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  • from: にょん太さん

    2015年12月12日 13時42分52秒

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    後期バロック様式のシチリア

    シチリア・ヴァッロのヴァル・ディ・ノートは、1693年1月9日の本震、二日後の1月11日に発生した余震によって壊滅的な被害を受けた。
    当時、シチリアは、1504年にアラゴン王(スペイン)がナポリ王国(フランス)を破り、ナポリとシチリアを再統一したナポリ王国の一部だった。つまりシチリアはスペインの植民地だった。

    大災害の報告を聞いたスペイン王は、最初はこの問題を放置したが、18世紀前半にようやく重い腰を上げて貴族Giuseppe Lanzaを復興の責任者に任じたのである。

    バロックは反宗教改革を旗印にローマで起こったが、宗教改革がイタリア各地に波及しないことが明らかになった17世紀後半には衰退を迎えた。
    バロックは政治的権威を示すことに資するとされて、イタリアでバロックの衰退後もスペインを含む絶対王政国家に継承され更に発展したのである。

    Guiseppe Lanzaは、スペインの意を受けてヴァル・ディ・ノート地区をバロック様式で統一された建物で再建することにしたのである。実際の建築については、建築家Rosario Gagliardi(シラクーザ1698-ノート1762)を起用したのである。

    ロザリオは、生涯一度もシチリアを離れることが無かったが、ベルニーニ建築をほとんど独学で会得したにも拘らずバロック様式建築の発展形である独特なシチリア後期バロック様式を確立したのである。
    当時、建築家はローマに赴き建築を修業するのが必須とされていた。

    ロザリオは、1738年にラグーザのサン・ジョルジョ聖堂の設計を行い、それをPrototypeにしてヴァル・ディ・ノート地区の他の教会やPalazzoを設計したのである。

    1734年、シチリアは両シチリア王国となってオーストリアのハプスブルグ家の支配になったが、当時、オーストリアも後期バロック様式が盛んだったので、後期バロック様式による復興建築はそのまま踏襲されたのである。

    今日、シチリア後期バロック様式の建築物は、あまり高い評価を受けていないのが実情である。外国支配の植民地時代の負の遺産と言うのがその理由である。
    また建築史においても、イタリアの代表的バロック様式建築物の中に、シチリアの建築物が一つも含まれないのが普通である。
    シチリアの一般の人たちは、フランス、スペイン、オーストリアによる政治的圧迫の記憶が消えないのである。

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コメント: 全4件

from: にょん太さん

2015年12月14日 08時37分20秒

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シニョレッリさん、

ラグーザのサン・ジョルジョ大聖堂は、その通りです。ロザリオの設計によって、1739年に再建工事が開始され、1775年の工事完成でしたから。

しかし、モディカのサン・ジョルジョ大聖堂の再建は、着工が1702年、完成が1738年でした。
その差は、その土地の貴族や大地主たちの復興への取り組みから来ていると思います。

地震からの復興は、一義的には支配していたスペインの責任ですが、スペイン支配を良いことに、利益を享受していた封建貴族、農民から身を起こした新興貴族、そして大地主の復興への取り組みに、地震発生から暫くの間は問題があったから遅れたと思います。

スペインから派遣された役人や兵力が十分ではなく、細かいところまで統治が及ばず警察力も不足していたと推察できます

封建貴族、新興貴族、大地主が復興を真剣に取り組み始めたので、今日の姿を見ることが出来るのです。

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from: シニョレッリさん

2015年12月13日 19時48分18秒

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にょん太さん、

少し調べてみたら、改めてビックリしました。

建築家ロザリオ・ガリアルディが中心になってノート渓谷の復興工事が行われた、それは理解できますが、地震がおきた1693年にはロザリオは生まれていなかった、1698年に生まれたロザリオが最初に聖堂を設計したのが1738年ですから、地震発生後、45年後に漸く最初に設計とは!!!
災害の復興は出来るだけ早くが鉄則ですが、45年も殆ど放置されていたとは、驚きです。スペインの地震被害に対する無責任、関心の無さがそれで分かります。それと同時に地元民の苦労も分かるし、シチリア住民の政治に対する不信感も当然だったと思います。

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from: にょん太さん

2015年12月13日 07時08分29秒

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シニョレッリさん、

はい、その通りです。

複雑な歴史が造り出した文化こそがシチリアの魅力です。

地元貴族や富裕商人に力によって自治都市として発展した北イタリア、教皇庁の影響が強かった中部イタリアと違って、外国支配の歴史がシチリアです。
そのため、シチリア住民は、伝統的に支配や政治に対して強い不信感があり、住民同士の連帯によって外国支配に対して抵抗したのです。その延長線上にマフィアが生まれる余地があり、更にイタリア統一後の中央政府の不信があり、更に南北問題に至ったのです。

スペインの植民地支配は基本的に苛政であり、シチリアもその例外ではなかったでしょう。
ノート渓谷の後期バロック様式による統一された復興は住民に歓迎された一方で、その経済的負担が大きかったと思われ、複雑な思いにかかれたことでしょう。

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from: シニョレッリさん

2015年12月12日 17時09分23秒

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にょん太さん、

イタリアの南北問題の原点は、ナポリとシチリアの外国支配にあると聞いたことがあります。
ナポリのカモッラ、シチリアのマフィアも、その根源は外国支配にあったそうですね。

シチリア後期バロック様式もスペイン、オーストリア支配の結果という訳ですね。

シチリアの美術館や博物館に行くと、アントネッロ・ダ・メッシーナやカラヴァッジョなどの一部の作品を除けば、意外に傑作が少ないように思います。それに目ぼしい芸術家がいませんね。
芸術はその土地の富の蓄積の反映であり、外国に搾取されて富の蓄積が十分でない上に、外国政府も植民地にあまり金を使わなかったことから、傑作が少ないのでしょう。

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