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from: 花散里さん
2020年07月08日 11時14分17秒
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町田樹著「アーティスティックスポーツ研究序説」
日刊スポーツの「日本の歴史を刻んできたフィギュアスケーターや指導者が、最も心を動かされた演技を振り返る連載「色あせぬ煌(きら)めき」。第4回は「氷上の
日刊スポーツの
「日本の歴史を刻んできたフィギュアスケーターや指導者が、最も心を動かされた演技を振り返る連載「色あせぬ煌(きら)めき」。第4回は「氷上の哲学者」の呼び名で知られた町田樹さん(30)。6月に初の著書「アーティスティックスポーツ研究序説」を白水社より刊行し、いまは研究者として氷を見つめる。13-14年シーズンのアダム・リッポン(米国)のフリー「牧神の午後」から、他競技にはないフィギュアの魅力を説く。」
ってコラムを読み
彼が最も心動かされた演技としてアダムリッポンの「牧神の午後」を上げてるのが嬉しくて、その内容も(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪と納得共感しきりで
最後に
「初の著書でも図版やデータを用いて、リッポンの演技への思考を深化させている」
と紹介されていたので、
リッポンマニアとしては、読んでおくべき?(;゚Д゚)?と興味をそそられた。
https://www.nikkansports.com/sports/figure/column/figuresparkle/news/202007030000935.html
出かけた書店の棚で見つけたものの
学術書なので本の作りが思ってたよりずっと重厚で、値段も¥高Σ(゚Д゚)、
特に町田ファンというわけではないので、\(ーー;)う~んと躊躇はしましたが、
コロナ禍で、家に閉じこもりがちになり、丁度、こんな雨続きの日には、しっとりした音楽流しながら、紅茶片手に本をめくりたいって気分でもあったので
買ってしまった。(´-`*)v
先ずは一番気になってたリッポンの「牧神の午後」に言及してる箇所を探してそこから先に読みだしたのだが
買って良かったよ~ヽ( ;∀;)ノ
例としてちらりとリッポンの演技に触れられているといった程度ではなく
第Ⅲ部「鑑賞されるアーティスティックスポーツ」の中の第2章をまるまる使って
P141からP185までがリッポンの一挙手一投足を観察し、その意味を読み取り、深い考察からの感嘆と続き・・・よくぞここまで(@_@。
わたしの脳内で、(^^ゞ
この章まるまる「アダムリッポンに捧ぐ」と要約されてしまう程の内容で
こんなにも熱くリッポン演技の魅力を語ってくれてありがと~町田くん(ノД')・゜・。
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from: 花散里さん
2020年07月27日 11時37分37秒
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では、町田氏の評論を踏まえた上で、アダム・リッポンの「牧神の午後」をじっくりと鑑賞してみよう。
≪リッポンは、その恵まれた身体と適正なスケーティング技術によって、「牧神」の「相貌」を氷上に体現してみせた。≫
まさに~(⋈◍>◡<◍)。✧♡激しく同意
以下花散る里の感想
初めてこのリッポンの「牧神の午後」演技映像を観たのは、2015年全米の「ピアノ協奏曲」演技映像でアダム・リッポンに一目惚れしてから、彼の過去演技をあれこれ漁りまくっていた時であった。
牧神のポーズは、プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」で印象に残っていて、「ニジンスキーに捧ぐ」は好きなプロの一つではあったけれど、わたしの中で「最もニジンスキー風味がある演技はアダム・リッポンの牧神」に書き換えられた。(´-`*) この映像を最初に見た時には、「これをソチオリンピックで見たかったよ~!!!全世界に見せたかったよ~!!!」と残念でならなかった。
まず、この曲にはこんな魅力があったのかと驚いた。曲自体は、以前から知ってはいた。でも以前曲だけ聴いた時には、なんだか 前衛的=小難しい ってイメージで、うにょ~~~とした旋律がこう景色を歪ませるような感覚が心地悪く、パーンと分かりやすく盛り上がる部分がなく、どよ~んとした退屈な曲と感じていた。それが、リッポンの演技を見て曲のイメージが大きく変わった。張りつめた緊張感、それがふっと緩んだ後になにかしらを予感し高まる期待、身体の内側から湧き上がるエネルギーに身をよじり急かれるように疾走する旋律が渦を巻いて空間に解き放たれていく。音のうねりの中に不思議な静寂を感じ心地良いと思った。
リッポンプロには、彼の演技を見て、初めてその曲の魅力に気づかされることが度々ある。わたしが、彼をアーチストであり優れた表現者だと思う所以だ。
また、アダム・リッポンは自分の体験した感情と今告げたいメッセージとを身体を使って、視覚化するのが上手い。そういう何か天性の才能みたいなものをフィギュアスケートに限らず、NHK杯エキシの歌声披露でも、ダンス番組でもみせてくれた。眼差しや口元といった顔の表情ばかりでなく、ちょっとした首の角度・指先・背筋等等、身体の表情も豊かで、振付を単なるそういう振りではなく、今まさに自然な感情が全身からあふれ出しているという風に、感じさせてくれるのだ。
今回町田氏の評論を読んで、リッポンが牧神の演技で見せる「野生と官能」と同時に時折「垣間見える無垢な表情」町田氏の感じた「理性と野生の狭間で精神が微妙に揺れ動く牧神の内面」は、リッポンの当時の内面そのものの投影ではないかと考えた。
「スカーフと共に取り残された牧神の心情」「『絶対の渇望者』として牧神像」って文章に、ふと、リッポン自叙伝の中のスコッティ―さんとの別れのシーンを思い出していた。自分本来のセクシャリティーに目覚め、誘われるままに恐れることも躊躇することもなく大胆に踏み出し、初体験をしたが、その対象はあっけなく消えて、一人取り残されたリッポン。オリンピックを目指すアスリートとして禁欲的なトレーニング中心の生活に踏みとどまって、恋も性生活も先送りにしながら、彼の中に目覚めた別の情熱と欲望は行き場をなくし、当に「理性と野生の狭間の揺れ動く精神」を経験したに違いない。
とはいっても、経験したからといって、誰もが自分の経験を演技に投影できるわけではなく、ましてやより魅力的に表現できるわけではない。内面に感情の記憶をドラマチックに再現しつつ、自分を外から客観的に観察する目でもって演出を加えることで、生の体験は、初めて魅力的な演技となるからだ。アダム・リッポンは、それができる表現者だ。
彼の牧神が官能的なのは、町田氏も指摘するようにアッパーボディーによる視覚効果もあるだろうが、内からのエネルギーに突き動かされるように焦燥感さえ感じさせて加速していく推進力と、ここぞという美しい角度や位置でピタリと止めたポーズを保ったままの加速を可能にしている抑制力、二つのエネルギーのせめぎ合いと緊張感によって生み出されているのだと感じる。
リアルでは、スコッティ―さんに遊ばれた形のちょっぴりイタイ失恋体験が、このプログラムの中で、非常に魅力的な「絶対の渇望者としての牧神像」を生み出し美しく昇華されていると、わたしはそのように想像してしまう。
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from: 花散里さん
2020年07月19日 15時23分59秒
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町田樹著「アーティスティックスポーツ研究序説」
第Ⅲ部 鑑賞されるアーティスティックスポーツ
題2章 プログラム再読のすすめ
―アダム・リッポン≪牧神の午後≫を題材とした
フィギュアスケートの作品分析
≪以下抜粋
2-6 リッポン版「牧神の午後」の総合評価
振付師とは、ミューズがいなければ生きられない存在だ。いくら頭に優れた振付のアイデアを思い浮かべようとも、その振付を体現することができるスケーターがいなければ、振付師は創作を行うことはできない。その意味において、アダム・リッポンというスケーターは、トム・ディクソンという振付師にとって、まさにミューズであったと言えるのではないだろうか。
リッポンは、その恵まれた身体と適正なスケーティング技術によって、「牧神」の「相貌」を氷上に体現してみせた。
ジョン・カリーをはじめとして牧神を演じる趣向のプログラムはいくつか存在するが、リッポン程野生を感じさせるものはない。(中略)
またリッポンの「牧神の午後」新版は、性的描写は一切見られないが、どこか官能性を感じさせる趣となっている。その理由としては、アッパーボディー・ムーブメントが多用されていることが挙げられるだろう。フィギュアスケートの文脈におけるこのアッパーボディー・ムーブメントとは、上体を反らせたり捻ったりすることで、身体の中心軸から上半身の軸を大きく外すような動作を意味する。「牧神の午後」新版には、このような上体の動きが一般的なプログラムよりも頻繁に観られるのである。舞踏に限らず多くの舞台芸術において、性的な快楽を身体で表す時には、普通上体を大きく反らせるものだが、リッポン版「牧神の午後」におけるアッパーボディー・ムーブメントは同じような視覚的効果をもたらしているのではないだろうか
とはいえ野生だけではなく、ときには無垢な表情を見せたり、あるいは(ニジンスキーの作意とは相反するが)フィギュアスケートならでは美しいポジションが規律正しく提示されることで、観る者はリッポンの身体から、理性と野生の狭間で精神が微妙に揺れ動く牧神の内面を感得することできるのである。
一方で、ディクソンの振付も極めて精巧である。ディクソンの振付の優れた点としては、主に①フィギュア(=図形)のデザイン性と、②身振りと様式の踏襲、そして③マイムによる物語性の付与の3点を挙げることができるだろう。
(1) フィギュアのデザイン性
「牧神の午後」新版のフィギュア・ノーテーションを作成してわかることは、空間占有率が高く、かつ緩急が明確なフィギュアの美しさである。(中略)広大なリンク空間を満遍なく利用して図形を描けなければ、360度鑑賞に耐え得る良質なプログラムを生み出すことはできない。(略)ディクソンが公正したフィギャアに死角はない。さらに技術点の採点対象となるジャンプとスピンも、ほとんどシンメトリーになる形で配置されているから驚きである。
実は見落とされやすいことだが、空間(リンク)の占有率の高さを履行するためには、圧倒的なスケーティングの速度とそれをコントロールする高度な技術が必要である。リッポンのスケーティングの驚異的な速度と技術が、この「フィギュア」の美しさを可能とする。
そしてそのスケーティングのスピードが、牧神の野生を表象してもいるのである。
フィギュアスケート界においてこれ程までにプログラム全体のフィギュアが精巧に作られることは、きわめてまれであると言えるだろう。
(2) 身振りと様式の踏襲
(略)ニジンスキーの振りを引用すること自体は決して珍しいことではない。しかしこうした身振りが、空間の二次元性までをも意識して提示されているプログラムとしては、ディクソンの振付が唯一であると評価することができる。(略)おそらくディクソンが旧版から新版へとプログラムを手直しする過程で、ニジンスキーの身振りとその表現様式を会得し、なおかつそれを新版に反映させたことを物語っているものと言えるだろう。
(3) マイムによる物語性の付与
(略)
この僅かではあるが、具体性を伴った動作によって、ニジンスキーが構想した「牧神の午後」の筋書きをなぞるような物語性が、極めて抽象的ではあるが立ち上がってくるのである。
ところで筆者は、リッポン版「牧神の午後」の最後の振付が、その直前のスピンの美しいレイバック姿勢からの流れといい、傑出していると考えている。跪いた状態で、右手は胸に添えられ、左手は何かを乞い求めるかのように前方へと差し出されている。(図14)正面のアングルから見ると、ボディーラインとシルエットの造型が美しく印象深い。この最後の振りは、スカーフと共に共に取り残された牧神の心情を表すものと言えるだろう。ニンフの薄絹に欲情した牧神が最終的に夢の中へと落ちていくニジンスキーの振付と、何かを求めるような振付で終幕を迎えるディクソンの振付は、明確に異なる。このディクソンが施した最後の振付をどのように解釈すればよいだろうか。リッポン版「牧神の午後」に付与された物語性が抽象的であるがゆえに、観る者にとっては多様な解釈が可能となるだろうが、筆者はこの振付に、「絶対の渇望者」として牧神像を見出すのである。
以上抜粋≫
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