽生えていた想いと言えば

    「祖母・母・姉に囲まれて育った自分は、きっと女系家族特有の資質を持っているはず

    その事が将来の自分、社会に飛び出した自分にマイナスなポイントとなるのでは?

    そんな事態をまねかないためにも、出来るだけ早い時期に家を出るべきではないか

    早いうちに1人で生活する、すべてを自分で判断する環境を選ぶべきなのでは・・

    という「自立」への想いなのであった

    さて、お茶をする母と、そこに通う生徒さん達との日常が続く中で

    「茶室」にとって必要な環境という事が話題に出る事があった

    例えば「茶室に入る前に目に入る景色」が、味気ないコンクリ-トや隣家の壁などでは

    気分的にム-ドが無さすぎるだろう

    母も、そこまでは考えずに家を造ったのだが・・こうなってみると・・

    ある日、近所の大工さんにたのんで、小さな池を作り、周りに植栽を植える相談をしていた

    僕は言った「母ちゃん!池とか植木とか僕がやろうか?友達に左官屋さんの息子がいるし」

    大した広い邸宅なんてモノではないけれど、玄関先にスペ-スがあって

    そこに小さな池を作り、道路に面した部分に小規模な生け垣みたいな植え込みを・・・

    手づくりの小さな池には友人が「小型の鯉」を入れてくれた

    その周りに背の低い竹と紫陽花を植えてみた

    母は手を叩いて喜んだし、生徒さん達からも「雰囲気よくなりましたねえ」と褒められた

    僕はセンスはともかく・・・こんな事が大好きな少年期だったのである

    *数年後に大きな台風に見舞われて・・池も植木も無残に消滅してしまった

    *画像は現在僕の仕事机に飾っているコ-ヒ-の木

    このコ-ヒ-の木は3年目を迎えて、この春には、ほぼ、葉がつかなくなり

    まさに枯れて終末を迎えているかのような状態だった

    僕は、せめて、小鉢のような狭い環境ではなく、少しでも自然に近い雰囲気に

    戻してみようと思い、ベランダの生け垣の片隅に植え替えてみた

    6月頃には、やはり無理だったか・・という状態で、葉もつかないし

    木も枯れている・・ような・・景色だった・・が・・・

    8月の終わり頃だったか・・・枯れたと思っていた、やせ細った木に緑の芽が見えた!

    僕は歓喜した・・やった!・・生き返った・・こいつ死んではいなかった!

    元気だった頃に、小さな白い花を咲かせて喜ばしてくれた「コイツ」だ

    この冬も出来るだけ陽当たりの良い所に置いて来春には又・・広い所に植え変えて・・

    ・・・アンタ・・ホンマに・・マメやねえ~・・

    えっ?アンタって・・俺のこと?「コ-ヒ-って豆でしょう・・」お後がヨロシイようで

    2024年10月25日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月24日 10時07分32秒

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    ラジオの青春 51

    2024.10.23Wed私たちが日ごろ口ずさんだり・・テレビの歌番組とかで観たり聴いたりしている「歌」は大まかに言えば2つのパタ-ンで作られている(

    2024.10.23 Wed

    私たちが日ごろ口ずさんだり・・テレビの歌番組とかで観たり聴いたりしている「歌」は

    大まかに言えば2つのパタ-ンで作られている(細かい専門的な音楽論は不要)

    1つは「メジャ-系のコ-ド」という和音構成で始まる曲で、比較的に明るい印象がある

    もう1つは「マイナ-系のコ-ド」という、やや哀愁に満ちた印象を与える要素を持っている

    この2つの和音構成のコ-ド名で、すべての楽曲が成り立っている

    「襟裳岬」はメジャ-コ-ドで「やさしい悪魔」はマイナ-コ-ド・・・

    こう言うと「エッ?」っと思われる人も居るだろう(上記の文章から察しても)

    それは「歌っている歌手のイメ-ジ」から来る錯覚もあるようだ

    森進一を想う時に「演歌」の人という先入観があるのは普通である

    キャンディ-ズは「ポップス」なイメ-ジがあって、少なくとも彼女達から「演歌」な香りはしない

    確かに演歌系のヒット曲には古くから、マイナ-コ-ドで始まる「少し哀しい曲想」なモノが多い

    (日本人はマイナ-和音の響きが好き!と言われているようだ)

    そしてアメリカンポップスのヒット曲は、ほぼメジャ-コ-ドで始まっている

    (イ-グルスの大ヒット曲「ホテル・カリフォルニア」は珍しくもマイナ-コ-ドで始まる)

    「ポップス=メジャ-」「演歌=マイナ-」なイメ-ジが強いのは

    その曲を歌った歌手のイメ-ジが、いつの間にか「偏った想像」へと導いているかも知れない

    ただし森進一やキャンディ-ズの本当の心根がドライかウエットかは本人しか知らないし

    さらに言えば、吉田拓郎メロディ-は

    メジャ-コ-ドでも哀愁があり(ル-ムライト・アンドゥトロワ・全部抱きしめてetc)

    マイナ-コ-ドでも軽快な印象がある(ドンファン・私の首領・メランコリ-etc)

    ・・・と・・・自分で褒めている(笑)

    僕がアマチュア時代に米軍キャンプ等で歌っていた頃、ロックバンドで学んだ

    「アメリカンポップスの隆盛を呼び込んだコ-ド進行」が影響しているのかも知れない

    *音楽的な話しをチョットすれば・・・

    例えばEm(イ-マイナ-)というコ-ドで曲が始まったとしたら

    その曲のサビ(第2メロディ-)はG(ジ-)とかC(シ-)というメジャ-コ-ドで始める

    逆にG(ジ-)というメジャ-コ-ドで曲が始まった場合は

    サビはEm(イ-マイナ-)とかAm(エ-マイナ-)などのマイナ-コ-ドで作る

    これだけでも、その曲のイメ-ジが「マイナ-とかメジャ-とか」に関係なく伝わる

    残念ながら「古い日本の歌謡曲」はマイナ-で始まったままマイナ-のままで終わる

    シンプルだけど、なんだか「暗くて重い」・・・そこが僕は苦手だった

    アルバム「ラジオの夢」3曲目は「骨まで愛して」だ

    この曲はメジャ-コ-ドで始まる

    ここで、今日は特別に「吉田拓郎が好きだった演歌曲集」をご紹介しようと思う(笑)

    70年代に上京して「あまりに旧態然とした日本の、歌謡曲中心の音楽界」に失望し

    「自分の道を自分で作って行くしかない」という、当時とすれば「世間知らずで生意気な」

    思い上がった結論を出した僕ではあったが・・あの当時、新宿3丁目あたりのカウンタ-バ-で

    1人ヤケ酒をアオリ・・青梅街道をホロ酔いで中野坂上方面まで歩いていた頃に

    星空を見ながら口ずさむのは・・・必ず「歌謡曲」という・・・「仮想敵のジャンル」だった(実話)

    アマチュアのバンド時代に広島市内のジャズ喫茶に出演していた頃

    店のオ-ナ-が「都はるみ」の大ファンで、ロック喫茶なのに店内に彼女の「アンコ椿は恋の花」の

    ポスタ-が貼ってある・・という・・信じられないセンスの店で(笑)僕達は「Hold on I'm Comin'」 を

    熱唱していたのだったが・・・何でも気になるとチェックしないと気がすまない僕は

    都はるみのこの曲を聴いた瞬間に「アッ!これってソウルフル・・めっちゃカッコイイ」と感じた

    だが、まあ、演歌というジャンルへの「ある種の偏見」もあったので、その後の彼女の歌った曲への

    関心は無かったのだ・・・が・・・いつだったか?はっきりした記憶は無いけれど・・・

    コンサ-トツア-中の札幌で、ある有名なゲイ・バ-に入った

    とても楽しいスタッフ達の中に、演歌を歌わせたら都はるみにも負けない!という

    通称「はるみ」(だった・・かな・・)が「ねえねえタクロ-私の歌を聴いてくれる?」っていうので

    「いいなあ・・で・・何を歌ってくれるんだい?アンコ椿・・なら・・俺も歌えるぞ-」

    そこでカレが歌ったのが「大阪しぐれ」と言う、僕が知らなかった曲だったのだが・・

    正直に言って歌詞は「女性が男性に、従う?」かのような内容で「やっぱ演歌は古い」と感じたが

    何と言っても大作曲家の市川昭介のメジャ-コ-ドで始まる演歌は「アンコ椿・・」に始まり

    長山洋子の「めぐり逢い」とか、実に愛すべきシンプル巡回コ-ドのメロディ-が秀逸で

    「大阪しぐれ」も本人歌唱のレコ-ドを聴いたが・・さすがに「都はるみ節」が素晴らしく

    「あ-俺は演歌とか歌謡曲とか、どうでも良かったけど、ただしメ-ジャ-コ-ドの曲の中には

    けっこう好きな曲があるみたいだな」と・・遅まきながら気づいた瞬間だった

    ちなみに他に、演歌だけれどメジャ-進行で作られている曲で、けっこう「好きなんだ」な曲は

    「宗右衛門町ブル-ス」「函館の女」「港町ブル-ス」「北国の春」「王将」「男はつらいよ」

    「時の流れに身をまかせ」「長崎は今日も雨だった」「矢切の渡し」あたり・・か・・ちょっと古かったね

    さて、ミニアルバム「ラジオの夢」3曲目は「骨まで愛して」

    これはもう・・原曲の城卓也が歌うカントリ-系バンド風のアレンジが

    あの頃の流行歌の中でも「斬新さ」で群を抜いていたし、エレキギタ-が聴こえるサウンドなんて

    歌謡曲というイメ-ジでは、まさにnewだったので、僕が飛びついたのも当然だったと思う

    「ぷらいべえと」というアルバムで敬愛する作曲家、浜口庫之助の「夜霧よ今夜も有難う」を

    カバ-した時のレコ-ディングで、僕が8ビ-トのフラットロックなギタ-ストロ-クで

    ドラムとベ-スを引っ張った時の「気持ち良さ」を再現したくて、アレンジの武部聡志に

    デモテ-プを渡したら・・・さらに「上を行く」ノリノリのドゥ-ワップ感覚のブラスアレンジで

    (アルト・テナ-・バリトンの、サックス3本によるセクションは最高!)

    とにかく最高のフィ-リングを作り上げてくれて、思わずスタジオで歓喜の雄叫びを上げたのだ

    また1つ「想い出に残るレコ-ディング」が増えた・・心から幸せである

    2024年10月23日  拓郎

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    よし

  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月22日 23時04分51秒

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    ラジオの青春 50

    2024.10.21Monあ!そうだ!前回のエッセイ「AddressUnknown」書き忘れた事が・・(いいじゃ-ね-か・・そんな細かく・・気にしなく

    2024.10.21 Mon

    あ!そうだ!前回のエッセイ「Address Unknown」

    書き忘れた事が・・(いいじゃ-ね-か・・そんな細かく・・気にしなくても(笑)

    ですが・・この1曲目のアレンジについて、エンディングの絶妙な「演出」について書きました

    ですが・・ですが・・実は言い忘れた(書き忘れた)重要な、もう1つのポイントがあります!

    いきなりですが・・そうなんです・・イントロ(曲の始まり)に実は大きな秘密が・・

    武部君が意図的に「それをねらった」のか!彼なら・・あり得る

    ともかく「あれだ!久しぶりに聴く・・あれを・・再現してるんだ!」

    曲が始まった瞬間に「あ!」っと思った人は「リアル拓郎通(つう)」だと僕が認めます

    ただし「始まった瞬間」・・・瞬時に「アッ」と・・・気がつかなければいけません(笑)

    そして・・10秒経過しても・・何も感じなかった人は「そのまんま」の人だと・・(大笑)

    (ヒントは・・・ここの連載エッセイにも登場した画像が関係しています)

    イントロが始まった瞬間に気がついた方は・・きっと・・エンディングで「より胸熱」かも

    さてミニアルバム「ラジオの夢」の2曲目「五月の風partⅡ」

    「想い出たちを、そっとやさしく、口づけるように抱きしめる

    また逢える日は、もう来ないような、そんな気持ちもあるんだよ・・・

    夏に向かう雲たちよ、先に行ってくれないか

    あの頃の事もう少し、思い浮かべていたいから

    時を抱いた旅人よ、時間を僕にくれないか

    あの頃の歌もう一度、胸の中で歌うから・・・」

    という感じの新しい言葉たちを書き加えて新たにRecした曲は

    最高にファンキ-な仕上がりとなっている

    このファンキ-なフィ-リングこそが

    僕が広島時代から愛し続けていたR&B的な音楽の底流にある、いわゆる「ノリ」なのだ

    例えば、古い曲だが、お気に入りだった「僕の唄はサヨナラだけ」は

    アルバムで初公開したアレンジが、ほぼ完成形だったが・・

    かなり複雑なリズムパタ-ンでの演奏が、聴く側の耳に馴染めなかったようだった

    後のLiveステ-ジ等で、通常の16ビ-トに戻して演奏したら、客席がノリノリになっていた

    この辺りにも、あの頃の日本の音楽シ-ンを取り巻く環境のレベルが・・ちょっと哀しい

    フォ-クミュ-ジックが「詞の世界は斬新ではあったが・・音楽的にレベルがイマイチ」

    その事が吉田拓郎には大いなる不満であり「ここに居ても自分の未来は来ない」と感じて

    「1人になってもいい」・・自分のやりたい音楽をやる!という道へ突き進む事になる

    フォ-キ-で、ロックで、ファンクで、演歌で、ム-ディ-で、バラッドで・・・

    呼び名なんてどうでもいい!やりたい音楽をやるだけのことだ

    カン違いされがちだが・・僕の「やりたい事をやる」・・は・・自分勝手とは違う!

    これは「音楽」の道に関しての「信念」の話しなのだ

    信じた道を進む事は、その人にとって「自分に正直に生きる」事であり

    自分勝手とかワガママ・・なんて表現は当てはまらない

    *ちなみに、この原曲のリズムパタ-ンは、Rec当日にスタジオでベ-スの後藤次利と

    ギタ-の矢島健が「変則的なノリのパタ-ンを作ろう」とアイデアを出し合って

    ドラムの村上ポンタ秀一と共に、独創的な演奏をRecしたのだった

    (あの時代こんなトライするバカは僕だけだっただろう・・でもワガママなんかじゃない)

    「五月の風partⅡ」では

    戻れない季節への哀愁と、今という現実を感じながらの「希望」を込めて

    私たち「永遠の旅人」が、ラジオという「架空の青春」の空間で出会いながら

    つかの間の休息を「共にしよう」と歌います

    だから・・修正無し・・1発録りOKのボ-カルにこだわったのです

    *画像は、我が家のベランダに毎年のように遊びに来る?トンボ

    4階の・・北側のベランダに・・この2年・・夏の終わり頃に・・多分「シオカラトンボ」かな

    15分ほど羽を休めて・・飛び去って行きます・・どこから来て・・どこへ行くのか・・

    来年も「来てほしい」と・・思いを込めてパチリ

    2024年10月21日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月18日 16時52分42秒

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    ラジオの青春 49

    2024.10.18Friミニアルバム「ラジオの夢」のオ-プニング1曲目「AddressUnknown」はおそらく多くの方々が(極端に豪放磊落な人を除

    2024.10.18 Fri

    ミニアルバム「ラジオの夢」のオ-プニング1曲目「Address Unknown」は

    おそらく多くの方々が(極端に豪放磊落な人を除いて(笑)この曲のエンディングに

    入ったあたり(多分・・)から・・きっと・・いや・・もしかしたらかな?

    ・・ちょっと・・ウルって・・なるんじゃ・・ないかな・・って・・涙は無くとも・・感情が・・自然に・・

    実は、これは僕のアイデアではありません

    武部聡志の入魂のアウトロに、僕自身も・・熱い気持ちが生じて・・「ア-ッ」って

    「お-うう・・タケベえ~・・やられたよ-!そう来たかあ~これは、さすがに・・ナイスアイデア

    僕もジ-ンとしちゃった、まったく考えつかなかったヨ-・・やられました」

    もちろん、この曲の「そこまでの歌詞の流れ、とメロディ-ラインを意識したストリングスなどの

    アレンジ」が、すべて素晴らしい!からこそ・・このエンディングへと導かれるわけなのですが

    「時代は先を急ぐ旅人のように、僕達を待ってはくれない・・・

    早合点の君もノロマな僕も、みんな巻き込んで流れて行くよね・・・

    それは君と僕にはどうしようもない、背負った荷物はどこに下ろせばいい・・・

    あの頃ってなぜか皆んなこわい物知らず、間違いだらけのままで決断をしたよね・・・

    あれはきっと夢だったんだ、今夜もそっと味わうビ-ルの泡の中・・・

    ちょっと重たすぎて投げ出したい夜に、誰か話し相手になってもらいたくて・・・etc」

    まあ、かいつまんで「こんな歌詞が流れて行く」わけです

    そして・・その・・エンディング(フェイドアウト・・かな?って思わせて)・・あ!言っちゃった!

    アハハ・・・ダメじゃ-ないかあ-・・・って・・・誰も言ってないのですが・・・

    今回のアルバムで武部聡志が「やってみせたサウンド・アレンジメント」の奥の深さは秀逸でした

    基本的に「生のストリングス・ブラス」はもちろん「ドラム、ベ-ス」等の基本的なリズムセクションを

    すべてスタジオセッションで収録する、というアレンジメントは大正解でした

    本当に「音楽って、いいなあ」が久しぶりに味わえた瞬間だったと感激しました

    2024年10月18日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月15日 16時23分28秒

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    ラジオの青春 48

    2024.10.15Tue「思い出せない」くらいの時間が流れてしまっている事を痛感する日々である人間の記憶力には個人差があるだろうが・・曖昧になりつつ

    2024.10.15 Tue

    「思い出せない」くらいの時間が流れてしまっている事を痛感する日々である

    人間の記憶力には個人差があるだろうが・・曖昧になりつつあるメモリ-に想いをはせる

    (ちなみにkayoさんは、僕が驚異的と驚くような些細な事まで覚えている事があるが・・

    それが日常的に役に立っているか?と言えば・・まあ・・ご想像におまかせする(笑)

    僕は、例えば映画やドラマを観ても、全体としてのスト-リ-の流れは大まかであるが覚えている

    しかし「あるシ-ン」での出演者の「セリフ」とか「演技」などになると・・おおむね見過ごしている

    kayoさんは職業がら・・かも知れないが・・実に詳細に覚えているので・・正直言ってビックリする

    「あのシ-ンでキムちゃんがシマクラちゃんに・・・って言ってたでしょう-」

    「パクちゃんがヘリちゃんに・・・って話してたよね-」・・・へえ~・・僕は「まったく」覚えておりません

    *ここで言う「キムちゃん」とは当然あの「憎らしいほどカッコイイ(男の僕が認めます)」キム・スヒョンである

    「シマクラちゃん」とは素敵なお姉さまコン・ヒョジンの事で、この韓国の俳優たちの名前が

    「キムさん」「パクさん」ほか・・僕からすると「同じような呼び名に聞こえる」方々が沢山いらっしゃるので

    コン・ヒョジンは「あ!日本の誰かに似ている・・そうだ!若い頃の島倉千代子さんだ!」って

    僕が勝手に決め込んで(コンさん・・すみません)我が家では彼女を「シマクラちゃん」と呼ぶ事になった(大笑)

    ちなみに青春ドラマ「恋のスケッチ~応答せよ1988」に出演していたリュ・ジョンヨルは

    劇中で、よく鼻血を出すシ-ンがあったので・・我が家では「ハナジちゃん」と呼ぶようになってしまった(爆笑)

    こういうレベルの吉田家の韓流ブ-ムなのだ

    あ!記憶力の話を書いていた・・のだったが・・やめた!(笑)

    韓流ドラマ・映画の話をしたい!と・・急に気持ちが変わってしまった・・許されたし

    まず・・個人的には女優なら「IU(アイユ-」や「パク・ウンビン」男優は「パク・ソジュン」「キム・スヒョン」それに

    「パク・ボゴム」・・・まあ・・・遅れてきた韓流ブ-ム真っただ中の吉田家としては、超有名なス-パ-スタ-たちに

    まずは夢中になるのは・・やむなし!というレベルなのである

    しかし、つくづく思うのは・・このブ-ムを遠くから「へえ~韓国映画ねえ~・・」なんて・・

    冷ややか気分で見ていた僕自身が、大いなる後悔と同時に、新たなる発見を体験している現実である

    よく「エンタメ」などと軽々に誰もが評論家ぶって語る時代ではあるが

    歴史が物語っているように「我々一般Pの心を本当につかむ作品」というのは

    はっきり言えば「安直な企画や、軽々な演出、不勉強な世界観・・」からは絶対に生まれて来ないという事ではないか

    私たち一般Pを、小ばかにした製作者側の不勉強、そして相変わらずの「前にならえ」式なモノ作りの姿勢は

    さすがに「あきた・もう要らない」的な気持ちを生み出している・・と言えないだろうか

    韓国の連ドラは、その多くが1編(1話)1時間を超えるもので、しかも連載16話~20話という長編ものである

    日本ではCM等が入るので、たぶん1編(1話)45分前後ではないか?それで連載10話が定番となっている

    長ければ良い!なんて誰も言わないし、そんな法則は聞いた事が無いが、現状で韓国連ドラはこのパタ-ンが

    定着しているように思う・・実際に僕も途中の何回かで・・「う-ん、さすがに、カッタルイ」と眠気がさす事も多い

    だが・・そこを逆に考えると「実に丁寧なシ-ン描写と撮影テクニック」を駆使しているようにも思えて来る

    YouTubeにアップされている韓ドラの制作シ-ンやNGシ-ンを良く見ていると

    撮影中のカメラ台数が多い事に気づく・・(バラエティ-番組でも使用カメラ台数が日本より多いように感じる)

    一説には「かの国では国家的なバックアップでのモノ作りが行われる」とも聞いた事がある

    例えば我が国で「渋谷のど真ん中で真っ昼間にロケ撮影したい」と考えたとしても・・現実的に不可能な企画となる

    だが、もしかしたら・・あの国では街をあげての協力体制が可能となり、現実味あふれる映像が撮影できるのでは・・

    う-ん・・考えているだけで・・ちょっと飛行機で、ひとっ飛びで行けちゃうよな-!・・行ってみたい・・ような・・

    美味しい本場の韓国料理・・アイユ-ちゃんに逢えないか?・・・・(逢えるわけないだろ-!)

    僕の通っているヘアサロンの担当女子は26歳、大の韓流ファン・・休みがとれるとスグに韓国へ!という気安さ

    それほどに今や韓国は「近くて近い、兄弟感覚の国」という位置づけのようである

    しまった!この文章を書きながら今・・パッと頭に浮かんだ

    LFでANNGをやっていた頃に「アイユ-やパク・ウンビン」をゲストに呼べば良かったア--

    韓流スタ-たちは、僕が何も知らない間に我が国へ何回も来ていたのだ

    それどころか・・皆んな日本にファンクラブがあり、ファンミ-ティングなんてやってるんだ-

    え-っ?ジャパンツア-もやってんのお-?

    まさに・・遅れて来た・・どころか・・遅れすぎていた!僕なのである

    *画像は猛暑の中を生き抜いて今年で3年目を迎えるベランダのハイビスカス

    ハイビスカスは本来は冬を越せないで枯れてしまうものだったが

    昨今の国産ハイビスカスは対応を丁寧に、冬も定期的に水やりと手入れをすれば

    越年して再び花を咲かせる事が出来る・・僕も去年あたりから気がついた

    あ-!ハイビスカス咲き乱れるマウイへ行きたい!

    あっ・・・・そうだ・・・・その前に・・・・韓国だった(笑)

    2024年10月15日  拓郎

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  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月08日 17時05分58秒

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    ラジオの青春 45

    2024.10.08Tue**このエッセイ「ラジオの青春」は今回のスペシャルミニアルバム「ラジオの夢」を作るにあたってその歌詞を書きながら「あの頃を思

    2024.10.08 Tue

    **このエッセイ「ラジオの青春」は今回のスペシャルミニアルバム「ラジオの夢」を作るにあたって

    その歌詞を書きながら「あの頃を思い出す作業」を続けるうちに

    「そうだ!長い間、僕の音楽を愛して続けてくださった人達に、こんな形ではあるけれど

    何らかのメッセ-ジを届けよう!」と思いたった

    「エッセイ集」を出版しないか?というお話もいただいていたのではあったが・・お断りして

    こうした形でオ-プンにする方向を選ばせていただいた

    人生は始まりの時が「記憶に無い」ように、終わりが来る事も「拒む」ことは出来ない

    貴方という人間が生きた一生も、僕と言う人間の生きた道も、いずれ空気となって天空を舞う

    どれだけ熱く生きたとしても、どれだけク-ルに愛したとしても・・・

    答えはボブ・ディランが言ったように「風の中」だと・・僕も、この頃やっと・・感じるようになった・・かな

    そして、それこそが「私たち」という愛すべき存在である!と確信するのだ

    この連載エッセイも、あと少し「むだ話」を書いてみようと思っているが

    近日には終わらせていただく事にしたい

    実は・・書きながら、ついつい笑顔になれる毎日で「楽しい日々」であった事を、お伝えしておきたい

    ・・で・・オマエ・・これか・・ら・・?・・?・・・・・アハハ!それは・・僕にも・・ワカリマセン

    だってねえ・・一生懸命に生きたつもり・・なんだけど・・予定通りだった事って・・・・どうなの!!**

    そもそも音楽への長い道・旅を始める「具体的な」キッカケと言えば、何と言おうとビ-トルズなのである

    あの4人の若者が、この地球上に登場していなかったら・・多分、いや、間違いなく!断言出来る!

    僕は「ここ」に居ないだろうし、こんな「独り言エッセイ」を毎日セッセと書いたりしていないのだ

    あの4人の登場が「すべて」なのだ

    4人だけでギタ-・ベ-ス・ドラムを各自がフォロ-し

    ボ-カルも4人が持ち回りで歌い、しかもハ-モニ-も付けてしまう

    なおかつ、その楽曲は自作の作詞・作曲である

    それまでアメリカのポップスと呼ばれていたロックンロ-ル等のヒット曲は

    歌うのは歌手で、演奏はバックミュ-ジシャンが・・というスタイルが一般的だった

    4人組とかのコ-ラスグル-プは居たが(ザ・プラタ-ズ他)皆んなボ-カルonlyで楽器演奏はしなかった

    ビ-トルズは違った!全部を4人だけで「やってしまう」・・何というアイデアだ!

    アメリカンポップスに浸りきっていた僕が、まず「あ!そうか!ギタ-だけでやっちゃうんだ」に驚愕

    ステ-ジ上でのLive演奏時には「キ-ボ-ド奏者は要らない」というシンプルなスタイルだ

    なるほど!ドラムが後ろの少し高い位置に座り、その前にベ-スとギタ-が並んで演奏し

    歌う時にマイク前に立つ!これだけでカッコイイではないか

    もし、キ-ボ-ド奏者が居たとすると、彼は歌う時もバックで演奏に専念する時も

    客席からは・・視界的にもハンデがあると言うわけだ

    だったら、いっそのこと・・それに・・キ-ボ-ド楽器(当時はシンセピアノ等が無い時代だ)は

    ステ-ジに設置するだけでも手間がかかる、ましてやツア-に運ぶ・・なんて・・である

    あの4人はレコ-ディングではキ-ボ-ドを使うとしても、Liveでは2本のギタ-とベ-スと

    自分達の発するvoiceで、すべてをまかなうアレンジにして見せてくれた

    ビ-トルズ登場は僕が広島で高校生の頃だった

    その頃は、まだリバプ-ルサウンドなんて言う言葉も聞いた事が無い

    アメリカンポップスに夢中で、僕のアイドルはリックネルソン、ニ-ルセダカ、デルシャノン他

    恋心をくすぐっていたのはコニ-フランシス、シェリ-フェブレ-、ジョニ-ソマ-ズ達で

    イギリスという国に興味を持った事など無い時代だった

    アメリカっぽい青春(ただ漠然となのだが)への大きな憧れが頭の中を支配していたのだ

    その頃、中学時代の同級生で高校は僕とは違う学校へ進学した友人達がベンチャ-ズやサファリ-ズの

    EP盤を買ってはコピ-してバンドで演奏する事を始めた・・ここが全ての出発点だったかも知れない?

    しかし彼等とは学校も違うし日常も共にして居ないので、僕がバンドとかエレキギタ-に興味を持つのは

    まだまだ後になるのである

    それに、その頃は写真部に入部して画像を自分で現像し編集するという・・まあ・・どうなってるんだ・・的な

    高校生だったので、音楽への情熱の「かけら」も感じられない平凡な高校生だったと思う

    下級生のS・Jさんに恋心を抱きつつ・・ふられっ放しで・・ニキビで顔が真っ赤だったし・・

    ともかく「イケテナイ」高校生の代表みたいな男の子だった事は間違いない

    そして、そんな「ダッセ-高校生」の僕が、そのダッセ-世界から「脱出する手段」としての「生きるヒント」を

    ビ-トルズの登場が示してくれたのである

    もう「これっきゃない!」と・・きっと、この高校生は思ったはずである

    (世界中のダッセ-若者たちが、きっと同じ夢を見はじめた・・そんな時代の始まりだった)

    ビ-トルズ革命は、音楽にとどまらず、あらゆる若者文化に道すじを示してくれたと思う

    ファッション・言葉づかい・大人への発言・社会の古い常識・・何もかもが彼等の言動で変わって行った

    「私たちは私たちの文化を作って進んで行くのだ」という4人の若者によるアイデアが

    いかに当時の私達にとって「素晴らしい提案」であったかは・・歴史が証明している

    *画像は「僕達にも出来る」をテ-マに集まった

    僕にとっての音楽の出発点ザ・ダウンタウンズ時代の吉田拓郎

    2024年10月8日  拓郎

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    from: すみともさん

    2024年10月14日 02時02分16秒

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    残念ですが、再開されることを願います

    from: 哲ちゃんさん

    2024年10月09日 13時25分07秒

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    すみともさんさんこのエッセイも近々終了とのこと。今はこれだけが拓郎さんとの繋がりだっただけに残念でなりません。

  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月13日 19時27分48秒

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    ラジオの青春 47

    2024.10.13Sun音楽・・ポピュラ-ミュ-ジックの形態とでも言うか・・変わってしまっている事を話そうまず僕などが(ミュ-ジシャン仲間でも同じ意

    2024.10.13 Sun

    音楽・・ポピュラ-ミュ-ジックの形態とでも言うか・・変わってしまっている事を話そう

    まず僕などが(ミュ-ジシャン仲間でも同じ意見がほとんどだ)第一に思うのは

    その曲に間奏が無い!事である

    ギタ-ソロやサックスソロもピアノ・オルガンソロも・・無い・・ほとんどの曲に「間奏が無い」のである

    僕は音楽が大好きだが、僕にとっての音楽は僕が歌うだけではない

    その歌の間や歌い終わった後に、僕の気持ちをさらに色づけしてくれる間奏やエンディングソロが

    絶対的な存在なのである・・大げさではなく、僕などは「そこを創る」事にRecの多くの時間を費やす

    僕は高中正義のギタ-ソロが聴きたくて歌を唄っていた・・と言っても過言ではない

    青山徹のアドリブが聴きたくてLiveでの間奏を長くアレンジした・・事実である

    ジェイク・コンセプシオンのsaxソロが聴きたくて間奏用のコ-ド進行を新たにアレンジし直した

    松任谷正隆の中西康晴のエルトン永田のピアノソロが嬉しくて間奏に聴きほれていた

    僕は今でもRecであろうがLiveであろうが、武部聡志に鳥山雄二に各楽器でのイントロ・間奏・アウトロ

    すべてにおいてのアレンジに注文を出し続けている・・それでこそアレンジだと思っているのだ

    イントロや間奏の出来不出来は「その曲の運命すら決めかねない」・・・

    言い過ぎではなく、だからこその熱量を費やしているのである

    そして、そのような音楽制作の現場があればこそ、多種多様な技術を持った

    様々なミュ-ジシャンが存在する意味があり、また彼等のプライドが活かされる場となるのだ

    アルバムRec中に「曲によって、ギタリストやキ-ボ-ディストを代える」という選択が存在する事がある

    ギタ-ソロやキ-ボ-ドソロをトライした結果「何かが違うかもなあ?」と納得が行かない時に

    ジェイクに直接電話して、彼が「たとえ他のスタジオで仕事中」だったとしても

    「ジェイク-!遅くなってもかまわね-からサ-俺は待ってるから○スタジオへ必ず来てくれよナ-」と

    無理やりに来てもらった事もあったくらいに・・間奏やエンディングのソロには、こだわっていたのだ

    ミュ-ジシャン達によるソロ演奏を必要としないような音楽シ-ンとは・・

    例えば、確かに昨今の「ヒップホップ系の楽曲には、それは見られなくなっている」ように感じる

    マイケル・ジャクソンは「今夜はビ-トイット」の間奏でエドワ-ド・ヴァン・へイレンの凄まじいエレキソロを導入

    つまり、このあたりでは、1曲のアレンジを考える中で、まだ間奏とかに大いに「こだわって」いた証しである

    その後、黒人ア-ティストによるヒップホップな楽曲が全米を席巻して久しい

    今や、あのテイラ-・スウィフトもヒップホップ感覚の曲作りで大ヒットを連発している

    音楽制作は今・・・・音楽スタジオに行かなくとも可能な時代だ・・自宅で充分にバンド演奏からボ-カル録音まで

    そのクオリティ-的にも、サウンド的にも、これまでのスタジオ制作に全く劣らないモノが製作可能なのだ

    PC用に素晴らしいソフト(アプリ)が、さほど高価ではなく入手できる

    サウンドサンプラ-の技術が高度に躍進し、ドラム、キ-ボ-ド、ストリングス、ブラス、ベ-ス他・・楽器は何でもOK

    素敵なサウンドモジュ-ルが存在するので、まさに自宅・自室での楽曲Recが、好きな時間に行えてしまう

    さて・・こんな言葉がある・・・「新しかったものも、いつかは古くなります」

    僕が少年期から愛し続けたアメリカンポップスも、今や「アメリカンオ-ルディ-ズ」として懐古的に扱われる

    音楽が「その形態をかえながら進化して行く」ことには拍手を送りたい

    僕自身が古くなり、骨董品としての存在価値を多少は示せたとしても・・やはり、それは「現代的」ではないのだ

    ただ1つ・・気になる・・こと・・と言えば

    天才的なギタ-奏者、抜群のセンスをもったキ-ボ-ディスト、泣かせるサックス奏者・・・・

    次世代にも、その次の世代にも・・・・いや・・永遠に!

    音楽が鳴り響く世界が存在する限り「そんな夢のミュ-ジシャン」の登場を待ち続けたい

    僕は「イントロ・間奏・エンディング」な人生を歩み続けている

    *画像は小学1年生の吉田拓郎

    何にも心配していない、何にも怒っていない、何にも不満が無い、何にも考えていない(笑)

    もちろん・・・ミュ-ジシャンになろう!なんて・・・これっぽっちも・・・考えていない

    鹿児島の片隅で生きていたシンプルTakuroである

    2024年10月13日  拓郎

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    よし

  • from: 哲ちゃんさん

    2024年10月09日 22時00分42秒

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    ラジオの青春 46

    2024.10.09Wedそもそも僕が音楽に興味を持つようになったのは・・始まりは中学生の頃という事になりそうだ中学2年の時に音楽担当の先生が、それま

    2024.10.09 Wed

    そもそも僕が音楽に興味を持つようになったのは・・始まりは中学生の頃という事になりそうだ

    中学2年の時に音楽担当の先生が、それまでの常識だったピアノでの合唱指導ではなく

    その先生の得意な楽器だという事で、アコ-ディオンを使っての唱歌レッスンだったのである

    それは僕たち生徒にとっては大変に刺激的で・・時には授業が楽しみにさえ思える事もあった

    歌う曲も普通の教科書的なものばかりではなく、時には歌謡曲とか流行歌を歌う日もあって

    とても「学校に居る時間」とは思えない、別な空間を感じさせる授業だったのだ

    ここで先生が僕達に歌わせる歌謡曲や流行歌などは、歌う僕たち生徒の心に率直にしみ込んで

    教科書の、いわゆる学校唱歌などとは違い、ごく自然に記憶の片隅に残り続ける事になったと思う

    学校での音楽に触れる環境が上記のようであった事・・と合わせて・・

    僕には家庭内にも、大きな「音楽の種」が芽生えつつあったと言えるだろう

    それは・・この事はこれまで、詳しくは語ってはいない?と思うのだが「兄の存在」なのである

    兄は鹿児島のラ・サ-ル高校から立教大学の政経学部に進学した、いわばエリ-トで

    父の期待を一身に受けながら上京した事だろうと推測できる

    父は後年は鹿児島で「県の農業小作民史」のような書物を書いていたが

    学歴とか「そういう形式ばった事」においての自分の経歴に大いなるハンデを感じていた

    だからであろう・・長男の未来には計り知れない程の期待をしていたのだった

    (末っ子の拓郎は病弱だし、長男と14才もかけ離れた息子は・・期待とは遠い存在だったようだ)

    兄も大学へ入学した頃は勉学1本に取り組む覚悟だったと思うのだが・・

    東京と言う環境が「そうさせた」のか?詳しい経緯は僕も聞かされていないけれど・・

    それこそ父でなくとも、母も驚き!をかくせない道へと進んで行くのである

    それは当時、日本でも流行の先端を行く「お洒落とも言える音楽」ジャズへの傾倒だったのである

    当時の日本の音楽事情については、僕自身も後に音楽誌などで、その経緯や歴史を知るのだが

    有名な中村八大さん達の活躍で東京の大学生たちの中では大きなブ-ムとなっていたそうだ

    (八大さんと言えばNHK「夢であいましょう」の音楽で有名、世界的大ヒット「上を向いて歩こう」の

    作曲者であり、日本のポピュラ-ミュ-ジックブ-ムの立て役者で、ジャズピアニストとして有名)

    兄が、このブ-ムにのめり込んで行ったのも「時代」という空気の流れに逆らえなかったのかも知れない

    しかし、兄の音楽歴は大学へ入学してからという事になり・・あきらかにキャリア不足であったのと

    はたして彼に音楽的な才能があったのか?という根本的な疑問も・・父でなくとも持った事だっただろう

    大学時代はアルバイト的に都内の音楽喫茶(あの時代には広島にも2軒あって、昼間から大学生中心に

    シャンソン等を歌い合うという・・今では考えにくい空間だった)などでバイト的にピアノを弾いていたらしい

    卒業して会社勤めをするのか?と思いきや・・やはり飛びこんだジャズの世界への未練は断ちがたく

    1枚のアルバム(LP盤)を発売した・・(このレコ-ド会社名は全く聞いた事が無かった)

    広島へも郵送されたLP盤を聴いた時に・・僕は・・子供心に(さしたる音楽の知識も無いまま)首をかしげた

    「これってジャズじゃない!」

    テレビやラジオの音楽番組でたまに目にし・耳にしているジャズは「こんなのじゃ-ない」と感じたのだ

    アルバムにはライナ-ノ-ツが書いてあった(誰が書いたのか?さえ記してなかった)

    「水木哲郎は間違いなく日本のセロニアス・モンクである、彼のプレイからほとばしる自由なプレイは・・・」

    水木哲郎とは我が兄・吉田哲郎の芸名だった(後に父は吉田の姓を使わなかった事でも怒っていた)

    まだ音楽の「何たるや」もわかっていない僕でも「ジャズって、こんなプレイはしない」と感じたのだ

    またアルバム内の選曲も「ジャズではない」・・あまりにも「音楽の知識が低い人達が作ったアルバム」

    と言わざるを得ない内容だったのである(兄のプレイするピアノはアマチュアレベルと感じた)

    このアルバムが売れる事はあり得ないし、レベルの低さは「失笑もの」だった事もあり・・

    兄は、ここから音楽への夢を断ちきって・・新たなる社会人としての道へ、再スタ-トを切る事になる

    立教大学時代の仲間たちと共同出資で空調機器関連の会社を立ち上げ、亡くなるまで普通の社会人として

    また、平凡な家庭人として一生を終えたのだった

    *画像は・・ある時、兄がガ-ルフレンドを連れて広島へ遊びに来た事があった

    彼女は東京のナイトクラブで働く女性で、それは・・もう・・素敵な!それこそ東京の香りいっぱいの

    魅力的な女性だった(まだガキの僕だが・・生まれて初めて目の前にする都会の女性に

    完全に心と魂を破壊され、何もかもが雲の中での出来事にしか見えない日々が続いた

    母も初めは彼女の職業などに不安を隠せない対応だったのだが・・

    ひと晩だけ二人で布団を並べて寝ながら・・色々と「ぶっちゃけ話し」をした翌日から

    まるで旧知の仲であるような「変貌ぶり」で、事あるごとに兄に・・さりげなく・・しかし・・しつこく(笑)

    「アンタあの人いいわよ、お嫁さんにしちゃいなさい、アタシはあの人の事お気に入りだよ」と告げていた

    ある夜、兄が彼女と寝泊まりしている部屋から「拓ちゃ-ん!ちょっと来てよ-!」と呼ぶ声が・・

    「何だよ-・・ボク・・今・・受験勉強中なんだからサ-・・」とシブシブ(しかし嬉しくて)部屋へ行ってみて!

    「・・・・」だった・・・・!!

    東京の香りプンプンの彼女は「真っ黒で少しスケスケな・・今は見ない(と思う)スリップ姿」で

    兄とタバコを吸いながら「拓ちゃん・・タバコ吸う?」

    ・・・ボクは「生きた心地がしなかった」のだった(苦)・・・(理由は皆さんの想像通り・・だと思います)

    ある日「拓ちゃん、広島の繁華街に連れて行ってよ!すっごく楽しみにしてたんだ」と彼女にたのまれて

    二人だけで広島の中心街「八丁堀」から「縮景園」まで歩いた・・僕は意味もなく「鼻が高い」気分だった

    それが、生まれて初めて、若い女性と肩を並べて街中を歩く!という・・まあ・・第三者から見れば

    「デ-ト」と思われてもいい・・嬉しくて心臓が破裂しそうな瞬間だったのだ

    (でも、まあ、誰が見たって・・デ-トには・・見えないよなあ~(涙)

    兄と彼女は・・その後2~3年は交際が続き・・母のおもわく通りに結婚か・・と僕も思っていたのだったが

    ある時期から、彼女の話題が広島に入って来なくなる

    二人は同棲生活を続けていたが・・どうやら彼女の方が・・その生活に見切りをつけたようだった

    「となりの町のお嬢さん」はフォ-ライフ発足後の僕の第1弾という大きなハンデを背負ったシングルだった

    ともかく「クソな理屈や、ヤボな世評」などを一掃するには「売れなければならない」

    そして「売れれば」すべてが川の流れの中に消えて行く

    新曲のテ-マを捜して六本木の行きつけのピアノ・バ-で飲み仲間のマスタ-と昔話をしている時

    目の前にあるピアノを見ながら僕が「マスタ-!ム-ンリバ-やってよ」とリクエストした

    彼が歌うヘンリ-・マンシ-ニの名曲「ム-ンリバ-」を聴いている時に・・「アッそうだ!!」と浮かんだ

    ピアノだ!・・兄貴もピアノ弾き・・だった・・そして・・あの人・・あの心を「かきむしる」ほどに

    僕の未熟な心を悩ませた女性・・あの青春だ!・・あれは間違いなく「ヒット曲のテ-マになる」

    2024年10月9日  拓郎

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