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from: シニョレッリさん
2014年07月29日 08時55分37秒
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美術館・教会巡り(299) マントヴァ、旧サン・セバスティアーノ教会
この通りの先に、目指す教会があります。
これがサン・セバスティアーノ教会です。
初期ルネサンスの万能の人レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404ジェノヴァ生まれ~1472ローマで没)の設計に基づき、1460年にルカ・ファンチェッリの手によって建築が始められました。完成は1529年で、同じ年に奉献が行われた、ルネサンス様式の教会です。
20世紀前半にファサードの一部改造が行われ、階段が付け加えられました。
二階構造となっており、一階部分のクリプタはゴンザーガ家の霊廟になっています。
クリプタです。
内部は三廊式となっています。
柩が置かれていた場所の上に墓碑が掲げられていますが、柩は移されて、ここにはありません。
二階部分のファサードと入口の間に柱廊が設けられています。
入口扉上の装飾です。
ラテン十字形、ルネサンス様式の二階内部です。
所々に剥離フレスコが残されています。
非常にイタミがあって、何が描かれていたのか分かりません。
現在、この教会の建物は、レオン・バッティスタ・アルベルティが設計した教会に関する博物館として使用されています。
アルベルティが設計した教会の模型が展示されています。
フィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会
リミニのマラテスタ寺院
フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード
マントヴァのサンタンドレア聖堂
教会自体は見る価値がありますが、博物館にはわざわざお金を払って見る価値があるのか、稍疑問に思いました。from: ぐら姐さん
2014年07月29日 11時26分10秒
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にょん太さん、そうなのですか!それも全く知りませんでした。見てみたいですね、ほんとうに。設計とか、それこそミニチュアとかは残っていないのでしょうか。
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from: シニョレッリさん
2014年07月30日 09時59分03秒
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美術館・教会巡り(300) マントヴァ、サン・バルナバ教会
「美術館・教会巡り」はとうとう300回の節目を迎えることが出来ました。にょん太さんのサークルで、300回目をアップするとは思いもしませんでした。
この通りの先に目指す教会があります。
サン・バルナバ教会です。
1263年のマントヴァの記録に、この場所にサン・バルナバ教会があったと記されています。
1397年、フランチェスコ・ゴンザーガ1世の命により、サンタ・マリア・デイ・サルヴィ尼僧院となったそうです。
ラッファエッロの一番弟子でマントヴァで活躍したジュリオ・ロマーノが1546年に死去しましたが、その際、この教会に葬られたそうです。
建物の老朽化が進んだので、1737年から大改修工事が行われ、バロック様式に改造されました。現在の建物は、このバロック様式の改造後のものです。
教会前の広場に「イルカを抱く少年」の噴水があります。
ファサードに四体の彫刻があります。
目新しいものではありません。
では、内部に入りましょう。
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。
左右の側壁に礼拝堂が設けられています。
左側壁
装飾を抑えたすっきりした天井です。
クーポラ
主祭壇と後陣
主祭壇の作者不明の「磔刑像」と「聖母子と聖フィリッポ・ベニッツィ」
主祭壇前からファサード方向を見たところです。
Teodoro Chisiの「救世主」
ジロラモ・ボンシニョーリの「マントヴァのベアタ・エリザベッタに顕現する聖母子」
Bartolomeo Picenardiの「マントヴァのベアタ・エリザベッタ」
Bernardo Malpizziの「聖母子と聖フィリッポ・ベニッツィ」
ロレンツォ・コスタ・イル・ジョーヴァネの「パンと魚に奇跡」
教会を出ました。
それ程傑作や秀作がありませんが、ジュリオ・ロマーノの墓があるので、行ってみて損はないと思います。-
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にょん太、
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from: シニョレッリさん
2014年07月26日 08時52分02秒
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美術館・教会巡り(298) マントヴァ、オーニッサンティ教会
今日から「美術館・教会巡り」と「リナシメント芸術家」シリーズを一時的な試みとして、にょん太さんのサークルでアップすることにしました。
マントヴァのCorso Vittorio Emanueleです。
通りに面して教会が建っています。
新しそうに見えますが、興味深い歴史を持つオーニッサンティ教会です。
1080年、トスカーナ辺境伯Grancontessa Matilde di Canossa(1046-1115) が教会や病院を建てるために、財産の一部をサン・ベネデット・ポー修道院に寄進しました。Martildeが寄進した金に加えて、1159年に当時の法王アドリアーノ4世が資金援助を行い、12世紀に建てられた教会が前身です。
現在の建物は、1752年から1755年にかけてバロック様式で再建されたものです。
Matilde di Canossaは、有名な「カノッサの屈辱」の舞台となったカノッサ城の城主で、1077年法王グレゴリウスをカノッサ城に保護して、神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世を屈服させた陰の主役でした。
この辺の背景を知っていると、この教会に巡りたくなるのです。
単廊式、バロック様式の内部です。
右側壁方向
左側壁方向
バロック様式の教会としては、比較的地味な装飾です。
天井のフレスコ画は、Giovanni Cadioli(1710-1767)によって描かれました。
主祭壇です。
クーポラのフレスコ画もGiovanni Cadioliの作品です。
主祭壇画は、Ippolito Andreasi(1548-1608)の「聖人たちに囲まれる聖ベネデットと聖スコラスティーカ」です。イッポリートはジュリオ・ロマーノのマントヴァ時代の弟子でマントヴァとその周囲で活動しました。
制作者不明の「磔刑像」
Ippolito Andreasiの「福音書記者聖ヨハネ」
作者不明の「死せるキリストの埋葬」
「受胎告知」のステンドグラス
二枚のステンドグラスから成っています。
主祭壇前からファサード方向を見た写真です。
Giuseppe Bazzani(1690-1769)の「聖母子と聖アンナ」
Giovanni Cadioliの「病院を癒す聖マウーロ」
Ippolito Andreasiの「洗礼者ヨハネの説教」
Cappela del Morteです。
このフレスコ画が、再建される前の教会にあった唯一の作品です。
Nicolo Solimani da Veronaの「聖母子と聖ベネデット」(1463)
作者不明の「父なる神」
カノッサ城主だったMatildeゆかりの教会ですが、その名残を一切感じられませんでした。
教会を出ました。from: にょん太さん
2014年07月26日 10時00分13秒
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シニョレッリさんこの教会は、マントヴァでも由緒ある教会の一つですが、それを知らない観光客が多く、わざわざ足を運ぶのは、何時も地元の信者だけのようです。
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from: にょん太さん
2014年07月17日 10時56分34秒
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この町は何処でせうか?
マルケ州の人口1万人以下の町で~す。
歴史ある古い教会が大きな修復を受けずに残されていま~す。
ドゥオーモ
サン・フランチェスコ教会
サン・フィリッポ教会
サン・ドメニコ教会
サン・ドメニコ教会にある、ジョヴァンニ・サンティ(ラッファエッロの父)のフレスコ画
この町の教会には残されているフレスコ画が多いので、楽しいで~す。 -
from: にょん太さん
2014年07月13日 16時41分05秒
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カテリーナ・スフォルツァの血
ルネサンスの女傑カテリーナ・スフォルツァの血が、現代のヨーロッパ王家に流れている話で~す。
フォルリのサン・ドメニコ市立美術館にある彼女の肖像画で~す。
彼女の最初の夫ジロラモ・リアーリオ伯爵に始まって、彼女の男遍歴は大変なもので~す。次々と男が好きになりましたが、単なる男漁りに終わらず、熱愛した男に身も心も捧げたところが違いま~す。
1496年、女領主カテリーナの元に、フィレンツェの駐フォルリ大使として、ジョヴァンニ・デ・メディチ(イル・ポポラーノ)(1467-1498)が現れま~す。
ワシントンのナショナルギャラリーにある、ジョヴァンニ・イル・ポポラーノの肖像で~す。描いたのはボッティチェッリ
メディチ家で最も美男と評判のジョヴァンニは、これまでカテリーナが恋心を燃やした男よりも品があり、優雅でしたが純朴だったので~す。
大使赴任から間もなく、カテリーナはジョヴァンニにアタックしまし~た。純朴なジョヴァンニは、男漁りに長けたカテリーナの敵ではなく、直ぐにカテリーナの恋の虜となりまし~た。
ジョヴァンニとカテリーナが逢瀬を楽しんだ、フォルリのオルデラッフィ宮殿(カテリーナの居城、現フォルリ市庁舎)
ジョヴァンニ(当時29歳)とカテリーナ(当時33歳)は結婚しましたが、フィレンツェ大使と伯爵夫人との結婚は政治的に問題があるので、秘密にされまし~た。
ところが、この結婚生活は長続きせず、2年後の1498年、ジョヴァンニが死んでしまいま~す。
ジョヴァンニの死因には2説あって、フィレンツェとピサの戦争して負傷したキズが完治せず、破傷風に罹患していてフォルリで悪化して死去、不治の癌に侵されての死去の2説で~す。
ジョヴァンニが病の床にあった1498年4月、カテリーナは男の子を生みまし~た。そうして、二人の結婚は公になり、ジョヴァンニの死後の1498年7月、フィレンツェ共和国は、カテリーナと二人の間の子(紛らわしいことに父と同じ名前ジョヴァンニと名付けられまし~た)、それにカテリーナの連れ子にフィレンツェ市民権を与えたので~す。
カテリーナが生んだ男子が、武勇で名高い、後の黒隊長のジョヴァンニで~す。
黒隊長のジョヴァンニ
黒隊長のジョヴァンニと、ロレンツォ・イル・マニーフィコの孫娘マリア・サルヴィアーティの間にできた息子が、後のトスカーナ大公コジモ1世で~す。
コジモ1世の孫娘マリアがフランス王アンリ4世と結婚したマリー・ド・メディシスで~す。マリー・ド・メディシスの子供たちが、フランス王のルイ13世、イギリス王チャールズ1世の妃となったアンリエット・マリー、スペイン王フェリーぺ4世の妃となったエリザベット、ガストンオルレアン公で~す。彼女が生んだ4人の子供たちの系図を辿れば、現代のヨーロッパ王家にカテリーナの血が流れていることが分かりま~す。
カテリーナのその後に付いては、またにしま~す。(つづく) -
from: にょん太さん
2014年07月10日 10時45分42秒
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この町はどこでせうか?
町当てクイズで~す。
6000人未満の人口だから町ですバイ。南イタリア?
トルコ人が馬小屋にしていた。
ロマネスクのドゥオーモ。
小さなサン・ピエトロ教会じゃがビザンチンのフレスコ画があるのじゃ。
城もあるのじゃな。 -
from: にょん太さん
2014年07月08日 03時32分13秒
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ここはどこでせうか?
シニョレッリさんにはご迷惑おかけしまし~た。う~ん、現在もご迷惑をおかけしてま~す。
ここは何処でせうか?
フレスコ画ちゅうもんは、現地に行かなければ見らない~す。
ここに、あのフレスコ画があるんバイ。
立派な聖堂でガンス。藤沢周平さんみたいでガンス。
ヒントはこれでガンス。ピエロ・デッラ・フランチェスカの祭壇画に描かれてガンス。-
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ぐら姐、
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from: にょん太さん
2014年07月31日 12時29分04秒
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ぐら姐さん残念ですが、アルベルティ設計のものは残されていないようです。改築前の泉の様子を描いた絵画でも残されていれば、と考えて調べてみましたが、ありま